コメント書き込みやブログ更新についてのエラーを、管理人の友人が早速直してくれました(スノウチ、ありがとう!)。というわけで、またコメントなど、よろしくお願いします。
(トルコぐらいから移動が速くて、もうこの地図も終わり。アテネからはパトラというペロポネソス半島の港町まで3時間ほどバスに乗って行き、そこからフェリーでイタリアへ。17時半パトラ発のフェリーに乗るのに、アテネのグリケリア邸を出たのが12時すぎだったのでかなりギリギリでした)
さて、アテネから西側の島をもうひとつぐらい経由してからイタリアへと思っていたのですが、金銭的、体力的、気力的な問題、またアテネ&エーゲ海を十分に満喫したっていう気持ちがあったので、西は割愛し、3日夜ギリシャ発のフェリーで一気にイタリアに入ってしまいました。ガラガラのフェリーで、快適に映画などを見て、17時間ほどすごして、4日の朝、イタリア南部のバーリ(Bari)到着。イタリアに来て、いよいよヨーロッパなんだなあ、という実感が強まってきました。EU圏内は陸路や海路で国境を越えればパスポートチェックがないらしい、というのは聞いていましたが、確かに全くパスポートを出すことをなく、ギリシャからイタリアに入りました。フェリーに乗る前に「日本人か?」と聞かれ、「はい」といったら「じゃ、OK。乗って」という感じ。
(海の向こうに離れていくギリシャ)
これはすごいことだなあ、といまさらながら実感しました。これだけ多くの国の集合体でそれぞれ抱える問題も異なるのに、境界をなくすということは想像以上に大変なことなんじゃないかなって。パスポートを見せる必要がなければ、民族的な問題はすべてヨーロッパ中に拡散するように思ってしまうのですが、それをどの国も「よし」としているとすれば、ヨーロッパってすごい太っ腹なとこなんじゃないかって感じました。どこの国も、他国の抱えている問題はできるだけ自国には持ち込みたくないというのが本音だと思うし、細かい規定はいろいろとあるとしても、どうやってその壁を乗り越えたのか、というのがとても興味あります(いや、乗り越えてないのか?)。前回書いたロマの問題などは、まさにその典型なような。また、国境がなく人の移動が自由になれば物の行き来も相当自由になっているに違いないし、そしたら、近い国同士では物価も似てくるだろうし、小さな国の弱い産業などはバタバタつぶされてしまうんじゃないかという気もしたり……。ぼくが無知なだけかもしれませんが、すごい思い切ったなあと感じました。
(フェリーの中。イオニアンキングというフェリーで、これで商売大丈夫ですか、と余計な心配をしたくなるぐらい客が少なく快適。このラウンジともうひとつ映画館みたいな暗く寝やすい部屋を二人でほぼ占領状態。でも降りるときに、実はキャビンの方には結構人がいたこと発覚。アジアでは、一番安い席がギュウギュウで、上のクラスに乗ってる人がちょっとすごい人たち、というイメージだったのですが、ヨーロッパでは、ちゃんとベッドとかある方に乗るのが普通で、イスで寝てたりするのがちょっとすごいと思われる世界だったり……なんて想像してしまいました)
それはさておき、イタリア。上陸地バーリに従姉お勧めの魚介類のレストランがあるというので、楽しみにしていたのですが、安いホテルが全く見つからず、また例のカウチサーフィンの人とも連絡がつかずで、どうしても予算的に厳しかったため、さらに1時間半ほど移動して、バーリの次に行く予定だったマテーラ(Matera)まで一気に来てしまいました。
(バーリ(Bari)から逃げるように列車でマテーラ(Matera)へ。降りる駅を間違えてしまったけれど、困っていたら、近くの人が宿まで車で送ってくれた。イタリアに来て、一日ですでにそういうの2回目。親切です)
マテーラで、やっとナイスな安宿にたどり着くことができ、ほっと一息。街も中世そのままみたいで非常に魅力的で、ヨーロッパすごいなあ~と感激しながら、街を歩いていました。壮麗な彫刻が、建築のそこかしこにあって、やれ13世紀とか15世紀とかのものだっていうので、20世紀の歴史がまるで現在のことのように思えてきちゃいますね。アルメニアやグルジアの建築は、ほとんど装飾のない簡素さがとても魅力だったのですが、けばけばしい装飾も、それはそれでやっぱり見事だなって感じてます。
