外国人が甘粛省内を移動するときには、保険をかけなければならない決まりになっている。出発時に自分で旅行保険に入っているから、掛け金の少ない保険をさらにかける必要はないと思うし、第一、契約内容のよく解らない保険なので、とても理不尽に感じる。今日は、夏河へ移動する日なので、バス停に行ってみたところ、案の定、保険証の提示を求められる。この保険証が、中国の物価から考えると結構高価で、ますます理不尽だ。外国人だけ、しかも、甘粛省だけという条件からして、きっと、保険会社のボスと甘粛省の官僚が「グェッヘッヘ」とばかりにつるんでいるのだなと思う。バス停から少しはなれたところで、傘をさしてじっとバスを待つこと30分。夏河行きのバスが通りかかり、運良く席が一つ空いていて、ごり押しで乗せてもらった。フフっ、保険会社め。
11:15 サンチュ(夏河 Xiahe)着。海抜2,920m、大夏河に沿って広がる町。寒くもなく暑くもなく、ちょうど良い気候。公安や漢人の住居のある門前町を通り抜けると、チベット仏教ゲルク派6大寺の一つであるラブラン寺(拉卜楞寺)が見えてくる。ラブランとは、活仏の「寮」を意味する。6つの学堂(密教、仏教、医学、天文学、法学)、数多くの仏堂、活仏の住居、僧のための僧坊群からなるコンプレックスであって、ラブラン寺が夏河の町の中核をなしている。本堂と僧坊群の一番外周には1174個のマニ車が並び、一周約3kmのこの外周を、巡礼者がマニ車を回しながらコルラしている。とにかく巨大なコンプレックスだ。
大僧坊群の入り口近くにある、チベット人が経営する卓玛旅社に宿をとる。静か&キレイなので、おすすめ。
今までに訪れてきた四川省、甘肃(Gansu)[甘粛]省内の他の場所と異なり、お坊さん達が我が物顔で町にあふれていても、旅行者達にはほとんど目をくれない。ここ夏河は、甘肃省の省都である兰州(Lanzhou)[蘭州]から1日で訪れることが可能なので、中国の田舎ではあまり見かけない西洋人旅行者を多く見かける。日本人はもちろん、西洋人すら全く珍しくないほどに訪れる旅行者が多いのだろう。寺院の領域を一歩出ると、メイン通りに沿って雑貨屋、土産物屋、食堂などが軒を連ね、旅行者にとっては何の不便もない。土産物屋には、絵はがき、カード、チベット風のアクセサリ、ヤクの毛などを編んだ布、マニ車などが所狭しと置いてあって、チベット好きの西洋人がばかばか買っているところをはたで眺めるのもなかなか面白い。
夏河にはチベット人巡礼者が多くやってくるので、チベットの食事を提供する食堂が数多くある。チベット語で何というかは知らないけれど、「太肉面」と中国語表記された品をよく食べた。大抵どこの食堂でも、1杯4元と手頃な値段であるというのが一番の理由だけれど、僕にとってはなかなか魅力の品だった。あっさりスープに普通の麺が入って、上にヤクの肉塊がのっかっているだけのシンプルなもので、当然ヤク独特の臭いが強い。おまけに、すすけた黄色をした油がスープに溶け出していて、見た目は少々危険な雰囲気。食した直後には、「もうしばらく結構です」な感想を持つのだけれど、半日経過すると、また食べてみようかなと思ってしまう。僕は結構食べたけど、体に良さそうではないので全然おすすめはしないし、よく考えたら、チベット仏教寺院の近くでバクバク肉を食べるのは気が引ける。ラブラン寺の坊さんはバクバク食べてたけれど(全員じゃない)。
ラブラン寺(拉卜楞寺)では、観光客に対する案内サービスを組織だって行っており、時間を決めてツアー形式で本堂内を見学させてくれる。午前9時に本堂の近くの集合場所に集まり23元支払うと、若い坊さんの後につらつらと続いて見学場所をまわる。案内をしてくれる若い坊さんはかなり退屈そうな態度ではあるが、主要なお堂のいくつかを、かなり丁寧な解説付きで見学させてくれる。
