2006年8月10日

五分で始まる恋 ■ ジャン=ピエール・リモザン『NOVO』

Panda & Piggyの映画紹介より転載(2003年6月執筆)

ジャン=ピエール・リモザンという聞き慣れないフランス人監督の名前も、5年前の『TOKYO EYES』といえば見た人もいるかもしれない。下北沢から東京タワーまで、当時旬だった(本人たちに失礼か?)武田真治と吉川ひなのを主人公に、奔放に跳ね回るカメラ・ワークがさわやかな気持ちを抱かせてくれた。因みにぼくはこの映画をパリで観て、無性に東京に帰りたくなったのを憶えている。結局、東京タワーにはまだ一度も上ったことがないのだけれど。
 さて、リモザンの新作『NOVO』である。『TOKYO EYES』もそうだったが、本作でもリモザンの映画で不安定なのはいつも男の方だ。フランス映画というとエキセントリックで、コケティッシュなファム・ファタール(運命の女)に振りまわされる、冴えない男というのが定番なんだけれど(『ベティ・ブルー』のジャン=ユーグ・アングラードとか)、今回はその逆というわけ。冴えないといっても、主人公グラアム=パブロを演じるエドゥアルド・ノリエガは、スペインでは大変な人気を誇っていて、『オープン・ユア・アイズ』(アレハンドロ・アメナーバル監督)ではペネロペ・クルスと共演した色男である。因みにこの作品のハリウッド版リメイクが、トム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』(キャメロン・クロウ監督)。しかし、やっぱり冴えないのは、この主人公、五分前の記憶がなくなってしまうというやっかいな男なのだ。この設定、最近だと『メメント』(クリストファー・ノーラン監督)なんかが思い出されるかもしれない。でも、監督が語るには、この映画の主題は記憶喪失ではなくて(実際、記憶喪失に陥る原因もたんなる事故であっさりと触れられるだけだし、主人公も積極的に記憶を取り戻そうとしているようにはみえない)、本当のテーマは、そんな状況の中で五分ごとに繰り返される恋、いつも新鮮で、でもすぐに消え去ってしまう濃密だけれど淡い恋。

