(関口さんと通訳の陳さんと。なぜかぼくらが真ん中になってしまってますが)
いま、承徳にいます。この街に来て三日目。二人とも微妙に体調を崩してなんだか冴えない日々を送っていましたが、今日、この街に来た目的をひとまず達成しました。NHKの中国鉄道の旅の関口知宏さんに会えました~。承徳の一番の見どころである「避暑山庄」という昔の別荘地で中継があるらしいということが分かったので、ミーハーにも、朝から行って彼らを探してました(笑)。東京ドーム12個分(?)ともいう広い中を人に聞きながら、中継始まって20分後ぐらいには見つけることができました。
(関口さんの中継地点を発見!この船の中に彼が。出てくるかなと外で待っていたものの、船の中で番組終了......)
実際画面に映ることはありませんでしたが、そのあとに関口さんと写真を撮ってちょっとお話をしたり。関口さんは気さくな感じのいい人で、いきなり友達のように話せました。にわかに日本の世界とつながった感じで、不思議な気分な半日。
承徳に入ってから、ぼくはどうも痰の音に敏感になってしまい困ってます。中国に2年半住んで十分に慣れたはずだったのに、ここ数日どこにいても痰の音ばかりが耳に入って仕方ありません。そしてかなり気分が悪くなることも......。初日に泊まった宿は駅前の安宿だったのですが、早朝5時ごろから、宿の主人(たぶん)が数分おきにかなりパンチの効いた痰を吐き、真っ暗闇の中その音だけが響き渡り寝れなくなるという悲惨な状態(翌日宿を変更)。20回近くまで数えて、寝るのをあきらめ読書に走りました。うーーん、きれいだったロシアを経て、変なところが潔癖になってしまったのかもしれません。
(北京からスタートして、ぐるっと回ってもとのあたりに戻ってきてます。石家庄からは一気に西へ移動する可能性が高いです)
明日の朝、さらに西の石家庄(shijiazhuang、シージャージュアン)という都市へ移動。ここは河北省の省都。大都市は避けるつもりだったものの、あまり選択肢もなく、800万都市(2000年の情報)へ。ここはほぼ通過のみの予定。承徳からバスで6,7時間。ここからは北京がすぐ近かったものの、いまは国慶節で北京の宿も混み混みであることもあって、早めに中国西部へ向うことに。
(承徳の朝ご飯は、この露天の店がおいしかった。豆乳と油条(中国風揚げパン)とショウロンポウで、6.5元(100円)。写真は油条を作ってるところ)
(避暑山庄の中。1700年代にできた古い別荘地。とても中国的な風景が続く)
昨日の朝、大連につき、今日また出発です。
「坂の上の雲」を読んだときにむしょうに大連・旅順に行きたくなったこともあって、今回来てみたのですが、着いてみると全然モチベーション上がらず......。客引きと交渉しながらの宿探しに疲労し、すごい人ごみの中を歩いてまた疲労。。。ハルビンの大都市ムードに上海を思い出し、大連は違うだろうと少々期待してきたものの、やっぱりほとんど同じ雰囲気。ま、中国に限らず、大都市というのは概してそういうものなのですが。
大連で、二人とも、中国の東側の大都市にはもうほとんど興味が沸いてこないことを確信し(素子はもっと早くからそう言っていたのですが...)、これからはもうできるだけ大都市は避けようと心に決めてみました。で、次の行き先は人口で決めようということに。ちょっと小さいと思ってもすぐ200万人ぐらいの都市になってしまう中で、30万人以下の小さめの街を狙うことに。で、決めたのが延安(Yan'an, イエンアン)。ここは、中国共産党の歴史にとってとても重要な街で、二人とも興味もあるし、しかモ人口は十数万人ということで、ここに決定。しかし、今日の朝、列車やバスのチケット買いに行くと、列車もバスも、延安までの直通チケットはないとのこと。しかも来週から国慶節ということで列車は込みまくり。というわけで、とりあえずいきなり延安までいくことはあきらめ、まずは承徳(Chengde, チャンダー)という、これまた人口20万人ぐらいの小さな町にいくことに。
と、大都市に不満ばかり言っていますが、でも大連もそれなりに充実。昨日の夜は、大連で働く昆明時代の友人と会い、日本の居酒屋に行って楽しくすごしました。やっぱり旅先で人と会うのはうれしいです。
そして、今日は日系美容院に行って二人ともヘアカット。京都で切って以来切っていなかったので、大連に日本人美容師がいることを知って、今日その店「Kilala」に。すると、これが予想以上にハイレベル!職人的な技術を持っている渡辺さんという人に切ってもらい、大満足。200元(3000円)のところ、いまたまたま30%オフで140元。上海では日本人美容師だと高くて(相場は300元ぐらい?)一度も行かなかったのですが、多分上海にもあのように上手な人がいたはずで、だとしたら、いっとけばよかったなあ、といまさらながら思ってしまいました。ぼくが先に切って、いまは素子が切ってもらっている最中です。というわけで、不平をいいつつも、いい気分で大連を出発できそうです。渡辺さんに感謝!
さて、今日の行き先、承徳。なぜここにしたかというと、承徳には今度の日曜日(30日)に、NHKで中国列車の旅を慣行している関口知宏さんたちご一行が来ることになっているようなので、そこにあわせていてみよう、ということにしたからです。毎週日曜日の昼ごろにBS(だったかな?)で、現地からの中継をしているとのこと。そこにうまいぐあいに居合わせてみようと計画してます。というわけで、30日のその番組の中継にもしかしたら影ぐらいでてくるかもしれません!