もともと、チベット仏教に詳しいわけではなく、ほぼ素人同然な自分ではあるけれど、お堂の空間的演出や、大勢のラマ僧が誦経する様子など、思わず立ち止まってしまう場面に幾度か出くわした。ひときわ大きな本堂の中に一歩立ち入ると、ランプに使われているヤクバターの香りがモワッとくる。堂内は薄暗く、横方向に14本、奥行き方向に10本の柱が林立している。柱と柱の間には、誦経の際にラマ僧が腰を下ろすためのマット状のものが、奥行き方向に向かって伸びている。お堂の中央付近の天井は、周囲よりひときわ高くなっていて、天井の段差の部分にある天窓を通して、太陽の光がピンポイントで射し込んでいる。壁面には、一面にお経の収納棚があったり、仏像が並んでいたり。そして、低い声の誦経が響く。あまりにも、チベット寺院のプロトタイプなイメージに近く、新しい発見のようなものが無かったので少々残念であったが、本物を目の前に見られたことは良い経験だったし、チケットが格好良いのでよしとする。
緑度母菩薩像 | 帕当巴佛 | 佛祖释迦牟尼像 | 弥勒佛像 |
「上海」という名の自転車をレンタルして、夏河から小1時間ほどのところにある桑科草原へ。名前は軽快だけれど、この自転車のペダルの重さは特上級。一人だとさびしいので宿で知り合った人を誘って、ゆっくりゆっくりゆるい坂をのぼって行く。知り合った人というのは男性ですけど。
時折、坊さんをきゅうきゅうに積載したトラックが、砂埃を巻き上げながら僕らの自転車の脇を通り過ぎて行く。荷台にいっぱいの坊さん達はきまって、「 (^-^*))。。。きゃぁきゃぁ!。。。((*^-^)きゃぁきゃぁ 」という歓喜の声を発しながら、細かい色とりどりの紙片を空中にばら撒いている。トラックの荷台はさぞ気持ち良いのだろうけれど、いろんなところが少々過剰気味。
桑科草原に行ったのは良いものの、ものすごい積乱雲がどんどんと迫ってくる。悪い予感がしたので、急いで「上海」のペダルをこいで夏河までおりて帰ってきた。案の定、1時間ほどスコールに見舞われる。僕は、寒いところで水シャワーを浴びるのが大嫌いなので、2週間ほど風呂と無縁な生活を送っていたところで、ありがたいスコールになった。雨が止むと、すぐにまた陽がさしてきた。
夏河の上流側には、山のすそにへばりつくようにして小さな村があって、おそらく油を採るための菜の花が満開の時期を迎えている。こういうところでは、大抵、遠慮というものを知らない子供がどこからともなく複数やってきて、しばらく相手をさせられることになる。ほっぺが赤くて、かわいらしい。
高台に上ると、夏河と村の様子が一望できる。上から見ると、どの家にも四角い中庭が設けられているのがよくわかる。斜面に沿って、壁を共有しながら寄り添うようにして家が整列している。もちろん、お決まりの牛の臭いなどもきちんとするし、適度に生活感が漂っているのはよい。田舎だからといってしまえばそれまでだが、何もすることが無い感がたまらない。
甘粛省の省都、兰州(蘭州 lanzhou)へ向けて朝一のバスに乗り込む。標高が下がるにつれて、チベット色が徐々に薄れていき、昼には完全にチベット文化圏を抜けたことを実感する。2週間ぶりの漢人の町。
蘭州飯店に宿をとったのだが、そこでマヌエルというスペイン人と同室になった。彼は、英語の先生をしながらジャーナリストとして各地を転々と旅していて、僕がこれから向かうウルムチ方面からやってきたそうな。恥ずかしながら、日本語をしゃべらない外国のおかたと、さしで夕飯を食べたのは今日が初めてで、僕の人生で記念すべき日だったかもしれない。そんなことは知らないマヌエルは、酔っぱらって上機嫌のご様子だ。
蘭州の人々は、僕が今までに通ってきたどの大都市の人々よりも、概して人当たりがよいように思う。なにか、向こう側からも、僕のことを一生懸命理解してくれようとする意思を感じる。シルクロードだからかな?関係ないか。
蘭州にきたら、蘭州牛肉麺(lan zhou niu rou mian)を食べるといい。蘭州ラーメンともいい、町中いたるところにこれを出す屋台やお店が出ている。蘭州にきたら、これを食べないてはない。注文してから、ビヨーンビヨーンと麺を伸ばしてくれて、さっと茹でたら出来上がり。香菜(シャンツァイ・パクチー)のってます。一杯1.7元と激安、うまい。
蘭州の街の中央には、黄河が走っている。蘭州の見所といえば、甘粛省博物館と白塔山公園が有名で、宿から歩いて行ってみようと出発した。が、ちょっと回り道をして迷っているうちに黄河にたどり着き、博物館や公園よりも、初めて出会った黄河になんとなく惹かれて、ずっと黄河沿いを散歩してみた。
