2010年6月 7日

豊島学寮

toshima_5.jpg実家からはがきが一葉転送された。むかし暮らしていた学生寮からの案内だった。「東京大学豊島学寮 閉寮記念大同窓会」と銘打たれていた。もう10年前だ。昔暮らしていた町をわざわざ訪れるということはほとんどしない。大阪で通っていた幼稚園を見に行ったくらいだろうか。それをしてみる気になったのは、まあ、いまその場所から歩いていけるところに住んでいるというだけのことだ。
 一度学部を卒業して、建築学科に学士入学したいと言った時に、父から「自分でなんとかしてみろ」と言われたわたしは、選択の余地なく学生寮に暮らすことになった。当時、東大には向ヶ丘寮、追分寮、豊島寮、三鷹寮、井の頭寮、白金寮とあったはずで、わたしが入る資格があったのは、前3者。結局、豊島寮に入ることになった。巣鴨の(といってもJRの駅は大塚の方が最寄りだった)地蔵通り商店街が途切れる庚申塚の都電沿いに建つその寮は3棟から成っていて、木造2階建1棟と鉄筋コンクリート造4階建2棟だった。木造2階建は東寮と呼ばれ、戦後すぐに建設されたそうだ。現住者が退去次第取り壊し・立て替えが決まっていたので、わたしはRC造の方に住むことになった。RC造とはいっても、築40年と聞いていたその建物の老朽化はひどく(調べてみたら1962年建設とのこと)、そのあいだ保全の手が入った様子も見当たらなかった。各部屋は8畳で2人部屋。わたしは南北2棟あるうちの、南寮、最上階の4階に入った。他の部屋は中央に2段ベッドが置いてあって、それでなんとなく部屋を2分していたのだが、わたしの入った部屋は前の住人が設えたらしいベニヤ板の衝立が中央に立って、視界は一応遮られていて、きっちり4畳のスペースが与えられた。そこにベッドだけが残っていた。スチールラックと机を入れれば、もういっぱいで、それこそ足の踏み場もなかった。部屋に入れば、まず靴を脱いで、そのままベッドの上にあがり、ベッドの縁を椅子にして机に向かった。ベッドに横になれば、ちょうど顔の真上の天井に、小さなシミが目についた。

toshima_2.jpg風呂・トイレは共同。調理場も共同だった。洗濯機はなかったように思う。共同浴場は、入寮当初先輩から「確実に水虫になるよ」と言われて、結局銭湯に通った。巣鴨界隈は当時まだ銭湯も多く、そして入浴料も安かった。気分がよければ足を延ばして新しい風呂開拓に出かけていった。銭湯生活は、震災でガスが止まったセンター試験と二次試験のあいだのぽっかり空いた、思い返せば、とてもぼんやりとした時代以来だった。彫り物をしょった人達を間近に見るのは初めてだった。寮には食堂がついていて、予約した学生にはまかないが出た。料理長は、学生からも慕われていたのだが、大学とバイトで夕飯時に帰るということがなかったわたしは結局、風呂同様めったに利用することがなく、それがちょっと残念だった。たまには調理場で自炊もしたが、たいていは学食か地蔵通り商店街のときわ食堂で夕飯をとった。ときわ食堂には学生も含めて色々な人がおり、いつも相席だった。終戦記念日の昼飯を食べていた時、相席になった2人の老人はいまここで出会ったらしく、昔語りに、戦地での思い出を交換していた。所属部隊・階級を告げた時点で、当初の2人の上下関係が逆転していた。嫌な上官の乗った船が沖で沈んだ時には、陸で皆で喝采を上げた、という話は冗談だと思いたい。
 まあ苦学生といってもよかったかも知れない。けれど、そんな意識もなかった。それしか選択肢がないのだから仕方がない。下北沢からの引っ越しのために車を出してくれた友人は、新居の住環境にたいそう衝撃を受けたらしく、いまだにそのことを感慨深げに話してくれる(ちなみに、その友人はいまだに引っ越しとなれば車をだしてくれる友人です、ありがとう)。彼曰く、それまではわたしのことを、口ばっかり、と思っていたらしく(まあそうだったとわれながら思うのだが)、学士入学の件もいつもの気紛れと考えていたらしい。いざ引っ越しの日にその住まいを見て、よほどの覚悟と見てとってくれたそうだ。実際のところは、苦労に代えてなにか志を立てたというほどの気概や覚悟もなく、わたしはその住まいとそこでの生活をあっさりと受け入れたというだけのことだ。他の寮生もそうだったろう。
 実際、そこでの生活は楽しかった。駒場で4年過ごした身には、本郷の生活も新鮮だったし、なにより建築学科での勉強が楽しかった。相部屋生活にも4畳という狭さにも不満をもたなかった。ルーム・メイトにも恵まれた。2年間一緒に暮らすことになる相部屋の住人は法学部生で播磨出身の好青年だった。友達と言えるほどの仲にになったわけではない。それでも毎日あいさつ程度のおだやかな会話を二言、三言交した。彼は卒業と同時に就職で関西に帰っていった。当時のわたしは、建築で頭がいっぱいで、寮には寝に帰るだけ。それでも幾人か思い出す顔もある。それぞれに十分すぎるほど個性的だった。社交場は調理場だった。

