リッチな休暇の日々を終えて、また移動しました。
といってもいまいるのは、すでに4月に1週間ほどお世話になったトゥン(Thun)という街の女性二人の家。本当は、Wadenswilの純子・パトリック邸からRolle(Lausanneのそば)のマシュー・ニコル邸へ移る間にThunの近くを通るので(地図参照)、ちょっと寄っていこうっていうつもりだったのだけれど、日程的にそれが無理になったので、じゃ、マシュー・ニコルの後でということになり、今後の予定が決まってなかったということもあり、戻ってきてしまいました。
その「今後の予定」というのが最近のぼくら二人の第一のトピックでした。2003年に日本を出てすでに5年を越え、昨年の中国出発からも気付いたらすでにほぼ1年。もともとヨーロッパに着いたらどこか半年とかぐらい滞在して(真冬のキルギスタンにいたころはアラスカに滞在なんていう案も浮上しましたが、ヨーロッパの春を経験したらやはりマイナス20度なんていう世界には戻れなそうです)、それを最後に帰ろうと思い、ここ4ヶ月ほどヨーロッパで住める場所、というのを探していました。
もともと素子が、ヨーロッパで犬関係の勉強かボランティアをしたい(ドッグトレーニングなど)というのがあり、それが出来る場所をということで定住場所を探していたのですが(ぼくにとっては、あまり辺鄙な場所でなくそれなりに英語が通じる場所であれば、書くことは続けられるので場所選びは素子の条件優先)、友達の助けを借りつつ各国でリサーチを続け、関連施設に連絡を取ってみたものの、どうもボランティアなどという形で長期滞在できそうな場所は見つからずでした(やはりその国の言葉を話せないと厳しそう)。
という経過を経て、もうヨーロッパ滞在はあきらめるかという方向に進み始め(4ヶ月ほど友達のうちを転々としてなんとなく住んだ気になれたということもあって)、じゃあ、どうするか、という話がずっと続いていました。
正直、体力的にも気力的にも旅に相当疲れてしまったぼくは、どこかに定住して腰をすえて仕事をしたいという気が高まっていることもあり、ヨーロッパに定住しないならいますぐに帰国してもいいという気分になりかけていましたが、ヨーロッパで満たされなかった素子の動物熱がアフリカに向かい、帰国する前にアフリカで野生動物を満喫してから帰ろう、という案が浮上し、いろんな議論を経た結果、年内帰国を目標に、それまで4ヶ月ほどアフリカを見てこよう、という方向にいま固まりつつあります。そう心を決めて下調べなどを始めたのはまだ一週間前ぐらいのことです。
とりあえずおそらくスペインからモロッコに渡るものの、目指すのがアフリカ南部となるため、その後すべてを陸路で行く気力は多分なさそうで、適当に飛ばしながらケニアあたりを目指すことになりそうです。
というわけで、ここトゥンでは予防接種、保険の延長、ルートの検討などという事務作業が中心になりそうです。今週いっぱいでここを出てアフリカに向けて出発したいです。
この"From 2003"も本当に終盤に近づいてきた感じですが、もうちょっとがんばります!
(マシュー&ニコルの快適な家で、最後のみなでのディナーに日本食を作りました。寿司、つくねハンバーグ、カレーと作り、結構気に入ってもらえました。西洋人には、いつもてりやきソースは大好評。寿司は、おそらく西洋人の間では、おいしさよりも「文化的」な象徴みたいになってるんじゃないか、という気も……。寿司好きだとインテリっぽいみたいな(笑)。盆栽や日本庭園っていうのも似たようなにおいがします)
(ジュネーブ湖(ルマン湖)で、ボートを降りて泳ぐ素子。アルプスの山々、ワイン畑、フランス国境などが周囲に見渡せる贅沢なひととき)
いまいるのは、スイスのフランス語圏。フランスとの国境の目の前のジュネーブと、少しスイス内部に入ったローザンヌとの間のRolleという小さな町にいます。ここについたのは14日で、ここに住んでいるのは、バンバリーのボランティア友達のマシュー&ニコル。オランダでお世話になったクリステルも同日に合流してここ一週間は5人でリッチなスイスホリデーを満喫してます。
(いまいるRolleはジュネーブ(Geneva)とローザンヌ(Lausanne)の間。ジュネーブ、ローザンヌに沿って、その南側にジュネーブ湖(ルマン湖)があります。別荘はその南側に広がるアルプスの山中)
