シネマテークに《 L'amour chante et danse 》を見に行く。マーク・サンドリッチの作品だ。サンドリッチといえば、三〇年代RKO時代のジンジャー・ロジャース/フレッド・アステアのミュージカル映画で名高いわけだが、コロンビア大学の工学部の学生だったNY生れの、「コメディ・ミュージカルの職人的監督」と呼ばれてしまったりもする、早逝のこの監督は、職人的という以上に、三〇年代から四〇年代前半にかけて最もその才能を高く評価され、また将来の巨匠と期待されもした監督の一人で、1940年、RKOからパラマウントへ、監督兼プロデューサー待遇で迎えられている。サンドリッチの映画ということでよくたしかめもせずに観に行った《 L'amour chante et danse 》だったが、原題は《 Holiday Inn 》で、『スイング・ホテル』(1942)のことだった。フランスでは邦題、原題を調べもしないまま、行って観れば有名作というのはよくある話だ。サンドリッチは、『スイング・ホテル』以外に、1934年から五作アステア作品を監督しており、どれもジンジャー・ロジャースとの共演である。アステアも好きだが、ジンジャー・ロジャースも同じくらいぼくは好きで、好みの女優はと言われれば彼女を一人に挙げるだろう。主演はビング・クロスビーで、アステアが準主役、作曲はアービング・バーリンで、年十数日の祝日だけオープンするというHoliday Innのアイデアもバーリンの発案、あるいはむしろ憧れによるものだそうだ。正月、ホワイト・デー、リンカーン、ワシントンの誕生日、独立記念日等々、祝祭日のために特別に作曲されたナンバー、とくに《ホワイト・クリスマス》は、ハリウッドの代表的なナンバーともなり、アカデミー賞も受賞して、後年、クロスビー主演で同名タイトルの映画が撮影されている。歌が下手という設定のアステア(実際アステアは必ずしも歌の名手ではなく、本人も音域の狭さを気にしていたという)の名高い、酔っ払いダンス、そしてとりわけ爆竹ダンスには、エンジニアの思いつきだろうか、床には爆竹がアステアのタップのステップに合わせて爆発する機構が仕組まれている。足と爆竹を同期させるのはたいへんに難しく、丸二日かけて三八回のテイクを重ねたという。
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クロスビーは、アステアともう一人の女性ダンサー、ヴァージニア・デイルとトリオで舞台に出ていたものの、アステアとデイルが結婚、ダンス・デュオとしてのキャリアを選んだために、失意のうちにコネティカットの農園に引きこもる。引きこもってはみたものの、農場経営は存外に忙しく、想像していた隠棲の身とはほど遠かった。これではだめだと、農園を改修して、一年のうちの休日だけオープンするというステージ《 Holiday Inn 》を開くのが物語のはじめだ。そこに、アステアのプロデューサーからやっかいばらいに送り込まれた、マージョリー・レイノルズが転がり込んでくる。クロスビーのアイデアに共感したレイノルズに、弾き語って聞かせるのが《ホワイト・クリスマス》で、ピアノのすぐ傍らに飾られたクリスマス・ツリーのベルをパイプではじくシーンは、後半にあらためて呼び起こされることだろう。繰り返し、という古典的な演出の技法が、この映画でも随所にしこまれている。また、このシーンで暖かいのは、歌うレイノルズの頬だ。白黒映画は色を奪いはするが、そこに温度を感じさせる。そこからぼくたちの共通感覚は、ピンクに染まっているだろう、彼女の頬の色を連想するのだが、それは照明設計の確かさであり、フィルムの感光する色温度といった化学に属する話でもある。感じとるべきは、丸一年の祝祭日を辿るこの映画の画面を、色づけるその温度、ぬくもり、冷たさだ。Holiday Innのオープニング、大晦日サン・シルヴェターの祭日に、デイルに逃げられたアステアが酩酊のうちにレイノルズの手をとって、あるいはとりそこなって披露するのが、例の酔っ払いダンスで、実際、ワンテイク毎にグラスをあおって撮影に臨んだというアステアは、七杯目、七テイク目には、ほんとうにふらふらだった。リンカーン誕生日の黒塗りダンスは検閲の対象ともなり、また一転、ワシントン誕生日には、ヴェルサイユかとも思われる、18世紀の意匠を凝らしたステージに打って変わる。独立記念日七月四日のショーでは、さまざまなニュース映画がコラージュされて、サンドリッチの短編で重ねたキャリアを感じさせる。サンドリッチは、ジンジャー/フレッドの《 Gay Divorce 》(『コンチネンタル』)で満を持して長編に着手する前、短編で多くのキャリアを重ね、1933年には《So This is Harris ! 》でアカデミー賞を受賞しているのだ。さらには、この短編ニュース映画に映された工場、飛行機、戦艦、空母の迫力はまさに迫真で、エンジニアとしての出自、機械産業に対する正確な視線を確認させられ、サンドリッチが長命を得ていれば撮影したであろう戦争映画を夢想する。最後にはルーズベルトがアップで檄を飛ばして終わる、巧みに挿入されたこの映画は、1942年8月のニューヨーク・パラマウント劇場のこけら落としのプレミア上映の際には、時節柄、おおきく国威も発揚したに違いない。真珠湾攻撃は、その前年のことである。そのあいだ紆余曲折あって、結局レイノルズは、クロスビーの疑心暗鬼で子供じみた画策に腹を立てて、アステアと映画デビューのためにハリウッドへ旅立ってしまう。多重露光で六角形、雪の結晶の形で重なり合う、七組のアステア/レイノルズが、水泡や音符の泡立つ中に踊る。