at 広西省->雲南省昆明, 中国 on 17/Jun/1999
列車の出発は 17:51なので、しばらく時間がある。駅に荷物を預けて、南寧の街中にある白龍公園へ。やしの木の下で、マージャン、楽器の演奏、デート、家族サービス、踊っている人など様々。なにか奇妙だ。
中国の街で、元来漢人の住んでいなかった場所では、新市街、旧市街という形で、そこに住む民族によって街が完全に分離している。ここ元陽も、バス停のある周辺は漢人の街であって、本来ここに街が存在していたわけではない。中国政府の少数民族への対応に関して、少数民族の不満の声があることは確かなようだ。ここからさらに西へ200km程行った所に、西双版纳 ( xi shuang ban na ) という地域があって、独立運動が存在するという話を複数から耳にした。西双版纳まで行くと、文化的に(少数民族の)、ほぼタイ、ラオスと同じである。
政府としては、ここの棚田を世界遺産として登録しようと、あらゆる手段を試みているらしい。どうも、中国のお役所の手が入ると、その場所の魅力が半減してしまう。中国人観光客と、外国人観光客とで観光地に求めるものが違うと言われてしまえばそれまでかもしれない。でも、僕の感じたところでは、はっきり言ってセンスが感じられない。人工物は映画のセットのように、自然は箱庭のようになってしまうのだ。住んでいた人まで変わってしまわないことを願う。でも、ここの棚田だけはスゴイ。よくも、こんなに棚段を作ったものだと感心するし、見た目も美しい。
こんな山の上で夕陽に照らされながらダンスをしている。よく考えてみると、とっても贅沢なシチュエーションだ。
午後のバスで、再び昆明へ戻る。
中国の中長距離バスでは、寝台バスというジャンルが確立されている。「すごいじゃあないか」という声が聞こえそうだが、これがなかなか曲者なのだ。一人あたり、畳の半分ほどのスペースが割り当てられ、乗客は完全に横になることが出来る。横になるということは、つまり、結果的に靴を脱ぐことになる。すると、たちまち車内には芳香が漂い始め、出発する頃には嗅覚が幾分麻痺してしまう。全部が全部のバスがそのような状況であるというわけではなく、沿岸部ではあまり無いことではあるが、田舎に行くほどその確率は高くなる。今回のバスは中国で3度目なので、既に心構えも出来ているから大丈夫。でも、最初に洗礼を受けたときには、「うっ、マジ」としか発声できなかった。でも今は、窓締め切っていても全然、平気。人間、慣れるものです。
あまりにも有名な你好便所も、既にそつなくこなしている。元陽では、僕の人生において最強のトイレに出会った。まず、あまりに足元が危険で、穴まで絶対にたどり着けない。ここでするくらいなら、外で人に見られながらのほうがまだマシ。みんな、穴までたどり着けないものだから、危険なエリアがどんどんトイレの周辺に広がって、専らみんなトイレの入り口で用を足している。何のためのトイレなんだよ!と思ってしまうが、郷にいれば郷に従え、長いものには巻かれろ、である。
早朝6時過ぎ、昆明到着。
途中でパンクしたりで、予想以上に時間がかかってしまった。しかし、寝台バスは慣れると、以外と楽なものだ。道が良ければの話だけれど。先日宿泊していた同じ宿へチェックインし、9時頃まで眠る。
昆明の観光地らしいところにも行ってみようということで、西寺塔を訪れた。唐の時代(824-859)建立の塔。塔の周囲は小さな公園のようになっていて、一番外周に塀が巡らされている。入場するには、その塀の門をくぐらなければならない。塔のプロポーションは格好良いものではないと思った。なんだか、ずんぐりむっくりなのだ。
塔よりも、塔の周囲の広場で、皆熱心に麻雀に勤しんでいたのが印象的。
こんな意匠初めて見た!この地下道を降りて行くとどんなことが待ち受けているんだろうかと想像力をかき立ててくれる入り口だ。しかし、この「ようこその手」、あまりにもリアルすぎないだろうか?だって、手相の皺まで、克明に再現されている。「welcome」の気持ちはよく伝わってきますけど・・・。ひょっとして、売ってたりして。
中国政府の西部大開発計画、世界博覧会、1997年に丽江 (lijiang)が世界遺産認定という、3つの要因と関係するのだろうか。高速道路は出来たばかり、マイクロバスは100km/h のスピードで走る。中国の南端にまで来て、このような高速道路を走るとは予想だにしなかった。僅か6時間で下关に到着。