(マテーラの町並み。500年とか800年とか前の建築物、ゴロゴロ。南部のせいか、季節のせいか、観光地っぽさもそれほど感じずなかなかいい感じです)
早速夕食にピザを食べに行ったのですが、もともとピザはファーストフード的なものだと思っていたけれど、あまりにファーストフード的な店に入りすぎて(一応ピザ専門店なのですが)、味はいまいち。次に期待。
多分、ここに2泊ほどしてから、次はナポリかな。ぼく個人的にはイタリアでは、学生時代とても興味のあったガリレオなど中世の科学者たちの足跡をたどることができればなと思い始めています。
しかし、本当に疲労が溜まってきました……。どっかに落ち着きたい。。。
※前回アップできなかったサントリーニ島&ロマ取材などの写真を以下に少々。前回書いた文章を参照してください。
まずサントリーニ。
(サントリーニ。ここもさすがにきれいだったけれど、視界に入る建物の7,8割がホテルかレストランかみやげ物屋なんじゃないかと思うぐらいのツーリスティさ。)
(あまりにこのベッドが気持ちよさそうなので、撮ってみました。多分、ひとのうち。うーん、こんな別荘があったら・・・)
(3,4時間、島をトレッキングしましたが、島中が巨大な花畑みたいできれいでした)
以下はアテネ。ロマの写真。
(これはアテネ。ロマの子どもたち。まるで東南アジアにいるような、子どもたちのカメラへの食いつき方が懐かしかったです)
(ディープなロマ居住区Ano Liosiaで、銃を突きつけられた直後。いま思えば、多分あの男は完全に冗談ではなかったような。でも家族が笑いでシャレの現場に変えてくれました。これがその家族。このときぼくはまだドキドキしたまま……)
(Ano Liosiaのロマ居住区。ここがハードなところへの入り口。逃げるように出てきたあと、この標識が目に入ったのですが、そのとき一瞬、「人、立ち入り禁止!」のように読めて、「あれ、こんな標識があったのか!」という錯覚を起こしました(笑)。)
(アテネ滞在中にずっとお世話になったグリケリア(左)と彼氏のユールゴス。とても親切で愉快な、素敵なカップルでした。グリケリアが、もともとぼくらを家に泊めてくれたエレクトラのフラットメイト。エレクトラはドイツ旅行中)
なぜかここ数日コメントが書き込めなくなり(何度やってもなぜか、エラーが出てしまって)、写真もアップできない状態になっています。そのため、コメントのお返事が書けず、また今回は写真なしの長文となって恐縮ですが……。またしばらくして元に戻ったら、写真とコメントアップします。
さて、いまは再びアテネにいます。前回のアモルゴス島から、サントリーニという火山の噴火によって出来た島を訪れ、1泊(+船内一泊)してから31日早朝にアテネに戻ってきました。
サントリーニもとてもきれいだったものの、こちらはアモルゴスとは違って完全にツーリストのための島という雰囲気で、ちょっと期待はずれ。全ての家が土産物屋かホテルかレストランになっていたような。でもどの島も基本的には観光業が最大の産業のようなので、この状況こそ、とてもストレートに現在の島の人々の生活を表しているのは間違いなく、それはそれでリアルではあるとも言えるのですが……。
アテネに戻ってからは、突然壊れてしまったパソコンのバッテリーの新品を入手して(IBMのパーツはなかなか手に入れづらく、今回もイスタンブールから探し回ってやっと、発見)、あとは、ロマ(いわゆるジプシー)について短い記事を書くための取材を日々やっています。「ジプシー」という言葉は場合によっては好ましくないようなので、より広く受け入れられている「ロマ」という言葉を主にここでも使いますが、ロマは、ルーマニアあたりを中心にヨーロッパ全土に広くいて、いまでは一般的に各国の底辺で生きています。彼らは、主に、1000年ほど前インドからやってきた移動生活者なのですが、移動を重ねるうちに、いまではヨーロッパ各地に点在するようになったとのこと。ジプシーというと、いまもキャラバンで移動しながら生活、というイメージがありますが、実際には必ずしもそういうわけでもなく、少なくともギリシャでは、定住している貧困層というのが現状です。ロマというのが民族としての名前で、ジプシーというのは「エジプトから来た人」を意味する「エジプシャン」という言葉の頭の音が取れたもの(ウィキペディア参照)とのこと。ギリシャには、トルコからきたムスリムのロマ、キリスト教徒のロマ、旧ユーゴ崩壊後に流れてきたアルバニア系のロマなどがいるようです。