今日は4時半出発の寝台バスで12時間ほど。明朝5時ごろに承徳に着きます。
では、もしかしたら30日のNHKで!
写真は時間がないのでまた今度アップします。
あ、でも、大連は一枚しか撮ってない......。
(いまいるのがハルビン(Harbin)で、今日の夜の列車で、その南の大連(dalian)へ)
ハルビンももう4日目で、今日の夜の列車で大連に向います。ハルビンはロシアの影響を強く受けているためなかなかきれいな街だろうと想像していたのですが、来てみると完全によく見る中国の大都市。かなり雑然としています。ただ、ぼくの中ではハルビンといえば、昔習った伊藤博文暗殺の地のイメージがとても強いせいか、その雑然とした雰囲気になんとなくそれっぽさを感じるということもあるのですが。
(中央大街。軒並み100年近く前の西洋建築が並ぶ)
それでもロシアの影響は多大で、中央大街という通りには軒並み20世紀前半のロシア風の建築が並び、見ごたえがあります。そしてその通りの端までいくと、アムール川が。アムール川は大学院時代の研究テーマ(流氷)に関連があった上に、去年吉林で、そしてこないだロシアでも見たために、親しみを感じ、大地はつながってるなあ、ということを実感させてくれます。
(ハルビンを流れるアムール川(中国語では「松花江(ソンフアジャン)」)。でも、周囲の雰囲気はまさに中国らしい雑然ぶり。その周囲は「斯大林公園」すなわち「スターリン公園」という名前らしい)
そして昨日はハルビンの町外れにある731部隊の細菌実験基地跡を訪問。言わずとしれた731部隊、その行いを詳細に展示してあるこの跡地を歩きながら考えさせられることは多かったです。たった60~70年前に、このような生体解剖や人体実験が日本人の感覚としてある意味まかり通っていたということは、とても不思議な気がします。昨日の夜、「暗い日曜日」というナチス時代のハンガリーが舞台の映画のDVDを買って見たのですが(とてもよかったです)、その内容もあわせて、半世紀もすると世の中は全く変わってしまうものだな、ということを感じさせられました。もちろん、いまも世界のいろんなところで、信じられないような現実が繰り広げられているだろうことは心に留めておかなければなりませんが。
(細菌実験基地の敷地内。多くの建物は、終戦前に証拠隠滅のために日本軍によって爆破された。奥にあるのが本部の建物。これも終戦時に一部焼けたものの、後に修復)
(本部の建物。この中に展示がある)
さて、中国に入ってからはもちろん毎日中華料理。この辺は、これまで行った中国のどこにも増して一皿一皿の量が多い気がして、いつも食べきれず。昨日行ったメシ屋は、餃子はメニューに「100個18元(=300円弱)」と書いてあってびっくり。最低30個(90円ほど!)から......。
(その店で出てきた前菜的位置づけの冷たい料理。薄切りの豆腐や春雨などの和え物。小さめだと言っていたはずなのにこれ。10人前ぐらいありそう。8元(120円))
あ、ちょっとロシアの話に戻りますが、「イクラ」ってロシア語らしいことに衝撃。「日本でもこれは『イクラ』って呼ばれてて多分みな日本語だと思ってる」ってロシア人に話したらびっくりされました。実は日本語なのかもしれませんが......。
(これはハバロフスクのマーケットのイクラ。ここの値段は1キロで800~1400ルーブル(4000~7000円ほど)。日本に比べて、安い?高い?)
今日、夜の列車でハルビンを離れ、大連(ダーリエン)へ。9時間の旅。ロシアのことを考えるととても短く感じます。しかし何気に移動費がかかってしまってます。もっと節約しないと......。
(ロシアからの船を降りて中国へ!)
昨日予定通り、ロシアから国境を越えて中国に入りました。
ハバロフスクから船で1時間少々アムール川を上っていくと、そこは中国。国境を越えた瞬間に完全に賑やかな中国社会に戻り、不思議だったり懐かしかったり。ついさっきまで西洋っぽいハバロフスクにいたのが信じられなくなりました。
(ハバロフスクの乗船所。川の上の緑の建物の中で出国審査。ロシアは列車のチケットなどすべて大切に保管しておけといわれていたので審査も厳しいかと思ったら、全然あっさりにこやか)
(船の中。ロシア人の中国買い物ツアー客みたいな人たちばかりで、全然国境を越えるという感じがしない)
(船の中から見たアムール川。アムール川は、中国・ロシアの国境を成してそのあとオホーツク海に注ぎます)
国境の町は撫遠(Fuyuan、フーユエン)で、そこからさらに6時間バスに乗って少し内陸の町・佳木斯(Jiamusi、ジャムス)まで行き、昨日はそこに泊まりました。中国の物価の安さに感激。昨日の宿はいわゆる"招待所"と呼ばれる中国っぽい安宿ですが、ハバロフスク一泊分でここに2週間近くいられます。しかもこの宿、普通の安宿なのに、なぜか部屋にLANケーブルが設置されていて、ノートPCをつないでネットし放題!田舎町なのにびっくりです。
(撫遠の町にはロシア人の買い物客がいっぱい)
今日はこれからハルビンまで移動予定。またバスで6,7時間ほど。ハルビンではみたいものもいくつかあって、何か取材などもしたいなあと思っているため、何日か滞在することになりそうです。
モンゴル、ロシアで言葉が通じない世界での旅の不自由さを実感しました。昨日中国に戻ってきて、とりあえず言いたいことがなんでも言える環境がとてもうれしいです。ロシアではそれで結構ストレスたまった気が......。中央アジアはまたロシア語が通じそうな世界なので、フレーズブックみたいなのを買っていく予定です。
あと、モンゴル、ロシア両国を見て、中国ってやっぱりひときわ汚いことを実感(笑)。ここ数年感覚が中国基準になってたけど、ロシアから中国に入って、バスの中で誰かが激しく痰を吐いている音が絶え間なく聞こえてくるのは、ちょっとまいります。トイレのすごさにも舌を巻きます。ま、数日で慣れそうですが。それでも、やっぱりぼくは中国にはすごい親近感が沸くので、戻ってきてちょっとほっとしてます。
(夜のハルビンビールと餃子。久々の中華、おいし~い)
(セベロバイカルスクから濃い青線の列車移動を経てハバロフスクへ。Tyndaから南へ下ったあとは、メインのシベリア鉄道路線)
昨日、最後の目的地ハバロフスク(Khabarovsk)に着きました!