昨日、マシューとニコルの友達の"シャレー"(別荘)での5日間ほどの山生活から、再びRolleに戻ってきたところです。
マシューとニコルの二人は、まさに絵になる美男美女で優等生カップル。マシューはこないだ36になり、ニコルもまもなく35歳になるけれど、4年前と違いはなく、素敵です。ニコルは、まれに見る品のある整った顔立ちで、ハリウッド女優でもおかしくない気がします。
スイスでは大学に行く人は10~20%ほど(マシュー、ニコル談)と少なく、大学を出ているだけでかなりエリート階層に入るようなのですが、二人とも大学出の金融関係が本職だったので(いまは二人とも転職)、実にリッチ。決して"いかにも金持ち"っていう感じではなく、なんかスイスの上品な上流階級の人たち、というイメージがぴったりのような。
初日14日は、Rolleの二人のマンションに泊めてもらい、翌日は、マシューの家族が住むヴェヴェー(Vevey)へ。家族もこれまた全く嫌味のない"余裕あふるる"豊かな雰囲気というか、「こういう家族だとマシューのような人物が育つんだな」とクリステルと納得。
ジュネーブ湖が家から徒歩数分で、マシューパパのモーターボートで早速クルージング。湖の真ん中に行って、水に入って"ワインクーラー浮き輪"の中にワインを浮かべて、向こうには雪山とフランスが見えて……ってやってたら、ちょっとハリウッドスターになった気分(笑)。そのまま対岸のスイス・フランス国境まで行って、水の中に立つ城をみてという超豪華プライベートボートツアーを満喫しました。
(湖から見えるスイス・フランス国境。中央の小さな川が境界に。スイスはEUではないので、国境が一応それなりにあって、車も止まらないといけないとのこと)
ま、でも、1、2時間そういうのをやってみた結果、こういうのはたまーにやるからいいんであって、日常になったら面白くないのかもなと、正直思ったり。超庶民派の自分はこういうのより、もうちょっと生活感が溢れて泥臭い方が落ち着くなっていうの率直な感想。羨望半分(笑)。
とはいえ、マシューとニコルもワイルドなバックパッカーで、バンバリーで会ったときは会社をやめての長期旅行中で、そのときの旅は一度も帰らず2年半!インドやネパールで3週間のトレッキングをしたりというアウトドアかつタフなキャラ。全然ぼくらよりタフです。
(マシューの友達の家で。これはこの夫婦の自家製ワイン。この辺は、ワインが有名で、多くの家庭が自分のワイン畑を持っています。この夫婦のワイン畑は1000㎡で、1000本のワインを毎年作れるのに相当する広さとのこと)
その翌日16日からは、マシューの友達の別荘へ。これまたスイス・イタリアとの国境をなすアルプスのそばの谷にあり、言うまでもなくゴージャス。昼間はハイキングやドライブや泳ぎに行き、夜は、スイス料理、アジア料理、オランダ料理をかわりばんこに作って、毎晩夜遅くまで飲んで、何か話題を見つけては議論して、という日々です。ちなみに、マシューとニコルはスイス人っぽいのかどうなのか、感覚が日本人と似てるというか、それほどガツガツ議論するキャラではなく、あまり強いことは言わないようにする、という雰囲気の人たちだけれど、クリステルはオランダ人の中でも特に率直な方で、とにかくストレート。ぼくも5年前に比べてかなりストレートに何でも言うようになった自分に気付かされますが、こういう感覚の違いが一番議論の中心のネタになって、しかも面白いです。
マシューとニコルは、仕事をやめて2年半も旅をしていて、旅を終えてスイスに帰るに当たってはいろいろと葛藤があったようです。ニコルはまだ旅を続けたかったのに対して、マシューはスイスに帰って落ち着いた仕事ライフに戻りたかったとのこと。どうやって旅を締めくくるかについてぼくらもいまよく考えているため、二人とはそんな話もよくしてます。やはり旅生活がこれだけ長くなると、なかなか区切りがつかないのがやっかいなところです。が、とりあえずぼくらが今後どうするかについては、少しだけ具体化してきました。
