この日の夜はパスタを用意。
チキンブロッコリースパゲッティー。
クリームのパスタ。
おいしい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
たとえば、スーパーに行ったとき、たいていこれから買うものや食べるものを決めていない。
ある程度の食材が、冷蔵庫なり家にストックとしてあって、次の食事に作るとき、
みんなは何を思って、そのメニューを決めてゆくのだろう。
何を買い足せば、より食べたことない、よりおいしい、より豊かな、物を作れるかということを考えてみたい。
食材それ自身の可能性といったらよいのだろうか?
いや組み合わせの可能性をいかにより多く想像するかの可能性についてである。
状況としては、こんなものがたいていのみんなに考えられると思う。
--------------
食事はある程度、家で済まし。それをそこに住む誰かが、メニューを考えてつくる。
そして使う食材といえば、これまでの食事のサイクルの中で、家にストックされてきたもの(いわば、あまり意図されずに残ってしまったもの)のなかから、と新たに買い足す食材である。
さらにメニューの決め方といえば、それらの2つのグループのなかから、次の食事メニューのレシピの可能性を読み取って決めるということであろう。
--------------
このような状況を設定して、それらの食材の組み合わせの可能性をいかにより多く想像するかの可能性をみてみよう。
まず、人には多かれ少なかれ、ある料理に典型的に含まれる食材を知っていると思う。
それが前提(必要)条件だろう。
料理というものをまったく知らないなんていう人はいないだろうけれど。
そんな人はきっと生きていない。
もしくは、バランスフードカロリーメイトしか食べていないのだろう。
では、人が考える項目をピックアップしてみよう。
Ⅰ)前もって“これまで、なにがおいしかったのか”と自分が体験してきた料理への想い。
Ⅱ)“今何が食べたいのか”という気分。
そして、
Ⅲ)“その料理に対する技量的な経験”
さらに、
Ⅳ)“現在の食材のストックとこれからの買い足しのための資金”
について考えるのであろう。
さて、料理というのは一応使用される食材は決まっている。
それは、外食のシステムで人に選択させる場では、かなりピッシリと決まっている。
だけれども、家ではどうだろうか?
あれがない、これがない、ということは多々ある。
もしくは、むしろこれがあるというときも多々ある。
どうだろうか?
ぼくはこれが、食材の組み合わせの可能性をいかにより多く想像するかの可能性を広げるチャンスのときだと思う。
そして、自分ばかりでなく、どう他からの情報を得るかということも大きくこの問題に関ってくる。
それを挙げると、
Ⅰ)他人の料理体験(創作と消費)
Ⅱ)買い足すための情報(食材の時期、値段、そして売り場)
それを再び項目で整理してみよう。
自分
①今ある食材ストックのリスト
②自分の料理の体験(創造と消費)のリスト
他
③買い足そうとする食材のリスト
④他人の料理体験(創作と消費)
これらのリスト(とても見やすく。)と自分の気分や状況を組み合わせる。
Ⅰ)①-④の見やすいリスト表示。
Ⅱ)①に③を足すと料理が検索できるシステム。または①と料理から③が検索できるシステム。
可能性を誘発するシステムとはグラフィックによる。
人はイメージによって物事を捉えている。
次の日。
メディアラボへ。
たいした知識はなかったのでそれが有名とも知らなかった。
ウィリアム.J.ミッチェルである。
ここで、邦画名「レオン」を編集する。
それは友人の課題で、あるひとつの映画を編集して新しいストーリーを作るというもの。
そのひとつの映画っていうのを「レオン」したらしい。
で、初めて知ったのだけれど、「レオン」って本名は「The Profesional」。
驚く。
動画の編集なんて建築学科にはない。ということだ。
生きている領域が違う。
ギリシア系の学生が建築学科にいたんだけれど、やっぱりギリシアっていう古代の顔してんだよね。
そいつはとてもわがままで。うるさく。
何度もこれでどうよみたいな感じで話し掛けてくるわけ。
対応が大変たらありゃしない。
夕食へ。
携帯電話を持っていないからとっても不便なことに友人へのアクセスが困難だったのを思い出した。
毎回のことですが、電話すらままならない状態になる海外です。
で、友人とは無事再会し、もう一人増えて3人でご飯へ。