後半は、鉄道2泊、町2泊、といった日々の連続で、疲労もかなりたまってきました。最後の鉄道の旅を終えて19日の朝7時ごろにハバロフスクに着くと、なぜかどこもホテルがいっぱいで、疲労の中の宿探しに一苦労。しかも全然安宿がないようで、1万円弱のホテルに泊まらざるを得ず。。でも、そうとなれば、それはそれであきらめもつき、最後のロシア、とても快適に過ごせています。
(ハバロフスク。教会や古い建物が並ぶ、とてもきれいな街。写真のアムール川が流れ、それを南下するとすぐ中国)
ハバロフスクはとても居心地のいい街!とにかく、会う人会う人みな親切なことにびっくり。あるホテルに行くと部屋がいっぱいでそこから他のホテルに電話しようとすると、そのホテルのレセプションの女性が他のホテルへの電話をかわりにかけてくれたり、バスに乗ると乗客がみなどこで降りるべきかを教えてくれるし、いまもネットカフェの場所が分からないで困ってるとこに、たまたま近くにいたビジネスマンがネットカフェまで案内してくれて通訳までしてくれたり......。とにかくハバロフスクは人の印象がよくて、しかも街もきれいで居心地がよく、二人ともとても気に入っています。
ロシアは、ブログのアップが覚束なくなったセベロバイカルスク(Severobaikalsk)あたりから度々親切な人に助けられ、最終的にはとてもいい印象で出国できそうです。
以下、セベロバイカルスク以降アップできなかった写真の一部。
<Severobaikalsk>(バイカル湖畔の町)
(外国人がとても珍しいらしく、次々に握手を求められたり、写真を撮ってくれと頼まれたり)
(ここで大きかったのが、街の英語の先生Vladimirとの出会い。ガイドブック(Lonely Planet)に名前が出ていたので家まで訪ねてみると、とても流暢な英語で親切に助けてくれた。で、「ぼくの授業に出て、生徒たちと話さないか?」と言われ、喜んで参加した英語の授業。みな15歳)
(その夜、Vladimirが、友達の女性(素子の隣)の50歳の誕生日パーティに一緒に出ないかと誘ってくれ参加。思わぬ展開でローカルな世界に入れて楽しいひととき。ウォッカを6,7杯小さなグラスで一気させられた......)
(ホームスティさせてもらった家)
(家のお父さんが、庭のラズベリーを摘んでくれる。ちょーおいしい!シベリアは果物・野菜がいっぱい)
(1泊しただけなのに、しかも言葉も通じないのに、家のお母さんとはとても親しくなれたような気がして、別れもちょっと辛いほどに......)
<列車の中>
列車で結局6泊(かな?)。ロシア滞在のほぼ半分が列車の中。ロシアの大きさを実感できましたが、最後はかなりきつくなりました......。
(途中の景色はずーーーっとこんな。まさにタイガ)
(こんな感じでほぼ一日中寝てるか読書か)
(それなりに出会いも。でも酔っ払いが相当面倒)
(レスリングチームで試合のためにハバロフスクへ向かう少年たち)
(途中停車駅で降りて休む)
(駅の外に出て食糧を調達)
(前回ブログアップしたTyndaの駅。この駅の休憩室で一泊。)
<今日の朝ハバロフスクで>
(体育の授業を公園でうけていた子どもたちが、ぼくらを見るとみな授業をやめて駆け寄ってきた。日本に旅行で行ったという子が2,3人もいて、ぼくらのロシア語より語彙豊富な日本語を話すのでびっくり。学校まで遊びにきて!とみなに言われて、とても行きたかったものの、隣で無視され、馬鹿にされ、学級崩壊目前っぽい老人先生がしょげていたので申し訳なくて、バイバイしました)
明日朝、ハバロフスクから船でアムール川を下り、中国へ戻ります(たった1時間半ほどの船なのに6000円も!)。
久々の中国が楽しみだったり、ロシアが名残惜しかったり。
前回のSeverobaikalskからまた1500キロぐらい東のTyndaという小さな町に昨日着きました。まさにシベリアまっただなかという感じですが、気候はまだ穏やかで比較的過ごしやすいです。真冬になるとマイナス60度近くなるとも聞いてびっくり!なので、こっちではマイナス20度ぐらいだと、そんなに寒くない、という話も?!とにかく、列車からの風景はずーーーっと針葉樹林続きで、タイガを実感してます。今日の夜1時にまた、ハバロフスクへの30時間の列車にのり、これでいよいよ列車も最後。ハバロフスクから船で中国へと国境を越えるので、ロシアもまさに最後です。
物価の高さもあって、駆け抜けるように移動ばかりの日々でしたが、バイカル湖畔のSeverobaikalskでは、出会いもたくさんあり、思わぬ大充実の2日間でした。その写真をアップしたいと思いつつ、写真をとりこむアダプターが手元になく、アップできず。。。またハバロフスクでアップします。
昨日の夜は、駅の時間制休憩室でのあわただしい夜。今夜から2泊また列車の中であわただしそう。しかも天井の低くて狭い、通路側の残りベッド(しかも二段ベッドの上二つ)しか確保できず、明日からどうやってご飯を食べようかいま、検討中です。
kinou yotei douri Lake Baikal kitagawa no Severobaikalsk ni tsukimashita.Koko ha Irkutsk soba no Listvyanka toha chigatte tourist mo mattaku inasouna inaka no machi.