ちなみに、マシューとニコルは会社を辞めて2年半もふらふらしていたのにもかかわらず、帰ったら前の会社(二人とも国際的な大手監査法人に勤めていた)がポストを用意してくれたというのが驚き。結局ニコルは会社を移ったけれど、マシューは、旅立つ前から一つ昇進したポストから再スタートを切ったとのこと。うーーん、これはスイスならではのことなのか、二人の実力のなせるわざなのか、すごいです。。。
(マシューとセントバーナード)
18日は、スイス・イタリアの山越えの国境にあるセント・バーナード発祥の地へ。あの犬のセント・バーナードです。セント・バーナードは、ここの山越えをする人たちの救助のために僧侶たちが育て、僧侶とともにこの雪山の中に暮らしながら、救助が必要であれば駆けつけていった、というのが500年以上前のここの発祥だったようです(うるおぼえなので詳細は不確かです)。とにかく、この国境はこれまで通った中でも最もきれいなものの一つでした。
(スイス・イタリアの国境。右の道をずっと正面に向かって歩き、屋根の光る二つ目の建物あたりからがイタリア。ナポレオンの軍もここを越えてスイスにやってきたようです)
19日はマシューの誕生日で、20日はぼくの誕生日だったこともあり、二人の合同誕生会をやり、20日は氷河を見に行って、豪華なシャレーライフは終了しました。
(シャレーで。中央のカップルがマシューとニコルで、その右がオランダ編で度々登場したクリステル)
21日は、マシューの実家のそばにあったチベット人の施設へ、取材の続き。これまでゆっくり話を聞けていなかった僧侶から3時間近く話を聞けました。チベットについての彼の見方やスタンスは、これまで聞いたものとはかなり違うもので、新鮮でした。
(チベット仏教の施設"Rabten Choeling"のディレクター、ゴンサール・リンポチェ(Gonsar Rinpoche))
さて、今日22日は、これからジュネーブでバンバリーのボランティア仲間が集まってのプチ同窓会。
なんだか日々の記録みたいになってしまいましたが。26日(金)にここを出ます。もう残り4日。早い!
(家の近くの城跡でBBQ)
純子&パトリック邸でのスイス湖畔ライフも2週間経ち、明日で終わり。先週は予定通り、スイスにいるチベタンの取材に大部分の時間を割き、あとは他の友だちに会ったり、夕方は湖で泳いだり、締め切りの近い原稿を書いたり、読書をしたり、と普通にここで暮らしているような気分で過ごせました。二人の家はとても居心地がよくて、すでに自分のうちのごとく激しく落ち着いてしまってます。居間を占領してしまって恐縮なのだけれど……。
居間には「ジュンコ文庫」とも呼べそうな日本語書籍群が。いろいろ読みたいなあと思いつつも、これまでああだこうだで読む機会を逸していた古典「竜馬がゆく」を読み始めるも、読み終えることはできずにウェーデンスヴィル出発の日を迎えてしまいます。「竜馬がゆく」、最初は全6巻かなと思っていたら、実は8巻まであることが発覚し、なかなかまとまった時間もとれずで4巻で終わりそう……。他のも一切手をつけられず、残念。
純子ちゃんとパトリックはとても仲良しでこちらも見ていて楽しくなるほどですが、特に純子ちゃんは苦労も少なくないようです。純子ちゃんはラテン系の陽気なノリでどんな世界にでも入っていけそうな人だけれど、ここはスイス独特の言葉の問題が。スイスで最も多く話されているのはスイスジャーマンといって、スイス系のドイツ語。ドイツ語とは言葉も異なるようで、ドイツ語が分かったとしてもスイスジャーマンが分かるというわけではないので、スイス人社会に溶け込んでいくためにはスイスジャーマンを理解することが必要なのですが、スイスジャーマンは書くとドイツ語と同じなため、外国人が習うとすればまずドイツ語ということになります。純子ちゃんも2年のスイス生活でドイツ語はすでにかなりのレベルに達しているのですが、パトリックがスイス人の友達や家族とスイスジャーマンで話し出すと全く理解できないとのことで、なかなか入っていくのが難しいのです。これはおそらくスイスにいる外国人がみな抱える問題のようです。言葉の壁というのは、越えられるようでなかなか本当の意味では越えられない、というのはぼくも常日頃感じてます。とりあえず5年すれば、というのが通説みたいなので、純子ちゃんには日々楽しみつつがんばってもらいたいところ!