前日にボストンに到着したのですが、夜だったのでまったく店もやっておらず、
今日は初めての外食ということになりました。
イタリアンへ。
NYCのようなリトルイタリアなんてないけれど、なんとなくうまそうに見えるイタリア屋です。
しかし味はたいしたことありませんでした。
値段のせいということもあるのでしょう。
今日は英語しゃべれないこと実感バリバリショックデーでした。
それはうつくしい人のせいでした。
MITには、本当に有名建築家が設計した建築が多いと思う。
またべつのけんちくをみにゆく。
simmons hallの裏手に東西に走る線路があるが、これと平行なvassar stを東側にゆき、
10分ほど歩いたところにあるのがこのMIT stata centerだ。
去年の10月にはまだ建設中で躯体とすこしのカーテンウオl-ルが見えている状態だった。
それだけでも、だれのせっけいかがわかる。
形態の特徴のおかげだ。
彼の名はフランク・O・ゲーリー。
あいかわらずのひねくれた彼の形の操作はどこまでか。
何を基準にあの形になるのか。
グリッドに添わない形の決め方とランダムの決定は悩ましい。
彼の作品のひとつビルバオを褒める人は多いが、
リチャードセラなんかの作品があるあのとても長い空間をもてる敷地条件もとてもよかったのだと思う。
それを生かせているというのが正解か。
しかし中身よりも外見という気もする。
とにかくこんな非効率なものを実際に設計し、図面に出し、施工し、完成していることがすごい。
------------------------------------------------------------------------------------------------
notes
building name : MIT stata center , Massachusetts Institute of Technology
completed year : ????
architect : Frank O Gehry
さて、次の建築はサイモンズホール。
用途は学部生の住居。
最近(訪れた当時)、できたばかりの建築だった。
基本的にはプレキャストコンクリートのカーテンウォールが正方形格子になっていて、
建築全体としては直方体の一部をそれより小さな直方体で貫いた形状をしている。
そのほかには曲面状の立体がこれに挿入されていて、
それが光をいれたり、階段を入れたりと建築要素のポイントとなっている。
ポーラス状と言うのはなかなかありがちなタイプではあって、それ自体にたいした驚きはなかったが、
それの使い方によっては、かなり多様な表情を空間に作れるかもしれない。
------------------------------------------------------------------------------------------------
notes
building name : Simmons Hall , Massachusetts Institute of Technology
completed year : 2002
architect : Steven Holl
友人とはしばしお別れをし、周辺の探検へ。
MITの敷地内にあるチャペル。
建築雑誌で見たあの天井から光が降り注ぐ、でなんかひらひらしたのが飛んでる、とても神聖な写真。
とても神聖に見えて、とても写真には思えず、現実ではないっていうくらい。
それを目にすることができた。
それがここにあるっていうこと、それがうれしく思える。
------------------------------------------------------------------------------------------------
notes
building name : Chapel , Massachusetts Institute of Technology
completed year : 1955
architect : Eero Saarinen
metal sculptor : Harry Bertoia
そして、なんだかんだと昼になる。
昼飯はどうしているのか。
僕はそこで、新しい食べ物とであった。
日本でいう弁当という感覚だと思われるけれど、
それはラップ(wrap)というサンドウィッチのような構成で、
とうもろこしの粉で作ったトルティーヤに、肉、魚介、野菜などをその名の通り包んだもの。
