Cergy-Pontoiseに行ってくる。イスラエルのランド・アーティストと言えばいいのか、地球彫刻家と言えばいいのか、ダニ・キャラバンによると大都市軸をみたかったからだ。写真を見て期待してはいたが、行ってみれば白々しいもので、ただあっけらかんと、軸線が延びるのみ。何かを見たという印象もなく、通りすぎたという感覚がむしろ近い。手前の集合住宅に囲まれた円形広場には、物見の塔が、軸線の方向にわずかに傾斜して立っている。リセの若者が昼食に急ぐのか昼休みに広場を横切り、軸線上、建物の切れ目から南中の太陽が光を差し込んでいる。湖に面してたつカルーゼルの凱旋門を擬した12本の柱の足下では、そこでバイク雑誌の取材だろうか、レフ板と一眼レフをもった三人の男が3台のバイクを囲んで、なにやらぼそぼそとあれやこれやと言っている。ジョギングの人達が階段を上り下りする。階段を下りきった場所は、車通りのある二車線で、そこから先には本来なら遊歩道を渡って湖上の円形の島に出られるはずなのだが、工事のためフェンスに塞がれていて、二台の作業車と二人の工員が、昼休みに出るための後始末をしているところだった。石を据えた人、画家にゆかりある樹を植えた人の名前を記したプレートが、軸線の周囲に点在し、印象派に捧げられた庭、人の権利に捧げられた庭、引き剥がされ移された敷石が、あっけらかんとしたこの幅数十メートルばかりの帯に、せめても古さや意味をまとわせようと並んでいる。軸線上の中心線に据えられた正方形の石盤は、地下1500mから組み上げられた水が蒸気となって吹き出るはずなのだが、噴水盤の穴を砂と枯れ葉で埋められて、ただ軸線をまっすぐ進んでいく気持ちを阻まれ迂回させられるだけだ。階段の一段おきに108026といった数字プレートがはめられていて、踏面が50cmと見える一段一段が、パリからの距離を示しているのかとも思ったが、実際は照明管理会社の割り当てた標識に過ぎないだろう。実際、よくみれば数字は斜塔から湖へ向かって、つまりパリの方へ向かって、数を増やしていくのだし、そもそもカルーゼルの凱旋門をうつしてみたり、ピラミッド建設のおりに引き剥がされたルーブルの敷石で舗道を敷き詰め、斜塔の頭をパリへと向けて垂れ、「パリへ」と続くこの「大都市軸」を、パリ的コンテクストに載せようとしたところで、実際には、この軸線はデファンスの高層ビル群の右へ逸れて、あちらの方向へ延びていくのだから。その先には、なだらかな峰を描くひとつのうっすらと盛り上がった山がみえるがあれはどこだろうか。何も思わず、ただ、ふーん、とだけ写真を撮って、階段の途中に腰掛けて友人が作ってきてくれたおにぎりを食べる。郊外の空は広い。風が自由に斜面を吹き上げてくる。階段の回りには緑の芝生が広がり、たんぽぽが黄色い花を咲かす中に、白い綿毛が風にぷつんぷつんと、旅に出るように一人一人飛び立っていく。おにぎりを持つ手がかじかむ。腰を上げてカフェを探した。帰り際に改めて眺めたリカルド・ボフィールの半円形広場と正方形のパラッツォが向き合うポストモダンの住宅では、微妙な階高の部屋のひとつひとつがジャイアント・オーダーの隙間に逼迫しているようにみえる。一本のオーダーの柱頭とエンタブレチュアのあたりに出ている「売り出し中」の看板だけが、この半円形広場に挟まれた言葉だ。正方形の建物の方の中庭の緑の芝が輝くのに誘われて足を踏み入れてはみたものの、しんとしたもので、緑の芝だけが白い光線をはねかえして、青いビニール袋が風に巻き込まれて同じところを、くるくると舞い上がり舞い降りし、ひとつ、20度程に開いた窓からカーテンが揺れて覗くだけだった。「ボール遊び禁止」の看板が、生活の裏側らしい活気さえも禁じているようだった。かつてパリの17区の中庭に面した小さい一部屋に暮らしていた時、小さく深い井戸のようなその中庭に夕暮れ時、青い光だけが乱反射して、海の中にいるような気持ちになったのを思い出す。太陽は向かいの部屋の窓に映る姿を朝にみるだけで、日中、時間を告げてくれるのは、かかとの響かせる音のこだまだけだった。雨の日には、いっそう音を深い底に引きずり込んだ。ベビーカーを押す若いカップルが入ってきた。中庭を出た。帰りに駅前商店街の広場の角の塔に戴かれた「天文台」を斜向かいに眺めるカフェの窓際のひだまりに席をとり、ノワゼットを頼んで、ついうとうととしてしまう。向かいの席では友人が本を読んでいる。30分程の時間だっただろうか。友人はまだ本を読んでいる。太陽のあたたかい光はすでに隠れて、にわかに寒さをおぼえた。パリに帰ろうか。天文台とみえたのは、カフェの店主に聞けば青年会館のような文化施設で、塔の上まで登りたいという誘惑にもかられたが、中のロビーに黒人の大きな青年たちがたむろしていたので、つい入るのをためらってしまった。人種的な偏見というよりは、たんにぼくは自分より体格のよい人が怖いのだ。商店街を抜けた正面の駅には、入り口のゲートに貼り付いた巨大な時計が視界をおそって、秒針の回転する悪夢のような速さに驚かされる。死神が命を狩る鎌の切っ先にも似て鋭いその速さをみせつけられて、ぼくはうろたえた。角速度は変わらなくても、その針先が弧を描く速さは中心から遠ければ遠いほど速くなる。中心はただ力を伝えるだけで動かない。ひとりひとり、それぞれに自分の中心をもっていて、ぼくはいまそこからひどく離れていやしないかと、中年に入って経つ時間の速さをあらためて思ったりした。ホームに降りて、駅の斜面の土手に友人が春の七草のふたつを認めて、ぼくはぼくで、やはりタンポポくらいしかわからずに、雑草とくくってしまうわけにもいかないらしい名前も分からない草花を眺めて、ぼうっと煙草をふかした。