キルギスタンからウズベキスタンに国境を越えるときに「私たちはジプシーだ」という人たちに出会い、彼らはまさにイメージするジプシーどおり、大家族での移動生活を続けていました。そのときから彼らの生活に興味が沸き、また東欧やギリシャではジプシーのいるイメージが強く、またアテネの路上では大勢のそれらしき人を見かけたので、調べてみることにしました。
一昨日は、アテネ郊外のロマたちの居住区に行き、昨日はまた別の居住区でロマの支援活動をするNGOのディレクターの女性にいろいろと話を聞きに行きました。いまもまた前に泊めてもらったエレクトラの家にいて(でもエレクトラはドイツへ旅行中!)、そのフラットメイトのグリケリアにお世話になっているのですが、彼女がNGOで働いているため、この女性のことを知っていて紹介してもらい、とてもラッキーでした。
詳しく書こうとすると、やたらと長くなってしまうので書きませんが、びっくりしたのは一昨日(31日)ロマの居住区に行ったときのこと。アテネの中心から、よく行き方もわからないまま、地下鉄とバス2台を乗り継いでなんとか目的のAno Liosiaという居住区らしい場所に着いたのですが、そこでバスを降りると、いきなり男が倒れていてその周囲にはポリスマン2人。近くに集まっているロマの若者に聞くと、「ジャンキーだ」とのこと。いきなりディープそうだな、と周囲を見回すと、手作りの小屋みたいなのが並んでいるので、ここがその居住区だとわかり、その中へ。いる人はすべてロマ。
歩いてみると、どうもまったく歓迎されてない様子。爆音で音楽をかけて、キキーッとドリフトしながら走るイカツイ車(後ろが荷台になってるちょっとヤンキー風なトヨタやらの車)が続々登場し、しかも「なんだお前」的な目線を感じまくり。
しかし小道に入ると、庭で酒盛り(?)していた家族が「ハロー!」と呼び寄せてくれて、中に入ると結構にこやかなのでほっとして、混ぜてもらいました。しかし一人、かなり怖そうな30代半ばぐらいの男が奥に。家族はみなでハシシを吸い、「あっちに警察いたけど大丈夫なの?」と聞くと、「ポリス?そんなのは銃で撃ってやる、ハハハー」と物騒なことを言います。
しばらくして、強面な男が立ち上がりぼくの方に来て、横を通るとき、ひょいとバックパックに挿していた傘を持っていってしまったので、「おい、ちょっと」というと、戻ってきて傘を返してくれると同時に銃を取り出し、半ばをそれを突きつけられた状態で、「そのカバンを置いて、出てけ」と真顔で言われ、凍りつきました。周囲にいた家族も一瞬止まっていた感じ。ぼくは、まさか、と思いつつもかなりビビッて、Please, please...というと、家族のドン的なおじさんが「ガッハッハッハッー、こいつはジョークを言ってるんだよ、ハッハッハッ!」といってくれ、同時に他の家族も「Please, pleaseだってよ!ハッハッハッ」と。でも、銃を持った男だけはほぼ真顔のまま立ち去り、車に乗り込んだのですが、車の中から笑顔で「マイフレンド!」なんてこっちを向いて笑って行ってしまったので、やはりジョークだったのかな、それにしてもきついな、とヒヤヒヤしながらほっとしました。
そのあと、その家族としばらく話して(っていっても言葉はほとんど通じず、文字が読める人も一人だけという状況だったので、会話というレベルではありませんが)、バイバイ。それからその周囲を歩くと、子どもが棒を持って真剣な顔で「お前はだれだ!」って顔でよってきたり、井戸端会議中のおばさんに「金はあるのか?ないなら出てけ!」とシリアスな剣幕で言われ、その隣の家を覗くと、若者はフレンドリーだったのにその父親らしき人物がド迫力の視線で「デ・テ・ケ」と語り、また隣では、「金くれないのか?ならあっち行け」という状況。半端ないすさみ方に、外国人が「ハロー!」と現れて歓迎される場所ではないことを肌で感じ、びびりながらもうちょっと歩いたのちに帰ってきました。