コネチカットの農園で、感謝祭だといって、もはや店を開く気にもなれないクロスビーは、ひとり二人の映画のために曲を書いている(ここに小さな七面鳥のアニメーションが挿入されるている。ディズニー提供だろうか)。二人が結婚するという話を耳にしたクロスビーは、奮い立ってハリウッドへ向かう。クリスマス・イヴ。スタジオでは、まさにラスト・シーンの撮影が始まろうとしている。『ホリデイ・イン』の圧巻はこの映画撮影シーンだ。スタジオ内に忠実に復元されたクロスビーのホリデイ・イン。もちろん、それまで僕たちが見ていたホリデイ・インも、スタジオ・セットに違いない。こういった映画内映画がはたしてサイレント時代にあったのかどうか、詳らかにしないのだが、トーキー時代に入って30年代、むしろこう呼んだ方がいいかもしれない「バック・ステージもの」が、にわかに増えたという印象がある。本質的にドキュメンタルな機械であるキャメラを通じて、フィクションを生みだす映画においては、どのショットも同じ権利でいくぶんフィクションであり、いくぶんドキュメンタリーでありうる。フィクション映画においては、回想も映画内虚構も容易に混じりあってしまう。それらを限界づけ、また二つに分けるのはフレームであり、やはり音だったのではないだろうか(そして、この映画/フィクションの臨界で戯れて見せるのがジャック・リヴェットだ)。キャメラがスタッフの背中をなめながら、遠巻きにホリデイ・インをとらえる。季節はあらためてクリスマス、監督の掛け声に応じて、スタジオに雪が舞い始めるシーンは、ぼくたちを、紛れもない創造の瞬間に立ち合わせてくれる。スタジオ・セットの上に張り巡らされた黒いパイプから白い雪が舞い降りる瞬間、それは、ピアニストがホールに立てる、最初の一音、緊張と柔らかさが訪れる瞬間のようだ。ラストでレイノルズが、ピアノを前に《ホワイト・クリスマス》を歌うシーン。ピアノの上に秘めて置かれたパイプ。ごく自然の仕草で、レイノルズがパイプを手にしてはじくベルの音が、一年前のクリスマスのシーンを彼女に蘇らせる。スタジオの厳格なシステムによって、その空間から締め出されてしまったアステア。重なり合う、男女の声。セットの影からいきなりあらわれるクロスビー。繰り返しとずれ、思い出と失ったもの、いまここに無いもの、たしかにそこにあったもの、それらがすべて取り戻されて映画は大団円を迎える。サンドリッチの最高傑作と言って誰一人憚ることはないだろう。サンドリッチは、1945年3月5日、アステア/クロスビーを再び迎えた『ブルー・スカイ』撮影開始9日目に、妻とカードゲーム中に心臓発作で逝った。四五歳。スタジオに王のように君臨し、スタート!/カット!の掛け声を銃声に託したという青年監督を見送ったのは、青い空、それとも白い雪だったろうか。
いまパリのポンピドゥ・センターでは吉田喜重の回顧上映が開催されている。『秋津温泉』'62は、しかしぼくは、遅まきながらポンピドゥ脇のMK2でみてきたところだ。吉田喜重の代表作という前に、岡田茉莉子の100作品出演記念であり、吉田喜重にとっては抜擢であった。64年に二人は結婚する。岡田茉莉子が17歳から34歳まで旅館の女将を演じていて、秋津温泉だけが私に残ったという彼女はなんだか『風と共に去りぬ』のスカレーットのようだ。見終わったあとに、耳の裏側に血が上ったようにぼーっとして、映画館からレピュブリック広場を通ってベルヴィルの坂の上の家まで歩いて帰るはめになった。途中どこかのカフェにでも腰を落ち着けて、鑑賞後の印象をまとめたいとも思ったのだが、立ち止まることもできずにふらふらと歩き通してしまった。一度歩き出すと立ち止まるのが面倒くさくなる。町の景色もうっすらと前をかすめるだけで、はっきりとは眺められない。吉田喜重についてははずかしながらよく知らない。メロドラマだ。岡田茉莉子と長門裕之に、このようなドラマよりもう少し大きな世界を投影してみるような見方もあるようだけれど、とりあえずメロドラマだった。よくわからなかった。17歳で出会って、3年、4年と、あいだを置いて、自分勝手にふいにあらわれる男に、気持ちを留める岡田茉莉子の気持ちがまずわからない。なるほど日本の40−50年代の田舎町でのことだ。他に男がいなかったのかもしれない。横浜の女学校から戻ってきた少女にとって、東京の学生だった男にたいするなにかしらの期待もあったかもしれない。そんな話は小説にごろごろしているかもしれない。長門裕之のような男もよくいるかもしれない。いまでもこれはいるかもしれないが、岡田茉莉子の演じた女性がいるだろうか。いたら嫌だな、と思う。ぼくには彼女がよくわからなかった。わからなかったけど、よい映画だなと思った。旅館の一室、障子を一枚隔てて岡田茉莉子が縁側におり、長門が室内にいる。岡田が縁側のあちらからカメラの方へ進む姿を、正面から捉え、切り返して、障子で隔てられた室内から長門が、彼女の画面の外にある影を視線で追う。障子一枚隔てられたふたつの平行な空間、ふたつのショットを長門の視線で繋いでみせる。障子からガラス戸まで進んだところで、またふたつの空間、ふたりの男女が同じショットに収まる。美しいな、と思った。それだけだろうか。よくわからなかった。吉田の他の作品もみてみないといけないのかなと思うけれど、残りの滞在ももはや少なく、やり残したこと、もう間に合わないだろことも多く、映画をみている場合ではもちろんない。岡田茉莉子は最後に死ぬわけだが、たぶん人は恋では死なない。あのような恋を失っても、わたしは生きている、あのような苦しみを経てもわたしは死ななかった、というデュラス/レネ『ヒロシマ・モナムール』を思い出す。「君がヌヴェールで死んでいればよかったのに」/「そうね。でもわたしはヌヴェールで死ななかった」。何かを失ったという後悔を通じて人はおそらく誰かになるのではないだろうかとも思う。「その時、君はまだ若くて、まだなにものでもなかった」/「その時、君はいまあるような君になりはじめたに違いないんだ」。だとすれば、岡田茉莉子はなにかになれずに死んでいったのだろうか。死にたい死にたいと思って生き延びる情けない男との恋に破れて(それはそもそも恋だったのだろうか)、生きることしかおそらく問うたことのない女が最後に死を選ぶ。そこがよくわからない。だからなんで自分が感動したのかもよくわからない。