最後だった今週末は、車で数時間の湖のところへキャンプに行く予定だったのだけど、天気が悪くて中止に。やはりスイスは国全体が山みたいだからか、天気も変わりやすいようでした。でもその代わりに今日は近くの山へ散策に。さわやかな日曜日。びっくりしたのは、ぽつぽつと草を食みのんびり過ごしているウシたちが散策路へと出てこないようにと通りの端に張ってあるワイヤーに、電気が通っていること。触ってみたら軽く感電し、マジで?って感じでしたが、スイス人にとっては当たり前だとのこと。
霧のかかった森と、散策路と、集められた木材。
そんな山の国だからこそ、チベット人も故郷に通じるものを感じるのか、スイスで心地よく過ごしている様子でした。チベタンの取材は、純子ちゃんらの協力もあって思ってた以上に充実。いきなりの取材だったにもかかわらず、とりあえず6,7人からゆっくりと話をきけました。たまたまそれぞれ事情の違う人で、政府で働いていたスイスチベタンコミュニティの重役から、レストラン経営者、そして亡命者を装ってなんとか入国して働いている若者まで。それぞれ異なるストーリーがあり、とりあえずこの一週間で、スイスの亡命チベット人について、自分なりのぼんやりした像が出来上がってきました。明日からはスイス南部の友達のうちへ移るものの、今月いっぱいスイスにはいるので、ジュネーブあたりでもさらに取材を続けられればと思っています。これをどのような形にするかはまだ未定。
(ダライ・ラマの73歳の誕生日を祝う集まり("Tibet-Institute" in Rikon))
パトリックはプロのシェフで、昨日は彼がスペイン料理を作ってくれました(実は二人はスペインで出会っていて、最初のころ二人の会話はスペイン語。スペインには縁が深い人たちです)豪快にタコを丸ごと茹で、エビの塩焼きとトルティージャ(スペイン風オムレツ)。さっぱりとした味付けで素材の味を活かすプロっぽい料理を堪能しました。タコは1.2キロもあったのですが、4人でさっと食べてしまいました(水分が多いってことかな?)。ちなみに今日はイワシ。
(中央がタコ、左がトルティージャ、右がエビ)
明日は昼の電車でローザンヌ(Lausanne)へ行き、また別のオーストラリアのボランティア仲間(夫婦)の家に転がり込みます。そこに5月を丸々お世話になった傷心のオランダ人クリステルも合流し、彼らの2週間(26日まで)の休暇を5人で過ごす予定。
(スイスは小さいから地図も込み入ってきてしまいました。ウェーデンスヴィル(Wadenswil)からローザンヌ(Lausanne))まで行くと、スイスの北東部から南西部へって感じだけれど、それでも電車で2時間。日帰りで国の端から端まで往復できちゃいそうな感じです)
水泳、バーベキューを頻繁に交えつつ、ぼくも素子もそれぞれやりたいことをやって充実した日々になっているウェーデンスヴィルの毎日。それも早くも一週間。
(家からちょっと歩くと、こんなナイスなBBQスポットが)
(こんな感じでソーセージを直火焼き。ビール、ワインを持って、家のそばでこんなことができるのは本当に贅沢な環境だなって思います)
素子は犬関連の施設を見学したりしていて、ぼくはスイスの亡命チベット人の取材をしています。
1959年にピークに達したチベット動乱のあと、ダライ・ラマを追って十数万人のチベット人がインドなどに亡命したと言われます。インド、アメリカについでスイスに亡命者が多く、その数3000人ほどとのこと。友人によると、スイスは住民の30%ほどが外国人とのことで、いろんな国からの亡命者も多く、チベット人もその一つ。4月のチベットでの騒乱以降、海外のチベット人がどのように暮らしているのかも気になってきて、今回せっかくスイスにいるのだからと、調べてみることにしました。
今、泊めてもらっている、純子ちゃんの職場の同僚にも二人チベット人がいて、先週はその一人にあって話を聞きました。
37歳の彼は、18歳のときに出身地である四川省の甘孜(チベット文化圏で、チベットの地理区分ではカム地方)から親戚とともに3人で出て、ラサへ。そのときは別に亡命するつもりではなく、当時彼は、ダライ・ラマがすべてというような時期。いろんなお寺や聖地的なところを巡礼して回ったのちに、甘孜に戻ろうと思っていました。でも、カイラス(ぼくらが昨年11月に行ったところ。詳細はここ)を巡礼したときに、感激が一つの頂点に達し、一緒にきた親戚の僧侶らとともに、「よし、ダライ・ラマに会いに行こう」とインドへ国境を越えることを決めました。
