チベットの旅の報告が終わったばかりですが、また明日から小旅行に行ってきます。中国は10月1日から一週間、国慶節で休み。それにあわせて日本から友達が遊びに来てくれていて、彼女と三人で雲南省南部の秘境(?)に行きます。
バ美(バーメイ、「バ」は土へんに貝)村というのが目的地で、そこは洞窟を船で抜けた向こうにある小さな村とのこと。
国慶節は、どこも中国人観光客であふれかえるようなので、メジャーどこは避けて、この場所に。まだ来る人も少ないようで、なかなかいい雰囲気が期待されます。
詳細はまた帰ってきてから。。。
以下写真(↓)は、今日、昆明でのもの。
(浪人時代から10年来の雄生の友達、中野さん。漢方薬局で、気管支にいい薬はないかと聞いてみると、早速診察され、気管支が炎症を起こしていると言われ、大量の薬を調合される。脈を取って舌を見ただけで分かるのかと、知識のない私たちは非常に不思議がる。「今は、別に気管支悪くないのに……」と中野さん)
(街の中心街で按摩。ここにいた按摩師はみな目が見えない人たち。二人ともこの後、よい眠気に襲われ、確かにいい効果があったよう)
<8月17日~8月26日> 松潘、成都
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月17日>
紅原からバスで7時間で松潘に到着。松潘の町はいかにも観光地といった感じで、町全体が古い町並み風に整備されていた。観光客も多く、外国人が好きそうなカフェもある。町は漢族が多く、チベット文化圏はもう抜けたという感じ。
<8月18日~19日>
(馬、オナラがすごかった)
松潘には馬トレッキングをしにきたので、早速トレッキングに参加。本当は2泊くらいはしたかったのですが、ガイドブックに載っている価格(1日60元)からだいぶ値上がりしていたので(1日100元+α)、1泊で我慢。私たち二人に対して馬6頭、ガイド2人がついてきた。馬に乗るのは二人とも(記憶にある限り)初めて。馬は勝手に暴走したりはしなかったけど、たまにとことこ駆け出したり、木が生い茂っているところも上に乗っている人のことはお構いなしに歩いていくので(あたりまえだけど)木の露で体がすごく濡れてしまった。しばらくして綱の使い方を覚えたらすこしはましになった。雨は降っていなかったものの、雨季で地面がべちゃべちゃになっていて、結構急な山道だったけど、それでも馬は鼻を鳴らしながらかまわずのしのし登っていく。馬の強靭さにちょっと感動してしまいました。
山を二つ越えたあたりで1泊。
(中央のおじさん二人がガイド。このテントの中で寝る。全部おじさんたちがやってくれて、ご飯も半ば現地調達(山に生えてるキノコなど)という感じ。テントや馬など、持ち物はすべてガイドの個人的な物らしく、彼らはこのガイドをすることでエージェントから1日60元もらえるとのこと。冬の間は客が減るため、彼らの生活は厳しくなる。「どうするの?」と聞いてみると、「自分で薪割って……自給自足だよ」と苦笑)
次の日は同じ道を帰る。下りは馬に乗れないため半分馬に乗って、半分はべちゃべちゃ道を歩いた。足首まで泥につかりながらで何度も転びながら。。。帰ってきたときには泥まみれになっていた。
このツアーは楽しかったものの、馬での登山はかなり危険に感じた。馬は道なき道を必死に登ってくれたが、何度か(馬が)足を滑らせたりして、ヒヤッとすることも少なくなかった。ガイドのおじさんに、馬が転ぶことはあるのか、と聞くと、
「たまにある」とのこと。
そして私たちは無事だったものの、案の上、翌日落馬した人に出会う。成都行きのバスで一緒になった大きなアメリカ人のおじさんだったが、彼は落馬し腰かどこかの骨を折って松葉杖になっていた。ま、彼はかなり太っていた巨漢だったので、馬にとって重すぎたのかもしれない。
このツアー、日本だったらまずあり得ないでしょう。
<8月21日~23日>
松潘から成都へ。都会にきて、もう旅が終わりだということを実感。成都では買い物をしたり、かの有名な陳麻婆豆腐に行ったり、宿でのんびりしたりして過ごしました。
