実家からはがきが一葉転送された。むかし暮らしていた学生寮からの案内だった。「東京大学豊島学寮 閉寮記念大同窓会」と銘打たれていた。もう10年前だ。昔暮らしていた町をわざわざ訪れるということはほとんどしない。大阪で通っていた幼稚園を見に行ったくらいだろうか。それをしてみる気になったのは、まあ、いまその場所から歩いていけるところに住んでいるというだけのことだ。
一度学部を卒業して、建築学科に学士入学したいと言った時に、父から「自分でなんとかしてみろ」と言われたわたしは、選択の余地なく学生寮に暮らすことになった。当時、東大には向ヶ丘寮、追分寮、豊島寮、三鷹寮、井の頭寮、白金寮とあったはずで、わたしが入る資格があったのは、前3者。結局、豊島寮に入ることになった。巣鴨の(といってもJRの駅は大塚の方が最寄りだった)地蔵通り商店街が途切れる庚申塚の都電沿いに建つその寮は3棟から成っていて、木造2階建1棟と鉄筋コンクリート造4階建2棟だった。木造2階建は東寮と呼ばれ、戦後すぐに建設されたそうだ。現住者が退去次第取り壊し・立て替えが決まっていたので、わたしはRC造の方に住むことになった。RC造とはいっても、築40年と聞いていたその建物の老朽化はひどく(調べてみたら1962年建設とのこと)、そのあいだ保全の手が入った様子も見当たらなかった。各部屋は8畳で2人部屋。わたしは南北2棟あるうちの、南寮、最上階の4階に入った。他の部屋は中央に2段ベッドが置いてあって、それでなんとなく部屋を2分していたのだが、わたしの入った部屋は前の住人が設えたらしいベニヤ板の衝立が中央に立って、視界は一応遮られていて、きっちり4畳のスペースが与えられた。そこにベッドだけが残っていた。スチールラックと机を入れれば、もういっぱいで、それこそ足の踏み場もなかった。部屋に入れば、まず靴を脱いで、そのままベッドの上にあがり、ベッドの縁を椅子にして机に向かった。ベッドに横になれば、ちょうど顔の真上の天井に、小さなシミが目についた。
風呂・トイレは共同。調理場も共同だった。洗濯機はなかったように思う。共同浴場は、入寮当初先輩から「確実に水虫になるよ」と言われて、結局銭湯に通った。巣鴨界隈は当時まだ銭湯も多く、そして入浴料も安かった。気分がよければ足を延ばして新しい風呂開拓に出かけていった。銭湯生活は、震災でガスが止まったセンター試験と二次試験のあいだのぽっかり空いた、思い返せば、とてもぼんやりとした時代以来だった。彫り物をしょった人達を間近に見るのは初めてだった。寮には食堂がついていて、予約した学生にはまかないが出た。料理長は、学生からも慕われていたのだが、大学とバイトで夕飯時に帰るということがなかったわたしは結局、風呂同様めったに利用することがなく、それがちょっと残念だった。たまには調理場で自炊もしたが、たいていは学食か地蔵通り商店街のときわ食堂で夕飯をとった。ときわ食堂には学生も含めて色々な人がおり、いつも相席だった。終戦記念日の昼飯を食べていた時、相席になった2人の老人はいまここで出会ったらしく、昔語りに、戦地での思い出を交換していた。所属部隊・階級を告げた時点で、当初の2人の上下関係が逆転していた。嫌な上官の乗った船が沖で沈んだ時には、陸で皆で喝采を上げた、という話は冗談だと思いたい。
まあ苦学生といってもよかったかも知れない。けれど、そんな意識もなかった。それしか選択肢がないのだから仕方がない。下北沢からの引っ越しのために車を出してくれた友人は、新居の住環境にたいそう衝撃を受けたらしく、いまだにそのことを感慨深げに話してくれる(ちなみに、その友人はいまだに引っ越しとなれば車をだしてくれる友人です、ありがとう)。彼曰く、それまではわたしのことを、口ばっかり、と思っていたらしく(まあそうだったとわれながら思うのだが)、学士入学の件もいつもの気紛れと考えていたらしい。いざ引っ越しの日にその住まいを見て、よほどの覚悟と見てとってくれたそうだ。実際のところは、苦労に代えてなにか志を立てたというほどの気概や覚悟もなく、わたしはその住まいとそこでの生活をあっさりと受け入れたというだけのことだ。他の寮生もそうだったろう。
実際、そこでの生活は楽しかった。駒場で4年過ごした身には、本郷の生活も新鮮だったし、なにより建築学科での勉強が楽しかった。相部屋生活にも4畳という狭さにも不満をもたなかった。ルーム・メイトにも恵まれた。2年間一緒に暮らすことになる相部屋の住人は法学部生で播磨出身の好青年だった。友達と言えるほどの仲にになったわけではない。それでも毎日あいさつ程度のおだやかな会話を二言、三言交した。彼は卒業と同時に就職で関西に帰っていった。当時のわたしは、建築で頭がいっぱいで、寮には寝に帰るだけ。それでも幾人か思い出す顔もある。それぞれに十分すぎるほど個性的だった。社交場は調理場だった。
引っ越しを手伝ってくれたその友人の驚きを共有してもらえるようなエピソードをふたつ持っている。ある晩に、たばこを吸おうかと寮の門を出た時に(部屋はもちろん禁煙だった)、ちょうど寮の前を通りがかった近所の見知らぬおばさんにでくわした。たいそう驚かせたようで、「ああ、びっくりした!ここ人住んでたの?あんた東大生?」と誰何を受けたことがひとつ。もうひとつは、夏休みに寮に残っていた時に、なにかの用事から帰って来た時だったか、門のところで近所の子どもたちの一群が「ここ探検してもいいですかー!」と元気よく駆け寄ってきてことだ。「おー、怪我すんなよー」と答えると、大人なら決して踏み入ろうとしない草むらの中へ子どもたちは駆け込んでいった。夏休みの小学生の好奇心を刺激するに足る住まいだった。