Soviet jidai wo omowaseru mukitekina shu-gou ju-taku ga narandemasuga, Lake Baikal he aruite sugu de, totemo kankyou no ii machi desu.demo, sonna inakani kitemo subetega takakute sorosoro Russia wo denaito to omotteimasu.
Asu niha futatabi densha de sarani higashi no Tynda he mukaimasu.Tynda mo chiisasou nanode, tugi chanto up dekirunoha Khabarovsk kana?
deha.
(ありがちですが、バイカル湖の夕日)
昨日イルクーツクから一泊でバイカル湖畔へ。イルクーツクから60キロほど行ったところにあるListvyankaという湖畔の小さな村まで乗り合いバンで1時間。システムはモンゴルと同じように人が集まったら発車という感じだったのに、道はきれいだし、ギュウギュウ詰めにもならない快適な移動で、新鮮でした。いまのところロシアの印象は全くの先進国。
(Listvyanka。ぼくらが泊まったのこの奥の方)
(村の家にはそれぞれ庭にこんな感じできれいに花が植えてある。村はとてもいい雰囲気だったけど、人の姿はかなり少なかった印象)
Listvyankaは、バイカル湖を訪れるツーリストで栄えた場所のようで、ホテルやカフェがいっぱい。実はそこからさらに船でもっと村らしい村へ行くつもりだったのですが、船の時間が合わず、そして言葉の限界も感じて、Listvyankaに泊まることに。それでもListvyankaで、いきなりどこかの家庭を訪問してそこに泊めてもらおうと考えていて、泊めてくれそうな家を探して村を散策。でも、「こんにちは、ありがとう、英語話せますか」+数字少々のロシア語じゃやはりそう簡単にはいかず、それも断念。結局、一応"homestay"と名のついた民家風ゲストハウスに泊まることに。それはそれで快適でしたが。
(泊まった民家風ゲストハウス。ちょっとは"homestay"気分だったので、家のおばさんに連れられて玄関で若い男二人に会うと、息子さんかな?と思ってロシア語で挨拶してみる。でも、流暢な英語で返事が帰ってきたので、あれ?と思って聞いてみるとイギリス人旅行者だった。しかも、結局朝までその女性以外の家族とは顔をあわせず。なんのこっちゃ)
バイカル湖は、世界最深(1637m)であることで知られる湖。旅していると、中学時代に地理で覚えた知識が目の前に現れるのが結構うれしいことの一つだったりしますが、バイカル湖もその一つ。すでに勝手に親しみを持ってました。でも、透明度40mというのはほんとかな?と思っちゃうぐらい普通の海みたいな感じ。これから列車で33時間かけて、バイカル湖の北端の町に行くのですが、そこでもう一度みてみます。
帰りにミュージアムに寄って、バイカル湖だけにしかいない淡水アザラシの姿をみて(小さな魚雷みたいな動きがかわいかった!)、また乗り合いバンでイルクーツクへ。
(魚雷のような淡水アザラシ。顔が人面魚みたいで独特だったけど、動きがかわいくて好感度大)
イルクーツクに着いてからは、今日の夜の列車の食糧を買うためにまた大きなマーケットへ。クッキー類やパン類がとても豊富な印象。ピロシキはやはりどこにでもあります(中身はジャガイモのものや肉のものなどいろいろ。一つ40円ほど)。買出し以上に、ぼくは、マーケット内のカウンターでの立ち食いランチがうれしい。生ビール(大コップ)、グリルチキン(300gほど)、パン(チョコ&ポピーシード)を食べて全部で400円ほど。
(マーケットで野菜を売る、村から出てきた風なおばあちゃんたち)
(ソーセージ屋さん)
列車は夜10時半ごろ発。まず大きく北西へ移動し、途中から東向きに(地図参照)。Severobaikalskで降ります。
ロシア、居心地いいけど、あまりフレンドリーな雰囲気がない印象。都会的なせいか、ロシア人の気質か、もうちょっとみてみたいです。人の写真もかなり撮りづらい雰囲気。ま、それは日本でも同じかな。
(濃い青のルートが今日から33時間の道のり。Tayshetからさらに西にMoscowまで延びるのがシベリア鉄道のメインルート。ぼくらが乗るそこから東行きの鉄道はBAM(Baikal-Amur Mainline)と呼ばれる線で、東は日本海まで達します。とりあえずSeverobaikalskで数泊の予定)
(市場で花売るおばさんたち)
(ロシア正教の教会)
今日2回目の更新。今日は一日イルクーツクの町を歩いていました。
日曜のせいかあまり人もいなく(日本とは逆?)、天気はいいのに静か。でも、街なかを流れ、バイカル湖へとつながるアンガラ川(Angara)の川べりには、愛をささやきあうカップルが多数でロマンチックな休日の雰囲気が。ロシア正教の古い教会に入ると、厳粛な空気が流れ、これもまたムードあり。
そのあと、マーケットまで徒歩&トラムに乗って行き、ロシア人とともに夕食の買い物(ご飯代も何もかも高いので、晩御飯は宿で自炊)。外には花、屋内にはクッキー、パンから、野菜、肉、魚類まで豊富に揃う。途中でちょっとパンやスモークした魚や生ビールをスタンドでいただくと、これはとても安くておいしい。生ビールも大きなカップで80円ほど!物価は高くとも、ここにいればお腹いっぱい幸せに一日を過ごせそう。
(今日泊まってる6人部屋。カップルということでぼくらが当てられたのは右奥の二人用ソファベッド。これで二人で4000円!)