toshima_3.jpg引っ越しを手伝ってくれたその友人の驚きを共有してもらえるようなエピソードをふたつ持っている。ある晩に、たばこを吸おうかと寮の門を出た時に(部屋はもちろん禁煙だった)、ちょうど寮の前を通りがかった近所の見知らぬおばさんにでくわした。たいそう驚かせたようで、「ああ、びっくりした!ここ人住んでたの?あんた東大生?」と誰何を受けたことがひとつ。もうひとつは、夏休みに寮に残っていた時に、なにかの用事から帰って来た時だったか、門のところで近所の子どもたちの一群が「ここ探検してもいいですかー!」と元気よく駆け寄ってきてことだ。「おー、怪我すんなよー」と答えると、大人なら決して踏み入ろうとしない草むらの中へ子どもたちは駆け込んでいった。夏休みの小学生の好奇心を刺激するに足る住まいだった。

 入寮して、住居費の問題をクリアしたわたしは生活費を稼ぐために塾講師とあいなった。幸い、建築学科の必修科目はすべて毎日 朝8時30分から昼までの午前中に固められていて、午後は設計と演習とに充てられていた。夜間という呼び方に倣えば、朝間大学だった。午後は成城の学習塾で教えた。もちろん、なんとかならなくなった時には、いつも両親が助けてくれた。
 2年間の思い出を書きだせばキリがない。夏の冷房などなかった。最上階はさすがに暑かったが、実家のある兵庫に比べればましだった。冬はたしかセントラルヒーティングが廻っていたような気がする。春には桜が咲いた。南棟と北棟に挟まれた中庭、というか例の夏の子どもたちが消えていった草むらに、大きな桜の木が1本立っていた。南北のコンクリートの壁まで枝先を伸ばした立派な桜だった。ひと盛り咲いて、新しい葉も芽吹く頃になれば、2棟のあいだに巻き込まれた風に、花びらがさっと捲かれて、窓の外一面をピンク色に霞ませたのを覚えている。
 在寮2年目のクリマスマス・イブからクリスマスにかけての未明には、木造2階建が燃えた。600平米のうち300平米が焼失したそうだ。ほとんど全焼のように見えた。これには先触れがあって、その一週間前にはわたしの住んでいた南棟でぼや騒ぎがあった。慌てて1階まで駆け降りてみれば、火は消えていた。1階共用部屋の椅子の上で、新聞が燃えていたとのこと。どうやら放火らしい、と誰もが思ったコトの起こりは、寮委員会が全自動マージャン卓を買ったことに始まる。その直前に、寮委員会は家賃の値上げを断行していた(といっても1000円か2000円だったように思う)。それに義憤を感じた寮生がいたらしい。家賃を値上げしておきながら、マージャン卓を買うとは何事か、という匿名の投書がなされ、また寮長の部屋の扉には「頃ス」という物騒なはり紙が貼られた。寮長も剛毅か物ぐさか、ずっとそれを貼りっ放しにしていた。そんなことがあった直後に、ぼや騒ぎがあり、東寮が燃えた。実際には、マージャン卓と火事とのあいだには何の関係もなかったのかもしれない。とにかく木造2階建が燃えた。この頃、東寮にはすでに誰も住んでいなかった。クリスマス・イブの夜だというのに、寮生はほぼ全員在寮していたようで、百数十人の学生が表通りにぞろぞろと避難してきた。その多さに驚いたのを覚えている。向いの老人ホームからも、不安げに人々が出てきた。この時の寮生の態度はどうしようもなく悪く、面白がりながらビデオを回す者や、「あったかい」と言って、遠くの炎に手をかざす者がいた。実際、離れて立っていても暖かかったのは事実だ。業を煮やした消防士が「お前ら話聞け!並べ!」と声を張り上げる。皆で「1!2!3!」と点呼をした。細長い木造2階建からは囂々と火が上がって、脇の木の枝にも延焼するに及んだ。わたしは、おとなしく消防士の指示に従っていたのだが、あまりに現実感のない目の前の光景に茫然としていた。地震、雷、火事、オヤジと言うけれど、これであとは雷だけだなあ、と馬鹿なことを思ったりした。建物を包み込むほどの巨大な炎は怖かった。