(麻婆豆腐発祥の店「陳麻婆豆腐」。辛くて食べられないと聞いていたので唐辛子を減らしてもらったら、おいしく食べられた。さすがに評判通りのおいしさだった)
<8月24日~25日>
(友人との久々の再会。蓮池の前で。「巻いて巻いて」などの業界用語までマスターしていた彼の日本語力にまた驚嘆)
成都出身で、現在東京で働いている雄生の友人、劉君がたまたま里帰りをするとのことで、24日から2泊彼のところに泊めてもらいました。彼の親戚と会ったり、生家を見に行ったり、ちょっとだけ中国人の家族の一員になったような気分を味わった。劉君は日本のテレビ局で働いていて、日本語もペラペラ、すっかり日本になじんでいるため、二年半ぶりに中国に戻ってきてひどいカルチャーショックを受けていた。中国は今、経済的にも右肩上がりでイケイケな時期。その中で経済的な豊かさを求めて生きる彼の家族と、日本でディレクターとして夢を追う彼の間のギャップは予想以上に大きかったらしい。
これは自分たちにとってもいえることだが、海外で長期的に暮らすことの意味をいろいろと考えさせられる瞬間だったりしました。
(劉君の親戚会にも飛び入り参加。白酒で乾杯)
(この日かなり豪華な中華料理に大満足。旅最後の晩御飯がこんな豪華になったのは感動的)
(豪華ディナーの後は中国の風習に従いお茶屋さんでトランプ。みんな真剣にトランプに興じる。昆明でもこういう風景はよく見かけるが、参加したのは初めて)
(劉君と劉君ママと。劉君は非常に親思い)
<8月26日>
友人家族に別れを告げ、夜行列車で昆明へ。20時間はあっという間に過ぎ、朝7時に昆明着。1ヶ月ちょっとぶりの我が家に帰り、"やっぱり我が家が一番"という気分を味わいなんだか中国に我が家があることを不思議に感じでしまいました。
今回は久しぶりの旅だったため、だらだらせずに好奇心も旺盛なまま1ヶ月ちょっと過ごすことができ、約1年前に感じていた旅に対する倦怠感とは無縁のまま昆明に戻れました。できればもうちょっと旅していたかった。
10月1日は中国は国慶節(日本でいう建国記念日)で一週間ほど休みで、また日本から友人が遊びにくる予定なので、今度は雲南の他の場所へ行ってみる予定です。
先週の土曜日、昆明でおそらく初めての、中国で就職を考えている日本人向けの就職セミナーがありました。主催者は、日本の大手就職斡旋会社の上海、広州支社。私たちは何気に来年上海あたりで仕事をしてお金を稼ごうなどとも目論んでいるので、参加してみました。
久々の日本的雰囲気。面接受ける場合「白の靴下ではダメだ」とか「スーツの中のシャツは半そではダメだ」などの話を聞き、非常に新鮮に聞こえてしまう。昆明ではネクタイをした人すらおそらく半年で一度見たか見ないかなので、ほんとにそんな細かいところが関係あるのか、とびっくりさせられました。そして、びっくりしている自分に気づきながら「中国に留学している人の弱みは、(日本的な)社会人としてのマナーや常識が欠けがちなこと」という指摘に非常に納得させられました。
その後二人とも個人面談に参加。素子は、これまでの仕事経験を生かせば、結構すぐに見つかりそうな雰囲気。また、できればルポライターだけでやっていきたいぼくは、日本人駐在員の子供を相手に(日本の)受験勉強を教えるような塾の講師のアルバイトなんかが上海などであればいいかも、と相談してみると、そんな仕事を探している人事態ほとんどいないらしく、需要があるのかは不明。ただ、上海なんかでは大学で日本語を教えると結構悪くない給料がもらえるようで、そういう口があれば受験産業の片棒を担ぐよりはいいかな、と思ってます。
今回のセミナーは昆明ではなかなかの高級ホテルが会場となりました。で、セミナーのために広州からやってきたこの斡旋会社の男性と立ち話をしているときに、「このホテルが昆明では一番高級なんですか」と聞かれたのですが、そのとき彼の意味するところが、<昆明もなかなかいいホテルがあるんですね>ということかと勘違いし、思わず「これは二番目なんですよ。もっといいのがもう一つあります。昆明もなかなかあなどれませんよ!」といってしまいました。