Panda & Piggyの映画紹介より転載(2003年6月執筆)
ジャン=ピエール・リモザンという聞き慣れないフランス人監督の名前も、5年前の『TOKYO EYES』といえば見た人もいるかもしれない。下北沢から東京タワーまで、当時旬だった(本人たちに失礼か?)武田真治と吉川ひなのを主人公に、奔放に跳ね回るカメラ・ワークがさわやかな気持ちを抱かせてくれた。因みにぼくはこの映画をパリで観て、無性に東京に帰りたくなったのを憶えている。結局、東京タワーにはまだ一度も上ったことがないのだけれど。
さて、リモザンの新作『NOVO』である。『TOKYO EYES』もそうだったが、本作でもリモザンの映画で不安定なのはいつも男の方だ。フランス映画というとエキセントリックで、コケティッシュなファム・ファタール(運命の女)に振りまわされる、冴えない男というのが定番なんだけれど(『ベティ・ブルー』のジャン=ユーグ・アングラードとか)、今回はその逆というわけ。冴えないといっても、主人公グラアム=パブロを演じるエドゥアルド・ノリエガは、スペインでは大変な人気を誇っていて、『オープン・ユア・アイズ』(アレハンドロ・アメナーバル監督)ではペネロペ・クルスと共演した色男である。因みにこの作品のハリウッド版リメイクが、トム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』(キャメロン・クロウ監督)。しかし、やっぱり冴えないのは、この主人公、五分前の記憶がなくなってしまうというやっかいな男なのだ。この設定、最近だと『メメント』(クリストファー・ノーラン監督)なんかが思い出されるかもしれない。でも、監督が語るには、この映画の主題は記憶喪失ではなくて(実際、記憶喪失に陥る原因もたんなる事故であっさりと触れられるだけだし、主人公も積極的に記憶を取り戻そうとしているようにはみえない)、本当のテーマは、そんな状況の中で五分ごとに繰り返される恋、いつも新鮮で、でもすぐに消え去ってしまう濃密だけれど淡い恋。
主人公のグラアム(本来の名がパブロ)は、会社のコピー係。朝起きたら頭はいつもまっさらで、部屋には記憶の代役を果たしてくれるメモが無数にぶら下げてある。手帖に日常起こる様々なことを書きつけながら、会社にもその手帖がないと辿り着けない。会社でも大きなホワイト・ボードだけが彼の頼りだ。五分で記憶を失う彼は、人間関係にも淡泊なのか、セックスも来るものは拒まずの姿勢で、会社のオフィスで女社長の相手をさせられたりもする。まんざらでもないようだ。そんな男にどうしてか惚れ込んでしまったのが派遣社員で雇われたイレーヌ。とにかくセクシーでキュートでとてもかわいい。声が低いのもぼくの好みだ。演じるのは最近女優としても売り出し中のアナ・ムグラリスで、今年のシャネルの広告戦略の“ミューズ”に指名され日本でもその露出は一気に高まるに違いない。初めは新鮮な恋の気分で、ゼッタイわたしを憶えさせてみせる!と息巻く彼女がとった手段は、それこそ手練手管のオンパレードで、この映画を見に行くならば覚悟しておいたほうがいい。とってもエロです。ちょっと恥ずかしくなるくらいのベッド・シーンの連続だけれど、我が身をふりかえってみれば恋人たちのベッドの上はだいたいみんな同じ感じで、セクシーで、気持ちよくて、人に見せられないくらい恥ずかしいのなんて当たり前で、そんな心あたりのない彼−彼女とのセックスなら、むしろ考え直したほうがいいかもしれません。でも決して不快な気分にはさせられないのは、そこで行われていることがとても自然だからだ。自分を忘れさせないために、グラアムの体中に自分の名前を書いたり、自分のふとももにマジックで文字を書いたりするシーン(ポスターのショットだ)は、とても切ない。離れている時間にも自分のしるしを残さないと不安で、キスマークや爪痕や、香水の残り香を小道具にしたてたことだってみんなあるはずだ。五分で記憶喪失という設定は、だから恋をすれば誰もが抱える切なさや、わがままを浮き彫りにするためのきっかけにすぎない。
そんな風にして毎回毎回初めての恋、初めての夜に燃え上がるイレーヌの気持ち。「たいていの恋愛は、次第に相手の顔色をうかがうようになり、セックスもマンネリ化する。そんな惰性から自由な恋愛は、今までにない充実感を与えてくれる」なんて、いかしたセリフを彼女は言うけれど、そんな不安定な恋にはやっぱり長くは耐えられない。ある種、記憶喪失を楽しんでいるようにさえ見える男。結局、神経衰弱ぎりぎりなのは、いつも女の子だ。「イレーヌはだんだん保証が欲しくなってくる。地に足のつかない関係に、人はそう長く耐えられない。関係を一歩づつ前に進めたくなるものなんだろうね」と監督のリモザン自身が解説している(朝日新聞6月23日夕刊)。恋の進展?発展?深化?成熟?ぼくたちは恋をしてても資本主義や週刊少年ジャンプみたいに「成長」という強迫観念に縛られているのかもしれない。そしてフランスの恋では、セックスはゴールではなくてスタートだから、ますます道行きは困難だ。仕事も手につかずいらいらしている彼女に解雇を通告する女社長の嫉妬。確かな関係、気持ちと肉体以外の「絆」が欲しくなったイレーヌは、彼との体験の共有を通して、グラアムを知ろうとする。彼の好きな小説を読みたい、彼の好きな絵画をみたい、彼が何を体験して、彼が何を感じているのかを共有したい。恋人たちに自然に訪れる、少しナルシスティックな同一化の欲望がむくむくと彼女のなかで作動する。「わたしはエゴイストだわ」と確信犯的に彼女は、グラアムを追いつめていってしまうのだ。だって彼を愛しているから。