toshima_4.jpgそんなきな臭いこともあって、2年も経とうとしていたし、そろそろここも出るかなあという気分になった。出るといっても、出ていくあては、他の学生寮しかなかった。大学からも遠くなる。それでも出ようと思ったのは、この放火騒ぎが理由ではなくて、天井のシミだった。入寮当初には、小さなシミだったそれが、その頃急に大きくなっているような気がした。気のせいかとも思った。でも、やはり大きくなっている。そしてだんだんと垂れてきている。孕んだ天井を手でそっと支えてやると、なにやらたぷたぷとした感触が伝わってくる。寮委員にかけあって、施設部と屋上に上がってもらった。やはり雨漏りしている。そして修繕費は出せないとのことだった。仕方がない。火事の後に、水を被るのも面白いかと思って、気にはしなかった。当時は、卒論が終わって、卒業設計に移った頃で、製図室で暮らしていたようなものだったし、家に帰れば泥のように眠るだけだった。それでも卒業設計が終わって、しばらくの時間ができて、日増しに目の前から天井が迫り出してくるのは、どうにも居心地が悪かった。虫めがねで覗いたように天井の目地が歪んでいるのが分かる。耳の奥にちゃぷちゃぷと水の音がする。プールの底に寝ているような気になる。春になれば梅雨がやってくる。それに相部屋の彼が出ていけば、また新しい人が入ってくる。2年間の寮生活で身体にも変化が起きていた。40年間の埃のせいか、ここに住むようになって洟が蓄膿にでもなったように黄色くなっていた。なにか他にも色々と失調をきたしているような気分になった。限界かな、と思って、寮を移ることにした。郊外のさわやかな住宅地に隣接したその寮に移れば、鼻の調子もすぐに戻った。それから8年が経った。
 最後に洟のことを思い出して、同窓会への出席をどうしようか迷っているうちに回答期日もとうに過ぎた頃、とりあえず見てくるか、ということにした。なんの縁だか、引っ越しの友達も近くに住んでいる。お茶しない?ついでに寮を見に行きたいんだ、と日曜の午後に電話をかけた。あの天井は結局破れたのだろうか、ということだけが気になっていた。

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2009年12月10日

白鷺

20090924_白鷺.jpg中杉通りから東に一本入った通りは、名前がついているのかしらないけれど、いわゆる生活道路になっていて、保護林に指定された小さい林の島がいくつかぽこりぽこりと浮かんでいる。武蔵野の原生林の奥に古びた日本家屋があまり手入れもされていない様子で佇んでいる。夏の暑い日には、背の高い木々が延ばす枝々が幾重も重なり合って切り取る様々な形の多角形の穴から、太陽の形をまねて、ぼんやりと路上に光が落ちる。そんな木陰は子供たちの遊び場でもあるらしく、シャボン玉遊びに興じる彼らの姿に一瞬、懐かしいというのでは足りないくらいの気持ちが背中をふわっと撫でていくのだが、よく見れば、どうもシャボン玉もシャボン玉なりに最近は進化もしているようで、妙に頑丈で、透明ながら見た目にも厚さが感じられる。どうにも、そのシャボン玉は堅いらしいのだ。シャボン玉には似つかわしくない大きさにも、息を吹きこんでしまえばなれるもので、しかしその大きさと引きかえにやはり重さも増しているようで、空気よりも重い比重を抱えたその石鹸(なのかしらん)の泡は、アスファルトに四分の一ほど身をつぶして、様々の大きさに、太陽の光を色々な虹の光彩に分解しながら、けれども七色の光を決して自分の球面から逃すことなく閉じこめて、割れもせず通りに身を沈めている。ストローを吹く三、四人の子供たちがまばらに散って、シャボン玉もまばらに降りて、車もすれちがえないほどの通りが、淡い透明な川辺のように寄せるようだ。けれども、シャボン玉がそんなに重くてよいのだろうか。彼らのシャボン玉は、屋根まで飛ぶこともなければ、壊れて消えてしまうこともない。薄いのだか厚いのだか言いようのない膜に空気を包み込んで、黒い路上でただふるふると震えているだけだ。と、風が一薙ぎ、ぱすんとはじけて壊れて消えた。あっー、という子供たちの声が、かすかなしぶきを惜しんだ。