明日、バイカル湖畔の町に一泊して、明後日の夜はまた列車の中。今度の列車は30時間以上で2泊の予定。さて、その間にどれだけロシア語が身につくかな?
(アンガラ川)
(いまいるのがイルクーツク(Irkutsk)。昨日列車に乗ったのがモンゴルのスフバートル(Sukhbaatar))
今日の朝8時ごろ(現地時間、日本時間と同じ)、イルクーツクに着きました!7日夜、ウランバートルから9時間ほどで国境の町スフバートル。一泊して8日朝にイルクーツク行き列車(いわゆるシベリア鉄道の一部)に乗りました。国境を越え、ロシア側に入ると、職員はいきなりみな白人!おお、ロシアだーとなかなか興奮しました。モンゴルから国境を越えても、列車から見える家の雰囲気は貧しげな木の小屋といったものが多く、ここにみな白人が住んでいるというのはとても新鮮な感じがしました。国境を越えた最初の駅ナウシキ(Naushki)で食料がなくなったため、停車中に駅を出てそばの屋外マーケットに行くと、当然のことながらそこもみな白人世界。とにかく、モンゴルから陸続きで、風景も家もほとんど同じなのに突然みなアジア人から白人になるというのが不思議な感じでした。ま、そんなこんなで初めてのシベリア鉄道に乗って、国境から計20時間ほど(出入国審査などのための停車時間が5時間ぐらいはあった)でバイカル湖のそばのイルクーツクへ。ネットで予約メール(イルクーツクの宿はみなほぼ予約制らしい)を入れておいた宿(Downtown Hostel)にはすぐたどりつけて、予約は取れてなかったものの事情を説明するとベッドを確保してくれて、落ち着きました。でもいわゆるバックパッカー宿の6人部屋なのに、1人2000円!分かってはいたもののかなり高く、ロシアは駆け抜けないと厳しいかな、といったところ。
以下、写真はまずウランバートルから。
(これはウランバートルの孤児院。オーストラリア人が開いたもので、親がいないなどの140人ほどの子どもたちが暮らしている。ウランバートルはストリートチルドレン多数)
(モンゴル側国境の町スフバートル。ほとんど何もないといっていいこの町に泊まったのは、ここにシベリア抑留の果てに亡くなった日本人たちの墓地跡があるとのことだったから。町から1時間ほど歩いた先の丘の上に、黄色く光る観音様(?、上写真)と、「日本......」とモンゴル語で書かれた石のある墓地跡(下写真)。日蓮宗の人たちの立てた札とともに、山口県1945年11月11日、小林喜一さんという名の銀のプレートも。この国境地帯へ強い関心がわいてきます)
(スフバートルから列車に乗って、まだモンゴル側。)
(ロシア側に入ってすぐ。ロシア人らしき姿!)
(イルクーツクまでの列車で同じコンパートメントになったモンゴル相撲取りたち。全く言葉は通じないものの、とても面白い人たちで、写真を撮らせてというと、わざわざモンゴル相撲の(?)帽子をかぶってくれた。右のおじさんが、よくドラマなどにお父さん役で出てくる日本の俳優に非常によく似ていたものの名前が思い出せず......。誰だろう?)
(ロシア側国境の駅Naushkiの市場。ロシア人の世界が始まった)
(イルクーツク到着直前の朝日。今朝7時ごろ)
(列車を降りたところ。まさにロシア!)
