中杉通りから東に一本入った通りは、名前がついているのかしらないけれど、いわゆる生活道路になっていて、保護林に指定された小さい林の島がいくつかぽこりぽこりと浮かんでいる。武蔵野の原生林の奥に古びた日本家屋があまり手入れもされていない様子で佇んでいる。夏の暑い日には、背の高い木々が延ばす枝々が幾重も重なり合って切り取る様々な形の多角形の穴から、太陽の形をまねて、ぼんやりと路上に光が落ちる。そんな木陰は子供たちの遊び場でもあるらしく、シャボン玉遊びに興じる彼らの姿に一瞬、懐かしいというのでは足りないくらいの気持ちが背中をふわっと撫でていくのだが、よく見れば、どうもシャボン玉もシャボン玉なりに最近は進化もしているようで、妙に頑丈で、透明ながら見た目にも厚さが感じられる。どうにも、そのシャボン玉は堅いらしいのだ。シャボン玉には似つかわしくない大きさにも、息を吹きこんでしまえばなれるもので、しかしその大きさと引きかえにやはり重さも増しているようで、空気よりも重い比重を抱えたその石鹸(なのかしらん)の泡は、アスファルトに四分の一ほど身をつぶして、様々の大きさに、太陽の光を色々な虹の光彩に分解しながら、けれども七色の光を決して自分の球面から逃すことなく閉じこめて、割れもせず通りに身を沈めている。ストローを吹く三、四人の子供たちがまばらに散って、シャボン玉もまばらに降りて、車もすれちがえないほどの通りが、淡い透明な川辺のように寄せるようだ。けれども、シャボン玉がそんなに重くてよいのだろうか。彼らのシャボン玉は、屋根まで飛ぶこともなければ、壊れて消えてしまうこともない。薄いのだか厚いのだか言いようのない膜に空気を包み込んで、黒い路上でただふるふると震えているだけだ。と、風が一薙ぎ、ぱすんとはじけて壊れて消えた。あっー、という子供たちの声が、かすかなしぶきを惜しんだ。
Posted by tdj at 2009年12月10日 16:44