アメリカサイズというのか、なかなかの量があって、それだけで十分腹は満たされる。
値段は$3.5くらいだった。
これが大学のキャンパスを二分する道路に屋台ででる。
ここでいう屋台とはよく渋谷で見かけるクレープやケバブを売っているワゴンのようなものだ。
今日は俺がパシルということで、3人分の飯を買いにラップ屋へ。
そこで注文です。
まあうまくいかず、手間がかかった。
英語は通じないしね。
困った困った。
初めてのお使いみたいなそんな感じ。
でも、周りの人はわかってくれない。あたりまえだけれど。
その味がうまかった。
キャンパスライフってえやつね。
シリアルとコーヒーで朝を食べ、SS(友達の名)の通う学校へ。
アメリカの大学がどんなんなのかを知りたかった。
あんまり変わらないかなと思う。
メインエントランスと思われる建物(rogers building)は、ギリシア風で落ち着いた色のコラムとペディメントで構成されている。
奥は暗くそう容易には受け付けない感じが、僕のかよう大学の建物と同じである。
大きな吹き抜けがあり、トップは円形の屋根をしている。
古びれたエレヴェーターで4階へ。
そこが建築学科のスタジオがあるところだ。
個人個人に製図や模型作りなどできるスペースが用意され、それがスタジオを埋めている。
SSの周りの友達を紹介してもらった。
英語が話せないと本当に実感して、相変わらずのジェスチャー&ノリでカヴァー。
こういうのはとても好きだけれど。
そういえば、同年代の外国人と接するっていうのはなかなかなくって、
大学でもそういうことはあまりなかった。
というのはある程度日本語がしゃべれたのだ。
しかもネイティブはいなかった。
そういう経験を初めてできたということをとても感謝している。
そして、帰国であるとはいえSSが本当に英語を理解ししゃべれている現実にマジで?とただただうらやましく、
すこし日本人ではない感覚を持っているのだという確信を得た。
驚きがたくさんある素晴らしい朝だった。
友達に会えた。
彼に出会って、初めて本当に彼がボストンにいるのだと実感した。
なんか不思議な感じ。
つい一ヶ月前くらいには、日本の新百合を拠点としていたのだから・・・。
で、無事に出会えてからは、もう相当に受身で、つれられるがままに従った。
先進国の大都会は何がいいって、空港から町へ出るのに基本的には交通手段が選べるということ。
自分にとって初めての土地は必ず自分がパイオニアにならざるを得ないから、
そういう状況でどう、その国に対応していくかが、飛行機を降りて空港を出たところで問われる。
地下鉄に乗る。たいてい一番安い。
そして乗降車がとてもわかりやすい。
ボストンの地下鉄はもう真っ暗だったのが、それを想起させたのかもしれないけれど、
ロンドンのチューブにとっても雰囲気が似ていた。
何かの感じが日本の地下鉄とは違うのだけれどうまく表現できない。
より多くの外部(地上)を地下鉄で両方体験できるということかな?
彼の住まいへ
もうたいていの店は閉まっていたから、スーパーへ行く。
スーパーってのは本当に楽しい。
馬鹿みたいに大きなサイズの規格がそろってた。
レジか感動したんだよね。
自分でレジができるのね。
カード化は進んでて。
そう、意外ともうこの時点で自分もアメリカに住めるかもと、
あれほどのアメリカアレルギーが消えていた。
ボストンはローガン空港。
初めて、アメリカの大地に降り立つんだ。
意気込んでいたけれど、なんかチョット違った。
友達に迎えに来てもらうことを約束し、アメリカにきた。
搭乗便を伝えるだけで、出口ゲートが分かって、きっとすぐ出会えると思っていた。
ここらでは飛行機の利用がどうやらもっと日常なのだと思った。
国内線ではゲートはなく、搭乗ゲートまで一般人でも入れるようになっている。
国内線で到着した後は、なんだかずるずると空港の外につながる感じがする。
お迎えはいつ何処でするのだろう。
そんな出会う場所の設定を理解できず、また、
ちょうどターミナル拡張中で工事中。
なんだか複雑で、
見渡しがきかない夜。
友達は何処?
あなたはどこ?
私は見知らぬ土地で彷徨っているのに・・・。
はやくわたしをみつけて・・・。
そんな気分で、焦って捜し歩きまわって、30分。
緩やかに出会った。
相変わらずの落ち着いた動きに、安心した。
これは偶然だけれど、ちょうど一年前、ボストンにいた。
だからこの話をこれからしていこうと思う。
到着日は10月9日夜。
もうすっかりボストンは寒かった。
なぜボストンにいったのか?