イルクーツクは多分今日一泊だけで、明日はバイカル湖畔の小さな村に泊まる予定。そこからバイカル湖を船で北上し(バイカル湖はなんと南北650キロ!東京-京都ぐらい。船で12時間)......と思ったのですが、船がシーズン的にすでになくなってしまったため、また列車で22時間かけて、バイカル湖北端の町(Severobaikalsk、上地図参照)へ。そこから東へ向かう鉄道に乗る予定です。
ロシアはさっとみるだけ、となってしまいそうですが、つかの間の西洋世界を楽しみます。
さてホーストレッキング、昨日の風景編に続いて、その他もろもろ編です。
草原、山、湖の大自然を体感した以外に、実にいろいろなことを学ぶ日々でした。馬で移動しながら水のあるところで火をおこしてテントを張って、とやっていると、ほんの少しですが遊牧民たちの生活リズムや感覚が分かるような気がしてきました。
(ご飯の様子。ガイド二人とぼくらでそれぞれ鍋で簡単な料理を作る。後ろの少年は、そばのゲルに住んでた子。ハイジみたいだった)
ぼくらは二人ともアウトドア経験が少ないため、テントのたて方も今回初めて知りました。初日、広い平原に何も考えずにテントをたてたら、夜中やたらと寒くなり、二人ともほとんど寝れなくなってしまいました。寝袋、ダウンはもちろん、そのたあらゆる防寒具を身に着けるも寒さは遠のかず、ただひたすら陽が照るのを震えながら待つ、という厳しい展開。朝見てみると、テントはパリパリに凍ってました......。まるで冷蔵庫の中に寝ていたような状態だったわけです。
(凍ってしまったテント)
そのせいで二日目は、眠気と筋肉痛で、かなりハードに。ぼくは馬の上で何度か意識が遠のき、昼飯時にはぐったり。で、前日の夜を思い出すと夜が来るのが怖くなり、なんとかうまい方法はないかとずっと考えた挙句、野原に吹きさらしになっていたのがまずかったんだろうという結論に達し、この日は、周囲に風避けとなる木や崖があるような場所を選んで泊まることに。そしたらぐっとましになりました(素子はそれでも十分には寝られなかった様子......)。
また、キャンプしてて驚いたのは火の生命力の強さ。夜ご飯を作るために火をおこし、その後消えるわけですが、テントが凍ってしまうような寒い夜を越えても、まだその火種は生きているんです!朝起きて、前日におこした火の跡の上に木の枝を置き、丹念にふーふーと吹いていると、いつしか、煙が出だし......、ボッ~!、と燃え上がりました。もちろん、マッチなどなにもなしで。これにはギョウテン。モンゴルがすごい乾燥しているからなのかもしれませんが、モンゴルでは、山火事の火の残りがマイナス40度の数ヶ月の冬の間中、地中で眠って、夏にそれがまた発火することがあるというのを読みましたが、それを肌で実感しました。
(極寒の夜を越えてから復活した火!)
それとあと、ちょっとでも水があれば、いつもそのそばにはゲルがあって、人が住んでいることに感動。初日も「あそこに水があるから泊まろう」ということになって、その水のところへ行ってみると、岩の間のほんの小さな水溜り。「えっ、これ?」と思ったのですが、そばのゲルにすむおばちゃんが上澄みを脇によけてうまい具合にきれいなところだけを掬います。「いや、こんな小さな湧き水を頼って住む場所を決めるのだから、すごいなあ」と感動してしまいました。二日目は、いけどもいけども水がなく、川は干上がっていたのですが、最後に地面がぬれてきて水がありそう、と分かると期待が膨らみ、その先に小さな小川が出てきたときには、まるで金脈でも掘り当てたようなうれしさでした(ま、ガイドはそこに川があることは当然知ってたんでしょうが(笑))。
(初日に泊まった場所の水。下の写真の左側、岩の間の小さな空間にしか水はない。でも、これを頼りに数家族が近くで暮らしていた)
月並みですが、水と火のありがたみをつくづく実感。アウトドア派にとっては当たり前だろうことを初めて体験し、驚きと感激の連続でした。
さて、上の写真は、トナカイ放牧のツァータンの家族。観光客に囲まれた彼らは、イメージとは異なり、お母さん以外はみな普通の服装。お母さんも、成金っぽい陽気な面白いおばちゃんで、ぼくがしているシルバーのバングルをみて「それはどこの国で買ったんだい?」そして、キセルをふかしながら「このキセルはねえ、ここに来た観光客が私にくれたんだよ」とニヤリ。すなわち「そのバングル私におくれ」ってことだろうなと解釈できました。欲の面の皮(ってあってますか?)の張ったおばちゃんだ、と言いたいところですが、ツァータンのイメージを一新させる新鮮な存在かも......?通訳によれば、他のツァータンたちは、ツーリストたち相手にビジネスを始めた彼らのことを嫌っているようだと言っていましたが、人生いろいろ、といったところでしょう。
↑これは、最後の夜に泊めてくれた家族のゲル。商売で泊めているのですが、少しは家族の一員になった感じあり。手前のたらいに入っているのがヤクのヨーグルト。ヨーグルトの味にそれほどこだわりはないものの、かなり濃厚でフレッシュでおいしかったです。思わずおかわり。ヤクのthick creamも一緒に出てきて、これをパンに塗って砂糖をまぶして食べるのですが、非常にグッド。
(少年がかき回しているのがヨーグルトを作る細長い樽)
(ヤクの肉のおじやを作ってくれて、みんなで食べる)
(家主のおばちゃん)
そして次はガイドの家。
(初日に寄ったガイドの家)
(食べているのは、羊のあらゆる内蔵を味付けしたもの。これを各自ナイフで適当に切って食べます。「うお、ちょーワイルド」という印象の食事風景でしたが、食べてみるとなかなかうまくて、いくつも食べてしまいました)
(家の入り口に干してあった羊)
途中の町の宿で仲良くなったイスラエル人に、モンゴル人が羊を殺す様子を動画で撮ったものを見せてもらいました。確か二人で4本の足を押さえ、お腹を上向きに寝かせ、腹をさーっとナイフで切り、いきなりその中に腕を入れて、もぞもぞやって心臓をもぎ取っていました。羊はさすがにある程度もがいてはいたものの、その間一分ほどで、とくにひどく苦しむ様子もなく鬼籍入り。血は一滴も出ず。
馬はどうやって殺すのかと通訳に聞くと、「オノの刃の逆側で脳天を叩いて頭蓋骨をかち割るんだ」と言っていました。通訳の家族は、家族4人、そうやって一年に馬を1頭、ヤクを2頭、ヤギと羊をあわせて4,5頭殺して暮らしているとのこと。「馬もヤクも、あくまでも動物で、ペットではない。だから殺すことに何もためらいはない」と彼は言い切っていましたが、そう考えることができてこそ初めて遊牧民たちの生活は成り立つんだろうな、と感じました。
(ぼくの隣が通訳で、素子の隣がガイド。通訳の英語も相当片言で、とてもいいやつそうだったガイドとちゃんと話せなかったのが残念。鍋、木製の鍋の持ち手、スプーンなどというほとんど応用の利かないモンゴル語を5日間でマスター)
ホーストレッキングはそんなところでおしまいです。
さて、今日の夜いよいよウランバートルを出ます。夜行列車でロシアとの国境の町スフバートルまで行き、そこでおそらく一泊してから、ロシアのイルクーツクへと向かいます。イルクーツクはおそらくもう西洋の世界。白人ワールドはオーストラリア以来で久しぶりなので、とても新鮮で楽しみです!