美術館や、映画館は恋人たちのデートの場所と相場が決まっている。ふたり並んで一緒に同じものを見て、感じて、語り合う。そういったことの積み重ねがふたりの物語をつくっていくのだから。恋の物語は、ふたりの気持ち、揺れ動きやすくてとらえがたいものに、ふたりの確かな歴史を与えてくれるものだから。フランス語では物語=歴史は同じひとつのhistoire=historyで表現される。恋人たちは、ふたりだけの物語を見つめ合って語りながら、ふたりの歴史を綴っていくのだ。でも、イレーヌがグラアムに言ってしまったように、彼には「ロマンスを生みだす力がない」。この映画のなかで、とても切なく悲しいのが、この現代アートの美術館のシーンではないだろうか。現代アートは、いつもぼくたちに体験や、理解や、解釈を迫ってくる。この絵素敵ね、この絵分からない、と率直に言ってしまうとまるで自分がばかみたいな、そんな気分、味わったことないですか?グレアムには五分の記憶しかないけれど、それだけ一瞬一瞬がきっとぼくたちよりも濃密で、スケーターたちが適当にかきつけたに違いないストリートの壁の落書きのささいな変化にも、意味を読み取ってしまう彼なのだ。現代美術館で、彼は空間恐怖症にでもなってしまったかのように、強制された体験と、理解と、解釈と、記憶の脅迫に叫ばずにはいられないのだ。そして、そこから、彼ひとりの、放浪の旅がはじまる。
と、予告編はここまで。是非つづきは本編をご覧下さい。人が恋におちるには五分できっとじゅうぶんで、恋する二人には、繰り返される五分がとてもかけがえのない大切な時間なのだと教えてくれる。
ジャン=ピエール・リモザン『NOVO』2002年98分
7月11日まで、渋谷シネセゾンにて。
公式HP:http://www.gaga.ne.jp/novo/index.html
Cinémathèque françaiseでDouglas SIRKの回顧上映をみる。今日は2本。LURED(Des filles disparaissent /USA /1946 /102' /VOSTF /35mm)とA Scandale in Paris(Scadale à Paris /USA /1946 /100' /VOSTF /35mm)。とくに二本目は革命後のどさくさに警視総監にまで昇ったいかにも18世紀的な人物François Eguène Vidocqの物語だ。このA ScandaleのLoretta役の女優がとにかくきれだった(Carole Landisという女優だろうか)。彼女が登場するステージのシーン。大きく貼られた円形の薄紙のスクリーンの向こうに露なstrippedな彼女のシルエット。火のついたスクリーンが見るまに燃え上がりその奥から現れる彼女の艶かな笑顔。どう見ても革命直後のパリではなく戦前のNYとしか思われないホール。思えば映画の最後で彼女が帽子店の二階で亭主に射殺されるシーンでも、彼女はついたての向こうでシルエットとして浮かびあがり、そして文字通り彼女はいまこそstrip=着替えている。しかしもはや誤った結婚に倦怠するひとりの女としてに過ぎない。亭主が背負っている鳥カゴ。その鳥カゴの格子の落とす影と光のレースのなかを飛び惑う鳥たちの影、さえずり。またVidocqが、長年の相棒であるÉmileと対決するシーンで、メリー・ゴーランドがまさにまわりださんとするその緊張は、まさに映画的な瞬間で、George Sandersを銀幕上に認めたのも思えばそうとうに昔のことで、映画館に戻った感動からか気持の高まりをおぼえた。ちなみにLUREDから引き出される教訓は「もてる男はボードレールなぞ読まない」ということで同伴の友人と意見の一致をみた。
ちなみにCinémathèque françaiseはフリー・パスを発行していて、月10ユーロで見放題。ぜひabonnerしましょう。またSIRK回顧上映会とともに、Jean RENOIRとDavid CRONENBERGの回顧上映も平行して開催中。シネ・フィルだけでなくオールド・ファンやサブ・カル系映画ファン(という括りが有効かどうかはひとまずおいて)も厭きさせない文化飽食パリの秋です。ついでに水曜日からMartin SCOESESEの回顧上映会もCentre Pompidouで始まる。こちらは55€のカタログも充実。パリはすでに霧の中、氷点下の夜には映画館が暖かい。
Panda & Piggyの映画紹介より転載(2003年12月執筆)
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小津安二郎生誕100年記念回顧上映会『小津安二郎の藝術』の特別企画として,小津の命日であり誕生日でもある12月12日に合わせて,12月11日,12月12日と国際シンポジウムが,東京は有楽町の朝日ホールにて行われた.