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2009年7月13日

大井町

20090114.jpg長く眠れた朝の6時30頃に、投宿しているホテルの最上階に上った。東京にでるときに決まって泊るビジネス・ホテルは部屋は個室だけれど、ちょっとはましなカプセル・ホテル、くらいのシステムになっていて、宿泊客は朝と夕と違う準備のために共同浴場へ上る。入浴前に、目覚めの水を一杯飲み干し、喫煙コーナーでこれも目覚めの煙草をふかしていると、東の空が急に目の前で明るくなっていく。そういえば日の出を認めたことなど、もうずいぶんと前のことだったように思う。平野が漫然と続き遠近法があいまいに空気に霞んでいくパリや東京では、夕日を認めることはあっても、太陽はいつもどこかから知らない間に、空の上に昇ってしまっているものだった。昇る日の足は速くて、表面張力を漲らせたオレンジの水滴は、その水泡の臨界をぷるぷると震わせながら姿を大きくしていく。昇る、というよりも、ふくらむ、といったような、地平線の上の太陽は、卵のように、やわらかい黄身は、白い膜に包まれて、いまにもこぼれて甘い液が滴りそうだ。あるいは、それは、万年筆の先から零れた黄色いインクが、紙に滲んでしまうまでのわずかな時間だ。その黄色の一滴は、やがて青白い薄明を、長い波長の光で一時染めて、また違う青へと空を返していくだろう。たやすく毀れてしまいそうな太陽の幾何学は、赤で描かれるような正円ではなくて、前後左右にゆれながら、膨らみながらも界面張力をうけながら浅く沈んだ楕円形だ。それは乱視のせいかもしれなくて、目を細めて、その像を絞ろうとしても、光線はいつもひとつのはずなのに、三つか四つの輪郭が曖昧に重なりあってゆれたりするだけで目の筋肉はすぐに疲れてしまって、円の幾何学はだらしなく衣装を脱ぎすてて、朝の太陽は結局、朝、布団の中でけだるい身を起す時に、肘と膝までは起しながらも立ち上がることのできない、上昇と落下が奇妙に均衡したうずくまった形と、奇妙な楕円形の相似を示している。
四つある東側の窓には、一人ずつ勤め人らしい男達が並んで、彼らも久しぶりにちがいない、寝起き悪げな太陽の姿に見入っている。すべてが逆光の日陰に沈んでいる未明の東の空から、西側の窓を振り返れば、そこはすでに朝の世界で、駅前のビルの屋上に不釣り合いに大きい巨大なパラボラアンテナが、遠景の富士山と、真上の月と三点で、こちらは三角形の構図に収まっている。太陽までの距離からすれば、誤差に過ぎないそれぞれの距離を保ちながら、富士と月が遠くに白く浮かんでいる。古代の人は、朝の月には雪が降り積もっているとは思わなかったのだろうかと考えていた。