すると、実は彼は、そのホテルがあまりに大したことないため、「これで高級ホテルなんですか。。。」という意味で言っていることに気づき、すごいカルチャーショックを感じました。自分が完全に田舎モンになってしまったことを実感。果たして上海でやっていけるのか。。。
雄生
昨日は(っていってもまだ夜中なので今日ですが)、中秋節でした。いわゆる中秋の名月うんぬんってやつですが、中国ではこれが意外にもかなり大きな祭りの日で、夜は花火が上がったり、店が結構休みだったり、という感じです。
そして、月餅(げっぺい)を食べる。学校からも一人ずつ月餅が配られるという念の入りよう。あまり美味くないのが残念ですが(中村屋の月餅食べたいなあ~)。
さらに9月18日は、1931年の柳条湖事件の日であり、中国にとっては大きな記念日になっているようです。午前中には、それを記念する警報が町中に鳴り響きました。
<8月11日~8月16日> 馬尓康、阿バ、 紅原
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月11日>
色達から馬尓康までのバスが一杯だったため、中国人旅行者5人+ラマ(チベット仏僧)2人と車をシェアして馬尓康へ。車をチャーターしたら高くつくので、もう一日色達で待ってバスで行こうかとも思ったのですが、その日に絶対馬尓康に行かないといけなかった中国人旅行者たちに、"あなたたちが乗らなかったら一人当たりの額が高くなるから迷惑なんだけど"と言われた。でも私たちも高いお金払うのはいやだし。彼らが結構強引だったので半分むかつきながらも、日本人的"協調性"を発揮して一緒に乗ることにした。
馬尓康へは5時間半で到着。聞いていたとおり大きな町。久しぶりの都会で、食事のバラエティーも多くちょっとうきうき。
ここでは洗濯したりした以外は特に何もせずに2泊した。なので写真もありません。
<8月13日>
7時間弱バスに乗り、草原が綺麗という阿バへ。地元のラマに教えられた宿へ。その宿がとても綺麗で、シーツも清潔だし、トイレもちゃんとしてるしすごく快適に過ごせた。これで一人15元(200円くらい)。コストパフォーマンス的には今までで一番。
(阿バへ向かう途中のバスから。雲が下に見えたので、高度はかなり高かったはず。中国のバスは喫煙OKなため、車内は常に煙でもくもく。気分が悪くなりそうなので窓を開けるのだけど、窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。後ろの人に窓をぴしゃりと閉められることも。煙と寒さとの戦いです)
<8月14日>
ボン教(チベットに仏教が伝来する前からあったという民間信仰の宗教)のチベット最大といわれるお寺、ナルシィゴンパへ。仏教との違いは、お参りするときに回る方向が違う、等があるらしいですが、今は殆ど違いはないとのこと。
(これがボン教の卍。半時計周りにお参りする)
草原を一時間ほど歩いて(坂道ではなかったのでピクニック気分)到着。眺めがいい丘に登って、持ってきたお昼を食べようと思ったら、空から大きな鷹が何羽も旋回しながら近づいてくる。確実に狙われている。怖くなって建物の物陰に隠れた。後で聞いたところによると、その丘はどうも鳥葬(亡くなった人の肉を鷹などに食べさせるという葬式)が行われている場所らしい。その日の朝も、小さな子供が亡くなって、鳥葬が行われたとのこと。
ゴンパは結構大きかったのですが、中は閑散としていた。夏休みで多くのラマが里帰りをしているからだそう。適当に歩き回って帰途に。行きに芝生で休んでいたチベタンが、帰りも同じ場所に座っていた。かれこれ3、4時間は経っていたので、何をしているのかと聞くと、彼の目の前の野菜畑を指さして、"自分の野菜を眺めてるんだ"。一緒に話そうよ、と言われたのですが、二人とも疲れていたのでちょっと話して別れた。彼はいつまであそこに座ってたんだろう…。
(ゴンパまでの道)
(黄色い花が綺麗に咲いていた)
<8月15日>
紅原へ。3時間ほどで到着。ここも大草原。バスが大草原をゆっくりゆっくり走った先に町がある。でも特にそれ以外は何もない。ここ辺りからだんだん漢民族が増えてきたけど、まだまだチベタンワールド。ヤク牛のミルクから作ったヨーグルトを食べたらすごく発酵していて舌がびりびりした。昆明ではプレーンヨーグルトがないので、久しぶりのプレーンヨーグルトは結構うれしい。