家に帰ってグリケリアに「今日ロマたちと話しにAnoLiosiaに行ってきた」というと、彼女は「え?!どうしてそんなところに?!」と驚愕の顔。彼女によれば、そこはマフィア的に暮らすロマたちのゲットーのようなところだとのこと。警察も中には入っていかない無法地帯らしく、まさかその中を歩いてきたなんて信じられない!銃ももちろん本物に決まっている、と言われ、ぞっとしてしまいました。ちなみに、一見すると牧歌的な郊外の町という雰囲気で、いかにもやばそうな裏道、って風ではないので入っていったのですが、事前にこんなことを聞いていたらとても近寄れませんでした。いずれにしても、あそこで感じた印象はそういうことだったようです。
そしてグリケリアは、「ロマについて調べてるなら、私に言ってくれればいいのに!」と、そのあとNGOの女性と、もっと一般のロマたちが暮らす居住区を教えてくれたというわけです。このNGOでは、学校に行っていないロマの子どもたちをボランティアで支援したり、生活面の相談に乗ったりという場所でした。ギリシャでは、それほど差別は大きくないようで、「ロマの人たちもちゃんと教育を受けることさえしてくれれば、社会は受け入れてくれるはず」とその女性は言っていました。ロマの子も、学校に行きたければ行けるのですが、ほとんどの大人が文字が読めず、20歳で6人子どもがいる女の子がいたり、という状況のため、親が子どもに教育を受けさせる大切さをほとんど理解できず、子どもはみな路上で金を稼いでくるための存在になってしまっているとのことでした。
ロマの問題は国によってそれぞれ状況が違うようなので、ほかの国でも調べ続けられればなと思っています。
ところで、グリケリアとその彼氏ユールゴスとは、二人とも仕事がとても忙しいのに、夜ご飯を食べに行ったり、ドライブに連れてってくれたり、本当に親切。お世話になってばかりでは申し訳ないので、昨日はぼくらが手巻き寿司を作りました。
今日出ようと思っていたのですが、グリケリアが「もう出るの?!もっといなよ!」と言ってくれたこともあり、ぼくらももう一日だけ甘えることにしました。アテネは、観光も、人との出会いも、取材も、彼らのおかげで本当に満喫できました。
それから宣伝ですが、4月4日発売の「週刊金曜日」にこのブログでも紹介したウズベキスタンの「NORIKO学級」についての記事と写真が載る予定なので、よかったらご覧ください。
(夕暮れの教会)
アテネから東に船で8時間ほど来たエーゲ海の浮かぶ島、アモルゴス(Amorgos)島にいます。ギリシャの他の島もおそらく似たり寄ったりで、特にここだけがすごいわけではないのかもしれませんが、とりあえずぼくらにとってはマジで、
アモルゴス、最高!!
です。ここ数日、この旅で最も贅沢な時間を過ごしている気がします。まだシーズンオフで泳げるほどあったかくはないし、海のきれいさで言っても、オーストラリアのエスペランスや東ティモールにはかなわないな、という印象なのですが、なんと言っても、完全に白と青で統一されたこの街並みの美しさには圧巻です。決してツーリスティではなく素でこんな感じになっていて、また、ケバケバしさがなく、とてもシンプルであっさりした白と青の爽やかな美しさが、とても気に入っています。「グラン・ブルー」の撮影地に選ばれた理由が、よく分かりました。
(島にある全ての村が、このように白と青で統一されている。空とも、ギリシャの国旗ともマッチしたとても爽やかで美しい世界)
(小さなビーチがいくつもあって、そのそばには、小さな教会がポツポツと立っています)
毎日、外に出るたびに、宿の前の同じ風景を見て、きれいだなあ、きれいだなあ、と感じているのは、これまで初めての経験のような気がします。そしてそれはとても幸せなことだなあ、とつくづく実感してます。
(ぼくらの"家"に続く道)
しかもいまはシーズンオフのため、観光客はとても少なく(もともとそれほど観光客の多い島ではないらしいです)、すごい居心地のいい宿が、かなりお手ごろな値段で泊まれてます(ベッドルーム二つにキッチン、リビングがついた、新しくとてもきれいな家を丸ごと借りて、二人で一泊25ユーロ。ぼくらのこれまでの感覚で言えばかなり高いけれど、それでもこのクオリティなら全然安いと思える環境です)。メシは結構高い割りにどこもいまいちっぽいので、ほとんど自炊。
(今日の昼食はこんなオーシャンヴューのベランダでリゾット!)