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2008年4月22日

Belleville

20080427_Belleville.jpg玄関扉を出て、通りを左に進むとベルヴィル通りにぶつかる。そこを右に折れて、左に曲がりながらなだらかに沈んでいく通りを下って、ピレネー通りを超えると傾斜が急に深くなり、そこから中華街がはじまる。18区と19区の区境にあたるベルヴィル通りは、たいした坂で、これを自転車で一気に駆け登ろうと思えば、そうとうの脚力と肺活量を要求される。土曜の午後、なんとはなく下っていって、メトロのベルヴィル駅の交差点をすぐ目の前にして左手、カフェ・レ・フォリーズのテラスに席をとる。ノワゼットを頼む。フォリーズという名が実は由緒のあるものだと知ったのはつい最近のことで、本来は、通りの反対、18区側の13番地にあったファヴィエというガンゲットの名前だったはずだ。メトロ、ベルヴィル駅の場所には18世紀、クロード・ニコラ・ルドゥによって建設された50以上のパリ関税門のひとつがあった。つまりいまのベルヴィル大通り、メトロ2番線の通るラインが、そのままパリの市域を示す柵であったわけだ。スターリングラード駅からジョレス駅のあたりで高架になる2番線の車窓からは、かつての門のひとつ、ラ・ヴィレット門が背後に運河を控えて佇んでいるのがみられる。50以上もあった門のうち、今に残るのは、他にモンソー、ナシオン、ダンフェールを加えた、わずかに四つに過ぎない。関税門というだけに、ここを通って商品がパリへと入る時に税金が課せられる。つまり、その外側は免税地帯ということで、18世紀末から、関税門を出たパリ直近の郊外には、飲み屋、飯屋が建ち並んでいた。それはやがて19世紀の前半にはガンゲットという飲み屋兼ダンス・ホールとして進化していくことになる。11月11日聖マルティヌスの日から始まって、カーニバルの最終日マルディ・グラの火曜日まで、夜毎パリ市民は市域を越えて郊外の免税地帯へと飲み騒ぎに繰り出したという。「肥沃な火曜日」を昼から夜まで飲み明かし、翌日、灰の水曜日の朝には店から追い出された市民たちが、ぞろぞろとパリ市へと再び下っていったそうだ。現在でいえばメトロ2番線と6番線上に並んだ市門周辺で年中行事とかしていたカーニバルのこのどんちゃん騒ぎのなかでも、一番の活況を呈していたのがベルヴィルだった。1822年、当時ラ・クルティーユとも呼び習わされたベルヴィル通りの坂上から、シルク・モデルヌ座(近代サーカス座)の思いつきによて始まった仮装パレード行進は、飲んだくれた沿道の市民を横目に、あるいは巻き込みながら、フォブール・デュ・タンプル通り、シャトー・ドー広場、タンプル通りを練り歩き、セーヌ川まで行進したという。この思いつきは、年ごとに規模を増していった。ベルヴィル始発のパリへの一大行進は、いつしか「ラ・クルティーユの行進」と呼ばれるようになり、ある者はマスクをつけてパレードに参加し、ある者は何ヶ月も前から沿道のカフェの二階、窓際の席を予約し、当日ともなれば陣取った窓から手元のグラスやら食器を投げ込み、また花びらを散らし、金貨を撒いて、市民の熱狂にさらなる色を足した。ガンゲットで飲み明かし、朝の七時、はかなくも閉店とともに路上へ追い出された彼らは、ラ・クルティーユのマルセイエーズと謳われた「兵士の帰還」を高らかに歌い上げながら行進したに違いない。このラ・クルティーユの雰囲気をいまでもベルヴィル通りは留めていて、このフォリーズが位置するベルヴィル通りと、いまでは小ユダヤ人街と化しているデノワイエ通りの角には、もともと通りの名前をそのままにデノワイエと呼ばれたガンゲットがあり、ラ・クルティーユの行進の出発点であった。