<8月16日>
この日は草原を歩くことに。途中チベタンの村である家でお茶をもらった。
(お茶をご馳走になった家にいた子供たち。この次の日から学校がはじまるとか。夏休み最後の一日を満喫していたところにお邪魔してしまったよう)
<8月8日~8月10日> 色達(セルタ、スーダー)
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月8日>
朝9時すぎ。色達に向かうべく、道でバスを待つ。塔公にはバス停がないので、通り過ぎていくバスに手を振って停めてもらう。そういう場合って大抵席がすでに埋まっていて、通路に幼稚園児が座るようなプラスチックのイスを出してもらって座ることが多いのですが、運良くがらがらのバスが通りかかった。そしてそのバスにたまたま30代後半くらいの日本人サラリーマンが乗っていた。会社のリフレッシュ休暇という制度を利用して、2週間の夏休みが取れたため、四川省のチベット文化圏を旅しているとのこと。見るからに理系の彼は静かに地図を広げたり高度計をいじったりしていた。
途中の炉霍(ルフオ)まで5時間ほどかかったので、ここで1泊するつもりだったのですが、色達まで行くバンが見つかり、それに乗れることに。運転手が他に乗る人を探している間、近くのお店に入ってお茶を飲んでいたら、車に乗り込むのが最後になってしまった。そしたら車はすでに一杯で、一人分の席しかない!"これじゃ乗れないよ"というと、一人が膝の上に乗れば大丈夫だと言ってくる。体勢的にかなりきつかったが、ごねていても仕方ないのでそれで行くことに。途中の道は意外と良く、ちゃんと舗装されていたけれど、雨季のためか川が決壊しているところもあり、かなりアドベンチャーだった。
(4WDでもないのにこれは無理がある。左端に写っているのは、心配そうに眺める他の車の運転手)
この川越がたたったのか、車はこのあとかなり調子悪くなり、エンジン音もおかしいし、漆黒の闇の中、ヘッドライトが点いたり消えたりでさっきの川越よりももっとアドベンチャーだった。かなりヒヤヒヤ。結局色達に到着したのは夜遅く、そこから宿探しをするも、たまたま建県50周年のお祭りの最終日だったらしく、宿はどこも一杯。そしてシャワー屋さんのシャワー室に布団を敷いてもらい、一晩を明かすことに。でもさすがにシャワー屋だけあって、ちゃんと洗面台があってお湯も出たから結構良かったかも。朝起きると、シャワーからちょっとずつもれていた水で、荷物の一部がぬれていた。。。
<8月9日>
次の日は天気があまりよくなかったため、ここの一番の見所である巨大ゴンパを見に行くのはやめにして、宿探しをしてから町を散策することに。
(町は民族衣装を着たチベタンで溢れ返っていた。ここもまた時代劇にでも紛れ込んだような感じ。なのに町は2-3年前に政府が新しくしたとのことで、整然としている。なかなか近代的。そのギャップがおもしろかった)
(町の中心の広場。朝からここに来て座ってだべったりしているチベタンたち)
<8月10日>
この日は雲はところどころにあったものの割と天気が良く、ゴンパに行くことに。外国人は入れないことになっているため、正面入り口からではなく、裏山を登って入る。理塘で会った友人に大体ルートを聞いていたので、迷うことなくすんなりいけた。でも町のタクシー運転手やホテルの人たちもこのルートのことを知っていたので、ここに来る外国人は多いのだろう。
(まず草原を3キロほど歩く。放牧しているチベタンのテントもちらほら)
(ゴンパに住むチベタンがゴンパの反対側にあるふもとの川まで下りて来て洗濯していた)
草原3キロのあと1時間弱の急な山道を登る。あまりに急で酸素が薄くて(色達は標高3800m)、途中から「チヨコレイト」をしながら登った。結構気分転換になる。すれ違うラマ(僧侶)からは不思議な眼でみられたけど。
そして山を登りきってみると……
その向こう側に、一つの町のような巨大なゴンパが!