入寮して、住居費の問題をクリアしたわたしは生活費を稼ぐために塾講師とあいなった。幸い、建築学科の必修科目はすべて毎日 朝8時30分から昼までの午前中に固められていて、午後は設計と演習とに充てられていた。夜間という呼び方に倣えば、朝間大学だった。午後は成城の学習塾で教えた。もちろん、なんとかならなくなった時には、いつも両親が助けてくれた。
2年間の思い出を書きだせばキリがない。夏の冷房などなかった。最上階はさすがに暑かったが、実家のある兵庫に比べればましだった。冬はたしかセントラルヒーティングが廻っていたような気がする。春には桜が咲いた。南棟と北棟に挟まれた中庭、というか例の夏の子どもたちが消えていった草むらに、大きな桜の木が1本立っていた。南北のコンクリートの壁まで枝先を伸ばした立派な桜だった。ひと盛り咲いて、新しい葉も芽吹く頃になれば、2棟のあいだに巻き込まれた風に、花びらがさっと捲かれて、窓の外一面をピンク色に霞ませたのを覚えている。
在寮2年目のクリマスマス・イブからクリスマスにかけての未明には、木造2階建が燃えた。600平米のうち300平米が焼失したそうだ。ほとんど全焼のように見えた。これには先触れがあって、その一週間前にはわたしの住んでいた南棟でぼや騒ぎがあった。慌てて1階まで駆け降りてみれば、火は消えていた。1階共用部屋の椅子の上で、新聞が燃えていたとのこと。どうやら放火らしい、と誰もが思ったコトの起こりは、寮委員会が全自動マージャン卓を買ったことに始まる。その直前に、寮委員会は家賃の値上げを断行していた(といっても1000円か2000円だったように思う)。それに義憤を感じた寮生がいたらしい。家賃を値上げしておきながら、マージャン卓を買うとは何事か、という匿名の投書がなされ、また寮長の部屋の扉には「頃ス」という物騒なはり紙が貼られた。寮長も剛毅か物ぐさか、ずっとそれを貼りっ放しにしていた。そんなことがあった直後に、ぼや騒ぎがあり、東寮が燃えた。実際には、マージャン卓と火事とのあいだには何の関係もなかったのかもしれない。とにかく木造2階建が燃えた。この頃、東寮にはすでに誰も住んでいなかった。クリスマス・イブの夜だというのに、寮生はほぼ全員在寮していたようで、百数十人の学生が表通りにぞろぞろと避難してきた。その多さに驚いたのを覚えている。向いの老人ホームからも、不安げに人々が出てきた。この時の寮生の態度はどうしようもなく悪く、面白がりながらビデオを回す者や、「あったかい」と言って、遠くの炎に手をかざす者がいた。実際、離れて立っていても暖かかったのは事実だ。業を煮やした消防士が「お前ら話聞け!並べ!」と声を張り上げる。皆で「1!2!3!」と点呼をした。細長い木造2階建からは囂々と火が上がって、脇の木の枝にも延焼するに及んだ。わたしは、おとなしく消防士の指示に従っていたのだが、あまりに現実感のない目の前の光景に茫然としていた。地震、雷、火事、オヤジと言うけれど、これであとは雷だけだなあ、と馬鹿なことを思ったりした。建物を包み込むほどの巨大な炎は怖かった。
そんなきな臭いこともあって、2年も経とうとしていたし、そろそろここも出るかなあという気分になった。出るといっても、出ていくあては、他の学生寮しかなかった。大学からも遠くなる。それでも出ようと思ったのは、この放火騒ぎが理由ではなくて、天井のシミだった。入寮当初には、小さなシミだったそれが、その頃急に大きくなっているような気がした。気のせいかとも思った。でも、やはり大きくなっている。そしてだんだんと垂れてきている。孕んだ天井を手でそっと支えてやると、なにやらたぷたぷとした感触が伝わってくる。寮委員にかけあって、施設部と屋上に上がってもらった。やはり雨漏りしている。そして修繕費は出せないとのことだった。仕方がない。火事の後に、水を被るのも面白いかと思って、気にはしなかった。当時は、卒論が終わって、卒業設計に移った頃で、製図室で暮らしていたようなものだったし、家に帰れば泥のように眠るだけだった。それでも卒業設計が終わって、しばらくの時間ができて、日増しに目の前から天井が迫り出してくるのは、どうにも居心地が悪かった。虫めがねで覗いたように天井の目地が歪んでいるのが分かる。耳の奥にちゃぷちゃぷと水の音がする。プールの底に寝ているような気になる。春になれば梅雨がやってくる。それに相部屋の彼が出ていけば、また新しい人が入ってくる。2年間の寮生活で身体にも変化が起きていた。40年間の埃のせいか、ここに住むようになって洟が蓄膿にでもなったように黄色くなっていた。なにか他にも色々と失調をきたしているような気分になった。限界かな、と思って、寮を移ることにした。郊外のさわやかな住宅地に隣接したその寮に移れば、鼻の調子もすぐに戻った。それから8年が経った。
最後に洟のことを思い出して、同窓会への出席をどうしようか迷っているうちに回答期日もとうに過ぎた頃、とりあえず見てくるか、ということにした。なんの縁だか、引っ越しの友達も近くに住んでいる。お茶しない?ついでに寮を見に行きたいんだ、と日曜の午後に電話をかけた。あの天井は結局破れたのだろうか、ということだけが気になっていた。