カシュガルのダラダラライフ、やっと終わることになりました。
(カシュガルでは、それなりにやるべきことをやっていたつもりですが、でも結局は、こんな感じの日々だったのかもしれません……。新たな雑誌に新たな企画を目指すも、なかなかはかどらずで……)
月・木しかないキルギスタンへの国際バスを今日逃し(というか見送り)、土日は国境が閉まっているらしいため、明日金曜日を逃すとまた月曜まで4泊!という沈没気味の展開が待っているので、なんとか明日国境を越えられるように、国境まで連れてってくれる車を先ほど見つけてきました。
キルギスタン、どんな国だかあまり想像がつかないこともあって(ガイドブックを見る限りでは、モンゴルと似てそうな感じですが)、はっきり言って二人ともまだそれほど興味のそそられるところが見つからず。とりあえず今のところ、主な目的はこの先の国々のビザ手配といった感じです(キルギスタンは、日本人は90日までビザがいらないため、中央アジアではもっとも行き易い)。ビザにかなり時間をとられそうなため、首都ビシュケクにはしばらくいることになりそうです。
(いまいるカシュガル(Kashgar)から、明日国境を越えてオシュ(Osh)という町まで行く予定です(明日中に到着は厳しいかな?)。首都ビシュケクは、オシュのもっと北にあります。これから地図を中央アジア中心のものにしようととりあえずいま一時的なものを作りましたが、今度ゆっくりちゃんとしたものにします)
そう、首都が「ビシュケク」という名であることも最近やっと頭に染み付いたって程度で、ほんとにこの辺については全く知識がないことを思い知らされます。やはり自分にある程度の知識やら縁がないと旅してもなかなか興味がもてないもので、まずは勉強することが大切だなって思い、少しずつガイドブックを読んだりしているところです。しかしキルギスタン、日本人には行き易いため、ネットなどを調べた感じでは日本人旅行者も多そうで、妙な日本人社会が出来上がってそうな感じです。意外な不思議ワールドです。
キルギスタンについては、着いてからまた書くとして、なんといっても、明日いよいよ中国を離れる!と思うと、かなり感慨深いものが出てきました。実にこの3年ぐらいぼくらにとって中国は日本以上のホームグラウンドであったわけで、もうおそらく当分は戻ってくることはなさそうと思うと、急に寂しくなってきました……。
中央アジアから中国に入ってきた人がみな「ちゅうか、ウッメーーーー!!」と激しく感動しているところからして、中華料理が恋しくなることは間違いないし(上海時代はうんざりしていましたが……。しかし、中央アジアのディナー事情はどうなってるのだろう?!)、言葉も通じなくなれば、旅の深さも激減することも確かだろうし。
(カシュガルでは、中国将棋や麻雀の代わりにみなチェス!新鮮な光景でした)
ネットで日本の中国関連ニュースを読むと、オドロオドロしい記事ばかりが目につく気がしますが、実際住み慣れるとテキトーさが居心地のいい国で、いろいろ自由は制限されているとはいえ、それはそれでみなテキトーにやりくりしながら結構なんとかやってるな、というのが率直な感想だったりします。
というか、日本人から見たらオドロオドロしいようなことも、中国にいると非常に普通で取るに足らないことだったりして、逆に中国人から言わせれば、「日本人って切符買うとき並ぶらしいよ!」「えっ、マジで~?なんで?スゲーな」なんて思っていたとしても全然不思議じゃないような気もしてきます。
それだけ、文化って各国の主観的なものなんだなってことを実感させてくれる国であるし、この国に住んでみてよかったなってとても思います。
って、強引に中国をまとめてみました。
明日は国境までは車なのですが(3時間)、自分で国境を越えてからはまた適当に車を探して……という展開に。問題なく行けるはずとのことですが、キルギス側の道は悪く、国境を越えてからまたまた10時間とかぐらいはかかりそうな予感です。モンゴル・中国の国境でのことを思い出すと、いやな予感がしますが、ま、順調にいけることを願って、重い腰を持ち上げます。
では次回はキルギスタンから!
(ちょっと前の写真ですが、これがアリで出会ったドイツ人カップルのチャリ!これで二人でドイツからチベットまで来ているというのは驚きです。でも、カップルだったら体力の差があってもこれの方がペースあうからいいのかも……。ちなみにカシュガルでは、日本人のチャリダーに4人も遭遇。一人はイギリス留学の帰りをチャリでイギリスから!女性もいました。すごい気合です)
カシュガルも今日で早6日目、かな。正直ちょっと腰が重くなってしまってます。チベットを終えて疲れたということもあるし、また、まもなく勝手知って言葉も通じる中国も終わりで、これから次々と国が変化していくことを考えると、ワクワクする反面、新たなエネルギーがいるようで……。それとあとは宿。実はいま泊まってるところ、一人35元でこのクオリティは、他の追随を許さぬコストパフォーマンスの高さで、何気に"BPY(Best Perfomance Yado) 2007"を早々に受賞しかねない勢いです。ま、この価格になるまで宿の店員の「買収工作」もかすかに必要でしたが(笑)。でも、もうあと2日ぐらいでは出発するつもりです。
一昨日の関口さんの番組では、結局ほとんど映ることはありませんでしたが(って、そういうことを狙ってしまうぼくのようなミーハー野次馬連中が、制作者側にとっては本当にうざい存在なんだろうな、ということを撮影現場で実感しました(笑))、関口さんやスタッフの方とは中継の合間合間に結構お話でき、楽しく過ごせました。みなさん、ぼくらのことを覚えてくださっていて、関口さんも「あれ~?!なんでここにいるの~!?」ってびっくりしてました。まるで熱心な追っかけのように思われていたかもしれません。
(番組終了後、裏道でスタッフみなが記念撮影。カシュガルのこんな場所に日本人がこんなに大勢いるのが不思議な光景。番組自体を考えても、先ほどまで、この場所を日本で数百万人の人が見ていたと思うと、なんだか不思議な世の中な気がしてきます)
気になるのは、通訳の陳さんに「上海でお二人のお友達に会いましたよー」と言われたこと!でも結局詳細は聞けずじまいで、全然誰のことだか分かりませんでした……。どういう展開でぼくらの友達って分かったんだろう??上海在住の方で、心当たりのある方がいらっしゃればお知らせください~。
さて、更新せぬまましばらく経ってしまいましたが、西チベットもう一つの大きな見どころ、グゲ遺跡。結局カイラスの方がインパクトが強かったため、いまとなっては少々印象が薄れ気味ですが、それでも人間の歴史のロマンと自然の不可思議さを堪能できる場所であったことは間違いありません。
以下、その詳細です。
6日、高山病がそこそこ治ったというちょっと不安の残る状態でアリを出発。このときは、もうカイラスはいかなくてもいいかなー、とりあえずグゲだけでも、なんてあまちゃんなことを言っていたのですが、そのときの気持ちとしてはグゲ行くだけでも精一杯なんじゃないかと、弱気なぼくら。昼ごろ発のグゲ行きバスに乗るためにバス停に行くと、なんとそこにはイスラエル人のぽっちゃりくんが!あれ、一昨日のバスですでにグゲに向ったのでは?と聞くと、彼はヒッチハイクで行くことを狙った挙句、一台も車が通らず撃沈したとのこと。うーーん、やっぱりイメージどおり運が悪そう。前回書いたように、その後、彼がコンバット部隊のタフガイということが判明するのですが、とりあえずこの場は、心強い旅の道連れを得てちょっと気楽に。車内にはもう一人フランス人の年配の女性(前回登場の人物)もいて、12時半にバス発車。
(崖沿いにわずかに見える細い道を通っていく)
(頂上らしきところにはチベタンたちが積んだ石が並ぶ。遠く後ろにはヒマラヤとおぼしき山も見える)
途中5000mを越えるらしいというので(まだ5000mという言葉に拒絶反応を示していたぼくらは)どうなることかと思っていたものの、体調的には変化なく、最高地点も無事クリア。でも、道はかなり険しい。途中、バスを降りて歩いてくれと言われたので、その通りにして遠めにバスを眺めていると、過激な坂の途中のヘアピンカーブで何度か切り返して、砂煙を上げている。えっ、谷に落ちちゃうのでは?とヒヤリとしながら見ていると、なんとかクリア。そして再乗車。聞くとここで去年、やはり一台バスが落ちたとのこと(3人乗っていて、2人死亡、1人脊髄損傷(だったかな?))。それでここだけみな降りるようになったとか。。。うーーん、道の整備を急いでもらいたいところ。でもこんな僻地にアスファルト運んでっていうのは本当に大変なんだろうな……。
(バスを降り、最難関のカーブを一人がんばって越える運転手を見守る。下の崖の途中には、落ちたのかどうしたのか車が一台……)
最後はグランドキャニオンの中を走るような状況になり、そして夜8時ごろ、なんとか安全にグゲの近くの村、ツァンダ着。グゲまで20キロほどの小さな村。この辺はチベット自治区とは行っても、商売のためにやってきている漢族が多く、雰囲気はあまりチベチベしてない。でもしかし、なぜこんな人が住んでいることすら不思議な場所に商売をしに来るのかかなりびっくりだったけれど、夏は観光客でそれなりに賑わうらしいことを食堂のお姉さんが言っていた。いまはもう時期が遅かったため、多くの商売人たちは店をたたんで帰ってしまっていました。
翌朝、4人で車を借りてグゲ遺跡に。とはいえ運転手が道を知らず「この道であってる?」とぼくらに聞きはじめる始末。遺跡までの間も、グランドキャニオンの中の悪路をぐんぐん進む感じで、また周囲に見える土山、そしてその後ろの雪山(これはすでにインドで、山はヒマラヤとのこと)とのコントラストが見事でした。正直、遺跡自体よりも、その周囲の方がすごかったような。
(遺跡のメインの部分)
グゲ遺跡は、10世紀から16世紀まで存在していたグゲ王国の跡地。こんな僻地に国の中心があったことがまず驚きです。もっとも1000年も前は、インド・中国の国境もなかったはずで、地理的条件もまた異なったのだろうと思われますが。
全体的に土の要塞みたいで、遺跡としての雰囲気は抜群。シーズンオフで全然人がいなかったのもまたよかったです。いまはひっそりとしている土の建物それぞれの中で、むかし人が暮らし、賑やかな王国の生活をしていたと思うと、とても不思議な気がしました。この穴で、人が食事をし、寝て、働いた……。そういう時代を超えたロマンが遺跡にはありますね。小さな洞窟に入ってそんなことを考えながらシャッターを押していると、ふと当時の人々の息遣いが聞こえてきそうな気がすることもありました。
(手前が土の建物群を上から見たところ。それにしてもその奥に見える土山の風景がすごいです)
いくつかあるお寺の建物はそれなりに保存されていて中に入ることができますが、中の仏像や壁画は、文化大革命のときの破壊の跡がナマナマしく残り、無残な形になっているものも多かったです。ものを破壊するのは、造るほどにエネルギーは必要ではないはずですが、30数年前、おそらく道も何もなかっただろうこの僻地まで仏像や寺院を破壊するためにやってきた中国人のエネルギーは、ただごとではないような気がしました。寺院内は撮影禁止。
(壁の感じなどとても雰囲気がある)
ちなみに、グゲ遺跡、入り口から上まで登るのは1時間以上は歩かなければなりませんが、もっともスタスタいくのは、フランス人のおば(あ)ちゃん。ぼくら二人とぽっちゃりコンバットは、途中で休憩。ユダヤ教についていろいろと学習。ぼくらがユダヤ教についてあまり知らないのをおそらくぽっちゃりくんは驚いていたかもしれませんが、その一方で彼も、「日本は民主化しているのか?自由はあるのか?」という感じで、お互い他国に対しては知らないことがいっぱいだなあと感じさせられます。
さて、グゲでもっとも印象に残ったのは、やはり前に書いた骨とミイラの洞窟でした。遺跡の寺の中とかは案内人にカギをあけてもらって一つひとつ入るのですが、ミイラの穴だけは「あの辺にあるから自分たちで行ってくれ」と。
というわけで大体の場所を教えてもらって自分たちで探すことに。途中で、朝この遺跡まで連れてきてくれた運転手も参加。ここまでの道を知らなかっただけあり「おれもグゲ遺跡見たことないんだよ、一緒にいくよー」と。彼は岸部一徳に似てるだけかと思ったら、「プリズンブレイク」のマホーンにもそっくり(っていっても、ぼくらの中でホットなだけでマイナーな人物ですが(笑))。油断のならない好人物でした。そんなわけで5人でミイラ探し。途中全くあさってな方向を目指してしまい、1、2時間は余計に歩き、ぼくらは激しく疲労するも、フランス人のおば(あ)ちゃんだけが元気。
(ミイラの穴を探し出して1時間ぐらいしたころ。手前がおば(あ)ちゃん。右がマホーン。左奥でなんだかポーズとってるのがぽっちゃりコンバット)
あらゆる場所を探しつくし、あとはもとの場所に戻るしかない、となったところで、マホーンが「これじゃないか?」と一言。そこには、地上から3メートルほどの高さにある穴が。マホーンのお尻をぼくが押し、彼が中を覗くと、「お、やっぱりここだよ……」と、少しヒヤリとした様子で、こちらを向きました。
(これ!ちょっと高いところにあるため、この横を歩くと普通は気づかない。でかしたマホーン!しかしなぜこんなところに人の死体を放り込んだのか……。隠すためだったのかな……などといろいろ想像してしまいます)
そしてその次にぼくも入ってみました……。かがまないと進めないほどの大きさで、奥行きは奥の部屋をあわせて7,8メートルといったところか。かなり狭く感じました。少し奥に足を踏み入れるや否や、「バリッ」と骨の砕ける音。見るとそこらじゅうに足の骨、腰骨、肋骨、髪の毛、衣服などがちらばっていました。
(四つんばいになって入っていた奥の部屋。まるでインディ・ジョーンズの世界)
詳しくはわかりませんが、どうもグゲ王国が滅ぼされたときに殺された人たちの死体の残りだとか。でも頭蓋骨だけはどこかに持ち去られたのか、一つもありません。こないだ1000年前とか書きましたが、王国滅亡時の死体となると300年ほど前ということになるのでしょうか。そしてよく見ると、ミイラ状になった足が……。思わず手で持ち上げてしまいましたが、感触としては、カプチーノを注文するとたまに付いてくるシナモンでできたかき混ぜ棒を少しやわらかくしたような感じでした……。何百年も前に殺された人の足だということを思うと、気が遠くなりそうな、意識が遠のきそうな、得たいの知れない感覚に襲われました。
(これが、手前の部屋にあった足のミイラ。非常に生々しい)
人骨と分かっているのに全く供養もされずに放置され、しかも、普通に人が入っていけてそのたびに骨が砕け散るような環境はおそらくここ以外にはないかもしれません……。死臭もかなり強く、その後服や体からその臭いがとれず、宿に帰って服は全て洗いました。おば(あ)ちゃんは穴には入らず、ぽっちゃりコンバットは、入ったものの「今日は悪夢を見そうだ~!」と興奮していました。
グゲはそんなところです。このあと宿に戻って、気を取り直してカイラスへ行く方法を練ると、カイラスまで行きたがっている運転手が見つかり、交渉の末、そこそこの値段で翌日行けることに。そしていよいよカイラス……。その後の話は、こないだ書いた通りです。
(カシュガルの中心的なモスク。金曜の礼拝に集まってくる人々。右手前に見えるように、カシュガルでは完全に顔を布で覆っている女性も多く見かける)
カシュガルに着いて3日目。思っていた以上に大きな町で、雰囲気も普通っぽくて少々期待はずれな感がありますが、久々に移動もなく、のんびり体を休めています。
よかったのは、宿!
カシュガルには定番の安宿がいくつかあるので、そこに行くつもりだったのですが、バスの中から素子が見つけた「70元」という表示の書かれた比較的きれいそうなホテルがあり、あまり期待せずにとりあえず行ってみたら、なんとそこが大当たり!中国では安宿は、地方だとドミトリーで一人20元~30元程度が相場なので、二人部屋でそこそこのクオリティがあれば、70元だとお得感があります。ホテルに入って、いつもどおり、ぼくがロビーで荷物をみながら待って、素子が一人で"モトコジャッジ"をくだしに階段を上って行きました……。戻ってくると、おっ、顔が明るい!「ここ、結構いい!」
部屋は広くて、シーツもちゃんと換えてあって、清潔感あり。しかも、部屋にLANケーブルまであるという!このクオリティで一人35元というのは、少なくともこの3ヶ月では初めてのことです。しかも、一週間ぐらいはいることになりそうなカシュガルで、こんな宿が見つかったのは、カイラスを経てゆっくり休みたかったぼくらにとってはほんとにうれしい贈り物のような感じでした~。
というわけで、町よりも宿に惹かれ、カシュガルでは快適に過ごしています。
さて、そのカシュガルで、前に北京のそばの承徳で起きたのと同じ展開が!ま、承徳では「起きた」というより、無理やり「起こした」のですが、今回は、ほんとに偶然。そう、また関口知宏さんのNHKの番組と日程が重なったのです!関口さんの中国鉄道の旅は、ここカシュガルがゴールってことは知っていたのですが、ぼくらがカイラスを終えたあたりでネットで調べてみると、なんとぼくらが到着するのと同じころに関口さんもカシュガルにゴールインということを知りました。
で、明日18日、日曜の放送が最終回で、昼から3時間弱の生中継。そして昨日、町を歩いていると、NHKのプロデューサーの方にばったり!承徳でのことを覚えていらして声をかけてくださいました(よく気づいたなあとぼくらもびっくり)。それで明日の中継場所も大体分かったし……。今回もまたミーハー根性丸出しで、明日現場に行ってきます。なので、今回こそは、もしかすると……?!いつも見ている方はちょっと注意してご覧ください(笑)。
そんな感じで、カシュガルは、旅とは別の意味で楽しく過ごしています。あといま、新たな雑誌に新たな短期連載を開始するために企画を練り、原稿を少し書き始めています。これが形になれば、うれしいなあ~と思っているのですが……さてどうなることか。
グゲの話も途中まで書いたのですが、それはまた次回アップします。
(カシュガルのオールドタウン付近で見かけた、紙芝居屋ならぬビデオ屋。子どもたちにアメリカのアニメのビデオを見せて、豆と春雨とポテトを混ぜた軽食みたいなのを売ってました。でも、紙芝居に比べてビデオは楽そう。主人も一緒になってビデオ鑑賞。さすがに彼は見入ってはいませんでしたが……)
(カイラス・アリ・グゲというチベット世界から一気に新疆ウイグル自治区へ戻り、中国最西部に位置するカシュガル到着。シルクロードの重要な拠点となる町。地図、拡大できます)
アリから33時間のバス移動を経て14日深夜1時に零公里(叶城)へ着き、翌15日に4時間半の移動をへてついにカシュガルに来ました!ほぼ中国最西部で、これでいよいよ中国ともお別れです。うーーん、なかなか感慨深い。
さて、前回の続き、カイラス&グゲの詳細です。
6日にアリを出てから、順番的にはグゲ、カイラスの順に行きましたが、ネタの大きさ的にまずカイラスから。
グゲを終えてカイラスに向かったのは8日。イスラエル人のぽっちゃりくんと、見ため的におばあちゃんともいえそうなフランス人女性と4人で車をシェアしてカイラスへ。この二人とはアリからグゲまでのバスから一緒で、4人でグゲも見に行き、宿も同じところに泊まり結構仲良くなってました。
しかし、前回書いたように軟弱仲間認定したはずのぽっちゃりくんは、実はイスラエルのコンバット部隊の兵士だったという思わぬ展開。戦争が起これば前線でバリバリ戦う超本格派のつわものでした。イスラエルは正規の軍はなく、すべて徴兵でまかなわれるとのことで、男は3年、女は2年の兵役が義務。しかも、兵役終了後も毎年1ヶ月間のトレーニングが42歳まで(!)続くとのこと。その中でほんとにやる気のある1割のみがコンバット部隊となり、前線で実際に戦うそうです。ぽっちゃりくんは、自らコンバットを希望。まだ記憶に新しい昨年のレバノンとの戦いでも、彼はたまたまその時旅行中だったから戦地はへいかなかったものの、いつも戦争はすぐ隣にあるとのことでした。まだ23歳にして、ぼくらとは全く異なる人生観の中で生きているらしいことに驚かされました。ま、いずれにしても、軟弱仲間というのは大いなる勘違いで、相当なタフガイってわけでした。
フランス人女性も、一見還暦過ぎてかねない雰囲気を漂わせつつ、チベット&ネパールを一人で9ヶ月ほど旅するという人物。「動けなくなる前に旅しようと思って少し早めに退職したの。家を買ってその家賃収入で暮らしているわ」ぼくらが途中で断念したカイラスのコルラ(巡礼)を2回もやったり、コンバットぽっちゃりくんよりもグゲでのロングウォークは安定していたりと、これまた全くぼくらを寄せ付けないタフキャラで参りました。
結局"軟弱王"の座は、ぼくら二人のほしいまま。そしてカイラスに着いても、ぼくらの王座は全く揺るぎそうにありませんでした。
8日の夕方、カイラスの麓にあるタルチョンという小さな村に着くと、寒さは半端なくびびりました。フル装備で固め、その夜からタルチョンを去った12日まではほとんど着替えず(もちろんシャワーなどない)。ちなみにぼくは、内側から、Tシャツ、長袖カットソー、フリース、新疆で買った分厚く中がフリースになってるババシャツ、ユニクロの薄手ダウン(これ、上海から大活躍!)、その上にノースフェイスのインナー付のジャケット。下は、股引2枚の上にジーンズ、靴下二枚、といったところ。もちろん、ニット帽&手袋も。それでも、外は相当寒いです。タルチョンですでに標高4700m弱。さすがに侮れません。
(タルチョンの地元チベタンたちが暮らすエリア。場所によって後ろに小さくカイラスが見える)
(タルチョンには野生の犬がいっぱい。チベットでは犬がすぐ追いかけてくる印象があるものの、ここでは日中はみな穏やか。でも、カイラス付近で鳥葬(人間の遺体を鳥に食べさせる)が行われるとそのときは犬もみなそこの場に集まって人肉を食べるらしい)
そのタルチョンでなんと、もともとぼくらがカイラスにいくきっかけを作ってくれた日本人、大沢さんとびっくりの再会。もうずっと前にここは終えていると思っていたのに、宿でばったり、感激でした。カイラスは大沢さんに始まり大沢さんに終わった、などと言い訳をつけて、ハードそうなコルラ(巡礼)をせずに帰ろうかと思ってしまうぐらい達成感のある再会でした。
でも、やはりそうはいかない、と天候のよさげだった二日後(10日)の朝コルラに出発。コルラとは、カイラスの周り52キロをぐるりと回る巡礼のことで、チベタンは1日(13時間ほど)で一周できるものの、旅行者の標準は2泊3日。最大5600mほどまでのぼり、その辺りはちょーハードな山越えがあり、冬には死者もちらほら出るとのこと(最近も、その山越え中に吹雪に吹かれたインド人が凍死したそうです)。ちなみにこの時期は寒さと雪が厳しくて、チベタンすらもコルラする人はかなり少なかったです。
(手書きでかなり適当(線の微妙なズレとかに意味はありません)ですが、コルラ(巡礼)は、大体こんな感じ。ぼくらはオレンジ色の線のように約半周22キロの道を往復。ドルマラは冬には死人が出るほどハード(らしい)。ここを越えないと巡礼の醍醐味は分からないのかもしれませんが、ぼくらは行けず)
ぼくらが着いた日から雪が降り出し、寒さもぐっと増し、丸一周はぼくらのスニーカーでは無理だ、危険だ、と現地の人に強く止められたため、一周する気は完全にうせ、最大半周して、そこのお寺で一泊して同じ道を戻って帰ろうと決めていました。「半周なら雪降ってても、スニーカーでも大丈夫」と太鼓判を押されたのですが、そのハードさは想像以上でした……。
(出発して30分ぐらい。南側遠くに雪山、地面はほぼ真っ白)
(右旋回を始めたあたり。このようなチベタンアイテムもいたるところにある)
(出発して2-3時間後。チベタンのタルチョ(旗)などが雪の中に広がる。このあたりはまだ二人とも全然元気)
(昼飯を食べたあと歩き出すとすぐ、逆走するチベタンに遭遇。荷物的に彼らは巡礼者っぽくはない。今日の宿泊予定ゴンパ(寺)までここからあと2時間ぐらいといわれ、元気が出るが……)
5,6時間で半周(カイラスの北面まで)できるときいていたので、ま、大したことないかなと思っていたものの、朝11時前に出発し、着いたのはなんと夜8時前。8時間半ほどかかってしまいました。ほかの人に笑われるぐらい時間がかかってしまったものの、ぼくらにはほんとに死に物狂いの1日でした。
まずかったのはまず、出発から4時間ほどしてからのこと。持っていたガイドブック(旅行人)のコピーの地図に「巡礼路沿いに川があるけど、川の左側を行け、この先に橋はない、右側を行くとゴンパ(寺)に行くためには最後に川を横切らないといけないかも」ってな言葉が書かれていたのに、ドジなぼくらは気づいたらやっぱり川の右側にいました。そして、「これはやばい!」と思って、極寒の中、無謀にも川に石を投げて自前の橋造りにいそしんでしまいました。もちろん、ちゃんと川の細いところを選んだものの、そんなのうまくいくはずがなし。大きな石を雪の中から掘り起こし、川の中へジャボンジャボンと投げ入れましたが、3,40分格闘した挙句、インスタント石橋はまるでできずに、ぼくは表面の凍った川の中に両足とも落ち、足は半ば凍りつき、もう完全にバカ丸出し状態。もう無理だからと、とにかく右側のまま先に行くことに決めたものの、ここでの体力消耗と「たどり着いても、最後に標高5200mの極寒の中で川をジャボジャボいかないといけないかもしれない」という精神的ショック&プレッシャーは甚だしく、一気に疲労が充満。そして、追い討ちをかけるように、その後から軽い吹雪に襲われ、もうほとんど限界。それでもとにかく先に進むしかないので、その後、二人で100歩ずつ歩いてちょっと休憩、を繰り返しました。100歩ごとに膝の上に上体の全体重をかけてうつむいてなきそうな顔で「はぁーはぁー、ぜぇーぜぇー」と言っていると、まるで高校時代のバスケ部合宿を思い出し、我らが坂上コーチの声が……。「顔を上げろ!」「休むな!」「じゃ、最後、スリーメン。」……もう苦しいのなんのって。
(空模様が怪しくなり、いつしか吹雪が……やばい!!)
