マナウス国際空港に到着したのだが、朝にはまたマナウスを離れる。
もっと奥アマゾンへ行くのだ。
いわゆるトランジット。
さて朝の飛行機まで、どこで睡眠を取るかと、寝られそうなベンチを探す。
今回は実はの話が二つほど。
実は、このマナウスには宿がある。
宿といってもホテルではなくって、知り合いの家だ。
先輩がマナウス出身ということで、この街を訪れるきっかけになったのだ。
そのお宅へは、奥アマゾンへ行った帰りにお世話になる予定だった。
残念ながら先輩は仕事の関係で、マナウスに戻ってこれなかったのだが、
先輩の父さんが、なんとこの飛行機の時間を知らせておいたため、迎えに来てくれていたのだ。
まったく初めて会う人だったんで顔がわからないのに、
日本人はこいつらしかいないなと思ったらしく、ベンチで寝転んでいるところに声をかけてきてくれた。
たった数時間の滞在のためだけでも、空港じゃつらいだろうということで、迎えに来てくれたのだ。
イヤーありがたい。
オブリガード!
実は、この男私と同じ旅程を行っている友人K.O.。
これまでも、何枚か私写っている写真を撮ってもらっていたのが彼だ。
3人で空港を後にし、先輩宅へ連れて行ってもらった。
そのときの、安らかなるハンモック寝の写真だ。
アマゾンの玄関口といえば、マナウスになる。
大ジャングル地帯にあって、都市人口約3百万人。
アマゾン河河口より1500キロ上流にある、アマゾナス州の州都だ。
魔都と呼ばれていた都市は世界にいくつかあるが、このマナウスもそのひとつ。
1900年前後をピークとする未曾有の生ゴム景気の時代、一攫千金をねらう人々の欲望が渦巻くマナウスは、魔都と呼ばれていたらしい。
夕刻発のマナウス行きの飛行機で、真夜中に到着。
果たしてどんなアマゾンと出会えるか!?
トランジット時間のような短い時間だったけれど、サンパウロから出発する時間が来た。
地下鉄に乗って、レプブリカ広場へ。
エアポートバス乗り場で、バスを待つも、かなりの遅延状態。
飛行機の出発時間が来ているにもかかわらず、なかなか来ない。
痺れを切らして、待合室にいるバックパッカーに声をかけた。
こういう瞬間は、気ままなたびをしていて最も楽しい。
みんなのいろいろな思いがひとときだけ重なる、ネゴだ。
確かフランス人だったと思う、イヤアルジェンティノだったか、
タクシーを相乗りすることになった。
これでないと、きっと間に合わなかったと思う。
ナイス判断。
タクシーの中では、旅での女話で盛り上がる。
かっこいいやつで、納得できるけれど、それはそれはうらやましい話をしていた。
そんなつかの間のすげー話を聞き、空港に着く。
あっという間の出会いと別れ、またいつか。
無事にチェックイン。
次の目的地はどこか!?
そう、「ブラジルといえば、・・・」の場所、アマゾンだ!
東洋街にこの資料館がある。
あるビルの確か3フロアで展示を見ることができる。
ブラジルへの移民の記録に関する資料である。
日系人という言葉を日本で聞き、その言葉は知っていたが、実態はまったく知らなかった。
当時の日本政府からは、おそらく肥沃なで広大な土地が用意され、十分に農業で暮らしていけるのだと説明があったのではないか。(なぜか勝手な推測)
希望を持ち、長い航海の末、ようやくブラジルに入港(サンパウロのサントス港など)したのだろう。
が、そこでの現実は、低賃金で、農夫としてコーヒー農園で労働するという、ひどく厳しいものだったようだ。
過酷な労働条件に加え、住環境の悪さ、ブラジル特有・熱帯特有の感染・発病があったことは想像に難くない。
「へぇー」情報
1.移民は船単位で行われ、そのときによって移住地が異なる。
2.おもに、ブラジル人(もしくは白人)の経営するプランテーション(コーヒーなど)で、農夫として働き生計を立てた。
3.日系人たちが持っていた養鶏技術は、今ではブラジルの養鶏の根幹となっている。
4.ブラジルの日系人は、現在約140万人である。
5.今でも日本人コミュニティーはある。(移民一世がいなくなりつつあり、その排他性は薄れつつあるが。)
6.養鶏をはじめとし、日系人と日本商社などとの関連はかなりある。
7.3世ともなると、日本語が話せない人も多々いる。
8.日本にいる日本人とはのりが違う。(サンパウロ定食屋で実感。異様に陽気。ポルトガル語が当然話せる。)
『ブラジルの日系移民事情 --- 問題視されがちな「世代の断絶」について 』