こんな話を書くくらいだから、ボストンが好きという先入観があるかもしれない。
でも実は、根っからアメリカという国に対して魅力を感じていなかったし、むしろ腹立たしいくらいに感じていた。
それは彼らが物質偏向主義であるといううわさと、
英語が世界の共通語になりつつ、いや、しようとしているという経済大国ぶりのせいだった。
これまで数多くの国や都市を訪れてきたけれど、本当に惹かれなかったのが実はアメリカ合衆国で、
ゼッタイ行かないでおこうとしていたし、仕事したらなんだかの形で行かなくてはならなくなるというありふれた気があって、
そこに費やす時間をあえて設けようとしなかった。
そんな状況だったのに、友達がアメリカに行くという決意をした。
何であの国に行くのかわけなんてわからなかったのだけれど、
何かといわゆる最先端らしいし、
英語っていうやつがどうも苦手で、
いづれはアメリカに対してなんらかの作戦を練らなきゃいけないという律儀な部分が僕にも残っていたから、
そして、彼がいるという安心感と期待感で、アメリカの地を踏むことに決めた。
初めてのアメリカ。
それが行ってみて、体験してみて、本当は茎や葉ぐらいから嫌いというのがいってみて分かることになる。
自分に対して恥ずかしさを感じるほど印象が変わったんだ。
上海浦東国際空港から約3時間。
離陸した飛行機が成田に着陸した。
本当に近い場所だ。
最後の最後またスターバックスのコーヒーをすする。
スタバのコーヒーから逃れられない日常を上海でも実感した。
くつろげる場所がスタバか・・・。
とにかく、これで上海のたびは終わり。
みなさま、長い間アリガトウ。
Mr.JT, merci beaucoup!
中国、上海、多謝!
たったの3時間だけれど、やっぱり飽きる。
ちょっと映像を取った。
タイトル 「飛行機のなかで」
とくとごらんあれ!
中国査証について。
日本国籍を持つ人。
2003年9月1日からは15日以内の観光等目的の滞在は、査証が不要になった。
本当にチャイナが近づくね。
上海を旅立つ今日。
朝早く、浦東の超高層ビル群のなかへ。
月がビルの合間に見え隠れする。
バスに乗って、空港へ。
朝の靄と人のいない静けさが旅立ちにぴったり。
せかされたご飯の後、この日は上海の最後の夜ってことで、
まったりカフェでダベリ計画を立てた。
何処のカフェか。
バンドで唯一一般人が建物の中に入れるカフェがある。
その名は bonomi cafe 。
上海には6店舗くらいあるカフェらしい。(2003年10月現在)
それはバンドにある1923年創建の旧香港上海銀行(現、浦東発展銀行)の2階226号室。
バンドの建物はセキュリティーの人が必ずいるので、
カフェに行く際にも、そいつの了承を得なくてはならない。
きっと混んでいない。
そうねがい、最後の夜を過ごす場所を決めた。
オープンテラスになっている。
雑誌が置いてある。
ゆっくりできそうな感じはするができないといったカフェ。
もう少しの工夫でとてもいい場所になるはず。
きっとそれをしたらこんなにがらがらではないんでしょうね。
寒いよ。
さいごぐらいは。。。
こんなことを言っていたら死ぬまぎわにしなくてはならないことがたくさん出てきてしまいそうだけれど、そういうことで、リッチな飯を目指す。
しかし、店員達は何て傲慢なのだろう。
それは日本人がたくさんガイドブックのせいで来るようになってしまったし、
中国語は読めないし、あらかじめあまり勉強もしないし、
腹立たしいことはたくさんあれど、日本人が目指しているものが、
すべて一緒のように扱うのは止めてほしい。
それぞれにその場所で食べたいものは違うんだ。
そしてせかすな。
よろしく!!