(たまに太陽が見えるとすごくうれしいし、暖まる)
(遠くの青空を目指し、足跡をたどって突き進む素子)
(カイラスが真東に見え出すぐらいから晴れ間の領域に入りだし、天候的には少しマシに。でも疲労はすごい。中央に見えるのがカイラスの西面)
でも周囲はどこまでも雪の絶景。吹雪の中、途中から右手(東側)にカイラスが姿を現し、カイラスが右手後方に少しずつ移動していくことをわずかな希望に、100歩ずつ。そしてついに、カイラスの北面が見えてきだし、いよいよあと30分ぐらいなんじゃないか!?と思ったあたりで、チベタンとすれ違い、「ゴンパ(寺)まではあとどのくらい?」と聞くと、あと1時間かな、という答え。まだそんなにあんの?!とがっくりするも、橋はある?と聞くと、「あるよ」と言われ、ほっとすると同時に、あの徒労の橋造りが忌々しく思えてきました。
ゴンパは見えているのに、ほんとにそこから1時間近くかかってしまいました。でもゲキ疲労の中、後ろを振り向くと、夕日に染まる雪山の美しさがまたひとしおでした。素子も、口を利くのも億劫な状態なのに、それを見てぼくに「シャッターを切れ」とジェスチャーで指示。
(ゴンパまでもうすぐのはずなのになかなか近づかない。でも後ろを振り向くと……)
(左端に薄っすらと見えているのがカイラス)
初体験の寒さと疲労に、完全に死に体になりつつ、なんとかゴンパ着。しかしひと気がなく、「ニーハオ!ニーハオ!」にも反応なし。さらに上にあるメインの建物に叫び続けると、天の上にいるような赤いローブの僧侶が招き猫風の手招き。ほんとに神様みたいでした。でもそこからが本当にハードで、もはや二人とも自力で階段を上がることもできない状態で、なんとか僧侶に引き上げてもらって、最終コーナーを曲がってキッチンにゴールイン。その温かな空間に感動し、崩れ落ちるように座り込み、素子は感極まって思わず落涙。それを「おお、やってるね素人くんたち」って感じで温かく見守るチベタン僧侶たち……。その後トゥクパ(チベット麺)をもらい体を温めつつ(こういうとき食べるとめちゃくちゃおいしくて感動!)、そこは部屋ではないのに、頼むからここで寝せてくれと、その場で倒れこむように眠りに落ちました(部屋には暖房器具がないとのことだったので!)。
(ゴンパのキッチン兼リビング(?)。右奥のベッドに寝かせてもらった。布団にはヤクミルクの匂いが充満していてチベットっぽい)
さて、朝。昨夜トイレに行きたかったものの、疲労のあまり、行かずに眠りこけることに成功し、だから早朝トイレに。ちょっと頭が痛かったものの、とりあえずなんとか動けそうだな、と思いながら外に出ると、日の出前の薄明かりの中に巨大なカイラスが……。その姿を見て、この苦しさはこのためにあったんだなと、じーーんと来ました。
(朝8時ごろ、ゴンパにはすでに早朝4時ごろにタルチョンを出発してここまでたどり着いたチベタンたちが休んでいる。この後続々チベタン集結)
(天国のように思えたゴンパの外観。ありがとう!! 朝出発時)
その後素子もおきて、二人とも、心配していた頭痛も寒気もおさまり体調はそれほど悪くなかったので、その日のうちに出発して、タルチョンまで戻ることに。帰りは、さすがに昨日よりは楽だろう、と思っていたものの、帰りも何気に馬鹿にできず、思わず7時間ぐらいかかってしまいました。
(朝ゴンパ出発時のカイラス。天気もよく、帰りは気持ちよく楽に行けるはず!と思ったものの……)
(思わずシャッターを押さずにはいられない風景が何時間も続く)
そしてなんとか無事にタルチョンへ……。もっともハードな部分をやらずとも「もう二度とやりたくない」と思ったものの、しかし、のどもと過ぎてみると、ここでは、疲労も絶景も全て初体験で、完全に別世界でした。ぼくにとってはこの4年間の中で最も思い出深い場所の一つになりました。確かにこれだけの苦労をして来た甲斐はありました。
コルラは達成できなかったものの、相当の達成感を経て翌日アリへ帰還。久々の都会な世界もまたうれしかったです。
(5000m越えると、全くの山オンチにとってはなんちゃってアルピニストになった気分でした(笑)。っていいつつ体力なさすぎな自分を痛感)
また長文になってしまいました。グゲは次回。あとそれからここカシュガルで、また承徳と同じ展開になりそうです……!でも今回は狙ったわけではなく、全くの偶然!詳細はまた!
(寒さに震え、階段すら人に手伝ってもらわないと登れない状態でたどり着いた標高5200mの寺に泊まり、翌朝、日の出前トイレに出たときに目の前に現れたカイラス。中央に白く見える山です。この風景をみたとき、前日の本当に死にそうな苦労が報われた気がしました。右上に星が一つ)
高山病をなんとか乗り越えて、予定通りカイラスとグゲに行ってきました!二人ともアリを出てからはほとんど順応できたようで、それからはとにかく凄まじい絶景続きの世界を堪能しました。
カイラスもグゲも、苦労しただけありました!
特にカイラス、軟弱なぼくらはあまりの寒さと疲労に、精神的にも体力的にも相当にキてしまい、巡礼コースを一周することができずに途中で一泊して半周で帰ってきましたが、それでも、どこまでも続く6000m級の絶景は本当に本当に忘れがたい世界でした。寒さが凄まじく、途中は軽く吹雪っぽくなったときは、正直かなりまずいなと思いました。やはり時期が悪かったですが、ここの雪景色は半端ありませんでした……。
グゲでは、遺跡自体も壮大ですごかったものの、1000年ほど前にグゲ王国が滅ぼされたときに殺された人の遺体や骨がそのまま放置してある洞窟があり、そこに入って驚愕しました。その小さな洞窟に入るとともに、「バリッ」と音がしたかと思うと人骨が砕け、下を見ると、そこには、足、肋骨、髪の毛、服、そしてミイラ状になった足が……。1000年前の人の死体がそのまま置いてあって、そこに入れる場所なんて、世界でおそらくここだけのような気が……。
(1000年前の死体が散らばるグゲ王国の洞窟。手前中央にあるのが人の足のミイラ。頭蓋骨だけはすべてどこかに持ち運ばれたらしい。暗くて狭い中、この人骨の上に腹ばいになりながら奥へ進み戻ってくると、体中に死臭がこびりつきました……。言葉に詰る別世界)
というわけで、とりあえず無事に戻った報告でした。カイラスもグゲも内容豊富で長くなるので、詳細はまた次回アップします。明日のバスでまた30時間かけて、新疆ウイグルの叶城へ戻ります。やっと高地から脱出。うれしいーーー。
(アリで。チベタンの子どもたち)
アリ、今日で4日目。でもまだどうも高度順応が十分にできていなく、カイラスやグゲ遺跡へと向かえずにいます。カイラスもグゲもここから300キロほどなのに、バスで7~8時間。しかも途中でまた5000mを越えることを考えると、ちょっとまだキツイかなと。その一方で、いまは一日一日寒さが増していき、カイラスはすでに極寒。しかも一度大雪が降れば道は閉ざされ、もうアウト。条件は刻々と悪くなっていきます……。そして、カイラスに行けばさらに高度が上がって巡礼(コルラ)すると最大5600mまで徒歩で歩くことになり、それがまたちょーハードらしいので、正直、ちょっと無理かなと弱気になってます。なんとかなるかなと思っていたけれど、強靭な自然の力を前にして、今回初めてギブアップモードに入りつつあります。
といっても、高山病がひどいわけではなく、まだちょっと頭痛が残っていたりしてさらに高度を上げるには不安が残るという程度なので、もうちょっとアリで粘って体調を整えてから、とりあえず凄まじい絶景らしいグゲ遺跡だけは行ってみようと思ってます。
これまで4000mの場所には行ったことあったし、そのときは特に何も問題なかったので、アリはOKかなと思っていたのですが、やはり今回は高度を急に上げすぎた感アリです。まあ、もうちょっと様子をみてみます。
アリでは、昨日4人の旅行者と会って少々交流。フランス人、イスラエル人とドイツ人カップルの4人。みな20代後半~30代前半らしき同年代。
フランス人とは、公安局で罰金を払って外国人許可証をもらいに行ったときに遭遇(アリは本当は許可証なしでは外国人は入れない。でも、新疆から行くと許可証など取る場所はないので、アリで自ら公安に出頭して罰金を払って許可証をもらうというのが定番の方法。上海で働いてたとかなんとか理由にならない理由をつけて罰金を免除してもらおうと画策したものの、非常にまっとうなことを言われ、反論する余地もなく、罰金を支払いました。一人300元)。彼は、ラサ方面からヒッチハイクでやってきたとのこと。この寒い中、検問を逃れるためにかなり遠回りまでして、しかも途中バイクにもヒッチ(寒すぎ!)してきたというつわもの系。アウトドア経験値高そうな風貌。
イスラエル人は、他の安宿の部屋を見に行ったときに遭遇。彼もぼくらと同じルートでやってきて、非常に体調悪そうな、弱りきった顔で登場。でも優しげな笑顔。聞くと彼もアリについてすで4日ほどが経ったのに、まだ高山病が治りきらずダウンしているとのこと。「アリまでのバスでは2回吐いたよ」との彼の告白に、「おーー、おれも吐いたよ、吐いた!」と非常に親近感が沸きました。見ため的にも、ぽっちゃり&ロン毛なインドア系の、非常に油断してそうな風貌で、素子曰く「彼もカイラス行くと思うと、自分も行ける気がしてきた!」。
そしてドイツ人カップル。彼らとは昨日ネット屋で遭遇。男の方・ベンジャミンは、うかうかしてるとモンベルやパタゴニアのCMに登場しかねない本格アウトドアルックで、しかも、ちょっと持ち運びには不便そうな見慣れぬ四角いカバンを持っていたため、もしかして?と思うと、やはり!なんとここまでチャリ!彼女と二人でドイツから1年半かけて、トルコ、イラン、パキスタンを経て、アリまで……。目的地は日本で、着いたら日本で働きたいとのこと。衝撃はぼくらが苦しんだあの30時間の道のりを数週間かけてテントを張りながらチャリチャリやってきたこと……想像できません。。もちろん高山病的には、徐々に来たほうが楽なのでそういう苦しみはないのでしょうが、さすがにあの荒涼とした場所を一日50キロとか100キロずつこぎながら進むのは、半端ない気合が必要に違いありません。しかも、途中で引き返すこともできないし、一日休憩ってわけにもいかなし。彼らは、もちろんカイラス、グゲもチャリ。「アリで一週間ぐらい休んでから出発するよ」と余裕しゃきしゃきな感じで話してましたが、雪などが降っても極寒の中テントで過ごせるのかどうか……全く未知の世界です。特に普通の女の子風だった彼女のタフさには脱帽です。
勝手に仲間と認定したイスラエルのぽっちゃりくんとは、今日一緒のバスでグゲまで行くことになりそうだったのですが、ぼくらは延期。さて、彼は今日出たのかな?
(アリの町は四方を山に囲まれている。手前にたなびく旗「タルチョ」がチベタンの町である目印。あるタクシー運転手によれば、アリは漢族6割、チベタン4割とのこと。政府は税制などを優遇して漢族をどんどん呼び込んでいるようす。3年後にはアリにも空港ができるらしく、そうなると全く雰囲気も変わってしまいそう)
……さらにいまネット屋で新たにあったフランス人の2人もチャリでした。しかも結構中年のおばちゃん。驚異的だ……。今日は彼らとメシでも食って、タフさの秘訣を学びます。。。
(アリへ向う途中、後半はずっとこんな)
昨日の夜9時半に無事アリに到着しました。ランクルで行った方がバスより早いはずだったのですが、途中長時間の休憩が入ったりした結果、計31時間。かなりハードな移動でした。モンゴルでの24時間の移動に比べれば、ランクルだし今回の方がマシなはず、と思っていたのですが、大間違いでした。
さてその行程。以下、時間はすべて新疆時間(オフィシャルには中国全土北京時間を使うのですが、さすがに新疆まで来ると事実上の時差がかなり大きいため、現地の人は北京時間から2時間引いた新疆時間を使ってます)。
(出発地点の零公里。この奥に見える建物の中に無線ランが!)
31日昼12時にチェックアウトしてすぐ出発、のはずが、同乗する運転手の親戚やら友人を拾い、さらにメシを食ったり、その他わけの分からないロスタイムがいっぱいで、零公里を出たのは2時。さあ出発。でも、1時間ほど行った先の村で3人の親子を乗せるためにまた停車。さらに何を思ったか運転手がここで、車にVCDを入れるからちょっと待ってくれといって、なんやら複雑そうな分解開始!そしてやっとできたと思ったら、映った画面は反転していて音がでない。なんでだなんでだと、みなでゴソゴソやって、出発できたのは1時間半後!すでに4時半。車内は8人(+赤ちゃん)になり、結構ギュウギュウ。みなウイグル人なので、会話は全く分からず。そのうち何人かは片言の中国語可。運転手はその後もVCDのことが気になってしょうがないらしく、運転に集中できず。
(このランクル。いまVCD交換中)
途中すぐに3000~4000mほどになっていたはずで、多少頭痛がしたり、眠気に襲われたりするものの、大したことなし。しかし、後ろに座っていた親子3人の母親(Aさん)が、途中で激しく嘔吐。しかも、その10分後ぐらいにはその隣の旦那がもらいゲロ。すごい音に思わず後ろを振り返ると、黒いビニール袋に並々と液体が……。その後も、もらいゲロ、連鎖ゲロ大会は盛況で、先のAさんと話していた女性Bさんが二人でゲロ。で、さすがに二人とも意気消沈したものの、その後回復し、饒舌なBさんがAさんになにやら熱弁を振るっていると、聞き上手っぽかったAさんもさすがに耐え切れず三度目の小ゲロ。それなのに話をやめないBさんがすごい。
と、変な話になりましたが、4000mぐらいになると車内はそんな感じ。しかしぼくら二人は、眠気や寒さ以外は特に問題なし。高山病対策に、水をいっぱいのみ、たくさんトイレに行き、そして深呼吸を続けました。効果あったのかな?