(今日は国境の町スフバートルまで)
(標高2500m以上の山の上にも延々と平原が広がっているのがなんか幻想的でした)
都会UBに戻ってきてすでに6日も経ってしまい、すでに北部での経験が古きよき思い出みたいになりつつありますが、色あせないうちにホーストレッキングについて。
以前書いたようにもともとこの北部まで行った目的は、ロシアとの国境近くの山奥深くでトナカイを放牧するツァータンという少数民族に会いに行くためでした。が結論から言うと、残念ながらその目的は果たせずでした。一応トナカイをみるにはみたのですが......ま、詳しくは後述。
とにかく、自力でも行けるらしいからツアーをやめて列車とバスで現場そばの町まで行ったのですが(→ムルン、前回の地図参照)、実はウランバートルで事前にその区域へ入る許可証、パーミットを得ていないといけないことが発覚。つい最近まではその町でも取れたのに、最近それが厳しくなり、UBでないと取れなくなってしまったということでした。非常に残念でしたが、もうどうしようもなさそうだったので、湖のそばのホトガルまで行って、そこから5日間のホーストレッキングをすることに。ホトガルについて、そんな自分たちの経緯を話すと、「湖(ホフスグル湖)のそばにも、山を下りてきている数家族のツァータンがいるよ」とのこと。ツーリスト相手のビジネス目的で湖周辺に住んでるらしいものの、それでもいちおうトナカイの放牧をしながら生活しているようなので、とりあえず彼らに会うことを一つの目的としてトレッキングはスタート。
すべて書くと長くなるのでとりあえず今回は風景編。
5日間のうち前半3日は、平地からスタートしてずっと山登り。そして、3日目の午後に2900mほどの頂上について、それから湖を目指して下山、湖を南下してホトガルまで戻りました。途中の風景はこんな感じ。
(初日にテントを張った場所。モンゴルらしい大草原、だけど、吹きさらしの場所はテントも寒さが厳しいことを実感)
(2日目、平地からだんだん山へ)
(こんな感じで、ゲルが点在)
(3日目、2900mほどの頂上目指してずっと上昇。馬にも大変そうで、ブハブハ言っているが、そんな馬の腹を蹴り、ムチで叩いて走らすことに慣れてくる)
(頂上到着!)
(頂上から。遠くに雨降る様子が)
(頂上から見た湖。これからあそこに向かって下山する)
(下山はところどころ馬を引きながら。ぼくの馬は下りと水と岩場をビビリ気味で、下から紐を引っ張って先を急がそうとすると、こっちにごろりと倒れてきそうでヒヤヒヤ。...ってそんなヤワじゃないんだろうけど)
頂上を越えて、下山する途中から「そろそろ近くにツァータン(トナカイの人々)が出てきそうだ」ということになり、期待が高まりました。というのも、ツァータンは、ツーリスト目的で湖のそばにいるらしいとはいえ、トナカイによる放牧生活を続けてることは確かなので、そのために彼らも随時移動しているわけです。なので一応彼らを「探す」必要があり、そのためにガイドがひとり雨降る中、遠くまで探索に行ってくれました。2時間ほどしてガイドが戻ってくると、「かなり遠くにいるから、今日はここに泊まって明日会いに行こう」と。なんとなく、「おおー、それっぽいぞ」とうれしくなりました。しかし翌日(4日目)、峠のかなり危なそうな道を2時間ほど行った先に着いたツァータンの住む場所には、観光客の車が3台ほども......。そして多くの西洋人たちで賑わっていたのです。「あれ、3日間ハードなホーストレッキングでしかたどり着けないような場所にいるのではなかったのか??」と思うも、もう湖のそばまで下りてきていたので、実はそこは、逆に湖側から簡単に車でいける場所だったのです......。ちょーワイルドなツァータンたちを見たかったのでかなりがっかりでした。でも彼らも冬は山奥に戻り伝統的な生活をするわけであり、また厳しい冬を乗り越えるためにこうして新たな生き方を模索してきたわけなのだから、もちろん一つの生き様としては興味深いし、また、そんな彼らを、暢気に金かけて見に来ている自分たち観光客が何を言えた立場ではないというのもつくづく感じました。
(右側にあるのがツァータンのテント)
(ツァータンとの出会いは予想以上のツーリスティな雰囲気にがっかりも、トナカイはかわいい)
(やっと着いた湖の畔。透明度が40mもあるらしく、翌日馬から見たこの湖は本当にきれいだったのですが、道が険しく写真を撮れず残念。。。)
(湖の畔で泊めてもらった家(といっても、一応そのために余分のゲルを持ってる家族)のおばさんがヤクの乳搾り)
(ぼくらもやらせてもらうが、なかなか難しい)
といったところで、すでに長くて全部読んでもらえなそうな気もするので(いつも読んでくださってる方、ありがとうございます!)、人との出会い編、トレッキングの技術編(?)は次回に。