話は戻りますが、アテネからのフェリーのこと。17時半にアテネを出発して、深夜1時すぎにアモルゴスに着くことになっていて宿も決めていなかったので、さて着いたらどうしようかと思っていたのですが、なんとぼくらはアナウンスを聞き逃し、降り遅れてしまいました。やばい!、と思って荷物を持って走って出口に向かったら、「何やってるんだ?もう出港しちゃったよ」といわれ、どうしよう!?と思っていたら、「朝またアモルゴスに戻ってくるから、そのときに降りなさい」と。ちゃんと降りていたら、深夜におろされて海辺でウロウロすることになりそうだったので(港は建物も何もないただの海辺)、実はこれはとてもラッキーでした。
(アモルゴスの港カタポラ)
(港からうちまでは歩いて5分もかからない。これはその途中にある家)
もう今日で3泊目。昨日は、1日車を借りて、島の北から南までほぼすべてを走破(南北50キロぐらいしかないので)。久々に運転して疲労困憊でしたが……。今日は、散歩して、ドラマみて、仕事の原稿を仕上げて、ととてものんびり。
(昨日唯一、ちゃんと交流できたおじいちゃんとその孫。なぜかかなりひと気のない島で、英語もほとんど通じないため人との接触があまりないのが残念)
(島の中心をなす村ホラ(Hora)ここもすべて真っ白)
このままここで暮らしてしまいたい……、と思わせるような場所で、前回も書いたとおり、村上春樹や池澤夏樹が、ギリシャで暮らしていたというのがとても納得です。確か「ノルウェーの森」はギリシャで書かれたんじゃなかったかと記憶してますが、こんなところで小説書いたら、とてもはかどりそうだなあと想像しました。
多分あと一日この島にいて、それからもう一つ別の島によってから、アテネに戻ります。こんな贅沢な気分を味わえる日々は、ぼくらにとってはそうそうないような気もしています……。
(日の暮れゆく港カタポラ)
(アテネが誇る巨大な遺跡の一つ。これは"Temple of Olympian Zeus"。ゼウスに捧げられたtemple。2000年ぐらい前のもの。この場合templeは日本語だとどう訳すのだろう?)
21日に従弟が帰りました。イスタンブールからアテネにかけて、ダラダラしがちないつもに比べてかなり密度が濃かったため、1週間とは思えないほどいろいろとあったような気分になりました。
(従弟の最後の夜にエレクトラと。日本食とギリシャ料理をシェアしてナイスディナー。従弟が日本から持ってきてくれたほんだしと味噌で、ぼくらも久々の日本の味を満喫しました)
アテネについてからは3人で、エレクトラとグレケリアというとってもフレンドリーなギリシャ人女性の家に2泊。たったの2、3日だけだったのに、二人とは旧知の友達だったというぐらいに親しくなれた気がして、離れがたかったぐらい。
(エレクトラと。なかなかこんなに2日で親しくなれる人もいないなあ、というぐらいいい出会いでした)
でも従弟が帰るともに、ぼくらもエレクトラたちの家を出て、いまは日本好きの26歳ギリシャ人男性コンスタンティヌスの家にお世話になってます(名前がみなギリシャっぽい!)。彼もまたとてもいいやつで、毎回毎回、会う人に恵まれてるなって感じてます。ちなみにギリシャ人、とても日本文化好きが多い印象。昨日、コンスタンティヌスの友達たちと大勢で会ったのですが、その中にいた30歳の女性が「子どものころ日本のアニメとともに育ったから」と言っていて、何のアニメかを聞いたらなんと「キャンディー・キャンディー」。コンスタンティヌスも「おれもキャンディー・キャンディーは見てたよ」と。まさかキャンディー・キャンディーがギリシャで知られているとは意外でした。あと、グレケリアは「デスノート」が好きで、その彼氏も松本大洋の「鉄コン筋クリート」がいいと言っていたし、メジャーな"AKIRA"や宮崎駿もの以外も、日本アニメの浸透ぶりには驚かされてます。
(コンスタンティヌス。とっても陽気で親切。彼を通じて、さらに多くのギリシャ人、アメリカ人、コロンビア人、スペイン人などとも会えて、アテネはなかなか交流満載)
さて、従弟がいるうちにアテネの名所は大体見てきました。やっぱりギリシャといえば、なんといっても、アクロポリスのパルテノン神殿! 幼少期から歴史の教科書とか資料集でいやというほど目にしてきたものだからってこともあって、さすがに実物を目の前にしたときは、なかなか感激でした。大学のときに、一般教養でギリシャの歴史みたいなのを取ったら(「環境社会学」とかって授業だったかな)、受講者が自分ひとりで、先生とマンツーマンでギリシャの歴史を詳しく女性の教授に習ったのを覚えています。そのときはにわかに詳しくなっていたはずだけど、10年経った今、全く記憶になく実に残念。実物を見たら、いろいろ思い出すかなとか淡い期待もあったのだけど、その気配全くなし。あの先生にいまあったら、がっくり肩を落とされそうです。
(パルテノン神殿!長期に渡る改装中でやたらと金属の足場などが見えちゃってるのが残念……)
(パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘の上から見たアテネの南側。左手前に見えるのが古代の劇場跡(カタカナ表記を見てないせいか、全然名前が覚えられない……)で、ここから劇というものが始まったとか。)
でもやはりギリシャ時代の遺跡というのは、シロウトにとっても圧巻です。ソクラテスやプラトン、ピタゴラスらがこの辺をウロウロしていたかもしれない……と想像するだけで、ゾクッとできるような場所でした。
明日からは、アテネを離れてエーゲ海の島に行く予定。リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」の舞台となった(撮影に使われた)小さな島があってそこに行きます。ギリシャはやっぱり島が本当にきれいみたいで、久々に(インドネシア、東ティモール以来?)極上の海が見られそうで楽しみです。
(明日24日夕方の船でAmorgosに向かう予定。船で8時間ぐらい。「グラン・ブルー」は二人ともとても好きな映画で、かなり期待が高まります!ここからまたアテネに戻り、そのあと少しずつ西に向かっていく予定)
これからテントも購入予定。ギリシャ、イタリアをはじめ、ヨーロッパにはキャンプできるところが多いので、コストダウンのためにも、キャンプという選択肢も活用しようと思ってます。
(アテネはなかなかカッコいい街で気にいってます。雑然とした近代的なワイルドさと、重厚な古代遺跡が隣り合っていて、ギリシャって感じです)
ギリシャは、アテネの雰囲気もとてもいいし、住みたいなと思わせる場所です。村上春樹も池澤夏樹もギリシャに住んでいたのですが、なんか分かる気がします。って言いつつ、まだアテネぐらいしか見てませんが……。
ここ数日は仕事の原稿書きに集中してますが、なかなかうまくいかずストレスたまり気味……。近々、久々にいくつかの企画が一般の商業誌に登場できそうです。
(テッサロニキ(アテネではなく)のアリストテレス像。こういうのをみると、ギリシャ!って気分になります)
イスタンブールで更新してからまだ6日ですが、今日(19日)すでにアテネに着きました!
14日に従弟がイスタンブールに到着して、15日はイスタンブールを見学して、16日からは怒涛の移動の日々でした。21日に従弟がアテネから日本に飛ぶため、19日にはアテネに着いておきたかったので。車を乗り継ぎ、船にも乗って、田舎の村か島でも見てまわりながら、もっとすんなりいけるかと思っていたのですが、なかなかうまくいかず(車も乗せてもらえず、船も日程が合わず)、結局ギリシャに入ってからは電車とバスを次々乗り換えてひたすら南進、という数日になってしまいました。
(イスタンブールのオールドタウン)
(イスタンブールのニュータウンの目抜き通り)
(イスタンブール。ボスポラス海峡を渡るフェリーから見たヨーロッパ側。写真ではあまり伝わりませんが、本当に雰囲気のあるいい街でした。好きな首都ランク1位かも?)
(従弟と食べたオリーブオイルのトルコ料理。少量ずつすきなものを取って、パンと一緒に食べる。ケバブとは違ってさっぱりしていて、なかなか美味)
16日はイスタンブールからトルコ側の国境の町エディルネ(Edirne)まで行き、一泊。イスタンブールからエディルネまでの250キロほどは、順調にトラックや乗用車を乗り継ぐことに成功し、相変わらずのトルコ人の親切さを堪能しながらの移動になりました。
(イスタンブールからエディルネまで乗せてくれたトラックの運転手と、分かり際に。これまた陽気で気さくな人物。左は従弟)
(国境を越えてギリシャ側に入ってすぐのところ。両国側とも公園にようなのどかな国境でした)
17日、ギリシャへと歩いて国境を越え、ここからも同じようにトラックで……と思っていたのですが、これが予想外に大難航。大きな幹線道路までテクテク歩いて、ここぞというところで1時間以上待ったのですが、全く誰も停まってくれず。その代わりに警察が2度も「なにやってんだ?」って感じで現れて、「バス停に行きなさい」とたしなめられる始末。しかも2度目なんて、2台のパトカーがぼくらを見つけると寄ってきて、尋問したあとまたもとの方向に戻っていったので、おそらく誰かから「変な連中がいるから、見に行ってくれ」と通報でももらってやってきたような……。そんな展開と、強風に疲労困憊させられ、あきらめようということになりました。
それからはバスに乗って、アレクサンドロポリ(Alexandroupoli)というギリシャっぽい名前の街まで行ってまた一泊。3人とも激しく疲労していたものの、宿を探しているとき、笑える中国人に遭遇。ギリシャで2年ほど商売をやっているらしい男性で「宿探しにつきあってやる」ってことになって、ギリシャ語が話せる彼がぼくらの代わりに交渉してくれたのですが、なぜか気づいたら4人で泊まるための交渉を開始。「4人2部屋で60ユーロだ、これ以上安いところはないよ。ぼくも一緒だ」と。「おいおい、なんであんたまで入ってるんだ?」とぼくら。3分前にばったり出会った中国人と従弟がいきなり二人で泊まるっていう展開もありえないので、別のホテルの3人部屋に泊まりましたが、あの中国的な強引な勢いが久々に懐かしく面白かったです。
