玄関扉を出て、通りを左に進むとベルヴィル通りにぶつかる。そこを右に折れて、左に曲がりながらなだらかに沈んでいく通りを下って、ピレネー通りを超えると傾斜が急に深くなり、そこから中華街がはじまる。18区と19区の区境にあたるベルヴィル通りは、たいした坂で、これを自転車で一気に駆け登ろうと思えば、そうとうの脚力と肺活量を要求される。土曜の午後、なんとはなく下っていって、メトロのベルヴィル駅の交差点をすぐ目の前にして左手、カフェ・レ・フォリーズのテラスに席をとる。ノワゼットを頼む。フォリーズという名が実は由緒のあるものだと知ったのはつい最近のことで、本来は、通りの反対、18区側の13番地にあったファヴィエというガンゲットの名前だったはずだ。メトロ、ベルヴィル駅の場所には18世紀、クロード・ニコラ・ルドゥによって建設された50以上のパリ関税門のひとつがあった。つまりいまのベルヴィル大通り、メトロ2番線の通るラインが、そのままパリの市域を示す柵であったわけだ。スターリングラード駅からジョレス駅のあたりで高架になる2番線の車窓からは、かつての門のひとつ、ラ・ヴィレット門が背後に運河を控えて佇んでいるのがみられる。50以上もあった門のうち、今に残るのは、他にモンソー、ナシオン、ダンフェールを加えた、わずかに四つに過ぎない。関税門というだけに、ここを通って商品がパリへと入る時に税金が課せられる。つまり、その外側は免税地帯ということで、18世紀末から、関税門を出たパリ直近の郊外には、飲み屋、飯屋が建ち並んでいた。それはやがて19世紀の前半にはガンゲットという飲み屋兼ダンス・ホールとして進化していくことになる。11月11日聖マルティヌスの日から始まって、カーニバルの最終日マルディ・グラの火曜日まで、夜毎パリ市民は市域を越えて郊外の免税地帯へと飲み騒ぎに繰り出したという。「肥沃な火曜日」を昼から夜まで飲み明かし、翌日、灰の水曜日の朝には店から追い出された市民たちが、ぞろぞろとパリ市へと再び下っていったそうだ。現在でいえばメトロ2番線と6番線上に並んだ市門周辺で年中行事とかしていたカーニバルのこのどんちゃん騒ぎのなかでも、一番の活況を呈していたのがベルヴィルだった。1822年、当時ラ・クルティーユとも呼び習わされたベルヴィル通りの坂上から、シルク・モデルヌ座(近代サーカス座)の思いつきによて始まった仮装パレード行進は、飲んだくれた沿道の市民を横目に、あるいは巻き込みながら、フォブール・デュ・タンプル通り、シャトー・ドー広場、タンプル通りを練り歩き、セーヌ川まで行進したという。この思いつきは、年ごとに規模を増していった。ベルヴィル始発のパリへの一大行進は、いつしか「ラ・クルティーユの行進」と呼ばれるようになり、ある者はマスクをつけてパレードに参加し、ある者は何ヶ月も前から沿道のカフェの二階、窓際の席を予約し、当日ともなれば陣取った窓から手元のグラスやら食器を投げ込み、また花びらを散らし、金貨を撒いて、市民の熱狂にさらなる色を足した。ガンゲットで飲み明かし、朝の七時、はかなくも閉店とともに路上へ追い出された彼らは、ラ・クルティーユのマルセイエーズと謳われた「兵士の帰還」を高らかに歌い上げながら行進したに違いない。このラ・クルティーユの雰囲気をいまでもベルヴィル通りは留めていて、このフォリーズが位置するベルヴィル通りと、いまでは小ユダヤ人街と化しているデノワイエ通りの角には、もともと通りの名前をそのままにデノワイエと呼ばれたガンゲットがあり、ラ・クルティーユの行進の出発点であった。フォリーズがかつて位置していた通りの向こう側、18区は、80年代の開発で高層ビルに様変わりし、白いバルコニーをぶら下げたマンションの階下には、漢字と丸く剥かれた鳥やら豚やらが吊り下げられた中華商店がたちならぶ。