夜9時、零公里から235キロ先の道班マザルで夕食(「道班」は通り沿いのちょっとした休憩場所。大抵、食堂、商店、宿あり)。そこで食べた麺類はあったかくてなかなかおいしかったです。
(晩飯風景)
ここで2時間ほど停まって(その間にぼくはなぜか小便3回!水を飲みまくって新陳代謝を上げる作戦に成功していたようなのですが、ちょっと頻繁すぎ)、11時に再度出発。ここまで9時間で235キロというペースはいかがなものかという気が……。ほんとに30時間で着くのかも怪しくなってきました。
外は真っ暗闇。光は車のライトのみ。が、途中でまたトイレに降りて見た光景にびっくり!降りて顔を上げると、巨大な雪山の頂上が目の前にありました。有名はK2など7000、8000m級の山がその辺にはいくつもあるようだったので、その中の一つだったのかもしれません。満天の星の中に見えた白と黒のその鋭い頂上は、玄関を開けたらあらそこに、というぐらいの距離感で迫り、ほんとに神秘的で恐ろしい風で、唖然としてしまいました。正直、震え上がるほどの景色で、それを見ただけでもここまで来た甲斐があったという気がしました。
さて、車内はみな疲労感たっぷりで、運転手もさすがに疲労を隠せず。と思ったところ、ドライバー交代。ぼくの隣に座っていた運転手の親戚の男が運転席へ。ドライバーは休憩。そうか、交代で運転するのか、とちょっと安心した矢先、10分ぐらいですぐに新ドライバーが居眠り運転を始め、真っ暗闇の中、目の前に小さな橋が見えたところで危うく横転!車内は悲鳴、しかし、なんとか無事停車。さすがにヒヤリとしました。そして新ドライバーは、一発レッドカード。またもとのドライバーへ。
この疲労感のまま運転を続けるのはありえないだろう、と心配しながら思っていると、深夜1時に後ろの親子3人の家に到着。約360キロ地点。そこでぼくらも休ませてもらうことになり、「2時間だけ寝よう」という話になり、みなでベッドへ。布団は、毛沢東時代から洗ってないのではないかというほどの代物で、触っただけで手がしっとりべっとりするようなものだったけれど(モトコジャッジの段階ではない)、あまりの疲労に、寝てしまえば結構快適で、みなぐっすり。2時間で起きられるわけもなく、起きたのは6時間後!7時に出発。もう完全に朝。ここまで17時間で360キロ。あと750キロ近くあるのに、このペースはまずいと思いました。でも、みなすっきりして溌剌とした出発。
(泊まった場所からの朝出発前。後ろに雪山)
朝になると、東に向うぼくらにとって早朝の日差しが凄まじく強烈で、印象的でした。太陽が沈めば凍えるし、あればあったでまた厳しい。自然の力の果てしなさを実感(って、車内にいるんですけどね)。
この辺からは雪山に囲まれただだっ広い荒野が増えてきて、ぐっとペースアップ。そして絶景が始まります。
(途中で停車するとこんな感じ。こんなとこにも住んでいる人がいて、しかもなぜかぼくらがここで降りると、住民の車のエンジンをスタートさせるためか牽引の手伝い。ここの人がそんな助けを必要としていることをどこで知るのか非常に不思議。携帯?もしくはたまたまだったのかな)
朝10時前に480キロ地点大紅柳灘(ダーホンルータン)着。ここで朝飯。建物の裏でぼくはまた凶暴な犬に追いかけられました(実は塔河でも二人で犬に追われてたり)。チベットもウイグルも、犬がとにかく凶暴で、激しい剣幕で追いかけてくるので本当に恐ろしくていやなのですが、最近は恥も外聞も捨てて、悲鳴を上げながらダッシュで逃げると大丈夫な気がしてきてます。
(朝飯を食べた大紅柳灘)
ここでもう二人が降りて、車内は4人になってぐっと快適に。二人とも体調も悪くなかったので、もうあとは快適かなと思っていたら大間違い。ここからが二人にとって地獄となりました。
このあたりから、いよいよ中国とインドの国境未画定地域。事実上中国が支配しているだけで、人はほとんどいなく、ただただ土と雪山の荒涼とした絶景が続きます。ここの辺は昨日の夜の景色に続き、まさに圧巻。
(日差しの強さと寒さは半端ない。写真もほとんど投げやりにパシャパシャ)
そして、途中高度は5200mまで上昇。二人とも頭痛と吐き気に苦しみだしたのはまさにこのあたり。高山病の基本的な症状が次々に現れ、とにかく苦しくなりました。水を飲み、深呼吸を続けるものの、そんな古典的手法は通用しないのか、高山病の薬も飲むものの一向に回復せず。たまに停めてもらって外で新鮮な空気を吸うも、寒さが半端なく外にはそんなに長くいられず。そしてそのまま夕方までドライバーは時速70~80キロで突っ走り、午後4時半ごろにドマルで夕食(公安のチェックもあり)。あと残り280キロ。
(ドマルのチェックポイント。本当は、外国人は許可証なしには入っていけない地域なのに、聞いていたとおり、警察はそんなこと何も気にせず、どこでも「旅行か?いまは寒いぞ」みたいな感じ。写真を撮りつつも絶不調)
しかし、ここでは二人とも完全に死に体。夕食などもちろん食べる気になれず。ぼくはもう吐気に我慢しきれず、口に指を突っ込んですべて出し切りしました。その一方で、耐え忍ぶ素子。
「あと4時間」という運転手の言葉に、励まされるような、泣きそうになるような気分で、出発。素子はここから爆睡態勢に入ることに成功し、徐々に回復。その一方、ぼくはせっかく吐いたにもかかわらず吐気はおさまらず、頭痛も順調に激化。そしてどこから沸いてでたのか、伏兵的な腰痛に襲われ、不快度はこの旅中の最高記録を更新。モンゴルの24時間など全然アマちゃんな気がしてきちゃったり。
残り120キロで舗装路が始まり、それだけでもぐっと楽になり、うれしくなるも、なぜか途中で、真っ暗闇の中でまたドライバーが停まり「タイヤの空気を入れるよ」。おい、スムーズに走ってるのに、いまそんなことしなくてもいいだろう!といいたくなるぐらいのわけわかんないタイミング。その後また、公安のチェック(ここではなんと公安が運転手にこの酒いいぞ、飲んでけ飲んでけ、と勧め、運転手が必死に断ってました(笑)。めちゃくちゃです)があって降ろされたりして、時間を食うも、なんとか耐え切り、9時半にアリ到着。
宿探しを運転手にも手伝ってもらって、なんとかそこそこの宿を見つけ、倒れこむように休みました……。今日朝起きたら、まだ頭痛はおさまっていなかったものの、昼ごろになってやっと回復してきました。高山病、侮れず。ちなみにアリは標高4200m。
あと数日ゆっくりしてなんとか高地適応ができれば、グゲ遺跡(これまたすごいらしい!)とカイラスへ向います。栄えあるチベットの聖地だけになかなか簡単にはたどり着かせてくれません。また帰りにこの30時間をやらないといけないと思うと本当に憂鬱になりますが、帰りは高地適応後だから多分もっと楽なはず、と期待。ランクルが安くで見つかってラッキー、と思ったものの、実は寝台バスで横になっていった方が楽だったかも。時間も全然短くなかったし……。帰りはバスにします。。。
しかしすごいのは運転手。一人で全行程を走りきり、しかも、昨日の夜降りる前に、いつ零公里へ帰るのか、と聞くと、客がいれば明日かえるよ、と。常人のわざとは思えません。でも前回書いたように、おじいさんの年金が月に148元のところ、ランクルであの運転さえこなせば一回で数百~千元とかになるわけだから(ガソリン代が満タン入れて500元ぐらいだったけれど、1100キロでどれだけ使ったかは不明)、熱も入るというもの。
(「寒い!辛い!でもすごい!!」)
(いま泊まっている零公里から6キロほどの町・叶城(イエチョン)の裏道のパン屋の青年)
一昨日ホータンを出て、チベットの聖地カイラスへ向っています。とはいえ、まだハードな部分は始まってなく、その手前で2泊しています。いまいるのは、チベット方面への道が本格的に始まる曲がり角の零公里(リンゴンリー)というところ。町というより、ちょうどここがその道(新蔵公路、新疆と西蔵(チベット)を結ぶという意味)の基点となるため「0km」地点、つまり「零公里」という名がついています。なので、ただ単に通り沿いに食堂、宿、商店がちょろちょろと並んでいるのみ。
(ウイグル料理の定番の一つ抓飯(zhuafan,ジュアファン)。ピーマンやニンジンの入ったピラフっぽい混ぜご飯。この上に肉を載せて150円ほど)
一昨日の午後ホータンを出て、250キロほどの道のりを4時間ほどかけて零公里へ。着いて次の目的地・アリへのバスはあるかを聞くと、間もなく、8時に出発するよ!といわれたので乗ろうかなと思ったのですが、二人ともちょっと風邪気味で、このまま行くのはためらわれたため、ここで体調を整えてから行くことにしました。バスは2日に一度しかないと言われたのですが、体調が万全でないまま30時間のハードなバス旅を経て標高4200mまで上るのはちょっと厳しいかなと思って。ちなみに零公里は標高1400mほどなので、ここにいるだけでもちょっとは高地適応になるかな、、、と勝手に気休めしたりして。
(叶城の墓場。砂漠のような細かい砂の上に様々な形の棺があった。ただ土を固めたようなものから揺りかごのようなものまで)
さてではと、目の前にあった一見招待所に毛が生えた程度の宿に入ってみると、ここが何気に部屋も価格もそこそこ悪くなく(モトコジャッジも難なくクリア!)、しかも部屋には無線ランが!ホータンを出たらしばらくネットは無理かなと思って、ホータンを出る前に締め切りを繰り上げて必死に原稿を書き終えたりしていたのですが、それがいきなり次の夜は道端の宿で快適無線ランとは。。。(しかも、結構速い)
中国のネット事情、恐るべきです。そのおかげで、ほとんどすることのないこの場所でも、暇をもてあませずに過ごせています。ノートパソコンは1台あると、メールやネット、書き物だけでなく、映画もドラマも見れるし、音楽も聴けるし、本も読めるし(最近の電子書籍はなかなかの充実ぶり)、電話代わりにもなるし、写真の保存にも便利だしと、最近はほんとに使い道が広くなったなあと感じます。荷物にはなるけれど、期間が長くなる場合はその価値もあるなと最近思いなおしてます。本をたくさん持っていくのもそれだけで重いし。
(叶城の裏道でお邪魔したおじいさんの家。おじいさんはかなり中国語が話せたので久々にいろいろと話を聞けた。すでに働いてないけれど、政府がよくしてくれると、しきりにいっていた。でも月にもらえる政府からの給付金は148元(2300円ほど)。予想以上に少なくてびっくりだったけれど、足りない分は子どもがくれるから大丈夫、とのこと。彼はここで一人で住んでいるけれど、不自由はなく幸せそうな印象を受けた。彼は写真には映りたがらず。)
(アリまで1100キロ。途中高度5200mを越えるとか。このあたりは国境未確定地域があり、途中その辺も通ります。インドも中国もともに領有権を主張しているところに、中国は知らぬ間に道を作ってしまい事実上中国領土になってしまっているとか。この地図ではその辺がインド領になっています)
さて、アリへの二晩、1100キロの旅に向けて、二人とも寒さ対策は一応万全、のつもり。ダウンの上にもう一枚コートを着て、ズボンの下は股引を2枚、靴下も分厚いのを2枚は重ねられる態勢。手袋も2枚。
今日の夜バスで、と思っていたのですが、さきほど宿の主人が現れて、「1時間後に出発するトヨタ(のランクル、多分)があるけど、乗るか?」と。値段も大幅に安く(バスだと一人600~700元のところを400元)、しかも時間的にもかなり節約になるので(快適さも増すかな?)、それで行こうと考えています。ラッキーでした、多分。
では、またアリについてブログアップできそうであればアップします。
(これも叶城の裏道で。写真を拒否されることも多いけど、とても喜んでくれる人も多い)
(ホータン郊外の遺跡へ行く途中の村の通りで。新疆はこのピンと直立した木の並木がとてもきれい)
ホータンも今日で5日目。
いよいよカイラスまでのハードな行程が始まるために、その前にいろいろと用事を済ませておくためもあってホータンには長くとどまっています。その間に、古代の町の遺跡を見て、博物館でミイラ見て。それと今日、日曜日の大バザールを見ようということもあって。
ホータンは、新疆ウイグル自治区の大きな町の中では特にウイグル色が強いと聞いていましたが、確かにバザールの周りの混沌とした雰囲気はもう全く中国ではない感じ(漢族の地域ももちろんそれはそれで混沌としているのですが……)。
埃が激しく舞い上がる路上で、ロバが渋滞を起こし、その隣では子どものワクチンか何かの注射が次々に行われていていました。精神的に病んでいるらしい女性が腰紐をつけられ、叫んだり、笑ったり、暴れたりする彼女を見世物みたいにして引いて回っている男も。。。物乞いの数もぐっと増えたようで、彼らが唱える呪文のような声が、いつまでも耳に残っています。7年前にインドでみた風景を思い出しました。
というなかなかディープなムードに包まれています。ウイグル人はみな穏やかそうな印象で、彼らがわずかに話す独特の発音の中国語も優しい響きで耳に心地よいです。
(日曜の大バザールはこんな感じ。漢族らしき人の姿はほとんどない)
(バザールの横の混沌とした通りでのワクチン注射大会。周囲には埃が舞いまくりだけど、注射だけならOKなのかな。。注射の針が刺さったあとに手を震わせながら泣き叫ぶ子どもを見てたら、見ているだけで痛そう。小学校時代を思い出してしまいました(笑))
さて、明日移動する先は、ホータンから西に250キロほどの叶城(イエチョン、Yecheng)。叶城からはいよいよカイラスへ向けてハードな移動が始まります。叶城は標高1400m、そこから次の阿里までバスで30時間、阿里は標高4000m以上。そして阿里の次が目的地のカイラス。高地適応なども含めて10日ぐらいはこのチベット方面に費やしそうです。
とにかく寒さと高山病への対策を抜かりなくして、先に進みます。(大沢さん、阿里からのメールどうも!昨日、今日で手袋や服をさらに買い足しました~。いやー、寒そう!)
地図はまた次回アップします。
(最近はまってるナッツとキャラメルを絡めたお菓子。路上でどこでも売っていて、500gで300円ほどと結構高めなのだけれど、おいしいのでついつい買ってしまう。でもいろんなゴミまでキャラメルの中に絡まってそう!)
(ニヤでお邪魔したウイグル人の家での集合写真。赤い布を通して光が差し込み、全体の赤い色味がきれいだった)
昨日、予定通り、ニヤ(尼雅または中国名・民豊)からホータンへ移動。このタクラマカン砂漠の南のへりに沿っての道はシルクロード南路で、砂漠に沿って4時間半ほどのバス移動でした(約300キロ)。目当ての宿がいっぱいで(運悪く、大きな会議に時期が重なってしまったため)、荷物を背負っての宿探しをする羽目になったものの、なんとか見つかり、今日はさらによさげで安い宿に移動でき、一息、というところ。最近は、いつも宿の部屋に入るとまずはシーツのにおいを素子がチェック。ぼく的にはOKだろうと思うところも、"モトコジャッジ"ではほとんどが不合格(つまりシーツ換えてない、らしい)で、そのうちにぼくもだんだん気になるようになってきました。今日の宿も、不合格だったものの、新しくフレッシュなのをもらえたので、ハッピーです。
さて、前回のニヤからは完全にウイグル人の世界になりました。ニヤは小さな町で、車はほとんどいないのに道はきれいに舗装されて片道3車線もあり、しかしその横に並ぶ家は土でできた遺跡のような古めかしいものだったりして、そのアンバランスさが不思議なところでした。
(土の家はこんな感じ)
その家の一軒に入っていくと、外で火をおこして料理をしている世界。中国語を話す人は誰もいないのですが、大勢の女性が、中へ入れ入れと、歓待してくれました。白アンコのジャムとナン、そしてお茶を振舞ってくれ、あとはみなニコニコと笑っています。デジカメの写真をうれしそうに眺めていたので集合写真を撮ろうということになると、みな身なりを正して、パチリ。それが最初の一枚。これとあと、子どもの写真2枚を近くの店でプリントして持っていくとみな大喜びしてくれて、ぼくらもうれしくなりました。ウイグル人、とても好印象です。でも話ができないのが残念。
(ナンと、細長いパリパリのパンと、白アンコジャムとお茶。ジャムがなかなか絶品)
(プリントアウトした写真を見て喜んでいる)
チベタン、ムスリム、ウイグル、そして雪山から砂漠まで、ここ二週間ぐらいはほんとに変化に富んでいて飽きません。ただ、移動が続いたので、ホータンではしばしの休憩。初めて古代の国の遺跡にも行ってみようと思ってます。あと、締め切りの近い原稿もすべてここで終わらせようと。。。ホータンの次は、いよいよチベットの横綱、カイラスへ向けての移動開始。標高5600mまで登って、そこでチベタンとともに数日の巡礼コースを回ることになるので、かなりハードそうですでにビビってます。防寒着もここで完全にそろえないと……。地図はまた次回アップします。
(タクラマカン砂漠の真ん中にある塔中で)
タクラマカン砂漠を縦断し終え、今は砂漠の南側に隣接するニヤ(中国名:民豊(ミンフォン))にいます。
(塔河のウイグル人たち)
前回ブログアップした塔河(タリム河=塔里木河のそばだからこの名前のよう)からは、250キロほど南下して、砂漠ど真ん中の塔中(タージョン、「塔」は「タクラマカン」の漢字の頭文字なので「タクラマカンの真ん中」という意味でしょう)へ行きました。塔河からは徐々に砂漠は本格化し、30分もすると教科書で見たような砂漠の世界が始まりました。
通り沿いには防砂のための木々が植えてあるものの、その向こうは全く砂のみの死の世界。途中に「○○○○○、只有荒涼的沙漠、没有荒涼的人生」と大きな文字看板が出ていました。最初の一行はちゃんと見えなかったのですが、後ろ二行「荒涼なのは砂漠だけだ、人生は決して荒涼ではない」から推し量ると最初は「ドラッグには手を出すな」みたいな言葉が入りそうです……って、そんなわけないですが、何が入るにしても、あの砂漠を前にすると、普通以上に説得力があるような。
塔中でぼくらだけバスを降りると、ガソリンスタンドと建物が200メートルほど並ぶのみ。唯一の宿らしい招待所へ行くと、かなりハード系な雰囲気でひと気もなかったので、人に聞いた3キロ先の別の宿へ。こんな砂漠の中にそこそこ快適な宿がありました。
(塔中の宿から15分ぐらい歩いた砂漠の中。奥にかすかにほそーく見えるのが宿がある道路)
宿の周りはすべて砂漠。何だかよくわからない工事現場を越えて砂漠の中に入っていくと、そこにはまさにイメージ通りの砂漠世界が広がっていました!波打つような大きな砂の山がどこまでも続き、表面には等間隔のしわしわが。そして風が吹くと、サーッとかすかな音を立てて表面の砂の膜が前進する……。これまでこういう図鑑に出てくるような砂漠は見たことがなかったので、なかなか感激でした。
(表面はこんな感じ。尾根になっている部分は砂が固まっていて歩きやすいものの、斜面を歩くと足がすっぽり埋まってしまう)
ぼくらが走った砂漠縦断道路が南北500キロ以上はあるとすれば、その距離、東京-京都間ぐらい。そして地図で見るとタクラマカン砂漠の横幅は縦の2倍ほどはあるので、実にこの砂の山は地平線のはるか向こう、1000キロは続いているということに。東京-広島間ぐらいでしょうか……。そんな気の遠くなるような領域が砂のみで埋め尽くされているという事実には圧倒されます。
(こんな世界が1000キロ以上も続いているとは……)
今日、塔中からニヤまではバスが複数あると聞いていたものの、朝10時ごろからガソリンスタンド前で待っても全然現れず。普通の車にも交渉などしながら4時間ほど待った挙句、リッチそうなウイグル人の兄弟が乗せてくれることに。革張りシートの豪華なホンダ車で快適な砂漠ドライブを楽しみました。2時間半ほどで無事にニヤに。
(今日は半日をこのガソリンスタンドで過ごしてしまいました)
ところで話は変わりますが、塔河の宿でのこと。部屋はきれいに掃除をすればそれなりのクオリティが出せそうなのに、掃除が全然なされていなく、シーツもかなりウェット&体臭あり。そこで、シーツを変えてくれと頼むと、シブシブ交換。掃除もしてくれと頼むと、「好的」と了解してくれました。が、掃除係の女性がトイレでモップを洗う様子と見た素子は絶句。なんと、便器の中に直接モップを入れて流しながらジャボジャボ。そしてそれで床掃除……。ありえない光景。「その水は汚いからやめて」というと、「この水はきれいよ」とホラー映画のようなセリフが……。そして、翌日トイレが詰り、大便やらなんやらが浮き上がってくる様子を見て、ますますその汚さが頭角を現し、素子はその掃除係りを "the FUKETSUest man of 2007"に認定。そして、それを許しているこの宿が"most FUKETSU yado"に。部屋が比較的新しくて掃除次第でかなり快適宿になりそうだっただけに残念。前回書き忘れたので。。
(ウイグル料理の定番ラグメン。具をかけて食べる。肉、トマト、玉ねぎ、ピーマンなど。洋風っぽい味)
(前回の写真の釜で焼いたこのナン(パン?)が焼きたてだととてもおいしい。)
(ハミ瓜もウルムチで食べて以来はまってます。しゃきしゃきしてて、甘みもある。1キロで1~2元)
さて、おそらく明日、ホータン(中国語名:和田(ホーティエン))へ移動の予定。シルクロード的歴史の長い町で、玉で知られます。そこにしばらくいてから、いよいよチベットへ向います。
(肌色の部分がタクラマカン砂漠。文字がこみいって見にくくなってしまってますが……)
コルラを今日の朝出て、今日はタクラマカン砂漠の入り口の町・塔河(ターハー)に泊まっています。「タクラマカン」というのは、ウイグル語で、「入ったら生きては出てこられない」という意味。日本の国土より広いらしい無限に続くようなそんな荒涼とした砂漠なのですが、砂漠を縦断する道路があります。コルラから3,4時間ほど行ったここ塔河は、町というか、その道路沿いにただガソリンスタンドや食堂や商店や宿が数百メートルほど並んでいるだけの場所(ここでも、ネット屋さんでPC繋げてネットできてしまうのがすごいですが)。
(コルラの夜の屋台街。コルラはかなり田舎と思ったものの、大きなデパートもある結構な都会。タクラマカン砂漠の油田で儲かって、イケイケだとか)
(そのコルラを出て10分もすると、もうこんな風景に。これはバスの中から)
塔河の町はもう砂漠の中にあるので、当然のことながら砂だらけ。砂がとても細かいパウダー状で、踏んだ感触はふわっとしていて、足が吸い込まれる感じ。砂漠の砂丘は大きなところでは高さが300メートルほどにもなるというのだから、それがこの付近に起こす砂嵐がいかに恐ろしいものになるかは、少し想像できるような気がします。
(塔河。この写真よりはもうちょっとひと気があって、店らしい店がたくさん並んでいますが)
(人はほとんどがウイグル人。中国語はかなり通じなくなってきて、たぶんウイグル人の人たちはぼくらを見て、あ、漢族の旅行者だなと思ってそう)
(タクラマカン砂漠の中を流れるタリム川。粘土のようになった砂に囲まれて、ほとんど流れも見えないようなしずかーな川。この川の上に95年に橋がかかったとのことで(その上からこの写真を撮っている)、それ以降にこの縦断道路ができたのではと思われます。ちなみに、横に生えてる紅葉している木は、「胡楊」というタクラマカン砂漠特有の木だとか。これがかなり広域にわたって砂漠を黄色く色づけています)
明日は、ここからさらに250キロほど南下して、塔中(tazhong, タージョン)というまさにタクラマカン砂漠のど真ん中に行きます。塔中には油田があり、おそらくそこはただそれだけのために少し人がいるといった場所と想像されます。イメージする砂漠の風景が見られるか、楽しみです。明日は塔中に一泊の予定。塔中が真ん中とすれば、縦断道路は全部で600キロぐらいはあるのかな?