(登り切った辺りから見たラルーン・ガル・ゴンパ。登り切るまでは全く何も見えないので、いきなり現れたこの風景に感動。写真がしょぼくて残念。周りの小さな家々はここに住むラマの家)
(全部ラマの家。この中に雑貨屋さんや八百屋さんがあったり食堂があったり、ここで生活の全てを済ませられる。右端には、取り壊された家の跡がある。ここがあまりに巨大化するのを恐れた中国政府が一部のラマを強制的に立ち退かせたのだとか。だから以前はもっと広大だったらしい)
(この場所は"ラマの楽園"という感じで本当に赤いローブをまとったラマしかいない。私たちには浮世離れした場所のように感じられた)
うろうろしていたら、16歳の少年ラマが声をかけてきて、彼の家に招待してくれた。4畳2間ほどの小さなうちに、同い年くらいのラマと二人で住んでいた。この近くの町(といっても、ここから5時間以上だけど)の出身で、ラマになりたくて一人でここに来たという。1ヶ月20元(260円くらい)で暮らし(ちょっと信じがたいものの、確かにそう言っていた)、新聞やニュースに接するのは1年に1回実家に帰るときだけ。だからか、"日本から来た"というと、"そこってここから遠いんでしょ?中国なの?外国なの?"と聞かれた。ダライ・ラマのことを聞いてみると、それが誰だかよくわからない様子。その後、彼の本の間に挟んであったダライ・ラマ写真を見せてくれて、"彼のこと?"と聞いてきた。中国政府の監視の下でチベット仏教の抱えている問題を垣間見た気がした。
(帰り道。洗濯を終えてお茶を飲んでいた尼僧にお茶を勧められてしばし交流。でもチベット語はチンプンカンプンの私たちと、普通話(私たちが習っている中国語)を解さない彼女たちには共通の言葉はなく、全てジェスチャーで会話)
(写真を撮ろうとしたら、ちょっと待ってーと言って身だしなみを整えだした。ちゃんと靴下、靴も履いて、花を摘んでポーズ)
彼女たちは写真を撮られたことが本当にうれしかったみたい。これから、彼女たちにこれらの写真を送るつもりです。ちゃんと届くかな……??
<8月6日~8月7日> 塔公(ターゴン)
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<8月6日>
ホースレースが終わった次の日の早朝、理塘を出発した。昆明の友達とも、雲南省から10日ほど一緒に旅を続けてきたスイス人のヤエルとも、ここで別れることになり、今回初めて二人きりになった。
5時間ほどのバスの旅で、新都橋(シンドゥーチャオ)まで。そこで車を見つけ、1時間ほどで塔公に着いた。大きな草原で知られる塔公だが、町はとてもこじんまりとしていた。車の運転手が教えてくれた宿に泊まり、町の寺(ゴンパ)を見物し、草原まで歩いてみる。ちなみに宿には水道はなく、すべて井戸水。そして、男女共用トイレにはドアがなく(もともとあったのに壊れてなくなってた)…。あまり人来ないから大丈夫よ、といわれたけど、そんなもの?
(この写真は理塘のゴンパの中だが、チベット仏教の寺の中はこんな感じ。赤が基調でとてもカラフル)
(ゴンパの中にある像の表情は多様。これは確かブッダではない他の人物だったような)
(草原の中にポツリとゴンパ、その後ろには雪山が)
(前の写真の右端に写っている二人のチベタン。草原の上でのんびりと暖かい午後の日差しを楽しんでいた。女性が手に持っているのはマニ車。ホントに多くのチベタンがいつでもどこでも回している)
<8月7日>
前の日に見つけておいた、とてもいい感じの宿にこの日移る。その後町の少し外側を散策。1、2時間歩いた後、近くに見えたチベタン村に歩いて行くと、そこでなんと獰猛そうな犬に猛ダッシュで追いかけられた!