今日、ロシアとの国境の町スフバートルまでの列車のチケットを購入。明日の夜出発します。その前になんとかもう一度アップしたいです。
(ホフスグル湖(Khovsgol lake)沿いでヤクの乳搾りをする女性)
ウランバートル(UB)から、モンゴル北部のホーストレッキングの日々を終えて、昨日またUBに戻ってきました。とにかく移動がハードで、それに尽きました。。。
20日にUBを発って、モンゴル北部の大きな湖、ホフスグル湖(Khovsgol lake)のほとりの町ホトガル(Khotgal)へ行って、そこから3000m近い山を登って下りるホーストレッキング5日間。それで昨日UBへ帰ってきました。ホーストレッキングはかなり素晴らしく貴重な体験でしたが、それについては次回書くとして、今回はハードだった移動について。
(今回の移動経路)
(UBからエルデネット行きの列車。発車(午後8時50分)直前)
行きは、ウランバートルからまずエルデネット(Erdenet)という町まで夜行列車で11時間、そしてエルデネットからすぐにロシア製の乗り合いバンで12時間でムルン(Moron)へ、ムルンで一泊してさらに3時間弱で、やっと湖のほとりの町ホトガル(Khotgal)到着。列車は快適だったのですが、バンが舗装されていない超悪路を延々と走るため、これが相当ハードでした。これを経なければならないと思うと、行く気をなくすほど。
(エルデネットから12時間乗ったロシア製のバン「フルゴン(Furgon)」。悪路の長距離移動はほとんどこれかジープ(Russian Jeep)。パジェロやランクルもたまに見かける)
(ハードな移動の間の昼食休憩。モンゴル人の子どもと仲良くなるも、なかなか話せず)
(湖の畔の町ホトガル。人の気配がせず、ヤクや犬がたくさんいる。でも居心地はよかった)
で、4泊5日のホーストレッキング。詳細は次回。
(誰もいない広大な風景の中を馬で進み続ける。中央にいるのが素子とガイド。ここはたぶん標高2700mぐらい)
ホーストレッキングが終わって丸一日ホトガルで休んだ後、帰りは、ホトガルから中継地点ムルンまでは、朝7時に出るバンで2時間ちょっと。ムルンで一泊と思ったのですが、朝9時に着いてまた一泊するのもちょっと馬鹿らしいので、そのまま一気にUBまで行ってしまおうと、UBまでいく車を探しに町へ。行きと同じ列車を使う方法でもよかったものの、列車に乗るにしても途中のエルデネットまではバン12時間、UBまではバン18時間ということだったので、それなら18時間で一気に、ということになりました。
(帰りのUB行きのバンを探したムルンの町。このあたりで、「ウランバートルへ行く人を○人探しています」などという放送が次々に流れるので、車を見つけて値段交渉)
英語を話す宿屋のモンゴル人に助けてもらいながらムルンでは半日車探し。そしてやっと見つかり、覚悟を決めて乗り込んだものの、これが想像以上のハードさ。
(やっぱり帰りもこのフルゴン。手前のがぼくらが乗ったもので、これに17人!)
(バンのそばから)
舗装路など全体の1割もなく、山や川の中をガンガン進むこの移動、18時間のはずが、なんと23時間かかってしまいました!しかも、12人乗りのバンに17人乗っての超ギュウギュウ詰めで、足もちゃんと伸ばせず(もっと混むときは20人を超えるとか)。ムルンで出会ったイスラエル人はこの状態で50時間乗ったようで、さすがに「もうモンゴルはいい、、」って状態になってましたが、23時間でも相当厳しかったです。深夜2時すぎ川の中で車が動かなくなったり、急な山道でみな下ろされて真っ暗の中にわかトレッキングする羽目になったり。さらに驚きは運転手。二人いるはずが、ひとりしかいなく、小休止以外の休憩はなしでずっと運転しっぱなし......。
(バンを降りて大きな川を歩いて渡る)
(川を渡ったあとの小休止)
(バンの中はこんな感じ。後ろから5人、5人、4人、3人と四列に乗る(運転手含む)。素子の膝に寄りかかって寝る少年)
でも、モンゴルの広大さやインフラの未整備さを実感するには最適な移動だったかもしれません。
一昨日の午後5時に出て、昨日午後4時にUB着。到着後、宿探しにまた苦戦しぐったりしたものの、最後にはとても快適な宿が見つかり、昨日はぐっすり。疲れもそこそこ取れました。これから数日はUBで、ロシアへの行程を決めたり、原稿を書いたり。だんだんロシアの影響も感じられるようになってきて、ロシアが楽しみになってきてます。
ホーストレッキングについては次回アップします。
●"LinkClub Newsletter"で不定期連載している「国境を往く」のPDF→タイービルマ編、アジア通貨編も最近出ました。これからも国境ネタはしばらくつきなそうです。