鮑鱶鰭はうまかったんだから。
旧暦にしたがい、一月は旧正月の準備にいろいろ時間をかけるのが中国。
豫園の周りもすっかり赤いものだらけになっている。
真っ赤。
そのなかで、かいものしたり、けんかしたり、めしくったり。
騒々しいけれどなんだかこんなに目標がおんなじってことあんまりないから、
わくわくする。
町ごとワクワクする、こういうことほんとうにうれしいね。
動物園に行ったあくる日、茶をシバキに豫園(yuyuan)にお出かけ。
宿から徒歩で約20分。
バンドのとおり沿い南下し、延安東路に右折だ。
でもって、とっても活気のある四川南路を左手に折れながら入ってゆく。
そのまままっすぐ行くと、旧上海城の塀沿いに円を描いて走る人民路と交差する。
そこを過ぎるともう豫園だ。
豫園の手前には、ちょっとした池に浮かぶ湖心亭という茶屋がある。
ここら辺はとっても観光地なので大概のリッチな観光客はココによりながら豫園を観光する。
ココの茶はたかいけど、ココで茶をシバク事にしていたのだ。
この湖心亭400年前に建てられたものが1784年に再建されたものである。
そして、湖心亭を結びギザギザにかかっている橋は九曲橋と言う。
とても多くの人がこの上で、行き来、記念写真などをとる。
中国の観光地というのはまことおもしろいほど観光地になっている。
というのは、ある観光産業に頼った商売先行型とでも言ったらよいのだろうか。
とにかくお土産には事欠かない。
ココまでのゴリ押し、もはや受け止めるしかない。
tourism=shopping
だから、チョット高い金払って、湖心亭の二階から、ごっちゃがえる九曲橋の人々をさめた目で見下ろす。
うまい茶をシバキながら。
植民地時代のように。。。。。
茶経(chajing)・・・筆者 陸羽(luyu),???~804。
三巻十章よりなり、第一章、茶の木の本性(1の源)を説き、
第二章にはお茶の木を栽培する順序や方法、器具などをのべ(2の具)、
第三章では、撰集(3の造)、
第四章に茶器二十四種を図解(4の器=容器)、
第五章で、茶の式(5の煮)を述べている。
以後6の飲【飲み方】、7の事【茶の歴史】、8の出【産地】、
9の略【略式の茶】 10の図【散逸】と編纂されている。
ついに発見。
大熊猫(daxiongmao)。
いわゆるジャイアントパンダ。
りんりん、らんらん、ろんろん。
メシ食い中。
笹食いすぎ。
ションベンぶちまける。
やっぱ、熊だ。
リアルパンダを映像でお楽しみあれ!
ガラス越しの撮影で見にくいかもしれませんが、さすがに大熊猫というだけあって迫力はあります。
・動くパンダⅠ
・動くパンダⅡ
これまで、日本の家電の歴史には三種の神器という日本国民が誰しも欲しがる家電が存在してきた。
昭和30年代は、日本が急激に豊かになっていく時代である。
それは、各家庭に「モノ」が行き渡っていく時代であり、
明るい電灯がともされた居間で家族そろってテレビを見る、
新築の団地に入居する、マイカーを手にいれる、
そういう物質的充足が目標となり、その充足が幸福感を満たす、
ある意味で幸せな時代であった。
電化ブーム(三種の神器)到来(昭和35年)
30年代に「三種の神器」と言われた、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の普及率は、
昭和32年当時、それぞれ、7.8%、20.2%、2.8%であったが、
昭和40年には、それぞれ、95.0%、78.1%、68.7%と急速に普及していった。
電化ブーム(新三種の神器)到来(昭和40年代後半)
テレビの世帯普及率は、昭和40年に8.3%であったものが、昭和45年には91.7%、
カラーテレビの普及率は、昭和45年7.1%から、昭和50年73.1%と伸長した。
昭和40年代後半には、カラーテレビとクーラーに、自動車(CAR)を加え、
「新三種の神器」「3C」という言い方をした。
そして2000年代。
とは、薄型テレビ(プラズマテレビ、液晶テレビ)、DVDレコーダー、デジタルカメラ。
これが日本の経済を復活させるという。
世界の生産の9割を生産しているという。
どうなる日本の家電伝説。
パンダのみを目当てに入り口から探る。
最短ルートはどっちだ!?
発見したのは小熊猫(xiaoxiongmao)だった。
いわゆるレッサーパンダ。
パンダ違い。。。
リアルレッサ-パンダをごらんあれ。
可愛いような、かわいくないような。
とにもかくにもレッサ-パンダとはこのようなものであります。
・動くレッサ-パンダⅠ
・動くレッサ-パンダⅡ
・動くレッサ-パンダⅢ
今日は朝から動物園に行く。
ココは上海付近で一番大きい上海動物園。
僕自身、本当は動物を見に行くことはないのだが、
相方がどうも、パンダを見たいらしい。
意外にそんなやつだったので、ビックリした。
そして、一緒に行くことにした。
しかし、この標識かなりすごい情報量。
とてもわかりづらい。
僕らはこれを役に立てることができなかった。