(ムスリムのウイグル人で賑わう裏通り)
ウルムチも今日で5日目。今夜また移動です。
ウルムチは確か170万人ほどの都市。なので結構な大都市。で、このウルムチがある新疆ウイグル自治区の北部は、漢族の方が多いらしく、全般的にはいわゆる中国の大都市的なのですが、ウイグル人の多い地域にいくと空気がガラッと変わり、ぼくらにとってはどこか神秘的な雰囲気に包まれていました。ウイグル人というのは、トルコ系の民族で、このあたりから中央アジアに広く分布している人たち。西の方から来た人たちのはずで、まさにこの新疆ウイグル自治区あたりが、彼らとアジア系の人たちとの合流地帯になっている、ということのようです。
一昨日、ウイグル人のバザールへ。
(露店周辺には大勢のウイグル人。大通りから裏道まで小さな商店がいっぱい)
(ザクロをよく見かけるようになった。ウイグル人社会を赤く彩ってる)
バザール界隈では、蛇使いがいたり、ピーヒョロヒョロ~(?)みたいなアラブ風音楽が流れていたりとなかなかいいムード。この辺ではみな中国語も怪しげ。ぼくらも、「漢族か?」と言われることしばしば。
(絨毯屋さん)
(釜で焼いたナン?厚いピザ生地のようなパン)
(ハミ瓜とメロン。どちらも大きな一切れ1元(15円)で、立ち食いそばのような感覚でみなちょっと寄って食べていく。これがとてもおいしかった!)
(子どもはどこでも同様にかわいい)
(宿の近くの山の上からみたウルムチの町。こう見るとほんと普通の大都会)
(その山のてっぺんに張り巡らされた鎖には、このようにいくつもの南京錠が……。よくみると、それぞれにカップルたちの愛の誓いが彫ってある。いつまでも離れられない仲に、ってことかな?カギはここから投げ捨てた?)
今日夜9時発のバスでウルムチを出ます。向う先は、タクラマカン砂漠のすぐ北の町コルラ(Korla)。この辺の町の名前は漢字名もあるのですが、ほとんどがウイグル語に漢字を当てはめたもの。タクラマカン砂漠を突っ切る道が2本あるので、そのどちらかを通って、これからさらに南下し、カイラスを目指します。カイラスまで無事に行けたとすると往復で2,3週間……、キルギスタンに入るのはそのあとになります。ちなみに昨日無事取得できたカザフスタンビザは昨日から一ヵ月しか有効ではないので、多分その期限内にはカザフスタンに入れなそうな……。となると、また取り直すか、もういかないか、のどちらかになりそうです。
昨日の朝、予定通りにウルムチに着きました。バスで7時間かけて張掖(ジャンイエ)へ、そこから列車に乗り換えてさらに15時間ほどでウルムチへ。乗り換えもスムーズで、14時40分に張掖に着いたあと、17:01発の列車のチケットが買え、2時間ほど待っただけですんなりと列車へ。
西寧から張掖までの移動は雪山の中で、景色はなかなかワイルド、もちろん運転もワイルド。途中、「3685m」という標高の表示があり、それより随分高く登っていたので、4000mはいっていたと思われます。かなり道の悪い部分雪山の中で一度、車がたくさん詰っていて、そこで停車。2年前チベットの方にいったときに、山中で5,6時間動けなくなり、運転手が木の実を食べだして、これはまずい!と思った経験があったので、もしやそのパターンか?!とヒヤッとしたものの、軽いトイレタイムといったぐらいで車が動き出し、ホッ。とりあえず順調でした。
(雪山での停車時。前方で大きなトラックがスリップして動けなくなかったのか、道をふさいでしまった模様。上の黄色のバスがぼくらのバス。このまま数時間--かと思いきや10分ほどで問題解決。片側は大きな谷、みなチェーンはなし……。)
さてウルムチ。一見ただの大きな街というだけで、特に面白みはなさそうなものの、人の雰囲気が大きく変わりました。全く西洋人風の顔つきの人がかなり多く、今日は昼飯時の小さな店で話しかけた店員が、全くの白人のロシア人みたいで、話しかけて振り向かれたときびっくりして、一瞬言葉を失いました。彼らは、ウイグル語を話すウイグル人と思われます。あとは、各看板に、漢字とともにアラビア文字(ウイグル文字?)の表記があるのが新鮮。また、西寧よりぐっと温かくて、とても楽に過ごせています。
今日、ここでカザフスタンのビザを申請。結構すんなり行って、しかも日本人はタダ!(ウッシー、ほんとにタダでしたよー)聞いてはいたものの、なんか得した気分。でも、カザフスタン大使館の担当者が、気難しそうな人物で、一緒に行った日本人に「なぜウズベキスタンのは日本で取ったのにカザフスタンは日本で取らなかったんだ?!きみにはビザはやれない」とか、ガタガタおかしなことをいってきました。で、最後には「今回はあげよう」みたいな。カザフスタン、どんな国だか気になります。明後日にはビザができてきます。
(ラマダン明けの礼拝に集まった人々。これはモスク前の大通りに座っている人々。モスクの中はもちろん、この通りの前後500メートルぐらいずつ、さらには歩道やホテルのロビーまで、こんな感じでぎっしり!)
西寧滞在も、もう一週間になりました。ここにいる間、旅とは別にいろいろとあり、また風邪もなかなか治らなかったために居心地のいい宿でのんびりとしてしまいました。あとは金曜の礼拝を見るという目的もあって。その礼拝が昨日ありました。
(目の届く範囲どこまでもこの通り)
(脇道も)
前回書いたように、それはラマダン明けの年に一度の一番大きな集まりで、とてもすごかった!西寧を東西を貫く大通りがモスクを中心に1キロぐらいは通行止めになっていて、そこすべてに白い帽子の人たちが絨毯を引いて座っている姿は圧巻でした。確かに優に10万人は超えてそうでした。朝8時すぎに行ってみるともう人がいっぱいで、9時ごろに始まって10時には終わってみな解散。イスラム系のお店もみな休み。
(サウジアラビアのメッカに向かってお祈り(のはず)。)
中国では、キリスト教も大っぴらには活動できないように聞いていたのに、ムスリムのこの大集会がちゃんと認められているはなんか不思議な気がしました。印象的だったのは、ムスリムの人々も結構写真を撮ったりして、すげー人!って思ってそうだったこと。みなこれから自由に食べられるのがうれしいのか、明るさに満ちてました。
(修了後、モスクの側門から出てきた人々。中はどんななっていたのか見たかったものの、見ることはできず)
その前日の木曜日は、友達の友達が先生をする日本語学校(小島基地)の授業を見学に。チベタン、漢族、ムスリムが集まる四十数人のクラスの授業に行って、彼らが日本語を学ぶ姿を見るのは新鮮でした。チベット語は、日本語と文法の構造が似ているらしく、そのせいか日本語を学ぶチベタンは多いとか。比較的日本語が上手な何人かのチベタンと話すと、みな、日本に行きたがってる様子。この学校を過程を終えて試験に受かると、名古屋の南山大学への留学への道が開けるというのだからモチベーションも上がりそうです。
(駅そばのチベタン街にはチベタンがたくさん。ムスリムや漢族に比べて服装が華麗だが、貧しげな感は否めない)
そして昨日の夜は、その日本語の先生と三人でチベット料理を食べに。現地在住者ならではのディープな面白情報炸裂。にわかにこの辺に知識だけ詳しくなった気分。特に人間模様に(笑)。じゃしらもさん、ありがとう!medoさんも、紹介ありがとう~。
(本文とは関係ありませんが、西寧あたりに来てから「文明化しましょう」的スローガンが目立つような。写真はともにバスの中。上は「10文字の文明用語:どうぞ、こんにちは、ありがとう、ごめんなさい、さようなら」。下は西寧市民守則十条。例えば「2.その辺で痰を吐いたり、大小便をしてはいけません。7.公共施設を破壊してはいけません。8.禁煙場所で喫煙してはいけません。9.公共の場所で大きな声で話してはいけません。」う~~ん、すこぶる基本的だ。確実に守っておきたいところ)
さて、ここからは少しずつ移動と思っていたものの、ちょっと予定が変わりました。というのは、ここであった旅行者に触発されて、ぼくらもチベットの聖地カイラスを目指そうという気になっています。カイラスは下の地図の通り、大きくぼくらの予定コースからは外れるものの、敬虔なチベタンたちが五体投地をしながら命を懸けてやってくるという場所で、前から機会があれば行きたいとおもっていて、こないだ話を聞いてにわかかに急浮上。標高6000mあたりまで(さすがにそこまではいかないかな??)上ることになるので寒さも半端なさそう。そのあとの中央アジアも相当寒くなりそうだし、それが心配です。もう今後どこまで行ってもおそらく寒くなるばかりというのがブルーですね。また、中央アジアのビザ取得もいろいろ面倒で、ウルムチ以降はそのためにかなり時間も取られそうです。
明日は一気にウルムチまで行ってしまうつもりです。朝7時半発のバスで張掖(Zhangye,ジャンイエ)まで行き(7,8時間?)、そこからウルムチ行きの列車に乗り換える予定。全部で30時間ぐらい(たぶん)の移動行程になります。
(いよいよ、文字が小さくて見づらくなってきたので、クリックすると拡大されるようになっています。ウルムチまでの移動距離はかなりのもの。カイラスはこの通り、相当南です。本当はここまで下がらずに、キルギスタンあたりに入る予定だったのですが……。まだ、ほんとに行くかは不明です)
(夏河から同仁に向う途中。3000mは越えてそうな山中を抜け、外はずっと極寒の雪景色。延々と続く平原にはポツポツとテントが見え、そのそばでは羊の群れが悠々とランチタイム!モンゴルでも、凍ってるテントの中でぼくらが震えているときに、外では馬が10時間ほども全裸でボーッと突っ立っていましたが、動物のタフさには圧倒されます)
前回の夏河から青海省の省都・西寧についてすでに5日目。特に何をしたというわけでもなくどんどんと時間ばかりが経っている感じです。その原因の一つは間違いなくこの寒さ!夏河を越えてから、寒さは急激に本格化し、もはや冬です。すでに持っている服すべてを投入してしまい、早々とフル装備で日々過ごしています。
(これも夏河からのバスの中。休憩時にバスの窓から買ったヨーグルト(1.5元=23円)が激ウマ!ちょー濃厚なクリームのようで、まるでニューヨークチーズケーキのような味わい)
いまいる西寧のユースホステルは新しくとてもきれいで快適で、しかもネットも使い放題というナイス環境なのですが、政府の決めている全館暖房開始日が15日ということで、いまはまだ、快適空間も寒さが充満!だから室内でもほとんど外にいるのと変わらない格好をしてます。それがきついです。中国の大型連休である国慶節も終わり、いよいよこの辺は寒さのせいもありシーズンオフとなったようで、今日からはこの大きな宿に客はぼくら二人のみの模様。職員が結構たくさんいるので、まるで職員一家の家に居候しているような気分です。
(西寧が誇るモスク、東関清真大寺(「清真寺」=モスク)。明日ここが10万を超えるイスラム教徒でいっぱいになる。西洋、イスラム、中国の建築が混ざった独特な建築様式)
さて、ここに長居している理由の一つは、明日金曜日のモスクも様子を見るためです。蘭州あたりから、いわゆルシルクロード真っ只中になっているため、ムスリムなどが増えていますが、西寧もまたイスラム教徒が大勢暮らす町。そして、ここには中国西部を代表する大きなモスクがあり、金曜日の礼拝にはいつも数万人が集まるとのこと。しかも明日はラマダン明けということで、一年に一度の最大の礼拝になるようで、モスクでもらった資料によれば、去年か一昨年は16,7万人も集まったとか!モスク前の大通りも交通止めになり、周囲すべてがイスラム教徒で埋め尽くされるというすごい風景が明日展開するようです。写真で見るメッカの様子、とまではいかなくてもそれに近い光景が見られるのではないかと期待して、明日まで待っています。それについてはまた後日。
(東関清真大寺の裏道は完全にイスラム世界。でも言葉は中国語)
(ブタの足が売っていて、それをイスラム教徒が買っているのは不思議でした。どうしてだろう??)
(東関清真大寺の中。たくさんの絨毯とイスラム教徒)
(ラブラン寺の周りを五体投地しながらお参りする尼さん)
夏河も今日で3泊目。到着したときはただの観光地に見えたのですが、昨日この一帯を散策してみると、その印象は一気に変わりました。確かに観光客は多いものの、それ以上に夏河が誇るラブラン寺に巡礼へ来るチベタンの姿にとても惹きつけられました。
(夏河とラブラン寺の全景。たくさんある迷路のような建物が僧侶たちの住居。寺は右奥のごちゃごちゃしたところ)
町のかなりの敷地を巨大なラブラン寺(チベット仏教ゲルグ派六大寺の一つ、だったかな)と僧侶たちが住む住居が占め、その周囲をぐるっと取り囲むマニ車(回すとお経を唱えたことになるというチベット仏教の代表アイテム)の列。そのマニ車に沿って、多くのチベタンが歩きまわる姿は、これまで何度もみてきたのですが、なぜか夏河で昨日見たものがぼくは強く印象に残りました。五体投地(額、両手、両膝の5箇所を地面につけるチベット仏教特有のお参りスタイル)している人も多く、実にチベットらしい厳粛かつ敬虔な空気が流れているように感じました。
(町自体はこんな雰囲気。そして僧侶と観光客の姿が目立つ)
(ラブラン寺を大きく取り囲むマニ車の列。全部丁寧に歩くと数時間はかかりそう)
(ぼくらもチベタン家族と一緒にマニ車の周りを歩いた。その家族と一緒に。この子たちとそのお母さん曰く、毎日ここを歩いてて、一回3時間かかるとのこと!)
チベットは仏教が生活にとても色濃く影響を与えているイメージで、街なかにも赤いローブを巻いた僧侶がウジャウジャ。ネット屋さんに行っても、ローブを巻いた少年が大勢ネットゲームに興じてワイワイ。結構気軽なノリっぽいムードも見逃せません。
(寺の周囲に住んでいる少年僧侶の部屋。つつましい生活をしているかと思いきや、冷蔵庫とソファにオーディオ機器まである一人部屋で、結構快適にやってそうな感じ。)
(写真はだめだ、と初め言っていたものの、「やっぱり部屋の中はOK」と言われ、その後撮ってるうちにノリノリになり、「どれどれ、見せて見せて」という感じで最後はこんなショットに。でも彼、どことなく「おれ、こんなことしてていいのかな」的な雰囲気も醸し出していた)
(今日行ったもう一つの小さなお寺。寺の周りを時計回りにぐるぐる回って、たまに柱に頭をつけたりしながらお参りする。子どもを背負っている人も多い)
(そのお寺の中で。若い僧侶たちが首につけるお守りのようなものをそれぞれ作っていた。その後、活仏が登場し、ドンドコドンドコと太鼓を鳴らしながらお経を唱える)
やっぱり中国西部は多様でいいなと改めて実感。この辺をじっくり見たい心境に駆られています。痰の音も気持ちやわらいだ気もするし......。
もうちょっといてもいいかなと思ったのですが、今日は急に寒くて天気も悪く、意気消沈。実はここは標高3000m近いため、天気も変わりやすいんです。雨降るととくにできることもなくなるしと、明日移動することに。
明日は隣の青海省の省都、西寧(Xining, シーニン)まで行こうと思って、バス停に行くとチケットが売り切れてたため、とりあえず途中の同仁までチケット購入。でも、同仁までの風景がいいらしいので期待。そこから乗り換えて西寧まで行く予定。
(移動が小刻みになってだんだん地図が分かりにくくなっているような......)
(臨夏のモスクにいたムスリムの少年)
一昨日午後15時に列車で蘭州へ着いてから、すぐにバス停へ行ってちょっと郊外(といっても150キロほど)の臨夏(Linxia, リンシャー)という小さな町まで移動しました。15時間の列車の直後に2時間半のバスでちょっと疲れましたが、ここまで来てよかった、という風景が続きました。
(臨夏の町中はムスリムの人の姿が目立つ)
(臨夏のモスク。お祈りが始まる1時半に集まってきた人々)
蘭州は普通に大きな都市で、それほど変わり映えはしなかったものの、そこから臨夏へ向かう通りは、別の世界になったかのように、みな白い帽子をかぶるイスラム教徒の世界。このあたりは、シルクロードの重要な中継点だったらしく、そのために随分とイスラムの影響を強く受けています。途中の村には、モスクとお寺がミックスされたような建物がいくつも続き、とても新鮮。バスの中も半分ぐらいムスリムの人で、顔も西洋的な人が増えてきました。それに、このあたりはチベットの文化も混じっているので、赤い袈裟をつけたチベタンの僧侶なんかもちらほらいて、なかなか不思議な雰囲気でした。ちなみに、中国語ではムスリムの人を回族(フイ族=回教徒)といいます。
昨日は臨夏で半日散歩。町中いたるところにモスクがあり、ムスリムの姿が目立ちます。
(一見中国人には見えない人も多いものの、みな基本的に中国語を話す。中国の広さ、多様さを実感)
(臨夏の裏道で。動画を見せているところ)
(牛の足の骨だけを集めて売る人。街なかにはやたらと動物の死体が干されている。ウサギの姿焼きなども)
(いまは、ラマダンだとのこと(朝5時半から夜7時までは何も食べてはいけない。一ヵ月続く)。そのせいかは分かりませんが、夜になると街なかに一斉に屋台が開く。砂鍋、羊肉の串焼き、焼き芋、餃子など。下の写真のが砂鍋。これにスープを入れて、煮て食べる。)
そして夕方(4日)に、再びバスに乗って、夏河(Xiahe)というさらに奥地のチベタンの村へ移動。夏河は、チベタンにとっての重要な寺院があり、そのために、多くのチベタンが訪れるという村。臨夏から100キロほど。途中、かなりの田舎を通り抜けるので、もっとディープになるかなと期待していたのに、着いてみるとかなり観光地化した町でした。もっとも、ユースホステルがある時点で予想はできたのですが、思っていた以上に観光客も多く(ほとんどが中国人っぽい感じ)、とりあえず町中は全然新鮮な雰囲気がなくて、結構がっかり。中国人観光客が目立つせいか、漢族の世界に逆戻りした気分です。夏河の散策はこれからです。
(ロシアとの国境から、随分西へ移動した感じがします。でも、まだまだ西部は広く、中国の広大さに圧倒されます)
○それから、今日(5日)発売の「週刊金曜日」に、上海のニセモノ市場で働く人たちについてのフォト・ルポルタージュ「存在するものすべてにニセモノがある」が掲載されています。結構前に書いたものですが、カラー5ページの記事にしてもらえました。機会があればご覧いただけるとうれしいです。"Link Club Newsletter"「国境を往く 中国・モンゴル編」も間もなく出ます。
(バスの途中の休憩所のトイレ。「貼近距離 靠近文明」"Keep near, Setting up the civilization"ととても怪しげな英訳が下についてますが、「便器にもう一歩近づこう、そして文明社会へ近づこう」といった意味。文明なんちゃら、というのはよく見かける表示で、日本語的に考えるとなんか面白い。他に地下鉄で見たのが「請文明乗車」。文明的に乗車しましょう)
昨日の朝、バスで承徳を出て夕方に石家庄着。河北省の省都でかなりの大都市であるにもかかわらず、名前はほとんど聞いたことがなく、マイナーな感否めず。北京に近いからでしょうか。できればここには泊まらず、さっさと西へ向けて大きく移動しようと思っていたので、バスを降りてすぐに列車の駅へ。三輪車の荷台に乗って3元で到着。
(この乗り物はあまり見たことがなかったような。一見エンジンついてそうな思ってたものの、乗ってみるとおじさんがキコキコ。電気自転車。おじさんにこやか)
(石家庄駅前)
いかにも中国の巨大都市の駅という風貌の建物の中へチケットを買いに。10月1日から中国は国慶節で、一週間の大きな休み。そのため列車もちょー混んでます。駅で並んでいる段階ではまだ次の行き先も決まってなく、とりあえずチケットがありそうで、興味もあって、しかも結構西、という基準で考えて、チケット窓口で順番が回ってくる2分前ぐらいに、甘粛省の蘭州(Lanzhou、ランジョウ)へ行くことに決定。でも、その日のチケットはなく、翌日(つまり今日)の夜11時すぎ発のに乗ることに。
(チケット窓口の列に並ぶ。電光掲示板のチケット売り切れ情報などをもとに行き先を決める。石家庄から蘭州まで、硬臥(hard sleeper)の上段で324元(5000円ほど)。結構な出費......)