(電車の車窓から見たギリシャの田舎の風景。白い家が続いて、ギリシャはイメージどおりの世界でした)
(テッサロニキは海沿いの都市。この先につながるのがエーゲ海。)
翌日さらに、テッサロニキ(Thessaloniki)という街まで電車で6時間ほど移動したのですが、そこには中国人街らしきものがあり、中国人がやたらといて、夜久々に中華を食べて、「やっぱり中華はうまい!」と3人で軽く感激しました。中国語も久々でかなり衰えを感じましたが、中国人はギリシャ人に比べたらやはりぼくらには身近な存在。グルジアの田舎町にも中国人が店を開いていたけれど、どこの住人にでもなってしまえる彼らのタフさはすごいです。しかも、全くギリシャっぽくならず、中国の雰囲気をそのまま移植してしまっているのが驚異的。中華料理屋は看板も何も出ていないビルの二階にあり、上がっていくと、そこは完全に中国の安食堂の世界……。自分たちがギリシャにいることをすっかり忘れてしまう1時間ほどのディナーでした。
テッサロニキから船に乗ってアテネへと思っていたものの、時間的に全く無理で(というのは19日までにアテネに着かないといけなかったため)、結局18日の深夜発の夜行バスでアテネへ。そして今日の朝到着。いまは、カウチサーフィンで見つけた25歳の女性の家に泊めてもらっています。若い女性二人で住んでる大きな家で、二人ともとても親切なギリシア人。そういえば、イスタンブールで後半泊めてもらったのは、超フレンドリーで面白いトルコ人のナイスガイ二人の家。しかも、ひっきりなしにいろんな外国人が出入りして、香港人、ぼくら、アメリカ人、トルコ人で、毎日わいわい賑やかに過ごしていました。2ヶ月ですでに30人のカウチサーフィンの人が泊まりに来ていて、誰もにカギを渡して、次々にいろんな人を好きに出入りさせているというのは、驚きの寛大さです。なんか問題起きないのかな……ってこっちが心配してしまうぐらい。
(イスタンブールで泊めてもらったセルジャン(右下の人)のうちで。左側は香港人とアメリカ人。久々に料理しました)
さて、アテネ。とりあえず今日、パルテノン神殿の周囲を歩きましたが、ユネスコのマークにもなっているパルテノンを見たときは、さすがに感慨深いものがありました。この辺でソクラテスやプラトンがたむろしていたのでは……なんて想像しながら、ぶらぶらと散歩を楽しみました。
(イスタンブールからだいぶ移動しました。イスタンブールからエディルネ(Edirne)までがトラック、アレクサンドロポリ(Alexandroupoli)まではバス、テッサロニキ(Thessaloniki)までは電車、アテネ(Athens)までは夜行バス。連日の移動はなかなかハードでした~)
アテネでは今日大きなストライキがあり、その様子はBBCニュースでも流れていました。ギリシャのニュースなんてBBCで見たことなんてほとんどないのに、ちょうど着いた日にテレビでアテネを見るというのはなんかびっくりでした。その他、先月訪れたアルメニアの首都イェレバンでも、大統領選挙のあとにデモから暴動になり、8人が死亡して、非常事態宣言が出されたというニュースをみ、また4ヶ月ほど前に訪れたチベットもいまあんなに大変なことになっているのは本当にびっくりです……。いろんな出来事がとても身近に感じられて、いろんなことが気になります。
しかし、ぼくらの当面の問題はヨーロッパの物価の高さ。もう完全にアジアでのことを忘れないとやってられません。今後の旅の展開にも大きく影響してきそうです……。
従弟も21日には帰国なので、残すところあと2日ほど。とても早いです。従弟のおかげで、いつもとはちょっと違った気分で新鮮に旅を続けられています。
10日に、イスタンブールに着きました!
前回いたメルスィンから電車で二十数時間、久々にかなり長い移動となりましたが、首都の駅とは思えないとてものどかなトルコらしい終点駅で電車を降り、目の前にボスポラス海峡が広がっているのを見たときは、おお~ついにここまで来た!という感動が湧き上がりました。でも、なんだか達成感も出てしまい、疲労が溜まっていることもあって、もう旅も終わりかなって気分になってきたのも確かだったり……(正直、少々疲れてきました~)。
(東部は小刻みに移動したけれど、今回は一気にイスタンブールまで。列車は時間はかかったけれど、バスよりもぐっと安くて、しかも快適。これからまた南西部に下って、船でギリシャに渡りたいと思っていますが、いまの時期、どうも船がなさそうで陸路になるかもしれません……)
イスタンブールは聞いていたとおりに独特な雰囲気を持ったとてもナイスな街です。ボスポラス海峡を挟んで西がヨーロッパ側、東がアジア側と街が大きく分かれていて、昨日まではアジア側に住んでいるトルコ人夫婦の家に泊めてもらっていましたが、フェリーに乗ってボスポラス海峡を越えてヨーロッパ側に入る度に、「これがあのボスポラスか~」と思わずにいられませんでした。これから歴史でならった大御所の地名が続出しそうで、それもなかなか楽しみです。
(イスタンブールのアジア側の端に立つハイデルパシャ駅。こここそがアジアの終点?)