チベットには本当に犬が多く、番犬として飼われている犬は、どれもが知らない人を見ると吠えまくり、襲ってきそうな雰囲気なので(でも大抵は鎖で繋がれている)かなり怖い。また中国の犬は狂犬病の検査などあまりしてないようで、この辺りの小さな村じゃすぐに必要な治療をすることもできないだろうから(狂犬病の犬に噛まれたら24時間以内にある注射をしなければならないとのこと。発症したら99%死ぬらしい)、噛まれたらマジでヤバい。
そんな状況の中、知らずにある家に近づいた途端、真っ黒な犬がなぜだか憤激したような怒声を上げながら猛ダッシュで追ってきた。このときはほんとにびっくりし、一瞬死が頭にちらつくぐらいの恐怖感に襲われながらも、叫んで犬を威嚇しながら(といっても、実のところは恐ろしさのあまりに出てしまった悲鳴に近かったけど、、)こっちも猛ダッシュ。幸い砂利の坂道だったせいか、しばらくしたら追ってこなくなり、ほんとーーーーにほっとした。そしてそれ以後、雄生は獣恐怖症になり、犬を見るたびにビクビクするようになってしまった。
その後、小さな女の子に誘われて、チベタンのうちにお邪魔する。
(女の子とその両親。両親は、羊の毛をつなぎ合わせて服を作っていた)
(ここで出してくれた食べ物。中央の粉がチベタンの主食であるツァンパ。これとヤクのバターと左のチーズみたいなものをお茶に混ぜたのが、手前の液体。これを飲む。慣れないとなかなか厳しい味だが、砂糖をまぜてなんとか飲んだ)
塔公では、店や宿で働く子供たちの姿が目立ち、なぜかみなとても感じがよくしっかりしていた。この家に連れてきてくれた写真の女の子もその一人。
が、この家からの帰り、彼女に送ってもらって三人で歩いていたときのこと。別れ際に彼女が小さな声で、「お金がないから10元くれないか」と言ってくる。それまで全くそういう雰囲気を匂わせていなかったので、私たちは彼女が言ったらしいことがとても意外で寂しい気持ちになり、思わず「え?どういうこと?」と聞き返してしまった。すると彼女は恥ずかしそうに、「何か買うものあったら一緒に買いに行こうか?」と言い直して、お金のことはもう言わなかった。
もしかしたら、家族の誰かに彼らから金をもらってこい、といわれたのかもしれないし、また、誘われたときからもともとそのつもりだったのかもしれない。でも、心から優しくしてくれているように見えた彼女は、きっとそんなつもりじゃなかったんだろうという気がする。だから彼女は、すぐに撤回したのではないかと。
少し後味の悪い別れになってしまって残念だった。でもこういうとき自分たちには、お金を要求してくる側を簡単に非難することは決して出来ないように思う。日本人の私たちと彼らの間には、やっぱりある種の不平等さがあり、こういうときは、ある程度のお金を持って世界を見て回っているということに対して少し後ろめたさのようなものを感じてしまうのでした。
<7月30日~8月5日> 理塘
(地図は前回アップ分を参照。黄色い部分の右端が理塘です)
理塘到着の次の日、ここで待ち合わせをしていた昆明の友達(日本人)に連絡をとろうとネットカフェに行くと、友達発見。小さな町なのでばったり会えるかもね、なんて話してたけどホントに会えるとは。理塘では彼らと共に過ごした。
(2泊目に休めの宿を探してうろうろしていたら、チベタンが手招きする。聞いてみると、彼の家に1泊40元で泊まらせてくれるとのこと。お祭りで宿の値段が高騰していたので、40元はまあ悪くないかも。早速行ってみると、お金持ちそうな感じの家でとても快適そう。30元まで値切ってスイス人のヤエルと共に3人でここに滞在することに。でもこんな綺麗な家にもシャワーはなかった。理塘には温泉が沸いていたので、滞在中何度か通いました。かすかに硫黄のにおいがした)