さて、宿探し。駅前にすぐ安くてほどほどのところが見つかり、ほっとして晩飯へ。
(夕食に食べたロバ肉バーガー。といってもファーストフード店ではなく、ローカルな店。なぜか最近ロバ肉を食べる機会がちらほら。味はコンビーフみたい)
今日の夜中12時前に列車が出発。あと3時間ぐらいあるので、その前にネット屋に来てます。今日はカフェをはしごし、その間に映画を見ました。南京大虐殺から今年でちょうど70年なので、多分それにあわせて公開された「南京NANKING」という(確か)アメリカ・ドイツの合作映画がなんと映画館で5元(75円)だったので、それを(ほかの映画は25元か30元。この映画だけ政府の奨励で激安価格になってるのかなと想像しましたが、それでも客は10人にも満たず)。ドキュメンタリー風なのに、一部本人じゃない人が本人風に出てくるのがなんともいただけなかったのですが、強姦について笑顔で語る元日本兵の映像には、考えさせられるものがありました。
さて、蘭州まで行くと、いよいよ中国西部という雰囲気になってきそうですが、地図で新疆ウイグルの省都ウルムチを見ると、まだまだかなり遠い!蘭州からはできるだけバスなどを使って小さな町を転々としながら移動したいなと思っているものの、その先の移動経路はまだ全く未定です。
(関口さんと通訳の陳さんと。なぜかぼくらが真ん中になってしまってますが)
いま、承徳にいます。この街に来て三日目。二人とも微妙に体調を崩してなんだか冴えない日々を送っていましたが、今日、この街に来た目的をひとまず達成しました。NHKの中国鉄道の旅の関口知宏さんに会えました~。承徳の一番の見どころである「避暑山庄」という昔の別荘地で中継があるらしいということが分かったので、ミーハーにも、朝から行って彼らを探してました(笑)。東京ドーム12個分(?)ともいう広い中を人に聞きながら、中継始まって20分後ぐらいには見つけることができました。
(関口さんの中継地点を発見!この船の中に彼が。出てくるかなと外で待っていたものの、船の中で番組終了......)
実際画面に映ることはありませんでしたが、そのあとに関口さんと写真を撮ってちょっとお話をしたり。関口さんは気さくな感じのいい人で、いきなり友達のように話せました。にわかに日本の世界とつながった感じで、不思議な気分な半日。
承徳に入ってから、ぼくはどうも痰の音に敏感になってしまい困ってます。中国に2年半住んで十分に慣れたはずだったのに、ここ数日どこにいても痰の音ばかりが耳に入って仕方ありません。そしてかなり気分が悪くなることも......。初日に泊まった宿は駅前の安宿だったのですが、早朝5時ごろから、宿の主人(たぶん)が数分おきにかなりパンチの効いた痰を吐き、真っ暗闇の中その音だけが響き渡り寝れなくなるという悲惨な状態(翌日宿を変更)。20回近くまで数えて、寝るのをあきらめ読書に走りました。うーーん、きれいだったロシアを経て、変なところが潔癖になってしまったのかもしれません。
(北京からスタートして、ぐるっと回ってもとのあたりに戻ってきてます。石家庄からは一気に西へ移動する可能性が高いです)
明日の朝、さらに西の石家庄(shijiazhuang、シージャージュアン)という都市へ移動。ここは河北省の省都。大都市は避けるつもりだったものの、あまり選択肢もなく、800万都市(2000年の情報)へ。ここはほぼ通過のみの予定。承徳からバスで6,7時間。ここからは北京がすぐ近かったものの、いまは国慶節で北京の宿も混み混みであることもあって、早めに中国西部へ向うことに。
(承徳の朝ご飯は、この露天の店がおいしかった。豆乳と油条(中国風揚げパン)とショウロンポウで、6.5元(100円)。写真は油条を作ってるところ)
(避暑山庄の中。1700年代にできた古い別荘地。とても中国的な風景が続く)
昨日の朝、大連につき、今日また出発です。
「坂の上の雲」を読んだときにむしょうに大連・旅順に行きたくなったこともあって、今回来てみたのですが、着いてみると全然モチベーション上がらず......。客引きと交渉しながらの宿探しに疲労し、すごい人ごみの中を歩いてまた疲労。。。ハルビンの大都市ムードに上海を思い出し、大連は違うだろうと少々期待してきたものの、やっぱりほとんど同じ雰囲気。ま、中国に限らず、大都市というのは概してそういうものなのですが。
大連で、二人とも、中国の東側の大都市にはもうほとんど興味が沸いてこないことを確信し(素子はもっと早くからそう言っていたのですが...)、これからはもうできるだけ大都市は避けようと心に決めてみました。で、次の行き先は人口で決めようということに。ちょっと小さいと思ってもすぐ200万人ぐらいの都市になってしまう中で、30万人以下の小さめの街を狙うことに。で、決めたのが延安(Yan'an, イエンアン)。ここは、中国共産党の歴史にとってとても重要な街で、二人とも興味もあるし、しかモ人口は十数万人ということで、ここに決定。しかし、今日の朝、列車やバスのチケット買いに行くと、列車もバスも、延安までの直通チケットはないとのこと。しかも来週から国慶節ということで列車は込みまくり。というわけで、とりあえずいきなり延安までいくことはあきらめ、まずは承徳(Chengde, チャンダー)という、これまた人口20万人ぐらいの小さな町にいくことに。
と、大都市に不満ばかり言っていますが、でも大連もそれなりに充実。昨日の夜は、大連で働く昆明時代の友人と会い、日本の居酒屋に行って楽しくすごしました。やっぱり旅先で人と会うのはうれしいです。
そして、今日は日系美容院に行って二人ともヘアカット。京都で切って以来切っていなかったので、大連に日本人美容師がいることを知って、今日その店「Kilala」に。すると、これが予想以上にハイレベル!職人的な技術を持っている渡辺さんという人に切ってもらい、大満足。200元(3000円)のところ、いまたまたま30%オフで140元。上海では日本人美容師だと高くて(相場は300元ぐらい?)一度も行かなかったのですが、多分上海にもあのように上手な人がいたはずで、だとしたら、いっとけばよかったなあ、といまさらながら思ってしまいました。ぼくが先に切って、いまは素子が切ってもらっている最中です。というわけで、不平をいいつつも、いい気分で大連を出発できそうです。渡辺さんに感謝!
さて、今日の行き先、承徳。なぜここにしたかというと、承徳には今度の日曜日(30日)に、NHKで中国列車の旅を慣行している関口知宏さんたちご一行が来ることになっているようなので、そこにあわせていてみよう、ということにしたからです。毎週日曜日の昼ごろにBS(だったかな?)で、現地からの中継をしているとのこと。そこにうまいぐあいに居合わせてみようと計画してます。というわけで、30日のその番組の中継にもしかしたら影ぐらいでてくるかもしれません!
今日は4時半出発の寝台バスで12時間ほど。明朝5時ごろに承徳に着きます。
では、もしかしたら30日のNHKで!
写真は時間がないのでまた今度アップします。
あ、でも、大連は一枚しか撮ってない......。
(いまいるのがハルビン(Harbin)で、今日の夜の列車で、その南の大連(dalian)へ)
ハルビンももう4日目で、今日の夜の列車で大連に向います。ハルビンはロシアの影響を強く受けているためなかなかきれいな街だろうと想像していたのですが、来てみると完全によく見る中国の大都市。かなり雑然としています。ただ、ぼくの中ではハルビンといえば、昔習った伊藤博文暗殺の地のイメージがとても強いせいか、その雑然とした雰囲気になんとなくそれっぽさを感じるということもあるのですが。
(中央大街。軒並み100年近く前の西洋建築が並ぶ)
それでもロシアの影響は多大で、中央大街という通りには軒並み20世紀前半のロシア風の建築が並び、見ごたえがあります。そしてその通りの端までいくと、アムール川が。アムール川は大学院時代の研究テーマ(流氷)に関連があった上に、去年吉林で、そしてこないだロシアでも見たために、親しみを感じ、大地はつながってるなあ、ということを実感させてくれます。
(ハルビンを流れるアムール川(中国語では「松花江(ソンフアジャン)」)。でも、周囲の雰囲気はまさに中国らしい雑然ぶり。その周囲は「斯大林公園」すなわち「スターリン公園」という名前らしい)
そして昨日はハルビンの町外れにある731部隊の細菌実験基地跡を訪問。言わずとしれた731部隊、その行いを詳細に展示してあるこの跡地を歩きながら考えさせられることは多かったです。たった60~70年前に、このような生体解剖や人体実験が日本人の感覚としてある意味まかり通っていたということは、とても不思議な気がします。昨日の夜、「暗い日曜日」というナチス時代のハンガリーが舞台の映画のDVDを買って見たのですが(とてもよかったです)、その内容もあわせて、半世紀もすると世の中は全く変わってしまうものだな、ということを感じさせられました。もちろん、いまも世界のいろんなところで、信じられないような現実が繰り広げられているだろうことは心に留めておかなければなりませんが。
(細菌実験基地の敷地内。多くの建物は、終戦前に証拠隠滅のために日本軍によって爆破された。奥にあるのが本部の建物。これも終戦時に一部焼けたものの、後に修復)
(本部の建物。この中に展示がある)
さて、中国に入ってからはもちろん毎日中華料理。この辺は、これまで行った中国のどこにも増して一皿一皿の量が多い気がして、いつも食べきれず。昨日行ったメシ屋は、餃子はメニューに「100個18元(=300円弱)」と書いてあってびっくり。最低30個(90円ほど!)から......。
(その店で出てきた前菜的位置づけの冷たい料理。薄切りの豆腐や春雨などの和え物。小さめだと言っていたはずなのにこれ。10人前ぐらいありそう。8元(120円))
あ、ちょっとロシアの話に戻りますが、「イクラ」ってロシア語らしいことに衝撃。「日本でもこれは『イクラ』って呼ばれてて多分みな日本語だと思ってる」ってロシア人に話したらびっくりされました。実は日本語なのかもしれませんが......。
(これはハバロフスクのマーケットのイクラ。ここの値段は1キロで800~1400ルーブル(4000~7000円ほど)。日本に比べて、安い?高い?)
今日、夜の列車でハルビンを離れ、大連(ダーリエン)へ。9時間の旅。ロシアのことを考えるととても短く感じます。しかし何気に移動費がかかってしまってます。もっと節約しないと......。
(ロシアからの船を降りて中国へ!)
昨日予定通り、ロシアから国境を越えて中国に入りました。
ハバロフスクから船で1時間少々アムール川を上っていくと、そこは中国。国境を越えた瞬間に完全に賑やかな中国社会に戻り、不思議だったり懐かしかったり。ついさっきまで西洋っぽいハバロフスクにいたのが信じられなくなりました。
(ハバロフスクの乗船所。川の上の緑の建物の中で出国審査。ロシアは列車のチケットなどすべて大切に保管しておけといわれていたので審査も厳しいかと思ったら、全然あっさりにこやか)
(船の中。ロシア人の中国買い物ツアー客みたいな人たちばかりで、全然国境を越えるという感じがしない)
(船の中から見たアムール川。アムール川は、中国・ロシアの国境を成してそのあとオホーツク海に注ぎます)
国境の町は撫遠(Fuyuan、フーユエン)で、そこからさらに6時間バスに乗って少し内陸の町・佳木斯(Jiamusi、ジャムス)まで行き、昨日はそこに泊まりました。中国の物価の安さに感激。昨日の宿はいわゆる"招待所"と呼ばれる中国っぽい安宿ですが、ハバロフスク一泊分でここに2週間近くいられます。しかもこの宿、普通の安宿なのに、なぜか部屋にLANケーブルが設置されていて、ノートPCをつないでネットし放題!田舎町なのにびっくりです。
(撫遠の町にはロシア人の買い物客がいっぱい)
今日はこれからハルビンまで移動予定。またバスで6,7時間ほど。ハルビンではみたいものもいくつかあって、何か取材などもしたいなあと思っているため、何日か滞在することになりそうです。
モンゴル、ロシアで言葉が通じない世界での旅の不自由さを実感しました。昨日中国に戻ってきて、とりあえず言いたいことがなんでも言える環境がとてもうれしいです。ロシアではそれで結構ストレスたまった気が......。中央アジアはまたロシア語が通じそうな世界なので、フレーズブックみたいなのを買っていく予定です。
あと、モンゴル、ロシア両国を見て、中国ってやっぱりひときわ汚いことを実感(笑)。ここ数年感覚が中国基準になってたけど、ロシアから中国に入って、バスの中で誰かが激しく痰を吐いている音が絶え間なく聞こえてくるのは、ちょっとまいります。トイレのすごさにも舌を巻きます。ま、数日で慣れそうですが。それでも、やっぱりぼくは中国にはすごい親近感が沸くので、戻ってきてちょっとほっとしてます。
(夜のハルビンビールと餃子。久々の中華、おいし~い)
(人力三輪車(輪タク)のおじさん。どことなく、大杉漣に似てた。「結婚は、高くてできないよ!10万元相手の家に払わないといけないからね!」恋愛結婚でもそんなに大金いるの?「うーん、恋愛の場合は5万元だな」)
ネット環境の都合でいつ更新できなくなるかも分からないし、旅中はなんだかんだで結構時間&ネタがあるため、3日連続更新になってます。
今日は二連浩特で、洗濯したり、休んだりしてダラダラ過ごしてます。体力を回復させ、明日国境を越える予定です。
話は昨日に戻りますが、大同から二連浩特まで7時間のバス旅の途中、景色は驚くほどの広大な草原が延々と続いていました。車内は人と荷物で溢れ、なかなかハードな移動でしたが、外の風景、涼しい風、心地よい気候が、気分をやわらげてくれました。
(二連浩特に着く1,2時間は、ずーーっとこんな草原。360度、どこまでも何もない草原というのは初めて見たような?!)
二連浩特の町は、中国語、モンゴル語の混じった世界。モンゴル語の文字は多分ロシア語と同じと思われます。それ以外に全く想像もつかない絵のような文字もいつも併記されているので、それがモンゴルの元来の文字なのかもしれません。
(新旧入り乱れ、国境らしい賑やかさのある町)
(ちょっと裏道はこんな建物が並ぶ)
(漢字の上にあるのが、モンゴルの文字?五福の左がわにはロシアの文字。モンゴル語はロシアの文字を使ってるようす。)
食べ物は、チベットのバター茶みたいなのと、羊肉が主みたいで、チベットを思い出します。料理屋のモンゴル人の女の子は、朝青龍に似ててびっくり!とはいいすぎですが、そう思ってみるせいか、どことなく似た感じが。。。でも、朝青龍はこっちには戻ってこないみたいですね。「ウランバートルで見かけたらすぐに分かるね」なんて話していたのですが。
明日はモンゴルに入ります。
結局今日の朝8時半のバスで大同を出発し、7時間バスに揺られて、国境の町・二連浩特に着きました。
途中ずーーーーっと草原で、最後2時間ぐらいは本当に全く何もない土地が続き、想像通りのモンゴルが近づいてきました。が、国境の町に着いてみると、何気に宿もきれいで、ネット環境も充実。今も自分のPCを接続できたりして、なんだか不思議な感じです。とりあえず、非常に疲れてしまったので、ここに2泊ほどしてから国境を越えようかと。
昨日アップできなかった写真をアップします。
(大同の夜の街中に浮かぶ中国建築)
(雲岡石窟。この穴の中に50000体の仏像が)
(雲岡石窟の仏像)
(雲岡石窟の仏像)
(雲岡から移動して、このバイクで万里の長城跡へ)
(これが万里の長城。この辺は修復されずにほったらかしにされてきたため、ボロボロになってます。でも、なかなか雰囲気あり)
(長城の上から。ちょっと分かりづらいのですが、かなり広大な風景に感激。左側に赤い屋根が広がる村をこのあと散策。)
(村の民家に入って、いろいろと食べ物を出してもらって、なぜかそれを二人だけで食べてました。左の大きな鍋の中のは、モロヘイヤのような植物が中に入った餅?→なかなか厳しい味。手前の緑豆粥はなかなかさっぱり。)
(このおばちゃんが料理を出してくれた人。田舎らしい、温かみの感じる出会いでした)
昨日、北京からバスに6時間近く乗って、いまは大同にいます。
バス停を降りてから、さて、宿探し。とりあえず、現れたおっさんの車に乗って、手元の古いガイドブックのコピーに載っていた宿に行くも、すでにつぶれていました。近くの商店で、安くていい宿はないか、ときいたところ、「それなら、ラオジャン賓館がいい!」と言われ、そこに行くも、いまいち。その斜向かいのかなり安い宿の部屋を見るも、病院を改造した宿の薄汚い部屋の中にはゴキブリが。すかさず職員が足で踏み殺すも、素子の目はごまかせず、即却下。で、どうしようかと、途中目にしたちょっとよさげのホテルに泊まっちゃおうか、とタクシーに乗ったところ、タクシーの運転手が「そこはやめとけ、九龍賓館にしろ」と強く勧めるので、じゃあ、そこにするかと、流れに任せて決めたのがいまの宿。値段は自分たちの基準よりはちょっと高めなものの、ま、それなりに快適に過ごせるのでよかったなと。
……と、こんなわけで、宿探しも久々でなんだか慣れず。でも、前よりも二人ともいい意味で旅に対する力が抜けた感じがして、流れにまかせて楽しくやってます。
今日は、朝から雲岡石窟と万里の長城へ。
雲岡石窟は中国語の教科書にも出てきた有名な場所で、50000体以上ある仏像はなかなかの迫力。しかも1500年ほど前に作られたもの、というのがすごいです。
万里の長城は、石窟からまたローカルバスに乗って30分ほど行った新栄という田舎町に。バス停から、おっちゃんのバイクの後ろに乗せてもらって(三人乗り!でもゆっくりなので安全でした)10分ほど。ここは、よく写真などで出てくるところとは違って、おそらく全く修復とかもなされていない、ボロボロになった土の長城。広大な草原の中に、土の壁がずっと続いている風景はなかなか見ごたえがあり、かなりいい感じでした。
もちろん、すべて写真を撮ったのですが、いまいるネットカフェでは、自分のPCをつなげず、写真をアップできず残念!また次の機会にアップします。
そのあとは、新栄の村で、人の家にあがっていろいろ不思議なものを食べさせてもらってから帰ってきました。
宿にかえったら二人ともぐったり。。。
明日、モンゴルとの国境の町まで移動するか、しないか、まだ迷ってます。
いずれにしても明後日には国境まで行きます。
ではまた!
昨日、北京からバスに6時間近く乗って、いまは大同にいます。
バス停を降りてから、さて、宿探し。とりあえず、現れたおっさんの車に乗って、手元の古いガイドブックのコピーに載っていた宿に行くも、すでにつぶれていました。近くの商店で、安くていい宿はないか、ときいたところ、「それなら、ラオジャン賓館がいい!」と言われ、そこに行くも、いまいち。その斜向かいのかなり安い宿の部屋を見るも、病院を改造した宿の薄汚い部屋の中にはゴキブリが。すかさず職員が足で踏み殺すも、素子の目はごまかせず、即却下。で、どうしようかと、途中目にしたちょっとよさげのホテルに泊まっちゃおうか、とタクシーに乗ったところ、タクシーの運転手が「そこはやめとけ、九龍賓館にしろ」と強く勧めるので、じゃあ、そこにするかと、流れに任せて決めたのがいまの宿。値段は自分たちの基準よりはちょっと高めなものの、ま、それなりに快適に過ごせるのでよかったなと。
……と、こんなわけで、宿探しも久々でなんだか慣れず。でも、前よりも二人ともいい意味で旅に対する力が抜けた感じがして、流れにまかせて楽しくやってます。
今日は、朝から雲岡石窟と万里の長城へ。
雲岡石窟は中国語の教科書にも出てきた有名な場所で、50000体以上ある仏像はなかなかの迫力。しかも1500年ほど前に作られたもの、というのがすごいです。
万里の長城は、石窟からまたローカルバスに乗って30分ほど行った新栄という田舎町に。バス停から、おっちゃんのバイクの後ろに乗せてもらって(三人乗り!でもゆっくりなので安全でした)10分ほど。ここは、よく写真などで出てくるところとは違って、おそらく全く修復とかもなされていない、ボロボロになった土の長城。広大な草原の中に、土の壁がずっと続いている風景はなかなか見ごたえがあり、かなりいい感じでした。
もちろん、すべて写真を撮ったのですが、いまいるネットカフェでは、自分のPCをつなげず、写真をアップできず残念!また次の機会にアップします。
そのあとは、新栄の村で、人の家にあがっていろいろ不思議なものを食べさせてもらってから帰ってきました。
宿にかえったら二人ともぐったり。。。
明日、モンゴルとの国境の町まで移動するか、しないか、まだ迷ってます。
いずれにしても明後日には国境まで行きます。
ではまた!