黄河は、黄色というよりも濃い赤茶色をしていて、河岸には同じ色の泥が積もっている。蘭州の空気もなんとなく同じ色をしていて埃っぽい。流れがかなりスピーディーで、川面をじっと見ていると、突然渦が発生したり、何か海坊主がでてくるときのように水面がもわっと膨らんだりと変化が激しい。全く水が流れているという感じではなくて、粘土の生き物のように見えてくる。
ずっと水の表面をみて過ごしてしまうなんて、少々旅行ボケしてきたかもしれないという危機感をもつ。
中国の宿には開水というものがある。熱い湯の入った魔法瓶ポットが必ずといって良いほど宿の各部屋に用意されている。魔法瓶の中の湯を指して「開水」というのか、はたまた、熱い湯の入った魔法瓶があるという事実を指して「開水」というのか疑問に思ったので調べてみると、狭義には沸騰したお湯を指して「開水」というらしい。狭義にはというのは、沸騰しているお湯だけではなくて、一度沸騰させて冷やした水のことも涼開水などと言ったりするそうで、つまり、一旦沸騰させて飲料水として適するようにした水をとにかく「開水」というらしい。
どんなにサービスの無い宿であっても開水だけは備えられていることが多い。中国国内を旅行中、僕はマイカップと数種のお茶葉を常に持ち歩き、宿にたどりつく度においしいお茶を飲むことができた。中国の旅に、マイカップと茶葉は必携だ。
今日は張掖(zhang ye)へ向けて出発する日。18:00発。久々の中国寝台バスだ。
昨晩の18時に出発した中国寝台バスは順調に走り出した。夜中に車道脇の食堂で夕食をとったあとは、すかさず熟睡してしまった。まだ明るくなる前の未明の頃、走っているはずのバスが静かなので目が覚めた。エンジンはかかっているのだが、バスはずっと止まったままだ。窓を開けて首を出して前後を見てみると、前にも後ろにも車がびっしりでいっこうに動く気配が無い。
そのうちに陽が昇り、車中ではいつものように、ピーナッツのカス&ひまわりの種のカス+タバコの吸殻が床を埋め尽くそうかというときになっても、たまに少しだけ動くばかり。太陽が南中するころ、道の脇で工事をしていて片側通行になっている箇所を通過。なんのことはなく、ただの工事で大渋滞が起こっていただけという、この上なくつまらないオチ。
それでも渋滞を抜けると、だだっ広い荒地を、遠くに山脈が見を見ながらずいぶんなスピードで飛ばすのは、とても気持ちがいい。张掖(Zhang ye 張掖)に到着したのは、夕方18時。暖かいのに空気が乾燥していて、ずいぶんと内陸部までやってきたのだなと思う。
早朝6:30に起きて、木塔寺(mu ta si)へ行ってみる。街のつくりは、典型的な中国の街と、さして変わり映えないけれど、明らかに空気がカラッとしていて空がきれいなので、広々として心地よい印象を受ける。マルコポーロは、道中ここで一年を過ごしたそうだ。当時より張掖が、旅人にとって滞在するのに居心地がよかった証かもしれない。
今までに中国で見てきた「塔」は、どれも最近になって下手に再建、修復されたものらしく、プロポーションが不細工で、概してペンキで派手に着色されており、お世辞にも美しいとはいえないものばかり。ここ木塔寺は1507年に建造され靖遠楼とも呼ばれてきた8角9層の塔。張掖のシンボルとして今もきちんとメンテナンスされているようで、敷地内は緑が多く、塔は堂々としていて格好よい。
塔の上空を大きな黒い鳥がたくさん舞っていて、まさに砂漠の中のシンボルだなと思った。ハシブトカラスでないことを祈る。
黒水国漢墓(黑水国汉墓 hei shui guo han mu)という遺跡を訪ねてみた。情報がほとんどなく、見所が整備されているということもないので、訪れる人も少ないらしい。
張掖からバスに乗って15~20分で遺跡への下車地点に到着。バスを途中下車して、西瓜、とうもろこし、ヒマワリなどが植わっている畑のあぜ道を通って十分ほど歩くと、高さ5,6メートルほどはある櫓台が見えてきた。城壁のすぐそばにまで砂が迫っていて、今にも埋もれてしまいそう。一見ただの荒野にしか見えない一帯だけれど、ここからは想像力の世界。家屋らしきものは見当たらないものの、城壁、門、櫓などは比較的よく原型をとどめた状態で残っており、城壁の内側には、家々の壁であったと思われるレンガ片、土器の破片などが散乱している。
「遺跡マニア、及び、よっぽど暇な人 対象限定」な遺跡の可能性が高し!