カイラスのそばの村で、国境を越えるルートを知っている年長者を訪ね、彼に地図を描いてもらって、ヒマラヤの山中を3人で抜けたとのこと。途中、密輸業者の一味のふりをしながら、国境の警備をくぐりぬけネパールへ。そしてインドへ。インドで10年近くさまざまな職業を転々としたのち、スイスへ移住する方法を見つけて、スイスへやってきました。スイスに来て7,8年。数年前に"Refugee Passport"なるものを取得して、いまチューリヒ在住。
「インドからスイスへはブローカーなどを使ってきたけれど、その方法は言えないな。まだ自分はスイスのパスポートをもらってないから、いろいろと問題があるんだよ。中国とチベットの政治的なことについても話したくはない。いまも中国にぼくの家族がいるんだから」
家族とはもちろん、20年近く前中国を出てから会ってません。
「インドに逃げてきてから、両親に初めて電話したのは5年後。その間に手紙は1,2度出しただけだったから、両親はぼくが死んだと思って、祈ってたって」
中国で暮らすその両親にいまはスイスから送金して生活を助ける。でもスイスのパスポートがないから中国に会いに行くことはできず。仕事はチューリヒの寿司屋での寿司作り。給料ももちろんスイス水準で、日本的に考えるとかなりいい感じ。
「いまの生活には何も不満はないよ。賃金もいいし、すみやすいよ。スイスでの生活を知って、いろんなものを見てから、ぼくは正直、前より宗教のことは考えなくなった。多分スイスにいる多くのチベタンが同じだと思うよ」
ざっと書くとそんなところ。彼のようなチベタンをはじめ、さまざまな背景のもとに集まってきた人たちが暮らすスイス社会に興味が強くなってきてます。
明日はリコン(Rikon)というチベット仏教の修道院がある小さな街で、ダライ・ラマの誕生日を祝う式典があるとのことで、それに参加してきます。
(彼女は、ウェーデンスヴィルの近くに住む友達ヤエル。3年前チベットを旅したときに知り合って、今回それ以来の再会。相変わらず、ワイルドかつのほほんとしたキャラでうれしい再会でした)
それから。友人からメールをもらって、掲載日未定だった記事が週刊誌に掲載されていることが分かりました(浅井くん、ありがとう!)。イランについての紀行文ともエッセイともレポートともつかぬものですが、よかったら。7月4日に発売した[「週刊金曜日」に載っています。
(チューリッヒ駅にあったEURO2008の巨大オブジェ(下の人のサイズに注目)。つくりは大味だったけれど、この大きさは迫力ありました。今回EURO2008は可能な限り試合を見られたので大満喫)
アウシュビッツのあとでポーランドもすぐに抜けてしまい、その次に泊まったドイツ・ミュンヘンもまさに中継地点としてしか機能せず、早速スイスに戻ってきました。
ポーランド(クラクフ)からミュンヘンまでのバスは16時間で、朝8時にミュンヘンに着いたのだけれど、夜行バスに疲れてぐったりした状態で一泊しただけでミュンヘンはおしまい。しかも宿がまた大型ビジネス系ゲストハウス。荷物も預けられず、その代わりにあるロッカーはカギがついてなくて、カギは5ユーロ……。その上、ドミトリーはなんと一部屋40ベッド!!旅行者のことは全く考えず、とにかくいかに金のないバックパッカーを詰め込んで、あらゆるところで搾り取るかが勝負、という感じ。それでもヨーロッパは高いから、どうしてもそういう安い宿に人が流れ、ぼくらも流れてしまう、というのは実に悲しいところです。。。
(17時間かかっただけあって、クラクフからミュンヘンは地図で見てもかなり距離ありそう)
それはさておき、ミュンヘンから7時間ほど(乗り換え込み)の列車に乗って、素子の元同僚が暮らすスイス北部のウェーデンスヴィル(Wadenswil)へ。チューリッヒ(Zurich)のそばで、しかも目の前にきれいで静かな湖が広がる別荘地みたいな環境の街。元同僚の純子ちゃんとスイス人の旦那さんパトリックの家も、湖、駅ともに徒歩3~5分ぐらいの抜群の立地。ちなみに家は、築400年ほどで内装はシモキタのカフェをイメージさせるようなかわいい雰囲気(純子ちゃんはシモキタ出身)。
(パトリックと純子ちゃん。泳いで、飲んでの休日……。ぼくもこの11ヶ月で一番健康的かつさわやかな日々を送れてるような気がします)