小津は自分の還暦の誕生日に死ぬという離れ業をやってのけたのだ.こういったレトロスペクティヴのような企画に付属しているシンポでは,批評家が作家の解説を行う程度が普通であるけれど,世界中から映画作家たちがこれだけ集うことからしても小津の国際的な影響を感じさせる.予定されたいた参加者に一部変更はあったものの(ヴィム・ヴェンダースとヴィクトル・エリセは来なかった),それでも豪華と言うほかない顔ぶれで,それぞれの参加者が小津という多面体に様々な光をあて乱反射させて,会は極めておごそかにまたしめやかた進んでいった.回顧上映というよりも,さながら新たな追悼の儀式でもあるかのような,この会のしめやかさの理由には,ひとつにはゲストとして呼ばれた四人の女優による.
一日目に岡田茉莉子と井上雪子,二日目に淡島千景と香川京子とを招いた『女優に聞く』のコーナーでは,実際に小津の演出のもとで,小津のフィルムに,その若い美しい姿を留めるという幸福な体験をした女性達が,小津の演出,人となり,私的な交流に至るまでを語って聞かせてくれた.とにかく驚いたのは70歳を過ぎようという香川京子の美しさと岡田茉莉子の艶やかさだが,その内容が最も感動的だったのは岡田茉莉子だ.
岡田茉莉子の父,岡田時彦は戦前の日本映画界の大スターで,小津の映画にも五本出演している.その岡田時彦と小津映画『美人哀愁』で共演したのが井上雪子なのだ.実は岡田時彦は,岡田茉莉子が一歳ばかりのときに急逝してしまっているのである.つまり岡田茉莉子は父親の記憶をもっていないのだ.そんな少女が,欠けた記憶を償うかのように,映画館の中に失われた父のイメージを探し求めるのは当然のことだろう.そんな風にして少女がやがて映画女優へと成長していくのは偶然ではなく必然だろう.この時点ですでにぼくは泣いていた.岡田時彦は小津の映画のなかで,美形俳優として喜劇俳優として活躍している.『その夜の妻』『お嬢さん』『美人哀愁』『淑女と髭』『東京の合唱』が,その五本だ.井上は,岡田時彦のことを「ほんとうに綺麗な人」とまるで女性を褒めるみたいにうっとりと語るのだけれど,実は井上の出演した『美人哀愁』は,『お嬢さん』とともに失われたフィルムなのだ.つまり岡田茉莉子は『美人哀愁』のなかの父の姿を見たことがないのである.『美人哀愁』のスチール写真でみる当時16歳の井上雪子はとても美しい.オランダ人の父と,日本人の母をもつ彼女は,さながら日本のハーフ混血芸能人第一号といったところか.しかしながら,この映画がつくられたのは1931年.今僕たちの目の前の井上雪子は88歳のおばあちゃんだ.残念ながら記憶もおぼろだけれど,戦前の失われた小津映画に出演した混血美少女が,いまこうして父岡田時彦のことを娘岡田茉莉子に語って聞かせ,当時まだ28歳だった若かりし小津の姿を描いてくれるというのは感動的な出来事だ.そして,またぼくは岡田茉莉子の話に泣くことになる.実は岡田時彦が活躍していた時代,映画はすべてサイレントだったのだ.つまり岡田茉莉子は,父親の姿を映像で辿ることはできるけれども,その声を聞くことは決してできないのだ.ところがである,家のどこかからだったか,ソノシート(ビニールのレコードみたいなの)に録音された父の声が発見されたのである.映画の台詞を吹き込んだらしい,ぼろぼろになったそのシートをNHKの尽力で復元してもらい,今日この日小津のシンポジウムの場で聞くことができたのである.復元したといっても極めて状態の悪い岡田時彦の声を,補聴器を忘れて司会の蓮實重彦の質問がよく聞き取れないという井上雪子が判明に聞き取れたとは思えない.それでも,岡田茉莉子にむかって,ええ,そうです,そうです,こんな声してらっしゃいましたと岡田茉莉子の手をとってうつむき加減に,その声に聞き入る井上雪子の姿勢にまた感動した.涙は流れるばかりだ.
