長く眠れた朝の6時30頃に、投宿しているホテルの最上階に上った。東京にでるときに決まって泊るビジネス・ホテルは部屋は個室だけれど、ちょっとはましなカプセル・ホテル、くらいのシステムになっていて、宿泊客は朝と夕と違う準備のために共同浴場へ上る。入浴前に、目覚めの水を一杯飲み干し、喫煙コーナーでこれも目覚めの煙草をふかしていると、東の空が急に目の前で明るくなっていく。そういえば日の出を認めたことなど、もうずいぶんと前のことだったように思う。平野が漫然と続き遠近法があいまいに空気に霞んでいくパリや東京では、夕日を認めることはあっても、太陽はいつもどこかから知らない間に、空の上に昇ってしまっているものだった。昇る日の足は速くて、表面張力を漲らせたオレンジの水滴は、その水泡の臨界をぷるぷると震わせながら姿を大きくしていく。昇る、というよりも、ふくらむ、といったような、地平線の上の太陽は、卵のように、やわらかい黄身は、白い膜に包まれて、いまにもこぼれて甘い液が滴りそうだ。あるいは、それは、万年筆の先から零れた黄色いインクが、紙に滲んでしまうまでのわずかな時間だ。その黄色の一滴は、やがて青白い薄明を、長い波長の光で一時染めて、また違う青へと空を返していくだろう。たやすく毀れてしまいそうな太陽の幾何学は、赤で描かれるような正円ではなくて、前後左右にゆれながら、膨らみながらも界面張力をうけながら浅く沈んだ楕円形だ。それは乱視のせいかもしれなくて、目を細めて、その像を絞ろうとしても、光線はいつもひとつのはずなのに、三つか四つの輪郭が曖昧に重なりあってゆれたりするだけで目の筋肉はすぐに疲れてしまって、円の幾何学はだらしなく衣装を脱ぎすてて、朝の太陽は結局、朝、布団の中でけだるい身を起す時に、肘と膝までは起しながらも立ち上がることのできない、上昇と落下が奇妙に均衡したうずくまった形と、奇妙な楕円形の相似を示している。
四つある東側の窓には、一人ずつ勤め人らしい男達が並んで、彼らも久しぶりにちがいない、寝起き悪げな太陽の姿に見入っている。すべてが逆光の日陰に沈んでいる未明の東の空から、西側の窓を振り返れば、そこはすでに朝の世界で、駅前のビルの屋上に不釣り合いに大きい巨大なパラボラアンテナが、遠景の富士山と、真上の月と三点で、こちらは三角形の構図に収まっている。太陽までの距離からすれば、誤差に過ぎないそれぞれの距離を保ちながら、富士と月が遠くに白く浮かんでいる。古代の人は、朝の月には雪が降り積もっているとは思わなかったのだろうかと考えていた。