October 22, 2004

メーソットもいよいよ最後

メーソットに来てはや2週間も経ってしまいました。ほぼ毎日のようにPECに行って生徒と話したりしています。さて、前回書きそびれた残留日本兵の話ですが、今もメーソットに住んでいる二人の残留日本兵の方に会ってきました。

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(そのうちの一人中野さん。手に持っているのは戦前日本から持ってきたお守りで、これが、唯一戦争中から今まで残っているもの)

この辺り(タイ・ビルマ国境付近)には残留日本兵の方が数人いらっしゃったそうですが、知る限りその多くがビルマからインドへと攻め込んだ「インパール作戦」の参加者のようです。「インパール作戦」は世界戦史上でも最も過酷かつ無謀な作戦の一つといわれているようですが、確か10万以上の日本兵が参加し、そのかなりの人数がマラリア、赤痢、餓死などの戦闘以外の要因で死んでいったとのことです。敗走した道には、多くの日本兵の死体が転がっていたため「白骨街道」と呼ばれた道がいくつかあります。彼らはビルマからタイへ国境を越えて逃げてきたのですが、多くがビルマ国内またはタイで終戦を知ることになります。そして、「残留日本兵」と呼ばれる人たちは、様々な理由で、そのときからビルマまたはタイに残りました。メーホンソンで聞いた件も含めて3件、それぞれ理由は異なりました。

・「日本に帰っても自殺しなければならないと思った。またカレ二族の人に助けられ、恩を感じたため(メーホンソンの故人の奥さん談)」
・「日本が負けたら、自分は帰らないと戦中から決めていた」
・「帰ろうと思っていたのに、ビルマから日本兵を積んだ船がイギリス軍に爆撃されたということを聞いて、帰るのをやめてしばらくビルマに残ることにしたのがきっかけ」

といったところです。とにかく、結構な人数が残留を決めたらしいです。

メーソットで会った二人はいずれも、ビルマの山岳民族の村に5年ほど隠れ(ビルマ軍・イギリス軍に見つかると連れ戻される、殺されると思っていた)、その後、より住みやすいタイに移ってきたとのことでした。そして二人ともビルマにいた間に結婚し、今にいたります。

二人とも戦後、その存在は日本に知られ、日本から帰るように説得されたりして、一度は日本に帰っています。しかし、すでにタイに家族も子どももいるために、こっちで暮らすことをきめたわけです。

しかし、メーホーンソンでその家族に会った、すでに亡くなった方の場合は少々事情が異なります。彼は、日本にも奥さん、子どもがいた上に、ビルマにも三人の奥さんを作り、その最後の奥さんと暮らしていたようです。彼はその後、カレニの民族自決闘争に兵士などとして加わり戦っていました。そして彼の本名は奥さんも誰も知らず、周りからはただ「ラペ」と呼ばれていました。亡くなる数年前には、日本からその子どもたちと見られる人が会いに来ているのですが、彼は最後の方は日本語も話せなくなっていたようで、本当に彼らがその父親だったのか、確認はできず、DNA検査などをするということにまでなっていたようです。残念なことにその先どうなったのかは、ぼくらが会った現地の家族は知りませんでした。

メーソットで会った残留日本兵の一人、坂井さんはブラジルで生まれ育ったものの、戦争前に一年だけ日本に戻ってきていて、そのときに軍に徴集されたとのこと。そしてタイに50年以上……。人生不思議なもんだと感じます。

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(坂井さん。戦前ブラジルに残っていれば、おそらく戦争に行くことはなく、つまりタイに行くこともなかったはず)

明日ついにここを発って、再びチェンマイへと向かいます。その後もう一つ行きたい場所(正確には戻りたい場所ですが……)があって、それで今度こそタイは終わりになるはずです。すでに二回目のビザ更新も済ませてしまいました。

ではまた。今回は写真が少ないですが。

雄生&素子


Posted by ykon at October 22, 2004 5:15 PM | トラックバック
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