会の一方の主役が,女優達ならば,もう一方の主役は監督達だ(今回は批評家も集まったけれど放っておこう).そのなかでも二日に渡って会の主役というか,この会をしめやかにまとめたのが監督吉田喜重に他ならない.吉田喜重は,小津よりちょうど10歳年下で,大学を出てすぐに22歳で松竹の大船撮影所に入社した.大島渚と近く,二人を中心に「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」という新しい映画の流れを生みだしたことで記憶されている.けれども,吉田喜重の立場は,大島渚とは異なりとても微妙なものだった.京都大学時代から学生運動に中心的な役割を担い,松竹でも映画の革新を目指して上の世代に敢然と立ち向かっていった大島渚にたいして,東京大学でフランス文学を学んでいたひ弱な青年はあたらしい映画の表現を模索しながらも,上の世代の映画にたいしても理解を示していたからだ.上の世代とは,つまり当時松竹で最も偉大な監督だった小津安二郎を中心とした,市民路線のことだ.大島渚はデビューのとき,新聞紙上で「もう松竹に小津はいらない」と喝破した.当時小津は,東京のブルジョワ的な生活を撮り続け,題材においてもまた手法においてもマンネリ化した保守的な作家と見られていたからだ.小津的なものは批判の対象であった.ところが吉田喜重は,小津が1961年東宝に出向して撮影した作品『小早川家の秋』の作評のなかで,小津の若者におもねるような演出を批判し「この映画は小津的ではない.小津安二郎には,小津らしい映画を撮って欲しいのだ」と,この作品を批判しつつ,小津的な映画の全体を擁護してみせたのだ.そんな吉田喜重の小津観はどのようなものなのだろうか.彼が掴んだ小津らしさ,小津的なものとは何だろうか.
吉田喜重は,小津の映画との出会いを鮮明に憶えているという.福井県で暮らす小学校四年生9歳の少年は,第二次大戦のさなか1942年に,小津の『父ありき』を父親に連れられた映画館で見たという.映画の物語がどのようなものであったのか,ほとんど当時は憶えていなかったという吉田少年が,唯一鮮明にイメージを焼きつけたシーンがある.主人公であると父とその息子とが,並んで川に釣り糸を垂れるシーンだ.そのシーンを解説する吉田の文章を,少し長いが引用してみよう.
映画は父とそのひとり息子との物語ですが,陽射しがまばゆいばかりに降りそそぐ山あいの渓流で,中学に入学する息子が父と並んで流し釣りをする.渓流に釣り糸を投げかけ,水の流れに乗せて,釣り糸を下流へと流し,それが行きつくと,釣り糸を川上へと投げもどす.この動作を繰り返しながら釣りをするのですが,水の流れが一定であるかぎり,父も子も同じ動作を繰り返すことになる.
こうして並んで釣りをしながら,父は息子に,中学に行くには寄宿舎での生活をしなければならず,これから離ればなれに暮らすことになると伝えるのですが,それを黙って聞く息子は,次第に流し釣りの動作を止め,その釣り糸だけが川下のほうにピーンと張られ,流されたままになる.
この父と子の,同じ動作による流し釣りが繰り返し反復されるなかに,まさしく父と子であることが,おのずから表現されているとともに,やがて息子だけが流し釣りを止め,これまでの反復動作に思わぬ「ずれ」が起こるとき,それは子供が独り立ちし,これよりは父とことの関係が,他人になることを予感させるのでした.
このシーンに吉田少年がみたものを,後の監督吉田喜重は「反復とずれ」の原理として取り出してみせる.この小津の反復とずれの手法はやがて成熟し,1953年小津50歳のときにとった『東京物語』のラストの場面で完成される.『東京物語』のラストのシーンでは尾道の家の畳の上に,笠智衆がうちわを手に一人ぽつねんと座っている.その座っている位置が画面の中心から左にずれており,重心のバランスがなんとも悪い.右側に残された空間が大きすぎるのだ.しかし,『東京物語』を初めから見てきたものならば,物語のなかでその空間が占めるべきものの存在におのずと気づくはずだ.つまりぼくたちは笠智衆の妻東山千栄子がすでに亡くなったことを知っている.そしてまた,このラストのシーンと同じ構図をどこかで見たはずだと網膜に残されたイメージを思い起こしてみることだろう.映画の冒頭,東京にいる息子達に会いに行こうと旅支度をする老夫婦の姿が思い起こされるはずだ.二人の姿は,画面の大きさを十分に満たして画面を安定したものにしていた.右に東山千栄子,左に笠智衆.まったく同じ構図を繰り返していながらラストの構図が抱えている不安定さ=ずれこそ,今は亡き東山千栄子に他ならない.
この吉田喜重が明らかにしたた小津の「反復とずれ」はたんなる演出の手法を超えている.「反復とずれ」は小津の映画の構図,すなわち空間を決定づける形式であり,時間の流れそのものを可視化する力をもっているからだ.小津の小津らしさとは,その独特の時間感覚に他ならない.それは「今は亡い」という時間の感覚だ.『東京物語』のラストで画面の中心に背を向けた笠智衆の背後のその空白が語っているのも,東山千栄子はもういない,という事実に他ならない.この「今は亡い」という時間の在り方を,映画という空間のなかに創造するとき小津は「反復とずれ」という手法を生みだしたのだ.
吉田喜重は,この小津の「反復とずれ」の最たるものを,小津の遺作『秋刀魚の味』のラスト・シーンに見ている.娘の結婚式を終えた父親・笠智衆に,顔見知りのバアのマダムが,結婚式の礼服(モーニング)をみとめて,「今日はどちらのお帰り……,お葬式ですか」と訊く.笠智衆は「ウーム,ま,そんなものだよ」と,答える.
このシーンに吉田喜重が読み取った込められたものはなんだろうか.父親が着ているモーニングは結婚式の晴の日にも,葬儀の折りのにも使用される服で,いわばどちらにでもずれていける意味をもっている.