イスタンブールは大都会なだけあって、さすがに人の感じは田舎のように「いやあ人がいい!!」って印象は受けてませんが、それでもトルコの好印象は変わらず、印象の良い国ほぼトップの座をいまもキープしてます。前回書いたCouchSurfingで見つけた同世代のトルコ人夫婦の家に泊まっているのですが、彼らがとてもいい人たちであることもその要因の一つです。
彼らは37歳&29歳(たぶん)の新婚さんで、快適なマンションに住んでいて、こんなところにタダで泊めてもらっていいの?というぐらいの居心地のよさ。一昨日は、奥さんの両親の家にディナーに招待してくれて、いろんなトルコ料理を満喫。
(お母さんがぼくらのために、丸一日かけていろんなトルコ料理を作ってくれました!たとえば下写真の手前のはメンチカツのようなのですが、ころもにいろんなスパイスやら麦の一種やらが入っていて複雑な味。トルコ料理ってケバブだけかと思ってたら、そうではないことが分かりました)
昨日(12日)は実はぼくらの結婚5周年(早い!)記念だったのですが、薦めてもらった魚料理の店に二人で行くと、なんと彼らがサプライズで、店の人にぼくらのためのデザートを用意してもらっていて、食後にケーキが出てきて「さあ、ろうそくを!」と二人でろうそくの火を吹くことになりました!思わぬところでお祝いをしてもらうことに。感激でした。本当は、久々に寿司でも食べに行こうと言っていたところ、かなり高い上に味の良し悪しも分からないために、結局手ごろな店で地味に落ち着いてしまいそうだったのですが、彼らのおかげで、なんとか記憶に残る一日になりそうです。(ちなみにここまで5回の結婚記念日は、オーストラリア(モンキーマイア)、昆明、上海、上海、そしてイスタンブール。詳細を思い出そうとしても、上海の2回はいまいち思い出せず……。なんでだろう。来年は……日本かな?)
(泊めてもらっている夫婦・アルプとセラップ(左の二人)とその家族。ディナーの後で。知的で穏やかな雰囲気のとても素敵な家族でした)
しかも驚いたことにこの夫婦、旦那がフリーライターで奥さんがケータリング会社勤務という組みあわせで、なんと上海当時のぼくらと全く同じ!奥さんの働く会社と素子が働いていた会社がトルコでもライバル会社のようで、そんな偶然にもびっくりしました。彼らと話しているうちに、トルコのこともいろいろと知るようになってきましたが、びっくりしたのはこんなに物価が高いのに、イスタンブールでは多くの人が月収400ドルほどでやりくりして暮らしているらしい、ということ。ガソリンが1リットル300円近く(!)するため、まず交通費が高く、400ドルではとても無理なんじゃないかという気がするのですが、これもまた中国のようなマジックがあるのかもしれません。。。
3日泊めてもらった彼らの家を今日出て、今晩からは別のまた同世代のトルコ人の家にお世話になります。イスタンブールは、バックパッカー用の安宿がドミトリーで10ユーロ前後もしてしまうような物価なので、カウチサーフィンは本当に助かっています。しかも、ちょっとだけだけど、この街に住んでいるような錯覚に陥ることができるし、友達も増えるし。
西に移動するにつれ、よくも悪くも、非常に常識的な世界になってくるため、なかなか刺激を得るのが大変です。地元の人と知り合ったりするなどしてなんとか自分たちで盛り上げていこうとしてますが、いまいちパンチに欠ける日々になりがちです。何も不便はなく快適だけど、不思議なことも起こらない、っていうような。でも、そんな日々を繰り返していくうちに、またもとの生活に順応していくのかもしれません。
明日14日からは従弟が合流します。ちょっと駆け足だけど1週間でアテネまで行く予定のため、トルコも残りわずかです!
(市内の地下に広がる1500年ほど前の貯水池の中で見つかったメディウサの頭の像。なぜかさかさに作られていて、この状態で1500年とか置いてあることを思ったら久々にゾクッときました)