今、中国には、お金があるところにはある、無いところにはない。ものすごいスピードで開発が進む一方、その波において行かれたものは取り残されるばかり。よく、沿岸部と内陸部の経済格差が指摘されるが、もう少しミクロな視点、例えば雲南省のなかだけで見ても、経済格差によって生じた矛盾はいたるところに見られる。雲南の省都昆明と、雲南の地方における物価を比較した場合、物によっては2倍程度異なることもあった。大理の街を散策する。しかし、またもやテーマパークである。
土産物屋さんが軒を連ね、物売り、旅行者が闊歩する。lonely planet China 6th edition によると、大理は陽朔とならんで、中国で西洋人旅行者がバケーションを楽しむことのできる、数少ない場所のひとつだとある。ここでは、かなり'本物に近い'、カプチーノ、ピザ、チーズバーガー、親子丼、等々を食べられるのだが、これは北京でもなかなか無いレベルかもしれない。アジアの国々において、多くの場合、現地人が経営する食堂で出されるバックパッカー向け西洋料理、日本料理には期待を裏切られる。過去の旅で、カレー味の親子丼、チーズの入ったすき焼き、スパゲティと偽ったうどん、などいろいろ食べてきた僕の主観であるが、大理はレベルが高いと思う。
「おいしい中華料理を食べられるのに、何故、親子丼を食べるのか?」 もっともな問いだ。でも、食べられるときに食べておかないと、次に醤油風味に出会えるのはいつになるか全くわからない。西洋人からすると、日本人は醤油の臭いがするらしい。山手線なんて、醤油の臭いが充満しているらしい。僕たち日本人の体の成分には、きっと醤油が含まれていて、幾分、中毒性すらあるんじゃないかと思う。
大理には、外国人バックパッカーだけではなく、中国人の観光客も大勢やってくる。石林や陽朔と異なる点として、街がそれぞれのニーズに合わせるようにエリアが分かれていて、両方が共存しているところが面白い。外国人バックパッカーが中国の観光文化に触れることもできるし、逆も可能。食堂などは、中国人観光客と外国人バックパッカーが混在している。
大理からバスで30分ほど北へ行ったところに、周城 ( Zhoucheng ) という町がある。この町は藍染めで有名ということを聞いていたので、ぜひその現場を見てみたいと思い、訪ねた。幹線道路から少し入ったところに大きな木が2株そびえていて、その周囲は広場になっている。そこにはどこからともなく人が集まり、露天も出ている。どうやら此処が町の中心のようだ。町というよりも村といったほうが僕等の感覚には近いかもしれない。藍染めを行っている民家を探して歩き回るのだが、いっこうに見つからない。この辺りの民家は、どこも周りが高い塀で囲まれていて、外からは内部の様子が全くうかがい知れない。中国的だと言ってしまえばそれまでだが、中が見えないぶん、家や蔵の妻壁の意匠に様々なバリエーションがあって、外から唯一見える部分だけはオリジナリティを出そうとしている様がおもしろいなと思った。
歩き回るうちに、藍染めの民家を見つける手がかりを発見した。道の脇に水路があるのだけれど、そこが藍の色で染まっている水路と、そうでない水路があることに気づいた。つまり、藍の色で染まっている水路に沿って、藍が流れてくる方向にさかのぼってゆけば、たどり着けるということだ。とある藍染めの民家の中庭に入れてもらい、藍染めの様子を見せてもらった。そこには、味噌を仕込むときのような大きなたるが3つあって、染まり具合の程度によって順番に染め上げてゆく。初めのほうは、緑色をしていたものが徐々に染め上げられていくにつれ、濃い藍の色に染まってゆく。藍の強烈な香りをはじめて体験した。
藍染めの布を3枚ほど購入させてもらい、周城をあとにする。そこから喜州 (xizhou) という村まで徒歩で約2時間ほど。町の雰囲気は周城と似ているのだが、道がより狭くて迷路状になっており、道の両脇は民家の塀でふさがれているので、さながらイスラムの迷路状都市を彷彿させる。閉じれば閉じるほど、唯一外から見えるファサードの意匠は凝ったものになるのだろう。格子をはめたり、様々な形の風穴を開けたり。
喜州の村の入り口にあるバニヤンの大木は地霊を感じさせるごとく立派なものだ。おそらく白鷺なのだが、木の上に大量の巣を設けていて、糞で葉っぱも地面も真っ白だ。
自転車のことを、中国語で書くと、自行车 (zixingche) である。
自行车をレンタルして、洱海湖 (erhai hu) へ。大理の東側はずーーっと田圃が広がっている。湖沿いの村までは、思った以上に距離があった。村は湖に沿って細長く伸びている。
この時間の流れの遅さは一体なんだろう。老人たちが何をするでもなく、たむろして話をしている。僕がそばを歩いていても、いっこうに彼らの視界に触れていないらしい。