(北京の宿の裏道で)
旅を始めて2日目。昨日は予定通り、北京までたどり着くことができました。上海の空港ですぐに北京までのチケットを購入、国内線の空港(虹橋空港)までバスで移動して、1時間ほど待ってから搭乗。しかし、機内で1時間半ほど待たされ、結局北京に着いたのは夜9時ごろ。なかなかしんどい移動だったけれど、無事に初日の目的は達成しました。
前に泊まった快適な安宿に泊まってぐっすりと休んだものの、今日は二人ともなんとなく腰が重くて、朝からさてどうしようか、という感じ。久々の長期の旅生活へ慣れるまで、気持ち的にもからだ的にもちょっと時間が必要かもしれません。
とりあえずモンゴルまでの列車のチケットを買うべく、町を見ながらふらふらと北京駅へ。しかし駅では買えず、しかるべきところまで雨の中をまた歩いて移動したものの、ウランバートル行きは、月曜、火曜で、今日出たばかり。そしていろいろと考えているうちに、バスなどでジワジワとモンゴルへ近づくのも悪くないということになり、明日は大同(ダートン)という石窟で有名な町までバスで移動予定。北京から400キロほど。大同で、石窟やら万里の長城の微かな跡などを見てから、またバスで国境の町まで行くことになりそうです。ちなみに、北京からウランバートルまで一気に列車で行くと30時間ほど。ぼくらは何日後にウランバートルまでいけるかはまだ不明。
北京はやはり上海より中国らしい趣があっていいなあ、と実感。胡同(フートン)と呼ばれる小道を歩いていると、ああ中国だな、って風景がいっぱいでうれしくなります。
(北京の裏道「胡同」沿いの家の中。「四合院(スーハーユエン)」と呼ばれる典型的な北京の家。出てきたおじいちゃんに寄れば、築300年ほどだとか。この門の中が次の写真)
(四合院。門を入ると、このように四方に家が建ち、それぞれに家族ごとで住んでいる、ということだったはず・・・・・・。)
朝飯は、ローカルな店で肉麺みたいなのを食べたところ、やたらと肉が少なかったので(細切りの破片みたいなのが4,5切れのみ!)、「肉少なすぎじゃないか?」ときいてみると、「いまは肉が高いから仕方ないんだよ」と言われました。
(北京駅前。今年1月に上海行きの列車にのる直前にチケットをスられてしまい、にわかに一緒に帰るはずだった友人たちを見送ることになってしまった思い出の場所)
(偽ディズニーランドとして話題をほしいままにした石景山遊園地はまだ健在のよう。バスの中の広告です)
昨日北京でインタビューの仕事があって、こっちにやってきました。
といっても、その仕事は昨日で終わり、これから上海に戻るところです。
いまはスタバでブログ更新中。
短い滞在だったものの、結構充実。
昨日は昼前について、空港から直接取材先の写真家夫婦の家へ。で、日本から来たカメラマンとともに、昼ごはんをご馳走になってから話を聞いて写真を撮って、さらに夜ご飯までごちそうになってしまいました。
二人は、ロンロンさんとインリさんという、とても素敵な中国人・日本人夫婦。北京の東側のとても居心地のいい魅力的な家で創作しながらの生活で、現代アートの写真家として世界中で活躍中。いまは、北京に、写真家たちの新しい発表の場としての写真センターを作っている最中です。
(中国人のrongrongさんと日本人のinriさん)
(うしろが建設中の写真センター)
(家の入り口。この中に、快適な家とともに、写真の現像からプリントまでの全行程ができる空間が広がっています)
(二人の友人たちも交えての夕食)
夕食までご馳走になったあと、市内に移動して、宿に一泊。カメラマンの方が、すでに少し前から北京にいて、ユースホステルに泊まっていたため、その同じユースに行ったら、なんとこれがかなりきれいで快適でした。上海のユースもとてもきれいだったので、中国の都会の安宿はレベルが高いなという印象。ま、雲南とかはかなり厳しい宿が多いのですが。
で、今日は、朝から第二の目的の「上訪村」へ。「上訪」とは直訴のことで、中国各地から、地方のお代官様の悪政などについて、中央政府に直訴するためにはるばる北京までやってきた人たちが集まっている村だということでした。場所が分からなかったので、いろんな人に聞きながらたどり着くと、噂どおりに直訴のために集まってきた人でいっぱい。で、その奥に、直訴を受け付ける裁判所の一支部みたいなものが。
その中に入って、軽い気持ちで警察らしき人に、「ここが直訴する場所ですか?」と聞いてしまったら、かなり怪しまれ、「目的はなんだ?本当に旅行者か?ここは旅行に来る場所ではない?出て行きなさい」と言葉は穏やかながらも、有無を言わさぬ感じで追い出されました。で、そのあと周囲で、直訴しに来た人に話を聞いていると、また警察が来て、まずそうなので、退散。しかし、直訴しに来た人たちは、
「こいつは記者だろう」とめぼしをつけ、「私の事情を聞いてくれ、助けてくれ」と話しかけてくるのです。
警察に見つかってはまずいと思って、少し遠くに離れてから、話を聞いて隠れて写真を撮影。で、さらにその辺をうろうろしていると、警察にずっと後をつけられる。警察がいなくなるほどのところまで行ったら、
別の直訴人が「あなたは記者だろう?ぼくを助けてくれ」と言ってくる。しかし、訛りが強く、話が分からなかったので彼らの控訴状のようなものを一部もらい、あとで読んでみることに。。。
とてもディープな雰囲気のところでした。ほんとにすごくいろいろと話を聞きたかったものの、警察の目がかなり厳しかったこと、そして、みな地方の人のため、訛りが強くて、言葉が分からなかったために、ちゃんと話を聞けずかなり残念でした。
(直訴に来た人)
で、そのあとは、ちょうど仕事で北京に来ていた、日本で活躍中の中国人の友人と昼食。彼女、可越さんは、ぼくも立ち上げ時から関わってきた、日中をテーマとした映像制作グループ東京視点を作った人。今も日本で映像関係の仕事をしているとてもエネルギッシュな人。久々に、しかも北京での再会はなかなかうれしかったです。
(可越さん。いま北京で行われている日本映画際のまとめ役)
と、長々と書いていたら、そろそろ空港へいかないといけない時間に!
というわけで、短かったものの、なかなか充実した北京滞在になりました。
ではまた。
12月に北京に行ったとき、毛沢東の遺体を見にいきました。この話、書こうと思いつつ忘れてました。
他の社会主義国と同様に、毛沢東の体も、一応死んだときのまま、ということで真空保存だかなんかにされてて、今も北京で見ることができます。最近、「マオ」など近年の中国に関する本をいくつか読んで中国の近代史にとても興味を持つようになったので、是非見たいと思って、今回の北京で唯一の観光のような感じで行ってきました。
「毛沢東の私生活」という本があります。ずっと毛沢東の身近にいた主治医が、毛沢東の私生活を赤裸々に書いたもの(作者は本が出た一ヵ月後ぐらいにアメリカの自宅で死体で発見されました。FBIも病死と認定したとのことですが、かなり怪しい雰囲気です……)なのですが、実は、その作者が、毛沢東の遺体の保存の責任者だったとか。で、この本は、毛沢東が死んで、その直後に保存ミッションを与えられ、「ちゃんと保存しないと、マジでまずいぞ……!」ってところから始まるのですが、この主治医がいろいろと試しているうちに、毛沢東のボディが膨張しちゃったりして、彼は大慌てになるんです。で、結局それがどうやってうまくまとまったのかはよく覚えてないのですが、とにかく、その結果として保存されたものが、いま、北京にある毛沢東の遺体のはずなわけです。
さて、どんななのかな、、と興味津々で見に行きました。
この写真がその建物。毛主席紀念堂。まさに毛沢東の体を保存するためだけにこれだけ大きな建物を天安門広場に作ってあるということで、「おお、中国!」という興奮が走りました(ちなみに、ぼくは今回初北京)。
まず、荷物を預けて、敷地の外で4列縦隊に並んで待つ。「入っていいぞ」という合図とともに、観光客みんなで一斉に行進しながら敷地内へ。角を曲がるときもしっかり90度に曲がらないといけなく、さすが、、、という感じ。で、遠くから係員の諸注意の声(服装をきちっとしなさい、なんてのもあったような)が聞こえ、その声にしたがって途中で一斉に止まると、目の前には花屋さんが。。。「毛主席に敬意を表して献花した方がよい。だから、ここで花を買った方がいい。一本3元だ」みたいな感じで勧められ、買わないといけないのかなと思ったら、3分の1ぐらいの人だけが列から離れて花屋へ走っただけなので、そのまま見守る。で、まだ買ってる人がいるのに、「よし、そろそろ進みなさい」と号令がかかり、また行進開始。階段を上がって、1元で案内書を買って、中に入ると、まずは大きな毛主席の像。花を買った人はそこに花を捧げて、すぐに列に戻り、いよいよ、毛沢東と対面。(建物の中に入ってからは列はすでにばらばら)
その部屋に入ると、正面の壁に大きく、
「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」
のような言葉がかかれ、その下に二人の兵士。その空間とぼくら観光客とはガラスの壁で仕切られています。観光客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけないんです。がんばってゆっくり歩いても、ま、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらいでしょうか。
さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらに毛沢東はガラスのケースの中に入っていて、
距離は、5メートル以上はあったかな。そんななので、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしていました。写真で見ると大柄なイメージだったので、意外でした。でも、遺体だと考えると、小さい方がリアリティはあるような。
が、顔はどうもきれいに整いすぎている感じがして、もうこれは蝋人形でも全く見分けはつかないな、という印象。そして、あれが実物かどうかなど、恐れ多くて誰も突っ込むことはできないということを考えれば、本当に蝋人形であると考える方が合理的なんじゃないか、とも思いました。
しかしいずれにしても、あの部屋にいる間、歴史を体感した気分になれたのは確かです。毛沢東や中国の歴史に興味があれば、一見の価値はあります。あの空間に、社会主義のエッセンスが詰まっているような気がしました。
ちなみに、部屋探しは、いよいよ大詰めかな、、というところです。
昨日、上海に戻ってきました。
6泊7日の短い旅行でしたが、とても充実した日々でした。前半部分、友人が住む口前の様子はすでにアップしたので、今回は、その後に行った北朝鮮、ロシア、中国の三国の国境地帯について。
吉林省の場所は以下の地図の青く囲んだ部分。
そこを拡大したのが以下の地図で、この中の青囲み部分右側のとがったところが三国の国境。この地図には明記されてませんが、このとがったところの上はロシア、下は北朝鮮です。
口前はこの青い部分より西側にあり、ここから延吉を通って、三国の国境のそばの琿春(フンチュン)という町へ。バス、列車(夜行)、バスと乗り継いで、十数時間の移動。
(夜行列車(吉林市から)に乗る前の駅の様子)
で、着いた琿春は下のような感じの閑散とした町ですが、
このようにロシア語の表記が出てきたり(朝鮮語表記は、吉林省のこの付近ではどこにでもあります。朝鮮族がとても多いので)、
店ではこんな毛皮が売られていたり。。。
この琿春の町から南東にまっすぐ伸びる道を1時間ほど走っていくと、三国の国境へ。
道の左側(北側)の柵の向こうはロシア、右側(南側)の川の向こうは北朝鮮というすごい風景。
(道の端から数メートルのところに見えるこの柵の向こうがロシア)
(この川の向こうが北朝鮮)
そして、道の端まで行くと三国が見渡せる展望台が。ここはちょっとした観光スポットっぽくなっていました。
(展望台からの風景。左側の池っぽいのがあるあたりはロシア、右側の川の向こうは北朝鮮。手前はももちろん中国。そして、晴れていると、この向こうに日本海が見えるとのこと。ちなみに川にかかっている橋はロシアと北朝鮮を結んでいる)
写真がどれもしょぼめになってしまってますが……。
さて、三国の国境はこんなところなのですが、帰りにこの道を戻る途中に、北朝鮮と中国を結ぶ橋を発見。そしてその横には税関や国境らしき建物が……。まさかな、と思いつつ、ここで車を降り、国境の前の門番に「この国境から北朝鮮に渡ることはできるんですか?」と聞いてみると、なんと答えは、
「可以(できるよ)」とのこと!え?マジで?と思い、「外国人も?」と聞くと、また「可以」。
なんと、ここから北朝鮮に入国することができるのかもしれない……。半信半疑ながらも、もし普通に入国できるのであれば、ちょっとだけでも覗いてみたいと思ってしまいました。ちょうどそのころ北朝鮮が核実験のことを発表したなんてことは全く知らずに、翌日再度この国境に戻ってみることに――。その詳細はまた次回!
いま、吉林省の口前(コウチエン)というとても小さな町にいます。周りは山に囲まれ、通りは土ぼこり、三輪車などアジアっぽい小さな乗り物があふれ、小さな子どもたちが道路の脇でトランポリンをしているという、なんだか東南アジア旅行時代を思い出す雰囲気。
(日曜の朝の動物市場。値段を聞くと、うさぎ一匹6元(90円)、犬一匹80元(1200円))
(こういうトランポリンが通りの脇にたくさん置いてある。夜真っ暗になっても、子どもたちは飛び跳ねてました。)
(町から15分も歩くとずっとこんな風景)
そんなこの町に、青年海外協力隊で日本語教師をやっている友人が住んでいます。この地域は、朝鮮半島にとても近く朝鮮族が多いため、多くの人が朝鮮語も話すのですが、友人は朝鮮族がいく学校(日本でいう中学・高校)で教えています。彼女はこの町唯一の外国人。いまこの町にいる旅行者もきっとぼくらだけ。
(高3の生徒たち。左から三番目が友人の先生)
昨日は、午前中、高校三年生たちとバスケやバレー、ビリヤードをやって一緒にご飯。みな素直そうな子ばかり。来年の高考(大学入試の全国共通試験)のためにハードに勉強中。で、午後は、その学校の高校2年生から北京での日本語スピーチコンテストに出場する代表者を決めるためのスピーチ審査があり、友人の先生とともに審査員をやらせてもらいました。
(スピーチ審査が始まる前に自己紹介する素子。久々の教室。しかも教壇)
一般に中国人は、日本人に比べて、文章を書くときに比喩やきれいなたとえを多く使う傾向があるらしく(どうでしょうか?)、それぞれ生徒の文章の華麗さに驚かされました。そして、多くの朝鮮族の子の両親が出稼ぎのために韓国に行っているという事実とそのために生じる諸問題も知りました。上海、昆明とはまた全然違った中国の一風景や地域事情が新鮮でした。
さて、今日は口前を出て、夜行電車で北朝鮮、ロシア、中国の3国の国境を目指します。やはり陸の国境というのはなんかロマンがある(?)ので楽しみです。しかも、ロシアと北朝鮮という両方とも全く見たことのない国。でも、行き当たりばったりなので、ちゃんとそこまでつけるのかはまだ不明。がんばります。
(今回、上海の家から空港まで行く途中に初めて乗ったリニアモーターカー。表示どおり、最速時はなんと430キロ!外の景色が未体験のスピードで後ろに消えていきました)
(文山の裏道で)
3日前に雄生の友達と三人での一週間の小旅行から帰ってきて、気づいたらすでに一週間以上更新が止まってしまいました。早いものです。友人中野さんは、昨日昆明を発ち、今ごろは香港かマカオにいるはず。私たちは早速昨日からまた元の日々に戻っています。が、二人とも少し風邪気味で静養中。
さて、小旅行のことですが、今回は雲南省南部の小さな村を訪ね、その後勢い余って国境を越えてベトナムにまで行ってきました。ベトナムはもともと視野に入っていなかったものの、地図上で見ると実に近いことに気づき(昆明からバスで10時間で国境)、足を伸ばしてみました。
ルートは
昆明⇒文山(ウェンシャン)⇒広南(グアンナン)⇒バ美村(バーメイ)⇒文山⇒河口(ハーコウ)⇒ラオカイ(ベトナム国内)⇒昆明
目的地だったバーメイ村は、壮族(ジュアン族)という少数民族が住む人口数百人程度の小さな村。ここを特徴付けているのは、村自体が山と洞窟に囲まれているため、村と外部をつなぐ道がなく、アクセス方法が洞窟の中を走る川を船で渡るしかないということ。
洞窟を船で抜けるとそこには桃源郷が……といったイメージの場所です。
(正面が村への入り口となる洞窟。この道の右側を流れる川が洞窟の中を通り、バーメイ村までつながっている)
(「秘境」の村かと思ったら、入場料(40元!)まで必要で、船着場も予想以上にシステマティックになっていることに少しがっかり。でも、ここを抜けると村がある、というのは確かになんか夢がある気が……)
(洞窟は1キロ近くもあるとのこと。なかは途中かなり真っ暗になり、最後に光とともに村が見えてくる。正面にあるのは水車)
(村の中。この川でお風呂も洗濯もすべて行う)
村には電気も水道もなく、まだ観光地化も進んでいない「秘境」らしいという話を聞いていたものの、実際には昆明などに住む中国人にとってのけっこうな観光地になっていた印象を受けました。村人の話によれば、2000年に観光地として開放された(?)ようで、その後は、観光産業で生きているといった雰囲気は確かにありました(国慶節という大型連休中だったためもあると思う)。ただそうは言っても、まだそれほど知られた場所ではなく、村は自然な桃源郷という雰囲気を十分に保っており、とても気持ちよく過ごせました。
(農家の多くがこういった旅行者用の宿になっている。電気も水道もないため生活はけっこう原始的なものの、とても快適で居心地がよかった。ここに二泊。正面はご飯を作る家の人たち)
部屋は小さな三人部屋で一人8元(100円)と格安。ご飯も、ニワトリはその場で絞め、野菜は裏山から、といった感じ。水は山の湧き水かなんかを家の人が汲んできてくれる。「チョーきれい」だというので、雄生が宿の少年の真似をして飲んだところ、その後何日か水下痢に……。
(川で洗濯。この日、この川の上流で水浴び)
(村の一角では観光客のために民族ダンスが。記念Tシャツなどまで売ってるのにはちょっと参った)
こないだチベット文化圏に行ったときも思いましたが、中国はほんとにこの数年の間にすごく変化しているようです。外部の人に開放され、いろんなところが観光地化されて秘境がなくなっていくのは旅行者にとっては残念なことですが、地元の人にとってはやはり生きていく上でとても有効な手段なんだなと感じさせられます。
この村の後にベトナムにまで足を伸ばしたのですが、長くなってしまったのでベトナム国境編は次回に。
<8月17日~8月26日> 松潘、成都
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月17日>
紅原からバスで7時間で松潘に到着。松潘の町はいかにも観光地といった感じで、町全体が古い町並み風に整備されていた。観光客も多く、外国人が好きそうなカフェもある。町は漢族が多く、チベット文化圏はもう抜けたという感じ。
<8月18日~19日>
(馬、オナラがすごかった)
松潘には馬トレッキングをしにきたので、早速トレッキングに参加。本当は2泊くらいはしたかったのですが、ガイドブックに載っている価格(1日60元)からだいぶ値上がりしていたので(1日100元+α)、1泊で我慢。私たち二人に対して馬6頭、ガイド2人がついてきた。馬に乗るのは二人とも(記憶にある限り)初めて。馬は勝手に暴走したりはしなかったけど、たまにとことこ駆け出したり、木が生い茂っているところも上に乗っている人のことはお構いなしに歩いていくので(あたりまえだけど)木の露で体がすごく濡れてしまった。しばらくして綱の使い方を覚えたらすこしはましになった。雨は降っていなかったものの、雨季で地面がべちゃべちゃになっていて、結構急な山道だったけど、それでも馬は鼻を鳴らしながらかまわずのしのし登っていく。馬の強靭さにちょっと感動してしまいました。
山を二つ越えたあたりで1泊。
(中央のおじさん二人がガイド。このテントの中で寝る。全部おじさんたちがやってくれて、ご飯も半ば現地調達(山に生えてるキノコなど)という感じ。テントや馬など、持ち物はすべてガイドの個人的な物らしく、彼らはこのガイドをすることでエージェントから1日60元もらえるとのこと。冬の間は客が減るため、彼らの生活は厳しくなる。「どうするの?」と聞いてみると、「自分で薪割って……自給自足だよ」と苦笑)
次の日は同じ道を帰る。下りは馬に乗れないため半分馬に乗って、半分はべちゃべちゃ道を歩いた。足首まで泥につかりながらで何度も転びながら。。。帰ってきたときには泥まみれになっていた。
このツアーは楽しかったものの、馬での登山はかなり危険に感じた。馬は道なき道を必死に登ってくれたが、何度か(馬が)足を滑らせたりして、ヒヤッとすることも少なくなかった。ガイドのおじさんに、馬が転ぶことはあるのか、と聞くと、
「たまにある」とのこと。
そして私たちは無事だったものの、案の上、翌日落馬した人に出会う。成都行きのバスで一緒になった大きなアメリカ人のおじさんだったが、彼は落馬し腰かどこかの骨を折って松葉杖になっていた。ま、彼はかなり太っていた巨漢だったので、馬にとって重すぎたのかもしれない。
このツアー、日本だったらまずあり得ないでしょう。
<8月21日~23日>
松潘から成都へ。都会にきて、もう旅が終わりだということを実感。成都では買い物をしたり、かの有名な陳麻婆豆腐に行ったり、宿でのんびりしたりして過ごしました。
(麻婆豆腐発祥の店「陳麻婆豆腐」。辛くて食べられないと聞いていたので唐辛子を減らしてもらったら、おいしく食べられた。さすがに評判通りのおいしさだった)
