シネマテークに《 L'amour chante et danse 》を見に行く。マーク・サンドリッチの作品だ。サンドリッチといえば、三〇年代RKO時代のジンジャー・ロジャース/フレッド・アステアのミュージカル映画で名高いわけだが、コロンビア大学の工学部の学生だったNY生れの、「コメディ・ミュージカルの職人的監督」と呼ばれてしまったりもする、早逝のこの監督は、職人的という以上に、三〇年代から四〇年代前半にかけて最もその才能を高く評価され、また将来の巨匠と期待されもした監督の一人で、1940年、RKOからパラマウントへ、監督兼プロデューサー待遇で迎えられている。サンドリッチの映画ということでよくたしかめもせずに観に行った《 L'amour chante et danse 》だったが、原題は《 Holiday Inn 》で、『スイング・ホテル』(1942)のことだった。フランスでは邦題、原題を調べもしないまま、行って観れば有名作というのはよくある話だ。サンドリッチは、『スイング・ホテル』以外に、1934年から五作アステア作品を監督しており、どれもジンジャー・ロジャースとの共演である。アステアも好きだが、ジンジャー・ロジャースも同じくらいぼくは好きで、好みの女優はと言われれば彼女を一人に挙げるだろう。主演はビング・クロスビーで、アステアが準主役、作曲はアービング・バーリンで、年十数日の祝日だけオープンするというHoliday Innのアイデアもバーリンの発案、あるいはむしろ憧れによるものだそうだ。正月、ホワイト・デー、リンカーン、ワシントンの誕生日、独立記念日等々、祝祭日のために特別に作曲されたナンバー、とくに《ホワイト・クリスマス》は、ハリウッドの代表的なナンバーともなり、アカデミー賞も受賞して、後年、クロスビー主演で同名タイトルの映画が撮影されている。歌が下手という設定のアステア(実際アステアは必ずしも歌の名手ではなく、本人も音域の狭さを気にしていたという)の名高い、酔っ払いダンス、そしてとりわけ爆竹ダンスには、エンジニアの思いつきだろうか、床には爆竹がアステアのタップのステップに合わせて爆発する機構が仕組まれている。足と爆竹を同期させるのはたいへんに難しく、丸二日かけて三八回のテイクを重ねたという。
□
クロスビーは、アステアともう一人の女性ダンサー、ヴァージニア・デイルとトリオで舞台に出ていたものの、アステアとデイルが結婚、ダンス・デュオとしてのキャリアを選んだために、失意のうちにコネティカットの農園に引きこもる。引きこもってはみたものの、農場経営は存外に忙しく、想像していた隠棲の身とはほど遠かった。これではだめだと、農園を改修して、一年のうちの休日だけオープンするというステージ《 Holiday Inn 》を開くのが物語のはじめだ。そこに、アステアのプロデューサーからやっかいばらいに送り込まれた、マージョリー・レイノルズが転がり込んでくる。クロスビーのアイデアに共感したレイノルズに、弾き語って聞かせるのが《ホワイト・クリスマス》で、ピアノのすぐ傍らに飾られたクリスマス・ツリーのベルをパイプではじくシーンは、後半にあらためて呼び起こされることだろう。繰り返し、という古典的な演出の技法が、この映画でも随所にしこまれている。また、このシーンで暖かいのは、歌うレイノルズの頬だ。白黒映画は色を奪いはするが、そこに温度を感じさせる。そこからぼくたちの共通感覚は、ピンクに染まっているだろう、彼女の頬の色を連想するのだが、それは照明設計の確かさであり、フィルムの感光する色温度といった化学に属する話でもある。感じとるべきは、丸一年の祝祭日を辿るこの映画の画面を、色づけるその温度、ぬくもり、冷たさだ。Holiday Innのオープニング、大晦日サン・シルヴェターの祭日に、デイルに逃げられたアステアが酩酊のうちにレイノルズの手をとって、あるいはとりそこなって披露するのが、例の酔っ払いダンスで、実際、ワンテイク毎にグラスをあおって撮影に臨んだというアステアは、七杯目、七テイク目には、ほんとうにふらふらだった。