小津さんは結婚と葬儀という,相反するはずの歓び,悲しみといった感情を,ひとつの礼服で表現してしまう.ここに12月12日という同じ日に生まれ死んでいった小津の姿をだぶらせることは間違いではないだろう.そして吉田喜重は締めくくっている.
「反復とずれ」,それは小津映画の根源的な方法論であるとともに,小津さん自身の時間論でもあったのです.人間はおだやかに日常を繰り返し,反復しながら,気づかぬうちに次第にずれを起こし,やがては二度と反復も,そしてずれも起こらない,死の時間に至る.時間はかぎりなく反復されているようでありながら,そのずれの行きつく果ての死を,たえずその内部にはらんでいる.(引用はすべて『OZU2003 プログラム・ブック』よ.以下後補(2005.07.04):長谷正人が「映画,時間,小津」と題して東京大学出版社PR誌『UP』に3回にわたり連載している.ぼくは第3回しか読んでいないが,長谷は吉田貴重の「反復とずれ」(『小津安二郎の反映画』岩波書店)の概念を借りながら,サイレント期小津と後期小津との間の「反復とずれ」の意味の違いを,「空間-イマージュ」から「時間-イマージュ」(ドゥルーズ)への変容として説明している.)
最終日には,フランスの批評家が,日本の監督達が小津の形式的な側面にのみ集中して語るので驚いたと告白した.外国からの招待者はむしろ小津の伝えたかったその内容を,読み取ろうとしていたからだ.そこには多分に異文化理解にまつわる誤解も含まれていたように思う.しかしながら,上の吉田喜重の話を聞けば,小津の形式的な側面が,小津の映画の性格,時間の流れの在り方,今はもう亡い,という感情を映画化するための骨格となっていたことが分かるだろう.
死の数週間前,小津は,すでに結婚していた岡田茉莉子と吉田喜重とを呼び寄せ,最後に「映画はドラマだ,アクシデントではない」と言ったという.アクシデント,あるいはハプニングは60年代の前衛芸術家が口にした合言葉でもあった.なるほど小津の映画にはアクシデントは起こらない.けれどもハリウッド的なクライマックス,物語のドラマ化から最も遠いところにいると思われていたのも,また小津ではなかったか.この言葉をどのように理解すればよいのか.吉田喜重は小津の死後40年たったいまでも,答を出せないでいるという.小津の映画.それは,ほとんどドキュメンタリーとも言えるようなタッチで日常の風景を描くものだった.その日常の繰り返しのなかに,どのようにドラマを見つけることができるのか.これはむしろ観客の視線の問題ではないだろうか.そしてこの言葉を最も深く受けとめたのが,参加者中最も若い監督の一人ペドロ・コスタではなかったか.劇映画だけでなく,ドキュメンタリーも監督しているこのポルトガルの監督は,小津の「映画はドラマだ,アクシデントではない」を自分の宿題としてこれからずっと考えていかなくてはならない,と神妙なおももちで語った.吉田喜重を通じて,小津の言葉がポルトガルの若い監督へと受け継がれる,その現場に立ち会えたことは,とても感動的な体験だった.
このシンポジウムのレポートが朝日新聞12月17日夕刊に載せられている.興味をもたれた方はそちらをご覧いただきたい.参加者の発言を万遍なく拾ったもので,会の中心を占めた二人の監督の邂逅を取り逃がしている点が不満だけれど.
また今回このシンポに参加した監督の新作が続々と公開される. 12月12日のこの日プレミア上映されたホウ・シャオシェンの『珈琲時光』は,一青窈,浅野忠信を起用している.上映期日は定かではないが,確実に日本公開されるはずなので,注目していて欲しい. そして12月11日が誕生日で,このシンポでも花束を贈呈された御歳95歳(小津と5年しか違わない!),世界最高の「現役」映画監督,ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ.シンポでは,小津映画のセクシャルな側面に疑問を提示して,聴衆を驚かせまた呆然とさせた.100歳を手前にしてまだまだ元気だ.主演にカトリーヌ・ドヌーヴ,ジョン・マルコヴィッチを起用した新作『ア・トーキング・ピクチャー』が,来年日比谷シャンテシネにて公開が予定されている. また今回は急遽欠席したものの,『東京画』で小津に寄せたオマージュ映画を撮ったヴィム・ヴェンダースと,ヴィクトル・エリセが参加したオムニバス映画『人生のメビウス』が,12月13日より恵比寿ガーデンシネマで上映.寡作なヴィクトリ・エリセの待望の新作だ.この作品はコンピレーション・フィルム『10ミニッツ・オールダー』のうちの一本なのだが,もう一本が『イデアの森』で,日比谷シャンテシネにて12月20日より上映される.この『10ミニッツ・オールダー』参加者の顔ぶれが凄い.『人生のメビウス』には上記二人の他に,アキ・カウリスマキ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジム・ジャームッシュ,スパイク・リー、チェン・カイコー、そしてもう一本『イデアの森』には,ヴェルナルド・ベルトルッチ,クレール・ドゥニ,マイケル・ラドフォード,ジャン=リュック・ゴダール等々.まさに映画の饗宴だ.