と、どこからともなく香ばしい香りがしてくる。屋台の揚げ物屋だ。洱海湖では、魚やえびがよく採れるらしく、湖の岸辺には、漁のためのボートが連なって停泊している。きっと採ったばかりのえびなのだろう。くしに刺して唐揚げにする。塩と唐辛子で味付けをして、わずか3分で出来上がり。それはそれは至福のひと時でありました。
朝8時のバスで大理を発ち、麗江 ( 丽江 lijiang ) まで約5時間。
バスは、新市街に到着したので、いわゆる古城と呼ばれる旧市街のなかにある宿へ。てっぺんにラジオの放送アンテナのある小高い丘を越えると、目の前に古城の景色が広がった。石畳の細い路地を通って丘から街へ下って行く。古城の中心、四方街のすぐそばにある、四方客栈という民家を改造した宿にチェックイン。丽江へ来たら、是非旧市街にいくつかある民家宿に宿泊することをお勧めする。宿の話はまた後日。
丽江は、主に雲南や四川に住んでいる纳西 (naxi) 族という少数民族の拠点として有名である。現存唯一の象形文字とされ、TRON OSの「超漢字」で扱うことが出来るということで一時話題にもなった、トンパ (东巴) 文字は纳西族によって継承されてきたものだ。最近まで母系家族制度が受け継がれてきたので、今でも纳西族の社会生活にはその影響が見られる。言葉についても、例えば、ある名詞に「女性」という単語を付け加えると、その名詞のイメージがより強い印象に拡張されるらしい。「石」+「女性」は「巨石、岩」を、「石」+「男性」は「砂利や小石」などと解釈される。僕等は砂利なのだ。
古城の周辺を探索していると、それぞれの民家の軒先に奇妙な板がぶら下がっているのをみつけた。時計の針のようでもあるし、象徴的なもののようでもある。どういった由来なのか、ご存じの方いらっしゃいますか?
纳西族の伝統的民家は、漢族、ペー族、チベット族の民家の伝統的な様式の影響を強く受け、特徴的な形態をもつ。正面とわきの家屋、そして目隠しの壁によって囲まれた「三合院」が主な形で、「三坊一照壁」とも呼ばれるが、四合院もすくなくない。家屋に囲まれた中庭には、花卉が植わって、とても落ち着きのある空間をつくっている。今回宿泊した宿、四方客栈は、元々大きな民家であったところを宿に改造したもので、玄関や中庭などのつくりがそのまま活かされていて、この上なく素晴らしい宿だと思った。朱に塗られた柱梁が鮮やかで、観音開きの戸や窓にはきれいな図案が精緻に透かし彫りされている。部屋は中庭に面した1階であったのだが、部屋の向かいの「一照壁」にあたる部分に小さな戸がついていて、そこを開くと目の前を水路が流れているという贅沢さだ。
丽江は水の町としても有名だ。古城一帯に網目のように水路が張り巡らされていて、現在でも、野菜を洗ったり、洗濯をしたりと、生活の中で活かされている。丽江のすぐ北側にある玉龍雪山(5,596m)からの水が流れ込むので、常に綺麗な水が流れ続けている。また、下流において長江に合流する金沙江(jinshajiang)という川のほとりにあるということもあって、水には非常に恵まれた土地である。
でも、大雨には要注意。昨日の晩に突然大雨が降りだして、水路の水かさがあっという間に道のレベルにまで増加。呑気にビビンパを食べていた僕は、夜遅くまで宿に戻れなくなってしまったので。
古城の西側にある獅子山 (lion hill)という小高い丘に登ると、古城の風景を一望できる。僕は、朝夕と通った。瓦屋根が折り重なるようにして連続するのだけれど、屋根の向きが道の曲線にそってすこしずつ変化していったり、屋根の色が朝夕で変化したりと、見ていて飽きない。丘に近づくにつれて屋根が大きくなっているようで、日当たりのいい場所にはお金持ちが住むんだなあとか、煙の立っているところはきっとおいしい食堂なんだろうなあ、などといろいろ想像して楽しむことが出来る。きっと10回も見たら飽きるかもしれないが、5回はいけるハズ。
四方街の角にある家に住んでいた人が亡くなられたようだ。二人の男が、大きな木をくり貫いて棺を作っていた。昨日の晩、今日と、爆竹の音が鳴り響く。
Dr.Ho という名の漢方で有名な医者が住んでいるという、百沙 (baisha)村へ行く。丽江からは、バスで20分程度のところ。バスを降りて、村の奥のほうへしばらく歩いてゆくと、Dr.Hoらしい人物が声をかけてきたが、予想と大きく印象が異なっていて、とっても胡散臭いなあと直感で感じてしまったので、あしらってしまった。あとで判ったことだが、写真をみてやっぱりニセモノだったことが判明した。でも、ひょっとしたら弟子だったかもしれないな。
ひたすら山のほうへ歩いてゆくと、草っぱらが広がっていて、黄色や青の小さな花がたくさん咲いている。突然、土砂降りの雨に見舞われて、びしょ濡れになるし、寒いし、おなか空いたし、ずいぶんと無目的に歩いてしまったことを少し後悔しながら引き返した。