リンカーン誕生日の黒塗りダンスは検閲の対象ともなり、また一転、ワシントン誕生日には、ヴェルサイユかとも思われる、18世紀の意匠を凝らしたステージに打って変わる。独立記念日七月四日のショーでは、さまざまなニュース映画がコラージュされて、サンドリッチの短編で重ねたキャリアを感じさせる。サンドリッチは、ジンジャー/フレッドの《 Gay Divorce 》(『コンチネンタル』)で満を持して長編に着手する前、短編で多くのキャリアを重ね、1933年には《So This is Harris ! 》でアカデミー賞を受賞しているのだ。さらには、この短編ニュース映画に映された工場、飛行機、戦艦、空母の迫力はまさに迫真で、エンジニアとしての出自、機械産業に対する正確な視線を確認させられ、サンドリッチが長命を得ていれば撮影したであろう戦争映画を夢想する。最後にはルーズベルトがアップで檄を飛ばして終わる、巧みに挿入されたこの映画は、1942年8月のニューヨーク・パラマウント劇場のこけら落としのプレミア上映の際には、時節柄、おおきく国威も発揚したに違いない。真珠湾攻撃は、その前年のことである。そのあいだ紆余曲折あって、結局レイノルズは、クロスビーの疑心暗鬼で子供じみた画策に腹を立てて、アステアと映画デビューのためにハリウッドへ旅立ってしまう。多重露光で六角形、雪の結晶の形で重なり合う、七組のアステア/レイノルズが、水泡や音符の泡立つ中に踊る。コネチカットの農園で、感謝祭だといって、もはや店を開く気にもなれないクロスビーは、ひとり二人の映画のために曲を書いている(ここに小さな七面鳥のアニメーションが挿入されるている。ディズニー提供だろうか)。二人が結婚するという話を耳にしたクロスビーは、奮い立ってハリウッドへ向かう。クリスマス・イヴ。スタジオでは、まさにラスト・シーンの撮影が始まろうとしている。『ホリデイ・イン』の圧巻はこの映画撮影シーンだ。スタジオ内に忠実に復元されたクロスビーのホリデイ・イン。もちろん、それまで僕たちが見ていたホリデイ・インも、スタジオ・セットに違いない。こういった映画内映画がはたしてサイレント時代にあったのかどうか、詳らかにしないのだが、トーキー時代に入って30年代、むしろこう呼んだ方がいいかもしれない「バック・ステージもの」が、にわかに増えたという印象がある。本質的にドキュメンタルな機械であるキャメラを通じて、フィクションを生みだす映画においては、どのショットも同じ権利でいくぶんフィクションであり、いくぶんドキュメンタリーでありうる。フィクション映画においては、回想も映画内虚構も容易に混じりあってしまう。それらを限界づけ、また二つに分けるのはフレームであり、やはり音だったのではないだろうか(そして、この映画/フィクションの臨界で戯れて見せるのがジャック・リヴェットだ)。キャメラがスタッフの背中をなめながら、遠巻きにホリデイ・インをとらえる。季節はあらためてクリスマス、監督の掛け声に応じて、スタジオに雪が舞い始めるシーンは、ぼくたちを、紛れもない創造の瞬間に立ち合わせてくれる。スタジオ・セットの上に張り巡らされた黒いパイプから白い雪が舞い降りる瞬間、それは、ピアニストがホールに立てる、最初の一音、緊張と柔らかさが訪れる瞬間のようだ。ラストでレイノルズが、ピアノを前に《ホワイト・クリスマス》を歌うシーン。ピアノの上に秘めて置かれたパイプ。ごく自然の仕草で、レイノルズがパイプを手にしてはじくベルの音が、一年前のクリスマスのシーンを彼女に蘇らせる。スタジオの厳格なシステムによって、その空間から締め出されてしまったアステア。重なり合う、男女の声。セットの影からいきなりあらわれるクロスビー。繰り返しとずれ、思い出と失ったもの、いまここに無いもの、たしかにそこにあったもの、それらがすべて取り戻されて映画は大団円を迎える。サンドリッチの最高傑作と言って誰一人憚ることはないだろう。サンドリッチは、1945年3月5日、アステア/クロスビーを再び迎えた『ブルー・スカイ』撮影開始9日目に、妻とカードゲーム中に心臓発作で逝った。四五歳。スタジオに王のように君臨し、スタート!/カット!の掛け声を銃声に託したという青年監督を見送ったのは、青い空、それとも白い雪だったろうか。