<8月24日~25日>
(友人との久々の再会。蓮池の前で。「巻いて巻いて」などの業界用語までマスターしていた彼の日本語力にまた驚嘆)
成都出身で、現在東京で働いている雄生の友人、劉君がたまたま里帰りをするとのことで、24日から2泊彼のところに泊めてもらいました。彼の親戚と会ったり、生家を見に行ったり、ちょっとだけ中国人の家族の一員になったような気分を味わった。劉君は日本のテレビ局で働いていて、日本語もペラペラ、すっかり日本になじんでいるため、二年半ぶりに中国に戻ってきてひどいカルチャーショックを受けていた。中国は今、経済的にも右肩上がりでイケイケな時期。その中で経済的な豊かさを求めて生きる彼の家族と、日本でディレクターとして夢を追う彼の間のギャップは予想以上に大きかったらしい。
これは自分たちにとってもいえることだが、海外で長期的に暮らすことの意味をいろいろと考えさせられる瞬間だったりしました。
(劉君の親戚会にも飛び入り参加。白酒で乾杯)
(この日かなり豪華な中華料理に大満足。旅最後の晩御飯がこんな豪華になったのは感動的)
(豪華ディナーの後は中国の風習に従いお茶屋さんでトランプ。みんな真剣にトランプに興じる。昆明でもこういう風景はよく見かけるが、参加したのは初めて)
(劉君と劉君ママと。劉君は非常に親思い)
<8月26日>
友人家族に別れを告げ、夜行列車で昆明へ。20時間はあっという間に過ぎ、朝7時に昆明着。1ヶ月ちょっとぶりの我が家に帰り、"やっぱり我が家が一番"という気分を味わいなんだか中国に我が家があることを不思議に感じでしまいました。
今回は久しぶりの旅だったため、だらだらせずに好奇心も旺盛なまま1ヶ月ちょっと過ごすことができ、約1年前に感じていた旅に対する倦怠感とは無縁のまま昆明に戻れました。できればもうちょっと旅していたかった。
10月1日は中国は国慶節(日本でいう建国記念日)で一週間ほど休みで、また日本から友人が遊びにくる予定なので、今度は雲南の他の場所へ行ってみる予定です。
<8月11日~8月16日> 馬尓康、阿バ、 紅原
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月11日>
色達から馬尓康までのバスが一杯だったため、中国人旅行者5人+ラマ(チベット仏僧)2人と車をシェアして馬尓康へ。車をチャーターしたら高くつくので、もう一日色達で待ってバスで行こうかとも思ったのですが、その日に絶対馬尓康に行かないといけなかった中国人旅行者たちに、"あなたたちが乗らなかったら一人当たりの額が高くなるから迷惑なんだけど"と言われた。でも私たちも高いお金払うのはいやだし。彼らが結構強引だったので半分むかつきながらも、日本人的"協調性"を発揮して一緒に乗ることにした。
馬尓康へは5時間半で到着。聞いていたとおり大きな町。久しぶりの都会で、食事のバラエティーも多くちょっとうきうき。
ここでは洗濯したりした以外は特に何もせずに2泊した。なので写真もありません。
<8月13日>
7時間弱バスに乗り、草原が綺麗という阿バへ。地元のラマに教えられた宿へ。その宿がとても綺麗で、シーツも清潔だし、トイレもちゃんとしてるしすごく快適に過ごせた。これで一人15元(200円くらい)。コストパフォーマンス的には今までで一番。
(阿バへ向かう途中のバスから。雲が下に見えたので、高度はかなり高かったはず。中国のバスは喫煙OKなため、車内は常に煙でもくもく。気分が悪くなりそうなので窓を開けるのだけど、窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。後ろの人に窓をぴしゃりと閉められることも。煙と寒さとの戦いです)
<8月14日>
ボン教(チベットに仏教が伝来する前からあったという民間信仰の宗教)のチベット最大といわれるお寺、ナルシィゴンパへ。仏教との違いは、お参りするときに回る方向が違う、等があるらしいですが、今は殆ど違いはないとのこと。
(これがボン教の卍。半時計周りにお参りする)
草原を一時間ほど歩いて(坂道ではなかったのでピクニック気分)到着。眺めがいい丘に登って、持ってきたお昼を食べようと思ったら、空から大きな鷹が何羽も旋回しながら近づいてくる。確実に狙われている。怖くなって建物の物陰に隠れた。後で聞いたところによると、その丘はどうも鳥葬(亡くなった人の肉を鷹などに食べさせるという葬式)が行われている場所らしい。その日の朝も、小さな子供が亡くなって、鳥葬が行われたとのこと。
ゴンパは結構大きかったのですが、中は閑散としていた。夏休みで多くのラマが里帰りをしているからだそう。適当に歩き回って帰途に。行きに芝生で休んでいたチベタンが、帰りも同じ場所に座っていた。かれこれ3、4時間は経っていたので、何をしているのかと聞くと、彼の目の前の野菜畑を指さして、"自分の野菜を眺めてるんだ"。一緒に話そうよ、と言われたのですが、二人とも疲れていたのでちょっと話して別れた。彼はいつまであそこに座ってたんだろう…。
(ゴンパまでの道)
(黄色い花が綺麗に咲いていた)
<8月15日>
紅原へ。3時間ほどで到着。ここも大草原。バスが大草原をゆっくりゆっくり走った先に町がある。でも特にそれ以外は何もない。ここ辺りからだんだん漢民族が増えてきたけど、まだまだチベタンワールド。ヤク牛のミルクから作ったヨーグルトを食べたらすごく発酵していて舌がびりびりした。昆明ではプレーンヨーグルトがないので、久しぶりのプレーンヨーグルトは結構うれしい。
<8月16日>
この日は草原を歩くことに。途中チベタンの村である家でお茶をもらった。
(お茶をご馳走になった家にいた子供たち。この次の日から学校がはじまるとか。夏休み最後の一日を満喫していたところにお邪魔してしまったよう)
<8月8日~8月10日> 色達(セルタ、スーダー)
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月8日>
朝9時すぎ。色達に向かうべく、道でバスを待つ。塔公にはバス停がないので、通り過ぎていくバスに手を振って停めてもらう。そういう場合って大抵席がすでに埋まっていて、通路に幼稚園児が座るようなプラスチックのイスを出してもらって座ることが多いのですが、運良くがらがらのバスが通りかかった。そしてそのバスにたまたま30代後半くらいの日本人サラリーマンが乗っていた。会社のリフレッシュ休暇という制度を利用して、2週間の夏休みが取れたため、四川省のチベット文化圏を旅しているとのこと。見るからに理系の彼は静かに地図を広げたり高度計をいじったりしていた。
途中の炉霍(ルフオ)まで5時間ほどかかったので、ここで1泊するつもりだったのですが、色達まで行くバンが見つかり、それに乗れることに。運転手が他に乗る人を探している間、近くのお店に入ってお茶を飲んでいたら、車に乗り込むのが最後になってしまった。そしたら車はすでに一杯で、一人分の席しかない!"これじゃ乗れないよ"というと、一人が膝の上に乗れば大丈夫だと言ってくる。体勢的にかなりきつかったが、ごねていても仕方ないのでそれで行くことに。途中の道は意外と良く、ちゃんと舗装されていたけれど、雨季のためか川が決壊しているところもあり、かなりアドベンチャーだった。
(4WDでもないのにこれは無理がある。左端に写っているのは、心配そうに眺める他の車の運転手)
この川越がたたったのか、車はこのあとかなり調子悪くなり、エンジン音もおかしいし、漆黒の闇の中、ヘッドライトが点いたり消えたりでさっきの川越よりももっとアドベンチャーだった。かなりヒヤヒヤ。結局色達に到着したのは夜遅く、そこから宿探しをするも、たまたま建県50周年のお祭りの最終日だったらしく、宿はどこも一杯。そしてシャワー屋さんのシャワー室に布団を敷いてもらい、一晩を明かすことに。でもさすがにシャワー屋だけあって、ちゃんと洗面台があってお湯も出たから結構良かったかも。朝起きると、シャワーからちょっとずつもれていた水で、荷物の一部がぬれていた。。。
<8月9日>
次の日は天気があまりよくなかったため、ここの一番の見所である巨大ゴンパを見に行くのはやめにして、宿探しをしてから町を散策することに。
(町は民族衣装を着たチベタンで溢れ返っていた。ここもまた時代劇にでも紛れ込んだような感じ。なのに町は2-3年前に政府が新しくしたとのことで、整然としている。なかなか近代的。そのギャップがおもしろかった)
(町の中心の広場。朝からここに来て座ってだべったりしているチベタンたち)
<8月10日>
この日は雲はところどころにあったものの割と天気が良く、ゴンパに行くことに。外国人は入れないことになっているため、正面入り口からではなく、裏山を登って入る。理塘で会った友人に大体ルートを聞いていたので、迷うことなくすんなりいけた。でも町のタクシー運転手やホテルの人たちもこのルートのことを知っていたので、ここに来る外国人は多いのだろう。
(まず草原を3キロほど歩く。放牧しているチベタンのテントもちらほら)
(ゴンパに住むチベタンがゴンパの反対側にあるふもとの川まで下りて来て洗濯していた)
草原3キロのあと1時間弱の急な山道を登る。あまりに急で酸素が薄くて(色達は標高3800m)、途中から「チヨコレイト」をしながら登った。結構気分転換になる。すれ違うラマ(僧侶)からは不思議な眼でみられたけど。
そして山を登りきってみると……
その向こう側に、一つの町のような巨大なゴンパが!
(登り切った辺りから見たラルーン・ガル・ゴンパ。登り切るまでは全く何も見えないので、いきなり現れたこの風景に感動。写真がしょぼくて残念。周りの小さな家々はここに住むラマの家)
(全部ラマの家。この中に雑貨屋さんや八百屋さんがあったり食堂があったり、ここで生活の全てを済ませられる。右端には、取り壊された家の跡がある。ここがあまりに巨大化するのを恐れた中国政府が一部のラマを強制的に立ち退かせたのだとか。だから以前はもっと広大だったらしい)
(この場所は"ラマの楽園"という感じで本当に赤いローブをまとったラマしかいない。私たちには浮世離れした場所のように感じられた)
うろうろしていたら、16歳の少年ラマが声をかけてきて、彼の家に招待してくれた。4畳2間ほどの小さなうちに、同い年くらいのラマと二人で住んでいた。この近くの町(といっても、ここから5時間以上だけど)の出身で、ラマになりたくて一人でここに来たという。1ヶ月20元(260円くらい)で暮らし(ちょっと信じがたいものの、確かにそう言っていた)、新聞やニュースに接するのは1年に1回実家に帰るときだけ。だからか、"日本から来た"というと、"そこってここから遠いんでしょ?中国なの?外国なの?"と聞かれた。ダライ・ラマのことを聞いてみると、それが誰だかよくわからない様子。その後、彼の本の間に挟んであったダライ・ラマ写真を見せてくれて、"彼のこと?"と聞いてきた。中国政府の監視の下でチベット仏教の抱えている問題を垣間見た気がした。
(帰り道。洗濯を終えてお茶を飲んでいた尼僧にお茶を勧められてしばし交流。でもチベット語はチンプンカンプンの私たちと、普通話(私たちが習っている中国語)を解さない彼女たちには共通の言葉はなく、全てジェスチャーで会話)
(写真を撮ろうとしたら、ちょっと待ってーと言って身だしなみを整えだした。ちゃんと靴下、靴も履いて、花を摘んでポーズ)
彼女たちは写真を撮られたことが本当にうれしかったみたい。これから、彼女たちにこれらの写真を送るつもりです。ちゃんと届くかな……??
<8月6日~8月7日> 塔公(ターゴン)
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月6日>
ホースレースが終わった次の日の早朝、理塘を出発した。昆明の友達とも、雲南省から10日ほど一緒に旅を続けてきたスイス人のヤエルとも、ここで別れることになり、今回初めて二人きりになった。
5時間ほどのバスの旅で、新都橋(シンドゥーチャオ)まで。そこで車を見つけ、1時間ほどで塔公に着いた。大きな草原で知られる塔公だが、町はとてもこじんまりとしていた。車の運転手が教えてくれた宿に泊まり、町の寺(ゴンパ)を見物し、草原まで歩いてみる。ちなみに宿には水道はなく、すべて井戸水。そして、男女共用トイレにはドアがなく(もともとあったのに壊れてなくなってた)…。あまり人来ないから大丈夫よ、といわれたけど、そんなもの?
(この写真は理塘のゴンパの中だが、チベット仏教の寺の中はこんな感じ。赤が基調でとてもカラフル)
(ゴンパの中にある像の表情は多様。これは確かブッダではない他の人物だったような)
(草原の中にポツリとゴンパ、その後ろには雪山が)
(前の写真の右端に写っている二人のチベタン。草原の上でのんびりと暖かい午後の日差しを楽しんでいた。女性が手に持っているのはマニ車。ホントに多くのチベタンがいつでもどこでも回している)
<8月7日>
前の日に見つけておいた、とてもいい感じの宿にこの日移る。その後町の少し外側を散策。1、2時間歩いた後、近くに見えたチベタン村に歩いて行くと、そこでなんと獰猛そうな犬に猛ダッシュで追いかけられた!
チベットには本当に犬が多く、番犬として飼われている犬は、どれもが知らない人を見ると吠えまくり、襲ってきそうな雰囲気なので(でも大抵は鎖で繋がれている)かなり怖い。また中国の犬は狂犬病の検査などあまりしてないようで、この辺りの小さな村じゃすぐに必要な治療をすることもできないだろうから(狂犬病の犬に噛まれたら24時間以内にある注射をしなければならないとのこと。発症したら99%死ぬらしい)、噛まれたらマジでヤバい。
そんな状況の中、知らずにある家に近づいた途端、真っ黒な犬がなぜだか憤激したような怒声を上げながら猛ダッシュで追ってきた。このときはほんとにびっくりし、一瞬死が頭にちらつくぐらいの恐怖感に襲われながらも、叫んで犬を威嚇しながら(といっても、実のところは恐ろしさのあまりに出てしまった悲鳴に近かったけど、、)こっちも猛ダッシュ。幸い砂利の坂道だったせいか、しばらくしたら追ってこなくなり、ほんとーーーーにほっとした。そしてそれ以後、雄生は獣恐怖症になり、犬を見るたびにビクビクするようになってしまった。
その後、小さな女の子に誘われて、チベタンのうちにお邪魔する。
(女の子とその両親。両親は、羊の毛をつなぎ合わせて服を作っていた)
(ここで出してくれた食べ物。中央の粉がチベタンの主食であるツァンパ。これとヤクのバターと左のチーズみたいなものをお茶に混ぜたのが、手前の液体。これを飲む。慣れないとなかなか厳しい味だが、砂糖をまぜてなんとか飲んだ)
塔公では、店や宿で働く子供たちの姿が目立ち、なぜかみなとても感じがよくしっかりしていた。この家に連れてきてくれた写真の女の子もその一人。
が、この家からの帰り、彼女に送ってもらって三人で歩いていたときのこと。別れ際に彼女が小さな声で、「お金がないから10元くれないか」と言ってくる。それまで全くそういう雰囲気を匂わせていなかったので、私たちは彼女が言ったらしいことがとても意外で寂しい気持ちになり、思わず「え?どういうこと?」と聞き返してしまった。すると彼女は恥ずかしそうに、「何か買うものあったら一緒に買いに行こうか?」と言い直して、お金のことはもう言わなかった。
もしかしたら、家族の誰かに彼らから金をもらってこい、といわれたのかもしれないし、また、誘われたときからもともとそのつもりだったのかもしれない。でも、心から優しくしてくれているように見えた彼女は、きっとそんなつもりじゃなかったんだろうという気がする。だから彼女は、すぐに撤回したのではないかと。
少し後味の悪い別れになってしまって残念だった。でもこういうとき自分たちには、お金を要求してくる側を簡単に非難することは決して出来ないように思う。日本人の私たちと彼らの間には、やっぱりある種の不平等さがあり、こういうときは、ある程度のお金を持って世界を見て回っているということに対して少し後ろめたさのようなものを感じてしまうのでした。
<7月30日~8月5日> 理塘
(地図は前回アップ分を参照。黄色い部分の右端が理塘です)
理塘到着の次の日、ここで待ち合わせをしていた昆明の友達(日本人)に連絡をとろうとネットカフェに行くと、友達発見。小さな町なのでばったり会えるかもね、なんて話してたけどホントに会えるとは。理塘では彼らと共に過ごした。
(2泊目に休めの宿を探してうろうろしていたら、チベタンが手招きする。聞いてみると、彼の家に1泊40元で泊まらせてくれるとのこと。お祭りで宿の値段が高騰していたので、40元はまあ悪くないかも。早速行ってみると、お金持ちそうな感じの家でとても快適そう。30元まで値切ってスイス人のヤエルと共に3人でここに滞在することに。でもこんな綺麗な家にもシャワーはなかった。理塘には温泉が沸いていたので、滞在中何度か通いました。かすかに硫黄のにおいがした)
(この家のおばあちゃん。マニ車 ‐ これを1回転させるとお経を1回読んだことになるという、チベット仏教の御気楽ツール ‐ を回すおばあちゃん。彼女の座っているイスが、夜にはベッドになる。これがチベット式)
お祭りは8月1日にあるという情報しかなかったものの、実は1日から1週間続くとのこと。2,3泊してすぐに出ようと思ってたけれど、予定を変更して5日までお祭りを見て6日に出ることに。というのも、5日に一番大きなホースレースがあると聞いていたからです。
(お祭りの舞台になる草原。チベタンは期間中こうやってテントを張ってここで寝泊りする)
(生まれたての赤ちゃんも家族と一緒にお祭りを見にやってくる)
(これはレースではなく、ショー。民族衣装を来て馬で駆ける)
(それを見学するチベタン&観光客)
(お昼に芝生でくつろぐ)
(時間が空くとこの家族のテントに入れてもらい、バター茶をご馳走になった。お礼に写真を撮ってあげるととても喜んでくれた)
(ある日、みな黄色い花を持って何かを待っている。何があるのか、とたずねたら今日は活仏がやって来るとのこと)
(これが活仏。普通に車で登場。祈るようにして彼を見る人もあり、偉大な人なんだと実感)
5日は朝からお祭りを見に行くも、その日は小雨が降っていてすごく寒い。耐え切れずにチベタンのテントでお茶を飲んでいた。そしたら外で"わぁー!"という歓声が……。急いで外に出たら、遠くの方に馬が…。5日まで待ったのにこれで終わり?ちょっと悲しくなった。もちろん写真も撮れず。でも理塘は楽しかったので良しとしよう。
(空いた時間に理塘にあるゴンパを訪れると、小さな僧侶が案内してくれた)
(歩いていると手をつないでくる。かわいい。)
(泊まっていた家の人が、ある日、今日は神山に登りに行く日だ、と言って、町から車で15分くらい走ったところにあるこの山に私たちも一緒に連れて行ってくれた。旧正月と8月のこの日、年に2回だけ登って頂上でお祈りをするらしい。頂上までは30分くらいで行けたけど、結構急でしかも標高4000メートル弱。息が切れた。僧侶がたくさん登っていたけど、彼らもはーはー言ってた)
理塘では、インドに住むダライ・ラマに会うべく、歩いて中国・ネパール間の国境を越えてインドのダラムサラへ行ったという若者に出会った。それは、パスポートがなく(今、チベタンはパスポートを得るのが難しいらしい)違法での越境のため、5000mとか6000m級のヒマラヤ山脈を通っていくことになる。当然かなり危険で、20人中10人が途中で死んだこともあるという。ただ、彼はダライ・ラマに会いに行くのなら死ぬのも怖くないと普通に語る。彼は10代のころ、ダライ・ラマの元で3年修行して戻ってきて、このお祭りが終わったら再度行きたい、と言ってたので、今頃はどこかを歩いているのかもしれません。
彼が言うには、チベタンは中国にいてもなかなか職がなく、ここにいても仕方がない。確かに漢族は仕事の口はあるけれど、その一方チベタンが追いやられているという構図を感じられないこともなかった。
また、チベタンは親日派が多い。"私たちは日本人だ"というと、殆どのチベタンがちょっとうれしそうな顔をしてくれる。時には"私たちは特に日本人が大好きなんです"とも言ってもらえる。漢族が多いところにいたときには、反応が全く正反対なので、このチベタンワールドに来てからなんだか居心地もよく感じてしまいました。
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<7月28日~7月30日> 巴塘⇒理塘
<7月28日、29日>
チベット自治区の芒康(マルカム)で公安に見つかり、逃れた後、その日のうちに四川省へ向けて移動開始。四川省の第一の目的地なる巴塘(バタン)行きのバスはすでに朝8時に出てしまっていたので、ヒッチハイクで行くべくそっち方面に向かう車に探し始めるが、幸運なことに、昼ごろ巴塘に向かうバンがあるという情報を聞きつけそれに乗ることに。
途中の景色は特にきれいではなく道もかなり悪かったものの、3時間ほどで順調に巴塘に着いた。すぐに宿が見つかる。この日は久々に奮発してシャワーのついている部屋に泊まり、二日ぶりにさっぱり。8月1日から理塘で始まるホースレースを見に行くために、30日に理塘入りするつもりだったので、ここ巴塘で二泊した。
巴塘は、四川省からチベット自治区に入るときの四川省側の最後の町(ある程度の大きさのものでは)。なので、もちろんかなりの田舎なのだけど、なぜか「カフェ文化」が発達していた。といってももちろん西洋風ではなく中国のお茶屋さんの延長なのだけど、通りにテーブルとイスが沢山並んでいて、みんなそこでダラダラと過ごしてる。その雰囲気が気に入り、私たちも「カフェ」で本を読んでのんびり過ごす。また、町の食堂に行くとここに住んでいるというアメリカ人にも出会い、ネットカフェもいくつかあり、こんな田舎にいってもなかなか発達しているものだと、少し驚いてしまった。