フォリーズがかつて位置していた通りの向こう側、18区は、80年代の開発で高層ビルに様変わりし、白いバルコニーをぶら下げたマンションの階下には、漢字と丸く剥かれた鳥やら豚やらが吊り下げられた中華商店がたちならぶ。ジャ・ジャンクーの映画『世界』で、偽造ブランド品のデザイナーである女が夢見たパリの町こそ、このベルヴィル、美しい町に他ならない。店や通りの名前を頼るにすぎない19世紀の名残と20世紀の移民の街とが混濁したこの町は、しかしまがいものとは思われない生活の実感をもっていて、週末のこの日、何人の人がこの坂を上り下りするのだろうか、地元の若者らしい東洋人の一群をみれば、買い出しの大きなビニール袋をいくつも提げたフランス人一家や、デートがてらエスニック料理を食べに来たらしいカップルたちの笑顔が、坂を踏みしめるリズムにのって目の前を通りすぎていく。急な坂を登っていけば、左にベルヴィル建築学校や、ほんものの大豆の味がすると名高い豆腐屋、右に餃子や肉まんでうならす中華レストランやベルヴィル公園を控えて、ピレネーの駅にでる。ここでベルヴィル通りと交わるのがピレネー通りで、パリ北東の丘の等高線をなぞるようにガンベッタまでのんびりとつづくこの道の起点が、ここピレネー駅なのだ。振り返ってパリのピレネーの峰から町を見下ろせば、まっすぐ先にエッフェル塔が見える。パリ北東のこの丘と、パリ南西に位置するあの塔とが、どうやれば直線に結ばれるのかわからず、地理感覚を大きく狂わされるのだ。ビルが建ち並びながらも、隙間の多い東京の町では、意外と東京タワーが突然、ビルの狭間から赤い姿をのぞかせる機会に一度ならず立ち合い、夜の移動に少しの温度を返してくれるのだが、稠密な一個の建築物であるパリの町で、エッフェル塔を遠くに眺められる場所は少なく、しかるべき高台か、セーヌ河岸か、パースの延びる見通しの良い通りにでてみなくては、その鉄の飴細工のレース模様を光に透かし見ることはできない。夕暮れ時にもなれば、ベルヴィル通りをまっすぐ下るその正面に、大きな夕日のかかるのにでくわすこともあり、日の出も日の入りも、どこで顔をだしてどこでひっこむのか定かでないパリのスカイラインの上に、長い冬のそれでも短い間だけれど、巨大な赤い炎を遙か向こうに鮮やかに拝むことができるのだ。その夕日に向かって、自転車で、この坂を駆け降りるのが、冬のぼくの子供じみた楽しみだった。ピレネーの駅を越えて、さらにベルヴィル通りをわが家の方に戻っていけば、そこからジョールダン駅前のサンジャン・バプティスト・ド・ベルヴィル教会までの道のりは、もうパリの普通の下町の生きた商店街で、どこもそれなりに有名らしい商店が建ち並んでいる。70mを越える二本の鐘塔をもつネオ・ゴシックの教会は、傍らに建築家の名前を冠した通りを従えて、刻々、教区に鐘の音を響かせる。クリスマスを迎えるという気分にもなってくると、パリのそこここの商店街は、いっせいに小さな豆電球で拵えられたイルミネーションで飾られる。メトロのピレネー駅とジュールダン駅のあいだの我が商店街は、アーチが幾重にも連なり、教会の表参道はさながら青い千本鳥居の様相を呈す。そんな光の冬化粧を纏ったパリのなかでも、とくに美しいのは5区ムフタール街のそれで、やや観光化されもしたこの町だが、観光地というところは観光者のおだやかな笑顔と、その時、そこだけはという幸福そうな期待に包まれているもので、シャンゼリゼでさえぼくは嫌いではない。ゆるやかに揺れながら降りていくムフタールの自然な重力にまかせて連なって注いでいく青い光の流れを見上げるのは、まるで川底から天の川を見上げるようだ。いまは暗渠にされてしまったが、ここはかつて小川だったのではないのか。いまでもこの下を川が流れているにちがいない。誰もがそんな妄想を育てているわけでもないだろうけど、皆、一様に、顔を見合わせ、視線を上げて、ぽかんと口をあけて、光の川を渡るのだった。