(この家のおばあちゃん。マニ車 ‐ これを1回転させるとお経を1回読んだことになるという、チベット仏教の御気楽ツール ‐ を回すおばあちゃん。彼女の座っているイスが、夜にはベッドになる。これがチベット式)
お祭りは8月1日にあるという情報しかなかったものの、実は1日から1週間続くとのこと。2,3泊してすぐに出ようと思ってたけれど、予定を変更して5日までお祭りを見て6日に出ることに。というのも、5日に一番大きなホースレースがあると聞いていたからです。
(お祭りの舞台になる草原。チベタンは期間中こうやってテントを張ってここで寝泊りする)
(生まれたての赤ちゃんも家族と一緒にお祭りを見にやってくる)
(これはレースではなく、ショー。民族衣装を来て馬で駆ける)
(それを見学するチベタン&観光客)
(お昼に芝生でくつろぐ)
(時間が空くとこの家族のテントに入れてもらい、バター茶をご馳走になった。お礼に写真を撮ってあげるととても喜んでくれた)
(ある日、みな黄色い花を持って何かを待っている。何があるのか、とたずねたら今日は活仏がやって来るとのこと)
(これが活仏。普通に車で登場。祈るようにして彼を見る人もあり、偉大な人なんだと実感)
5日は朝からお祭りを見に行くも、その日は小雨が降っていてすごく寒い。耐え切れずにチベタンのテントでお茶を飲んでいた。そしたら外で"わぁー!"という歓声が……。急いで外に出たら、遠くの方に馬が…。5日まで待ったのにこれで終わり?ちょっと悲しくなった。もちろん写真も撮れず。でも理塘は楽しかったので良しとしよう。
(空いた時間に理塘にあるゴンパを訪れると、小さな僧侶が案内してくれた)
(歩いていると手をつないでくる。かわいい。)
(泊まっていた家の人が、ある日、今日は神山に登りに行く日だ、と言って、町から車で15分くらい走ったところにあるこの山に私たちも一緒に連れて行ってくれた。旧正月と8月のこの日、年に2回だけ登って頂上でお祈りをするらしい。頂上までは30分くらいで行けたけど、結構急でしかも標高4000メートル弱。息が切れた。僧侶がたくさん登っていたけど、彼らもはーはー言ってた)
理塘では、インドに住むダライ・ラマに会うべく、歩いて中国・ネパール間の国境を越えてインドのダラムサラへ行ったという若者に出会った。それは、パスポートがなく(今、チベタンはパスポートを得るのが難しいらしい)違法での越境のため、5000mとか6000m級のヒマラヤ山脈を通っていくことになる。当然かなり危険で、20人中10人が途中で死んだこともあるという。ただ、彼はダライ・ラマに会いに行くのなら死ぬのも怖くないと普通に語る。彼は10代のころ、ダライ・ラマの元で3年修行して戻ってきて、このお祭りが終わったら再度行きたい、と言ってたので、今頃はどこかを歩いているのかもしれません。
彼が言うには、チベタンは中国にいてもなかなか職がなく、ここにいても仕方がない。確かに漢族は仕事の口はあるけれど、その一方チベタンが追いやられているという構図を感じられないこともなかった。
また、チベタンは親日派が多い。"私たちは日本人だ"というと、殆どのチベタンがちょっとうれしそうな顔をしてくれる。時には"私たちは特に日本人が大好きなんです"とも言ってもらえる。漢族が多いところにいたときには、反応が全く正反対なので、このチベタンワールドに来てからなんだか居心地もよく感じてしまいました。
(青い線が全体の旅行経路。青い線の南端の昆明から時計回りに周りました。黄色く囲った部分が今回アップする分です)
<7月28日~7月30日> 巴塘⇒理塘
<7月28日、29日>
チベット自治区の芒康(マルカム)で公安に見つかり、逃れた後、その日のうちに四川省へ向けて移動開始。四川省の第一の目的地なる巴塘(バタン)行きのバスはすでに朝8時に出てしまっていたので、ヒッチハイクで行くべくそっち方面に向かう車に探し始めるが、幸運なことに、昼ごろ巴塘に向かうバンがあるという情報を聞きつけそれに乗ることに。