が、たどり着くまでの道のりがややこしいので書き留めておいた
張掖バスターミナルより、高台(gao tai)、平原堡(ping yuan bao)、临泽(lin ze)行きのバスに乗り、道に沿って約14.5km(15-20分)。進行方向に向かって右側の道程が「2743」と書かれている場所で降ろしてもらう。幹線道路より左に折れる道に入り、一つ目の角を右へ曲がったら、黒い砂利道にあたるまで直進する。黒い砂利道に達したら、左に折れてまっすぐつきあたり。
バス運賃は、2元、帰りはなぜか4元
嘉峪関(嘉峪关 jia yu guan)へバス移動。バス運賃は、黙っていると2倍採られそうになるが、ゴネるとすぐに普通料金になる。バスの具合は快調で、午後2時半には到着した。
嘉峪関はちょっとした町で、スーパーなどもあったりする。6月はじめに旅に出てからというもの、耳の穴を一度も掃除していないことに気がついたので、スーパーに買いに行った。店員さんに尋ねて耳掻きを見せてもらったところ、なんと金属製。耳掻きにはめっぽう弱い自分なので、耳の中が耐えられるかどうかが心配だったけれど、素材を選ぶ贅沢はないらしい。
宿のドミトリーで、たまたま日本人4名と同部屋になった。皆で、近くの屋台市場に夕食を食べに出た。もちろん中華も健在だが、このあたりまで西へ来ると、ウイグルの食文化も入ってくる。羊肉(yang rou)中心のメニュー。オーソドックスなのは、串に刺して焼いたものに唐辛子の粉末をたっぷりかけて頂くケバブ。羊なので癖はあるけれど、慣れてしまえば、その癖がおいしく感じる。陽気な中国人のおじちゃん達と席をともにしているうちに、ドリンキングゲームが始まった。つまるところ、ビールの一気飲み。ただ飲むのでは申し訳ないので、ゲームをして負けたら飲むという、飲酒の習慣のある国ならおそらくどこにでもあるルール。あとは覚えてません。ところで、羊の脳みその丸焼きは、少々ビジュアルに訴えるものがあった。
朝7時起床。宿のレンタル自転車を借りて、万里長城第一墩(万里长城第一墩 wan li chang cheng di yi dun)に向かう。自転車で万里の長城の端っこに行くなんて、なんて素敵なサイクリングなんだろうと、胸を躍らせペダルをこいだ。毎度のことですが、重厚な骨組みに、肉厚で幅広のタイヤからなる中国製自転車は、ペダルがとっても重い。嘉峪関の町を抜けると、強烈な向かい風と、砂利にタイヤをとられるのとで、歩いたほうが楽なんじゃないかと、何度もこのポンコツ自転車のことを責めたくなった。ずーと遠くの山脈のところまで、何も視界をさえぎるものがないので、果たして自分が前に進んでいるのか不安になるくらいだ。
万里長城第一墩がどこにあるのか、大体の見当で来てしまったので、目的地らしきものが見当たらず、だんだんと不安になってきた。が、宿を出発して、自転車をこぐこと約1時間半、それらしきものが見えてきた。近くまで来て悟ったのだが、北大河(bei da he)をはさんで、万里長城第一墩とは反対岸に来てしまった。しまった、と一瞬思ったが、きっと反対側から見る機会のほうが貴重だ。とくに、長城が河岸の絶壁でさっくりと切れているところなど、こっち側からしか見れないだろうし。
きっと、長城作った人達は、「ここまで壁作っとけば大丈夫だね」と互いに語っただろう。「そうだね」といってあげたい。
万里の長城の西の果ては万里長城第一墩であって、北大河の絶壁で途絶えていた(ホントは、これより西方にも、細かな断片が残っているらしい・・・)。長城西端の関所が嘉峪関(嘉峪关 jia yu guan)と呼ばれ、それが現在でもなお、町の名前となっているわけだ。秦の時代に着工された長城は、明代になって嘉峪関にまで達した。嘉峪関は1372年着工とある。
宿から自転車にのって、嘉峪関に向かう。市中からは、西のほうへ、ゆっくりとペダルをこいで30分程度のところにある。巨大な建造物を目の当たりにし、まさに、沙漠の中の城という印象を持った。西端の、国防の要だっただけのことはある。
ここから、地平線の霞にまで延びてゆく城壁を見て、中国の広さを改めて実感するとともに、このような建造物を作ってしまうエネルギーにただ感服するばかりだ。
嘉峪関の関内には緑の多い中庭が設けられていて、ここだけが沙漠のオアシスのようになっている。門の上部には楼が建っているが、これは、不恰好。