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2008年4月19日

Cergy-Pontoise

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Cergy-Pontoiseに行ってくる。イスラエルのランド・アーティストと言えばいいのか、地球彫刻家と言えばいいのか、ダニ・キャラバンによると大都市軸をみたかったからだ。写真を見て期待してはいたが、行ってみれば白々しいもので、ただあっけらかんと、軸線が延びるのみ。何かを見たという印象もなく、通りすぎたという感覚がむしろ近い。手前の集合住宅に囲まれた円形広場には、物見の塔が、軸線の方向にわずかに傾斜して立っている。リセの若者が昼食に急ぐのか昼休みに広場を横切り、軸線上、建物の切れ目から南中の太陽が光を差し込んでいる。湖に面してたつカルーゼルの凱旋門を擬した12本の柱の足下では、そこでバイク雑誌の取材だろうか、レフ板と一眼レフをもった三人の男が3台のバイクを囲んで、なにやらぼそぼそとあれやこれやと言っている。ジョギングの人達が階段を上り下りする。階段を下りきった場所は、車通りのある二車線で、そこから先には本来なら遊歩道を渡って湖上の円形の島に出られるはずなのだが、工事のためフェンスに塞がれていて、二台の作業車と二人の工員が、昼休みに出るための後始末をしているところだった。石を据えた人、画家にゆかりある樹を植えた人の名前を記したプレートが、軸線の周囲に点在し、印象派に捧げられた庭、人の権利に捧げられた庭、引き剥がされ移された敷石が、あっけらかんとしたこの幅数十メートルばかりの帯に、せめても古さや意味をまとわせようと並んでいる。軸線上の中心線に据えられた正方形の石盤は、地下1500mから組み上げられた水が蒸気となって吹き出るはずなのだが、噴水盤の穴を砂と枯れ葉で埋められて、ただ軸線をまっすぐ進んでいく気持ちを阻まれ迂回させられるだけだ。階段の一段おきに108026といった数字プレートがはめられていて、踏面が50cmと見える一段一段が、パリからの距離を示しているのかとも思ったが、実際は照明管理会社の割り当てた標識に過ぎないだろう。実際、よくみれば数字は斜塔から湖へ向かって、20080417_Cergy_3.jpgつまりパリの方へ向かって、数を増やしていくのだし、そもそもカルーゼルの凱旋門をうつしてみたり、ピラミッド建設のおりに引き剥がされたルーブルの敷石で舗道を敷き詰め、斜塔の頭をパリへと向けて垂れ、「パリへ」と続くこの「大都市軸」を、パリ的コンテクストに載せようとしたところで、実際には、この軸線はデファンスの高層ビル群の右へ逸れて、あちらの方向へ延びていくのだから。その先には、なだらかな峰を描くひとつのうっすらと盛り上がった山がみえるがあれはどこだろうか。何も思わず、ただ、ふーん、とだけ写真を撮って、階段の途中に腰掛けて友人が作ってきてくれたおにぎりを食べる。郊外の空は広い。風が自由に斜面を吹き上げてくる。階段の回りには緑の芝生が広がり、たんぽぽが黄色い花を咲かす中に、白い綿毛が風にぷつんぷつんと、旅に出るように一人一人飛び立っていく。おにぎりを持つ手がかじかむ。腰を上げてカフェを探した。帰り際に改めて眺めたリカルド・ボフィールの半円形広場と正方形のパラッツォが向き合うポストモダンの住宅では、微妙な階高の部屋のひとつひとつがジャイアント・オーダーの隙間に逼迫しているようにみえる。一本のオーダーの柱頭とエンタブレチュアのあたりに出ている「売り出し中」の看板だけが、この半円形広場に挟まれた言葉だ。正方形の建物の方の中庭の緑の芝が輝くのに誘われて足を踏み入れてはみたものの、しんとしたもので、緑の芝だけが白い光線をはねかえして、青いビニール袋が風に巻き込まれて同じところを、くるくると舞い上がり舞い降りし、ひとつ、20度程に開いた窓からカーテンが揺れて覗くだけだった。「ボール遊び禁止」の看板が、生活の裏側らしい活気さえも禁じているようだった。かつてパリの17区の中庭に面した小さい一部屋に暮らしていた時、小さく深い井戸のようなその中庭に夕暮れ時、青い光だけが乱反射して、海の中にいるような気持ちになったのを思い出す。太陽は向かいの部屋の窓に映る姿を朝にみるだけで、日中、時間を告げてくれるのは、かかとの響かせる音のこだまだけだった。雨の日には、いっそう音を深い底に引きずり込んだ。ベビーカーを押す若いカップルが入ってきた。中庭を出た。帰りに駅前商店街の広場の角の塔に戴かれた「天文台」を斜向かいに眺めるカフェの窓際のひだまりに席をとり、ノワゼットを頼んで、ついうとうととしてしまう。向かいの席では友人が本を読んでいる。20080417_Cergy_1.jpg30分程の時間だっただろうか。友人はまだ本を読んでいる。太陽のあたたかい光はすでに隠れて、にわかに寒さをおぼえた。パリに帰ろうか。天文台とみえたのは、カフェの店主に聞けば青年会館のような文化施設で、塔の上まで登りたいという誘惑にもかられたが、中のロビーに黒人の大きな青年たちがたむろしていたので、つい入るのをためらってしまった。人種的な偏見というよりは、たんにぼくは自分より体格のよい人が怖いのだ。商店街を抜けた正面の駅には、入り口のゲートに貼り付いた巨大な時計が視界をおそって、秒針の回転する悪夢のような速さに驚かされる。死神が命を狩る鎌の切っ先にも似て鋭いその速さをみせつけられて、ぼくはうろたえた。角速度は変わらなくても、その針先が弧を描く速さは中心から遠ければ遠いほど速くなる。中心はただ力を伝えるだけで動かない。ひとりひとり、それぞれに自分の中心をもっていて、ぼくはいまそこからひどく離れていやしないかと、中年に入って経つ時間の速さをあらためて思ったりした。ホームに降りて、駅の斜面の土手に友人が春の七草のふたつを認めて、ぼくはぼくで、やはりタンポポくらいしかわからずに、雑草とくくってしまうわけにもいかないらしい名前も分からない草花を眺めて、ぼうっと煙草をふかした。