ぼくらが着いたらすぐに荷物を置いて、湖に泳ぎに行くところからスタートしました。湖はほぼどこでも泳いでよくて、しかも、湖水浴のために軽く整備された芝生地帯は、ちゃんとエントランスがあって係員もいるのに、無料、というのがヨーロッパっぽいなあって思いました。船も近くを通ったり、すべるところも多いのに、注意書きなどが全くないのも、やはりヨーロッパっぽい気がします。
前も書いたかもしれないけれど、自分の知る限り、ヨーロッパは電車の駅にも駅員などほとんどいなくて、勝手に乗って勝手に降りるって感じだし、基本的に「ここは危ないから気をつけよう」的な注意書きのようなものがとても少ないイメージ。それに対して、日本はとにかくなんでも注意書きがついていて、それがないところで事故が起きたら、「なんでここに注意書きがないんだ?!」っていう風に行政が非難されることが多いけれど、最近思うのは、日本では注意書きがたくさんありすぎて自分で注意するくせがなくなり、子どもも何が危険なのかっていうことを自分で学ぶ機会を失ってしまってるんじゃないかな、って気がします。その点、ヨーロッパは各自、何が危険なのかを自分で考えて行動しているはずで、それは大切なことだなって思います。アメリカは逆に日本に近いのかな、っていうイメージですが。珍妙な裁判の話を聞く限り……。
(湖はどこでもこのように自由に泳いでOK。すばらしい環境です)
それはさておき、そのようにちょっとシャワー浴びようか、っていう気楽な気分で湖に飛び込める環境なので、ここに来てから毎日泳いでいます。やはり泳いだら毎日体調もよく気力も充実って感じで、やはりスポーツは必要だな、と自らの生活を省みてます。天候もよく、毎日暑くて、まさに水泳日和なので、かなりうれしいです。そして、その後は純子ちゃんたちの家の裏庭で魚を焼いたり、肉を焼いたりして外で夕食という、かなり優雅な生活を送っています。
そして昨日はパトリックの紹介で、隣町での肉体労働を手伝いに。湖沿いのビーチで行なわれた大きなパーティの後片付けで、日本でも学生バイト定番のガテン系の仕事で、豪華な昼飯もついて、謝礼を2万円ももらってしまいました(時給2500円(25スイスフラン)換算)。学生時代に日本で何度かやった肉体労働は、安くでこき使われるって印象があったから(一日やって交通費とか引くと5000円とか6000円になっちゃうイメージだったけれど、いまはどうなんだろう?)、スイスの物価・賃金の高さを肌で感じました(しかも、これは特にいい金額というわけではないらしいです)。そんなわけなので、外国からスイスに働きに来る人も多く、今日現場にいたごつい男たちの中にも4,5人東欧や旧ソ連圏の人たちがいました。たまたま彼らはぼくと一緒に作業してたのですが、そしたらそこでの共通語がやはりロシア語だったので、お!と思い、懐かしい単語を拾って話しかけてみたりしました(って、もちろん、全然たいしたことはいえないんですが)。ウクライナ人、ウズベキ人、スロベニア人、ともう1、2名出身不明なロシア語ユーザーがいて、このように旧共産圏からの労働者が西側諸国に多いとすれば、実はロシア語はそういう世界の共通語になってるのかな、と想像が膨らみました。当たり前なようで意外な発見でした。
現場では、彼らとぼく以外は多分みなスイス人だったので、すべてドイツ語(スイスジャーマン)。でもスイス人はかなりの率で英語を話すから(といっても、オランダ人やスウェーデン人ほどではなさそうだけれど)ぼくもほとんど困ることなく一日作業ができました。
ちなみに、仕事中でもちょっと時間があいたら適当に湖に飛び込んで汗を流してクールダウンし(ぼくも3回泳ぎました)、後ろではジャックジョンソンとかが軽快に流れ、大きな構造物の解体作業でそれなりに危険はありそうなのに、みな服装は裸か短パン、もちろんヘルメットなんてなし、休憩になれば途中の作業をすぐに放り出して休憩に(ぼくは、一つのネジを抜くまでやってしまおうと思って、2,3分長くやっていたら「まだやってるのか、休憩しろよ」と、リーダーに)、という軽い雰囲気で、これも実にヨーロッパらしいのかな、と思ったり。日本の肉体労働の現場って体育会系な厳しく理不尽なイメージがあるので……。
純子・パトリック邸滞在中は、ぼくはスイスのチベタンの取材をすすめ、素子は興味のある犬関係の施設の見学などをしたりと、現地生活っぽくて充実してます。そしてその合間に毎日水泳……。今日はやはりハードな筋肉痛。。。