城壁の上部は幅数メートルの通路になっていて、誰でもが、周囲を見渡しながら、一周することができる。その通路を歩いて城壁の角を通り過ぎようとしたとき、建造物の中から声がするので覗いてみると、中年のおやじさんとシャツのはだけた青年が、たむろっている。僕のオリジナルな中国語で会話をしているうちに、ビールがやってきて、ドリンキングゲームが始まった。このおやじさん、役所のお偉いさんなのだと。平日の昼間から一体何してるんだろうと思ったけれど、休学して旅している自分に人のことは言えぬ。写真は日中友好の図。
嘉峪関から敦煌(dun huang)へ、丸一日の移動。嘉峪関の町を出発すると、周囲は人っ子一人いない荒野が果てしなく続く。ずいぶんと旧式のバスで、窓がいくつも壊れており、心地よい風が車内を通り抜ける。
心地よいなどと、思っていたのが甘かった。午前10時をまわったころから、ぐんぐんと気温が上昇していくのが体感できるほどに、急激に車内環境が悪化していった。羽織っていたものを全て脱ぎ捨て、埃色のT-Shirts一枚になっても暑い。、熱風が車内を渦巻き、まるでドライヤーの風を全身に浴びているよう。汗が出ても、出た瞬間に蒸発してしまうのだろうか?まったく体がべとつかないのに、体内の水分がどんどんと搾り出されていくようだ。おまけに、夕方陽が傾くと、バスの正面から僕の正面めがけて、光線が差し込んでくる。
午後5時に敦煌に到着。髪の毛、顔、首、腕・・・露出している部分全てが、かぴかぴに乾燥し、塩の結晶と沙漠の埃によって表面がコーティングされているのがわかる。瓜の水分と、屋台のスープがとってもありがたい。
今日の教訓 : 水は大事
敦煌は甘粛省の西端に位置し、古来東西の人々が行き交うシルクロードの交差点であり続けた場所。ここから先へは、天山北路、天山南路に分岐しはるか西へと続く。80年代にNHKで放映された「シルクロード」の影響もあって、知名度も高く、中国において日本人に最も人気のある観光地の一つになっている。
莫高窟( mo gao ku )は、月の沙漠として知られる鳴沙山( 鸣沙山 ming sha shan )東端にある石の断崖に開鑿された、巨大な石窟群だ。敦煌市内からひっきりなしにマイクロバスが発着し、現地は中国人、日本人、西欧人でごったがえしている。
International Dunhuang Projectは、敦煌及び、周辺のシルクロードにおいて発見された、総数10万点を超える書物、壁画、遺物を、クオリティの高いイメージとともにアーカイブ、一般公開していこうというプロジェクト。
ヒマワリの種はおいしい。中身がふっくらと詰まったヒマワリの種を軽く炒っていただく。その小さな容積からは想像できない、奥深い香りと甘みがたまらない。中国では、移動中の旅の友としてだけではなく、日常的にもよくつまんでいる人を見かける。僕などは、外の殻と中身をうまく分離させてやるために指先の補助が必要だが、中国の人は、殻ごと口の中に放り込み、しばらくすると、割れた殻だけがピュッと口から飛び出てくる。ちなみに、漢字にすると、日本では向日葵とあらわすが、中国では朝陽花(朝阳花 chao yang hua)とあらわす。感性の微妙な違いが面白い。
自転車で敦煌の郊外を巡っていると、太陽光線を浴びすぎて巨大化したヒマワリたちや、太陽光線を浴びすぎて労働意欲ゼロのロバ君などに会うことができる。
涼しくなる頃を見計らい、北京に留学中の克さん、剛くんの2人と共に、自転車に乗って鳴沙山(ming sha shan)へ。近くの草むらに自転車を止め、目指す方角に歩いてゆくと、ポプラ並木の隙間にドカーンと砂山が現れてくる。
ビーチサンダル履きの足を砂にとられながらも、巨大な鳴沙山を上ってゆく。砂漠というものを全く知らない僕にとっては、目に見えないほどに細かい砂が山になっているだけで、全く新しい体験。興奮気味に息を切らしながらも、一直線に天辺めがけて駆けていった。
鳴沙山の谷あいには、月牙泉(yue ya quan)という三日月形の泉があって、山頂からはその形がよくわかる。谷底のほうには、観光客やら、観光客を乗せるための駱駝やらが、わんさか見える。剛君にカメラを手渡して、谷底めがけてダッシュで駆け下りた。