主人公のグラアム(本来の名がパブロ)は、会社のコピー係。朝起きたら頭はいつもまっさらで、部屋には記憶の代役を果たしてくれるメモが無数にぶら下げてある。手帖に日常起こる様々なことを書きつけながら、会社にもその手帖がないと辿り着けない。会社でも大きなホワイト・ボードだけが彼の頼りだ。五分で記憶を失う彼は、人間関係にも淡泊なのか、セックスも来るものは拒まずの姿勢で、会社のオフィスで女社長の相手をさせられたりもする。まんざらでもないようだ。そんな男にどうしてか惚れ込んでしまったのが派遣社員で雇われたイレーヌ。とにかくセクシーでキュートでとてもかわいい。声が低いのもぼくの好みだ。演じるのは最近女優としても売り出し中のアナ・ムグラリスで、今年のシャネルの広告戦略の“ミューズ”に指名され日本でもその露出は一気に高まるに違いない。初めは新鮮な恋の気分で、ゼッタイわたしを憶えさせてみせる!と息巻く彼女がとった手段は、それこそ手練手管のオンパレードで、この映画を見に行くならば覚悟しておいたほうがいい。とってもエロです。ちょっと恥ずかしくなるくらいのベッド・シーンの連続だけれど、我が身をふりかえってみれば恋人たちのベッドの上はだいたいみんな同じ感じで、セクシーで、気持ちよくて、人に見せられないくらい恥ずかしいのなんて当たり前で、そんな心あたりのない彼−彼女とのセックスなら、むしろ考え直したほうがいいかもしれません。でも決して不快な気分にはさせられないのは、そこで行われていることがとても自然だからだ。自分を忘れさせないために、グラアムの体中に自分の名前を書いたり、自分のふとももにマジックで文字を書いたりするシーン(ポスターのショットだ)は、とても切ない。離れている時間にも自分のしるしを残さないと不安で、キスマークや爪痕や、香水の残り香を小道具にしたてたことだってみんなあるはずだ。五分で記憶喪失という設定は、だから恋をすれば誰もが抱える切なさや、わがままを浮き彫りにするためのきっかけにすぎない。
 そんな風にして毎回毎回初めての恋、初めての夜に燃え上がるイレーヌの気持ち。「たいていの恋愛は、次第に相手の顔色をうかがうようになり、セックスもマンネリ化する。そんな惰性から自由な恋愛は、今までにない充実感を与えてくれる」なんて、いかしたセリフを彼女は言うけれど、そんな不安定な恋にはやっぱり長くは耐えられない。ある種、記憶喪失を楽しんでいるようにさえ見える男。結局、神経衰弱ぎりぎりなのは、いつも女の子だ。「イレーヌはだんだん保証が欲しくなってくる。地に足のつかない関係に、人はそう長く耐えられない。関係を一歩づつ前に進めたくなるものなんだろうね」と監督のリモザン自身が解説している(朝日新聞6月23日夕刊)。恋の進展?発展?深化?成熟?ぼくたちは恋をしてても資本主義や週刊少年ジャンプみたいに「成長」という強迫観念に縛られているのかもしれない。そしてフランスの恋では、セックスはゴールではなくてスタートだから、ますます道行きは困難だ。仕事も手につかずいらいらしている彼女に解雇を通告する女社長の嫉妬。確かな関係、気持ちと肉体以外の「絆」が欲しくなったイレーヌは、彼との体験の共有を通して、グラアムを知ろうとする。彼の好きな小説を読みたい、彼の好きな絵画をみたい、彼が何を体験して、彼が何を感じているのかを共有したい。恋人たちに自然に訪れる、少しナルシスティックな同一化の欲望がむくむくと彼女のなかで作動する。「わたしはエゴイストだわ」と確信犯的に彼女は、グラアムを追いつめていってしまうのだ。だって彼を愛しているから。
 美術館や、映画館は恋人たちのデートの場所と相場が決まっている。ふたり並んで一緒に同じものを見て、感じて、語り合う。そういったことの積み重ねがふたりの物語をつくっていくのだから。恋の物語は、ふたりの気持ち、揺れ動きやすくてとらえがたいものに、ふたりの確かな歴史を与えてくれるものだから。フランス語では物語=歴史は同じひとつのhistoire=historyで表現される。恋人たちは、ふたりだけの物語を見つめ合って語りながら、ふたりの歴史を綴っていくのだ。でも、イレーヌがグラアムに言ってしまったように、彼には「ロマンスを生みだす力がない」。この映画のなかで、とても切なく悲しいのが、この現代アートの美術館のシーンではないだろうか。現代アートは、いつもぼくたちに体験や、理解や、解釈を迫ってくる。この絵素敵ね、この絵分からない、と率直に言ってしまうとまるで自分がばかみたいな、そんな気分、味わったことないですか?グレアムには五分の記憶しかないけれど、それだけ一瞬一瞬がきっとぼくたちよりも濃密で、スケーターたちが適当にかきつけたに違いないストリートの壁の落書きのささいな変化にも、意味を読み取ってしまう彼なのだ。現代美術館で、彼は空間恐怖症にでもなってしまったかのように、強制された体験と、理解と、解釈と、記憶の脅迫に叫ばずにはいられないのだ。そして、そこから、彼ひとりの、放浪の旅がはじまる。
 と、予告編はここまで。是非つづきは本編をご覧下さい。人が恋におちるには五分できっとじゅうぶんで、恋する二人には、繰り返される五分がとてもかけがえのない大切な時間なのだと教えてくれる。

ジャン=ピエール・リモザン『NOVO』2002年98分
7月11日まで、渋谷シネセゾンにて。
公式HP:http://www.gaga.ne.jp/novo/index.html

Posted by tdj at 2006年8月10日 04:07