ジャ・ジャンクーの映画『世界』で、偽造ブランド品のデザイナーである女が夢見たパリの町こそ、このベルヴィル、美しい町に他ならない。店や通りの名前を頼るにすぎない19世紀の名残と20世紀の移民の街とが混濁したこの町は、しかしまがいものとは思われない生活の実感をもっていて、週末のこの日、何人の人がこの坂を上り下りするのだろうか、地元の若者らしい東洋人の一群をみれば、買い出しの大きなビニール袋をいくつも提げたフランス人一家や、デートがてらエスニック料理を食べに来たらしいカップルたちの笑顔が、坂を踏みしめるリズムにのって目の前を通りすぎていく。急な坂を登っていけば、左にベルヴィル建築学校や、ほんものの大豆の味がすると名高い豆腐屋、右に餃子や肉まんでうならす中華レストランやベルヴィル公園を控えて、ピレネーの駅にでる。ここでベルヴィル通りと交わるのがピレネー通りで、パリ北東の丘の等高線をなぞるようにガンベッタまでのんびりとつづくこの道の起点が、ここピレネー駅なのだ。振り返ってパリのピレネーの峰から町を見下ろせば、まっすぐ先にエッフェル塔が見える。パリ北東のこの丘と、パリ南西に位置するあの塔とが、どうやれば直線に結ばれるのかわからず、地理感覚を大きく狂わされるのだ。ビルが建ち並びながらも、隙間の多い東京の町では、意外と東京タワーが突然、ビルの狭間から赤い姿をのぞかせる機会に一度ならず立ち合い、夜の移動に少しの温度を返してくれるのだが、稠密な一個の建築物であるパリの町で、エッフェル塔を遠くに眺められる場所は少なく、しかるべき高台か、セーヌ河岸か、パースの延びる見通しの良い通りにでてみなくては、その鉄の飴細工のレース模様を光に透かし見ることはできない。夕暮れ時にもなれば、ベルヴィル通りをまっすぐ下るその正面に、大きな夕日のかかるのにでくわすこともあり、日の出も日の入りも、どこで顔をだしてどこでひっこむのか定かでないパリのスカイラインの上に、長い冬のそれでも短い間だけれど、巨大な赤い炎を遙か向こうに鮮やかに拝むことができるのだ。その夕日に向かって、自転車で、この坂を駆け降りるのが、冬のぼくの子供じみた楽しみだった。ピレネーの駅を越えて、さらにベルヴィル通りをわが家の方に戻っていけば、そこからジョールダン駅前のサンジャン・バプティスト・ド・ベルヴィル教会までの道のりは、もうパリの普通の下町の生きた商店街で、どこもそれなりに有名らしい商店が建ち並んでいる。70mを越える二本の鐘塔をもつネオ・ゴシックの教会は、傍らに建築家の名前を冠した通りを従えて、刻々、教区に鐘の音を響かせる。クリスマスを迎えるという気分にもなってくると、パリのそこここの商店街は、いっせいに小さな豆電球で拵えられたイルミネーションで飾られる。メトロのピレネー駅とジュールダン駅のあいだの我が商店街は、アーチが幾重にも連なり、教会の表参道はさながら青い千本鳥居の様相を呈す。そんな光の冬化粧を纏ったパリのなかでも、とくに美しいのは5区ムフタール街のそれで、やや観光化されもしたこの町だが、観光地というところは観光者のおだやかな笑顔と、その時、そこだけはという幸福そうな期待に包まれているもので、シャンゼリゼでさえぼくは嫌いではない。ゆるやかに揺れながら降りていくムフタールの自然な重力にまかせて連なって注いでいく青い光の流れを見上げるのは、まるで川底から天の川を見上げるようだ。いまは暗渠にされてしまったが、ここはかつて小川だったのではないのか。いまでもこの下を川が流れているにちがいない。誰もがそんな妄想を育てているわけでもないだろうけど、皆、一様に、顔を見合わせ、視線を上げて、ぽかんと口をあけて、光の川を渡るのだった。
Posted by tdj at 2008年4月22日 10:13