途中の景色は特にきれいではなく道もかなり悪かったものの、3時間ほどで順調に巴塘に着いた。すぐに宿が見つかる。この日は久々に奮発してシャワーのついている部屋に泊まり、二日ぶりにさっぱり。8月1日から理塘で始まるホースレースを見に行くために、30日に理塘入りするつもりだったので、ここ巴塘で二泊した。
巴塘は、四川省からチベット自治区に入るときの四川省側の最後の町(ある程度の大きさのものでは)。なので、もちろんかなりの田舎なのだけど、なぜか「カフェ文化」が発達していた。といってももちろん西洋風ではなく中国のお茶屋さんの延長なのだけど、通りにテーブルとイスが沢山並んでいて、みんなそこでダラダラと過ごしてる。その雰囲気が気に入り、私たちも「カフェ」で本を読んでのんびり過ごす。また、町の食堂に行くとここに住んでいるというアメリカ人にも出会い、ネットカフェもいくつかあり、こんな田舎にいってもなかなか発達しているものだと、少し驚いてしまった。
巴塘での二日目(29日)は、少し安い(一人10元)ドミトリーの部屋に移る。出稼ぎ風中国人のおじさん2人と一緒の4人部屋。この日辺りから二人とも宿を選ぶ際のストライクゾーンがかなり広くなっていることを実感。中国式トイレ・シャワーに抵抗を覚えていた去年のことが懐かしい。この辺りはシャワーなどないのが基本、トイレも共同の中国式。ただ、この辺では概してシーツ、枕カバーを洗ってなさそうなのだけはちょっと気になった。臭う。寝袋でしのぐ。
残念ながら巴塘では写真を撮りませんでした。
<7月30日>
さて、いよいよ理塘へ移動。朝6時半発のバスで6時間ほどで着くと聞いていたのだが、、、なんと、山道でトラブル発生!雨が降ってドロドロになった細い山道を進んでいると、途中で大きなトラックがぬかるみにハマって動けなくなっていた。仕方ないので、大勢でそのトラックを引き上げるために悪戦苦闘。すると、待ちきれなくなったのか、別の一台のトラックが後ろから強行突破を試みたようで、今度はそのトラックもはまってしまう。その二台を動かすために、そこでなんと6時間ほども身動きとれず。
(この有様。泥を取り除く⇒動かす⇒少し動いてまたハマる。その繰り返しを何時間も…)
(ただ、そこから見えた景色はきれいだった)
私たちは朝ごはんも食べてなかったのでかなりの空腹に悩まされる。待っている間運転手が、そこら辺に生えている小さな木の実を食べ始め、周りの人たちが真剣な顔で「どう?食べられる?」と聞いていたときには、マジでヤバいかも、と思ってしまった。結局午後3時ごろに動き出した。
4時ごろにやっとご飯休憩となり、その後もう一度ちょっとしたトラブルがあったりで、理塘に着いたのはなんと夜9時半すぎ。。。15時間近い移動になってしまった。
(でも、途中の景色はかなりきれいなところが多かった。草原、雪山、ヤク、羊の中にポツリポツリとチベタンの家が見える)
(これもバスから。写真がしょぼくて広大さが全く伝わりませんが、、、)
この日が今回の旅で最もハードな移動だった。トラブルを抜けた後もかなり道は悪く、時には川の中も走り、オーストラリア辺りでは、この移動自体が「アドベンチャー・ツアー」なんかになってしまいそうな勢い。そこを大型バスで抜ける、というアンバランスさが面白かった。
この夜、理塘に着いてから宿探しをするも、ホースレースを見に来た人で値段は高騰。3人部屋、トイレなし、シャワー別料金で一人50元というびっくりの値段のところ以外見つからず、そこに一泊。ただ、シーツはとても清潔だったので、気持ちよく寝られた。ちなみにスイス人のヤエルとはまだ一緒。三人とも大疲労。
理塘の内容も一緒にと思っていたものの、長くなりすぎたので今回はここまでに。