巴塘での二日目(29日)は、少し安い(一人10元)ドミトリーの部屋に移る。出稼ぎ風中国人のおじさん2人と一緒の4人部屋。この日辺りから二人とも宿を選ぶ際のストライクゾーンがかなり広くなっていることを実感。中国式トイレ・シャワーに抵抗を覚えていた去年のことが懐かしい。この辺りはシャワーなどないのが基本、トイレも共同の中国式。ただ、この辺では概してシーツ、枕カバーを洗ってなさそうなのだけはちょっと気になった。臭う。寝袋でしのぐ。
残念ながら巴塘では写真を撮りませんでした。
<7月30日>
さて、いよいよ理塘へ移動。朝6時半発のバスで6時間ほどで着くと聞いていたのだが、、、なんと、山道でトラブル発生!雨が降ってドロドロになった細い山道を進んでいると、途中で大きなトラックがぬかるみにハマって動けなくなっていた。仕方ないので、大勢でそのトラックを引き上げるために悪戦苦闘。すると、待ちきれなくなったのか、別の一台のトラックが後ろから強行突破を試みたようで、今度はそのトラックもはまってしまう。その二台を動かすために、そこでなんと6時間ほども身動きとれず。
(この有様。泥を取り除く⇒動かす⇒少し動いてまたハマる。その繰り返しを何時間も…)
(ただ、そこから見えた景色はきれいだった)
私たちは朝ごはんも食べてなかったのでかなりの空腹に悩まされる。待っている間運転手が、そこら辺に生えている小さな木の実を食べ始め、周りの人たちが真剣な顔で「どう?食べられる?」と聞いていたときには、マジでヤバいかも、と思ってしまった。結局午後3時ごろに動き出した。
4時ごろにやっとご飯休憩となり、その後もう一度ちょっとしたトラブルがあったりで、理塘に着いたのはなんと夜9時半すぎ。。。15時間近い移動になってしまった。
(でも、途中の景色はかなりきれいなところが多かった。草原、雪山、ヤク、羊の中にポツリポツリとチベタンの家が見える)
(これもバスから。写真がしょぼくて広大さが全く伝わりませんが、、、)
この日が今回の旅で最もハードな移動だった。トラブルを抜けた後もかなり道は悪く、時には川の中も走り、オーストラリア辺りでは、この移動自体が「アドベンチャー・ツアー」なんかになってしまいそうな勢い。そこを大型バスで抜ける、というアンバランスさが面白かった。
この夜、理塘に着いてから宿探しをするも、ホースレースを見に来た人で値段は高騰。3人部屋、トイレなし、シャワー別料金で一人50元というびっくりの値段のところ以外見つからず、そこに一泊。ただ、シーツはとても清潔だったので、気持ちよく寝られた。ちなみにスイス人のヤエルとはまだ一緒。三人とも大疲労。
理塘の内容も一緒にと思っていたものの、長くなりすぎたので今回はここまでに。
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です。前回アップした分にも地図をつけておきました)
<7月26日~7月27日> 塩井、芒康
<7月26日>
スウェーデン人の友人ヨハンとは徳欽で分かれましたが、今度はその同じ宿で一緒だったスイス人のヤエルと3人で四川省の理塘を目指すことに。8月1日から理塘で馬のお祭りがあるという情報があったので、その日までに理塘に到着することを目的に移動しました。理塘へはチベット自治区を通らずに行く方法もあったのですが、そのルートで行くとシャングリラに一度戻ってから北上することになるので、それはばかばかしい、ということになり、チベット自治区から四川に入ることに。ヤエルは顔立ちも西洋人で、中国語も話せないので、自治区に一人で入るのは心細いから一緒に行きたい、と言われた。
塩井と芒康はチベット自治区で、一応外国人は許可証なしでは入境禁止となっている。さらに許可証は飛行機のチケットを買わないともらえないので、私たちは当然許可証はなかった。でもこうやってもぐりでチベット自治区に入る外国人は多い。
徳欽から塩井まではバスで約6時間。午後3時前には塩井到着。
(塩井の村全体がこういう感じ。ここに泊まれなかったのが、この旅でもっとも心残りとなった)
塩井はすごい田舎でホントに何もない。ただ景色がすごく綺麗で、できれば1泊2泊くらいしたかったのですが、ちょうど到着してすぐに芒康行きのバスがあり、それに乗ることに。塩井からは外国人はバスに乗れないので、ヒッチハイクで行くしかないという風に聞いていたのですが、バスドライバーに聞くと問題ないとのこと。塩井から芒康までの景色はこの旅の中で一番綺麗だった。高い山々と深い谷の間をバスで走っていく。遠くには雪山が見えて、5時間の道のりは全然飽きなかった。
(芒康までの道のり。写真にするとなぜか広大さが伝わらないのが残念)
(この場所で40分近く休憩。先に門があるらしく、それが閉まってしまっているとのこと。徳欽を出てからはずっとこんな砂利道)
(ヤエルと)
(40分の待ち時間の間、みなバスの陰に隠れて休憩)
芒康に到着したのは夜10時ごろ。適当にバス停近くの宿を見つけて入るも、場所が場所なだけにコンディションは良くない。トイレは公衆便所と同じで常に汚物がたまっている。覗いてみたらにおいで吐き気をもよおした。ここから先は、宿(一泊130円~260円くらいの安宿)にシャワーがついているところは皆無に近く、公衆シャワーをよく利用した。でもこの公衆シャワーが割りと快適で悪くない。
(芒康の一角。ここは時代劇に紛れ込んだかと思うほど風情があった。男性が頭に赤い布を巻くのは、このあたりの風習)
(チベタンの家)
<7月27日>
芒康で一泊した次の日、町をうろうろしていたら突然警察に呼び止められ……。やっぱり外国人は入境できないことになっていて、それにスイス人と一緒だったのがあだになったらしい。すぐにここから出て行くように言われた。中国の法律では、元来た道を戻ることになっているのですが、四川目前なのにまた雲南に戻るのはどうしても避けたかったので(しかもそうなったら理塘のお祭りに間に合わない!)、「3日後に成都から飛行機に乗らないといけない」などと適当に泣きついたら、許してくれた。そして、今日中にここを去るという条件付で四川まで抜けさせてもらうことに。事前に調べた情報では、見つかったら罰金だったのですが、それも請求されず、ラッキーでした。
5週間ほどの旅が昨日終わり、昆明に戻ってきました。成都から20時間ほどかけて昆明に着いたとき、この町に自分たちの部屋がある、ということがなんだか不思議に思えたりもしたものの、部屋に戻ると、やっぱり家は落ち着くなあ~とほっと一息。到着直後、朝8時ごろから早速洗濯に取り掛かり、その後街に出てご飯を食べて、ばったり会った友人とカフェへ。そして夜は、昆明で最も仲良かった友人の一人が明日昆明を出ることを知り、最後のダラダラトークにまたカフェへ。やっぱり昆明はすでに地元に近いような感覚にとらわれてます。
さて、この一ヶ月ほどの旅についてはこれまで写真を全く添付できていなかったので、まとめて添付します。旅に出て5日後ぐらいにカメラの充電器がパンッ!といって壊れたために今回はあまり撮らなかったこと、またおそらく最後の20時間の電車の中で、手持ちのバックパックを枕にしたときに、写真を焼いたCDを折ってしまったため、残念ながら一部の写真がなくなってしまいましたが、手元にある範囲で。
今回の旅の経路は、以下。
昆明
⇒シャングリラ(=ジョンディエン)⇒徳欽(ドゥチン)<ここまで雲南省>
⇒塩井(イエンジン)⇒芒康(マルカム)<この二つがチベット自治区>
⇒巴塘(バタン)⇒理塘(リタン)⇒塔公(ターゴン)⇒色達(スーダー)⇒馬尓康(マルカム)⇒阿バ(アバ)⇒紅原(ホンユエン)⇒松潘(ソンパン)⇒成都(チョンドゥー)<ここまですべて四川省>
⇒昆明
(青い線が今回旅行した経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップした箇所です)
チベット文化圏は、いわゆる「チベット自治区」以外だけではなく、雲南省、四川省、青海省などのかなり広範に広がっています。自治区という枠は政治的に(?)決められた範囲というだけであり、今回私たちが行ったもろもろの場所も文化はチベットそのものと思われるところが多かったです。それを知るだけでも、チベットの問題の複雑さが感じられました。
一度に全部はあまりに長すぎるので、今回はこのうち雲南省の部分についてのみを(それでもかなり長くなってしまったけど)。
<7月23日~7月26日> シャングリラ、徳欽
<7月23日>
昆明から寝台バス15時間ほどでシャングリラに朝7時頃着。二人だったら当然初日はダラダラと過ごしていただろうところ、エネルギッシュなスウェーデン人の友人と一緒だったため、その日から歩いて街の外の大きな「ゴンパ」(チベット仏教の寺のこと)へ。
(ゴンパはこんな感じで丘の斜面に広がっている。周りの小さな建物の中に僧たちが住んでいるらしい)
(その中心的な建物がこれで、)
(その内部は例えばこんな感じ。この写真は違う建物の中だったかも。。)
(ゴンパ内で、観光客相手に一緒に写真を撮るのを仕事にしている子供たちにせがまれて、一枚。シャングリラはかなりの観光地で、観光ビジネスは多分巨大)
この日このゴンパの往復+αで計10キロほど歩いた。高度3200mほどのこの場所でいきなりそんなに動き回ったためか、軽い高山病に襲われ、夕方から頭痛。強引にバファリンを飲んで寝てみたらましになり、その後はほとんど問題なし。
街には民族衣装を着たチベタンがとても多く、チベット文化圏に来たという印象を受けるが、ツーリスティな雰囲気は否めず、また特に魅力を感じなかったために、次の日に早速徳欽へと移動。そもそもシャングリラという名前自体、イギリスの小説に出てくる理想郷の名前を取ったもの(もともとの名前はジョンディエン)で、最近空港もできて、観光地として売り出している街なので、ツーリスティなのも当然。
(手元に残っていた唯一のシャングリラの街の写真。女性の多くは、写真のように頭にピンク色の布を巻いていて、また、男性の多くも頭に赤い布を巻いていた。チベタンは基本的に体が大きく迫力がある、という印象)
<7月24日>
シャングリラから5時間ほど移動で徳欽へ。確か途中で4200mほどまで上ったが、徳欽は3200mほど。ここはぐっと地元風になる。
(マーケットにはブタの頭がドン。チベット文化圏のどこでもマーケットに行くと巨大なヤクや牛の頭や体がすごい生々しさで置かれ、売っている。動物はこうやって殺され、食べ物となる、ということをこうして肌で感じることは大切な気がした)
<7月25日>
(次の朝、地元の食堂で。黄色いのが、チベットの食べ物で最も有名なバター茶。結構きつい味だけど、チベットでは避けて通れない。基本的にバター茶は塩味ですが、砂糖を入れたらミルクティーっぽくなって飲みやすくなった。その経験を元に、違うお店でも砂糖がほしい、と言ったら店員が申し訳なさそうに"これは塩味なので砂糖をいれるものではないんですが…"といわれてしまった)
さてこの朝食を食べた後、町から車で15分ほどぐらい行って、梅里雪山(メイリー・シュエシャン)を見に行く。この山は6700mほどで、雲南省で最も高い山。晴れていればとてもきれいなはずなんだけど、今はあいにく雨季なため、きれいにみるのは難しい。で、行ってみると案の定雲に隠れてほとんど見えず。けど、その次の日に再びそこを通る機会があり、その日は少しましだった。
(もっともよく見えたときでこんな状態という悲惨な結果。でも雲の間の青空にわずかに見えているのが6700mの山頂、だと思いたいところ。この写真は26日のもの)
しばらく雲が晴れるのを願いながら近くのお茶屋さんで時間を潰すもまったくらちが明かないので、あきらめる。帰りは歩いて近くの村を訪ねる。これも、私たち二人だったらきっとめんどくさがっていかなかっただろうところを、連れのヨハンがトレッキング好きだったために実現。
(小道を歩き出してからおそらく15分後ぐらいに撮ったもの。目指すはなんとこの写真の中央奥に見える小さな村。そしてさらにそのあと逆側を登ろうというのだから、マジか?と思ったものの、結構行けるものだった。途中、羊やヤギが現れたり、風景もきれい)
(さらに下山中)
歩いて見ると何気に1時間10分ほどで到着。
(村にはこんな子供たちが珍しそうに私たち外国人に恥ずかしそうによってきた)
(この写真の奥に見える山のてっぺんあたりから降りてきた)
(チベタンの家)
(村を出てまた、徳欽の町まで山道を登り出す途中に同じ方向に向かうチベタンの大家族と合流。一緒に町まで)
(一緒に休み、一緒に川を越え、みんなで話ながら進むと疲れも半減。)
<7月26日>
そしてさらに次の日は氷河トレッキング。毎日歩きっぱなしで、慣れない私たちには結構きついが、この日はさらにハードだった。
(素子はすぐにダウン。余裕のヨハンに冷たい目で見られる)
(2時間半ほどで頂上にたどり着いたあと、あまりに辛そうな素子に、中国人旅行者が酸素を吸わせてくれた。ちなみに馬を借りて登っていた人も多く、彼らは余裕の表情。)
(登り切ったあと、上から見る氷河)
なかなかきつかったものの、達成感あり。その感覚を知り、その後今回の旅では歩くことが多くなったような。
(氷河からの帰り、道路沿いの風景。このようななんだかラピュタを彷彿とさせるような町が山の中にポツポツと点在し、とても美しい)
これで雲南編は終わり。次は自治区+四川省の一部を。
昨日ソンパンからついに最後の都市成都につきました。
途中土砂崩れか何かによるすごい渋滞に巻き込まれ、予定を大幅に遅れて11時間ぐらいかかって成都到着。久々の都会の広さと喧騒に圧倒されながらも、二日目にはすっかり落ち着いて、今は昆明ではできないかもしれない買い物をしに街に出ています。
まだ成都の全体の大きさはつかめていませんが、何気に昆明とそんなに変わらないかな、という印象。街の雰囲気も含めて。でも、街の中心にある毛沢東の大きな像を見たとき、お、なんか、中国っぽい(社会主義の国っぽい)な、と感じました。最近、毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」(文春文庫)というなかなか衝撃的な本を読んでいたこともあって(これはとても面白かった)。
明日か明後日友人に会って、26日に20時間ほどかけて列車で昆明に戻ります。
写真は結局まだアップできてませんが、帰ってから落ち着いて、ということで。
では。
気がついたら1週間くらい更新してませんでした。ネット環境があまりよくなかったので。。。
前回更新した場所、色達(セルタ)から、マルカム→アバ→紅原(ホンユエン)と旅し、今日松藩(ソンパン)というところに到着しました。
ここにきた目的は、馬にのって山?をトレッキングすることで、早速あしたから一泊二日で行ってきます。この馬トレッキングは、ガイドつきで、テント、食事の面倒はすべて見てもらえるという、私たちにとっては王様ツアー。旅の終わりにちょっと贅沢してみました(それにしても、聞いていた値段から大幅アップしていてびっくり。。。)。
色達から紅原まではほとんど外国人旅行者とも会わずだったので、ここに来ていきなり西洋人がどっと増え、町にカフェなどがある環境となり、いよいよ大都会成都が近づいてきた、という感じがしてます。
成都では、東京で知り合った中国人の友人と会うことになっていて、そのためにこの町で4泊ほどしてから成都入りします。そしたら、次は昆明。もう旅も終わりです。
このパソコンではもしかしたら写真もアップできるかもしれないので、また数日後、できればこれまでの写真もアップします。
リタンを離れ、ターゴンに2泊したあと、昨夜色達に到着しました。ここの見所は、町から20キロほど離れたところにある巨大なラルン-ガル-ゴンパ(チベット仏教のお寺)。ここは、外国人は一応立ち入り禁止になっていますが、裏山から入るルートがメジャーで、私たちもそこから入る予定です。昨日、到着した時刻が遅かったこともあり、乗り合いのバンで一緒だったゴンパ在住のラマ(僧侶)と一緒に正面から入ってしまおうかとも思ったのですが(夜は見張りの公安がいないと思われるため)、あまりに真っ暗で勝手がわからなかったため、とりあえず町で宿泊しています。色達の町は、民族衣装を着たチベット人たちであふれているにもかかわらず、町自体が最近建替えられたためか、きれいで近代的な建物ばかりで、すごくアンバランスで意外な感じでした。
また、ちょうど今色達県が建県50周年だとかで、意外にも中国人観光客が多く、夜10時すぎに町について見ると、宿がどこもいっぱい。途方にくれていると、シャワー屋兼宿屋のおばさんが、うちのシャワー室でなら寝てもいいよ、といわれ、昨夜は3畳くらいのシャワー室に布団を敷いてもらって寝る羽目に。この歳になってこんなところで寝ることになるとは。。。
昨日ターゴンからここまでの道のりもかなりハードでした。特にバスを乗り換えたルフオからここまでの道は、途中川が決壊しているところもバンでなんとかクリアしたり、到着直前には、バンのヘッドライトが壊れ、ほんとに真っ暗な中、ライトが点いたり消えたりの状態で走ったりと、かなりスリリングでした。しかも、ギュウギュウ詰めで、二人で一つの席に座って。
シャワー室&ハードな移動&3800mの高度で、かなり疲労し、今日はちょっと落ち着くホテルに泊まってます。今日休んで明日、ゴンパに行ってきます。
今回の旅は、風景がかなりきれいなので写真を載せられないのが残念。今度まとめて載せます。
リタンの町について早一週間。今日で、メインイベントのホースレースも終わり、明日ここを出て塔公(ターゴン)という大草原に向かいます。
ホースレースは、何日も待ったにも関わらず、結局雨と寒さでまともに見られず。レース開始前にあるチベタン一家のテントで休ませてもらっていたら、外から人々の絶叫が聞こえはじめ、急いで駆けつけてみるもすでにレースはほとんど終了していて、見たのはその後の表彰式のみでした。一等の賞金は5000元(7万円ほど)とのことで、人々の一ヶ月の平均の給与が300元(4千円ほど)と聞くこの町ではかなりの大金。
また昨日は、インド在住のダライラマに会うためにチベット自治区から歩いてヒマラヤを越えてインドへ行ったという若者に会いました。もちろん危険で、死ぬ人も多いにも関わらず、ダライラマに会うために命を懸けて国境を越えるという若者と話しながら、いろいろと考えさせられることも多いです。
ところで、タイトルに書きましたが、岩波書店「世界」の9月号(8月8日発売)にぼくのルポが掲載されることになりました。タイの残留日本兵とその家族の戦後についてのもので、ブログの2004年10月22日、10月12日、10月2日あたりに対応してます。機会があれば読んでいただけるとうれしいです。
それでは。
数日前に四川省のリタンに入りました。ここに来た目的は、今日、8月1日から始まるホースレースを見ることです。そして、同じく四川省を旅行中の昆明の友達とここで再会すること。
このホースレースはこのあたりでは有名なようで、リタンは小さい町ながら、多くの旅行者や地元の人が集まるチベタンの大きなお祭り。というのも、このあたりは四川省でありながらも、チベット文化圏。町のほとんどの人が見る限りチベタンのようで、言葉もチベット語と中国語が入り乱れています。
前回書いた雲南省の徳欽からここまでは、
徳欽→塩井(イェンジン)→マンカン→バタン(四川省)→リタン(四川省)
と来ました。
このすべてがチベット文化圏ですが、塩井とマンカンはほんとのチベット自治区。前回、公安に見つかるとまずい、と書いたのはこの自治区の中のことです。バスでここの地域を通過するとき、検問があり、外国人であることがばれると追い返されると聞いていたのですが、検問はなく、無事にマンカン入り。しかし、その次の日、油断して町をうろうろしていたら、スイス人旅行者と3人でいたこともあり、公安に見つかってしまいました。5人くらいの警官に囲まれ、雲南省に戻れといわれたのですが、なんとか泣きついて許してもらえました。罰金は払わなくてよかったです。
その後、ひどい道を2日ほどかけてここリタンに到着。でも途中の景色はとてもすばらしく、今まで見た山の景色のなかで二人にとって最も印象深いものでした。写真を載せられればいいのですが、ここではそれができないため、また後日。
昆明の友達とも再会でき、今は豪華なチベット人のうちに安くで泊めてもらってます。ここで数日ホースレースを楽しんだ後、さらに北を目指します。ちなみにここは標高4000メートル弱。朝晩はとても寒く、空気が薄く感じられます。幸い二人ともひどい高山病には冒されておらず、軽く頭が重かったりするくらいです。
そんなところで。
日本語ネット環境を発見し、今これを書いています。
2日前にシャングリラから徳欽(ドゥチン, Deqing)に到着。ここは、チベット自治区のすぐそばの小さな町で、明日、チベット自治区に足を踏み入れる予定です。
ここ徳欽は今日で3泊目となりますが、なかなか充実した日々を送っています。
詳しくはまた写真をアップできるときに書きますが、6700mの梅里雪山を見たり(雲に隠れてちゃんとは見えなかったけど)、氷河やチベット系の村を見に歩き回ったりしました。
毎日10キロ以上は歩いていて、とても疲れますが、久々にこういう自然の世界を堪能してます。
明日は、塩井(イェンジン, Yanjing)というチベット自治区内の村に入ります。そこからもう一つ他のチベット自治区内の村を経由して四川省に入るつもりなのですが、ここは外国人が入ってはいけない地区のため、公安に見つからないように行かないといけません。うまく四川省に抜けられるといいのですが。とはいえ、見つかっても四川省か雲南省に追い出されるだけなので、全然心配なことはありませんので。。。
ではまた。
今度いつアップできるかは不明ですが、またできるときに。