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2008年4月17日

郊外へ

堀江敏幸『郊外へ』を読む。郊外、小説、写真、アジェ、ドワノーといったphotographe humanisteやらグラフティ=落書き、推理小説、等々。今橋映子『〈パリ写真〉の世紀』は感動的だった。建築で言えば、コンクリートの高層集合住宅と取り残された戸建て住宅の対比。行政主導による大規模再開発という大きな匿名性と、そこに取り残された、あるいは息づく市井の人々という小さな匿名性の対比。あるいは彼らが残すささやかな署名、あるいはその痕跡。心ある人ならば、無論、後者に愛着をもつものではないだろうか。ぼくも大阪郊外のニュータウン生まれ、ベッドタウン育ちのタウン小僧で、東京郊外の団地に行くと心が落ち着く。郊外の空は広い。その光はやさしい。そこでの現実は難しい。でも今気になっているのは、ここでは郊外についてではなく、また『郊外へ』についてでもない。

ぼくは18世紀の新古典主義をとりあえずのテーマにしている。ごく大雑把に言って、近世以前のフランス建築の対象はふたつあり、ゴシック建築と古典主義建築だ。フランスに着いてようやく気づいたのは(気づいてみれば当たり前なのだが)、教会が主な対象となるゴシック建築に比べて、古典主義建築へのアクセスが非常に難しいということである。というのも、17,18世紀の代表的な宮殿、邸宅は多く行政機関が入っているためである。年に二日の「文化財の日」だけで、それらをすべてまわるのは難しい。大きな壁がある。また研究も建物と対峙するというよりも、史料探しが中心となる。18世紀の建物はすでに存在しないことがおおくて、建物に繁く通い細部に目を凝らし、という機会はほとんどないと言っていい。もちろん近代以降ならば、パリの町を1,2時間でもぶらり歩けば枚挙にいとまなく建物に巡りあうことができる。つまりはパリの真ん中と対峙したかったけれど、試合前から勝負が決まっていたようなものだ。外国人が手を出すようなテーマではなかったかもしれない。

建築において周縁的なものの顕揚は比較的早かったように思う。ヴァナキュラーな建築、建築家なしの建築、民家、集落、等々。それらはモダニズム建築、近代的な計画主義、メガロマニアックな未来主義に対する、ごくまっとうな応答であったに違いない。市井の、また工学部でのウケも良い。だが一方で、建築史はここ最近、大きなものと正面から対峙してきただろうかという疑問も残る。たとえば、近代以降の建築家のモノグラフ研究は日本に少ない。藤森照信の『丹下健三』は対象の巨大さに見合うだけの仰ぎ見るべき大きな仕事だが、日本で建築家のモノグラフィックな研究といえば、展覧会や作品集としてまとめられるだけである。むしろアメリカ人の手になるものがあったりする。弱いものの側につくのは倫理的でもあろう。が一方で、その大きさと真剣に向きあうことなしには、巨大さを批判するすべをもたないことにもなる。建築家に職人を対置し、巨大さの影に隠れるものを拾い上げるのか、コールハース的な肯定の身振りによって逆説的な批評性をうかびあがらせるのか。もちろん歴史家にとって応えはどちらかではなく、どちらもなのだから、大きさと小ささと、強さと弱さとのあいだで考えなくてはいけない。願わくば繊細さや、やさしさや、さみしさの側につきたいとは思う。ただそういったやさしさの適わぬ相手もいる。こちらが目に留めるまでもなく、拾い上げるまでもなくそこに屹立し、あるいは存在を誇示しているものがいる。そういうやつを相手にするのはしんどい。しかしそういった中にこそある固い可能性も否定しきれないのも事実なのであり、つまりそこには力がある。その力を汲み取れないままでは、社会のなかでの建築のあり方がずれていくのではないかなという気がするし、建築とは何か、建築とはどういう営みなのか、建築とはどういう力なのかという素朴な問いに答える時に、その一面しか示せないのではないかな、という気がする。日なたの光はたしかにやさしいのだけれど。

Posted by tdj at 09:30