最後にペドロ・コスタ監督だが,実は日本で,彼の作品が公開されたことはない.なのでぼくも,まだ一本もみたことがないのだけれど,彼自身はむちゃくちゃ二枚目でかっこいい.一緒に行った女友達は結婚したい!と言っていた.現在44歳で五本の映画を撮っている.その彼の,四作目『ヴァンダの部屋』が来年2月に東京のイメージ・フォーラムにて上映される.また来年春には特集上映も計画されていると聞く.小津安二郎/吉田喜重の言葉にもっともヴィヴィッドに反応していた彼の映画は,きっと素晴らしいに違いない.みんなでポルトガルの鬼才ペドロ・コスタを発見しよう.そしてまた,ぼくたちは吉田喜重の13年ぶりの新作に出会うという幸運にも今年恵まれた.タイトルは『鏡の女たち』.妻岡田茉莉子を主役に田中好子,一色紗英を配して,ヒロシマの原爆の記憶を巡る女たちの葛藤を撮り上げた作品だ.とくに一色紗英が素晴らしい.こちらは是非ビデオで見て欲しい.てかお願いだから見て下さい.
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またこのシンポジウムの模様は朝日新聞より刊行されている.
amazon: 国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年「OZU 2003 」の記録
レバノン・サンドイッチをほおばりながら開演をまつ劇場前のポスターにエッフェル塔の姿をみとめて、果てはA Chinese in Parisかと危惧を抱きつつ席に着くも、アンゲロプロスやオリヴェイラやソクーロフといったヨーロッパの辺境からならば(あるいはスイスから?)さもありなんと思われた図々しいタイトル『世界』が、北京郊外に展開されるアミューズメント・パーク〈世界公園〉の謂いであったことが冒頭すぐさま明らかとなるに、すでにこの作品がただならぬ傑作の予感を孕んでいることを確信する。客もまばらなこの広大な敷地に建設された縮尺おおよそ三分の一のエッフェル塔やら凱旋門、サン・ピエトロやピラミッド/スフィンクス、そしてNYのWTCは何かしら「夢の工場」と呼ばれたハリウッドのスタジオへの遠い憧憬のように思われもするのだが、これを背景に繰り広げられるのは、この公園に働く踊り子たちと守衛たちとの恋の鞘当てや家族の物語に過ぎない。ポルトガルから出航してフランス/イタリア/エジプト/アテネを巡りながらアラブ世界に舳先を踏み入れるとともに炎上で幕を閉じるオリヴェイラの『永遠の語らい』において、英語イタリア語ギリシア語フランス語と母国の言葉で融通無碍に各人が語らいながらも淀むことの無かったヨーロッパ世界論と、背景のほんものの歴史的世界遺産が朗らかなまでに呼応し合っていたのとは対照的に(しかし会話に参加することを許されなかったポルトガルの者だけがヨーロッパの東端で火炎に包まれるという地政学的必然。ああ、レオノール・シルヴェイラ!)、この『世界』においては、背景は文字通り背景へと退き縮景されていじましく佇み、地方からの出稼ぎ人夫でさえ自らの訛りではなく「標準語」を喋るというこの北京郊外の『世界』においては、零れる言葉はだからといってふさわしい答えをえぬまま独り言のように文字通り零れて行くまでで、それを掬い上げてくれるものなどいない。彼らに確実に届きそして胸を熱くさせるのは携帯電話で取り交わされるメールの文字だけだ。しかしそれもまた作り物ではないのか。そもそもここで働く若い男女たちの環境において「ほんものの」世界など現実を超えた彼方に過ぎず、この「作り物の世界」からほんもののウランバートル/パリ/あるいは「ほんものの北京」/あるいは「死」へと出発するチケットを手に入れることができたのは、娼婦/海賊品を作るデザイナー/プロデュサーの愛人となった元ダンサー/そして窃盗犯といった、それ自体なにかしら「作り物」めいた手段を選びとった者たちだ。入れ子になったふたつの世界とふたつの生の有り様が奇妙にねじれたこの世界を、変わらぬ作り物の夢の世界と変わっていくほんものの北京=人々の現実の対比として描き出してみせるシネマスコープの画面にこそ、われわれがすでに体験してきたジャ・ジャン・クーの映画世界の本領が発揮される。『青いイナズマ』の荒涼とした中国内陸の風景のなかで出口のみつからぬ者たちが葛藤していた姿を、この北京の郊外に重ね合わせてみれば、この夢の園もまた砂漠の上の蜃気楼に思えてもくる。数多い登場人物の筋書きを最後まで律儀に辿ってみせるそのシナリオは後半やや弛緩した印象を与えもするが、その弛緩もまたほんものの世界の印象であるとするならば130分に及ぶこの時間の持続も受け止めるべき理由をもつのかもしれない。傑作の予感を抱かせながらもどこかしら作り損なったのではないかと思わせるこの映画は、オリンピックを控える開発の途上にあってほんものと作り物との境界がひたすら曖昧にぼかされていく北京のそのものともなりえているのかもしれぬ不吉さを漂わせている。
9.19.東京大学駒場学生会館で行われた回顧上映会
12時から19時まで 入場者は13人 上映作品は以下の18本(順不同)
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往年のプログラム・ピクチャーを範とした 内容は無いが
構図・カット・つなぎにセンスが光る94年度
夏休みに 少年が なんとなく やっちゃったみたいな
80年代映画・漫画の影響が顕著な長廻し多用の95, 96年度
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夏のナイフ
ロマンティック街道
恋しくて
二人で逃げる。
禁じられた九州男児
美味しんぼ毒味勝負
幸福
最近どう?
再生遊戯
屋上天国
夏休み
食い死んばふ
鎌倉夜行
愛欲天使
最後の小林
嘘吐き鸚鵡と色男
新宿亀
ハレンチコネクション(Fuck東京)