2008年4月15日

秋津温泉

いまパリのポンピドゥ・センターでは吉田喜重の回顧上映が開催されている。『秋津温泉』'62は、しかしぼくは、遅まきながらポンピドゥ脇のMK2でみてきたところだ。吉田喜重の代表作という前に、岡田茉莉子の100作品出演記念であり、吉田喜重にとっては抜擢であった。64年に二人は結婚する。岡田茉莉子が17歳から34歳まで旅館の女将を演じていて、秋津温泉だけが私に残ったという彼女はなんだか『風と共に去りぬ』のスカレーットのようだ。見終わったあとに、耳の裏側に血が上ったようにぼーっとして、映画館からレピュブリック広場を通ってベルヴィルの坂の上の家まで歩いて帰るはめになった。途中どこかのカフェにでも腰を落ち着けて、鑑賞後の印象をまとめたいとも思ったのだが、立ち止まることもできずにふらふらと歩き通してしまった。一度歩き出すと立ち止まるのが面倒くさくなる。町の景色もうっすらと前をかすめるだけで、はっきりとは眺められない。吉田喜重についてははずかしながらよく知らない。メロドラマだ。岡田茉莉子と長門裕之に、このようなドラマよりもう少し大きな世界を投影してみるような見方もあるようだけれど、とりあえずメロドラマだった。よくわからなかった。17歳で出会って、3年、4年と、あいだを置いて、自分勝手にふいにあらわれる男に、気持ちを留める岡田茉莉子の気持ちがまずわからない。なるほど日本の40−50年代の田舎町でのことだ。他に男がいなかったのかもしれない。横浜の女学校から戻ってきた少女にとって、東京の学生だった男にたいするなにかしらの期待もあったかもしれない。そんな話は小説にごろごろしているかもしれない。長門裕之のような男もよくいるかもしれない。いまでもこれはいるかもしれないが、岡田茉莉子の演じた女性がいるだろうか。いたら嫌だな、と思う。ぼくには彼女がよくわからなかった。わからなかったけど、よい映画だなと思った。旅館の一室、障子を一枚隔てて岡田茉莉子が縁側におり、長門が室内にいる。岡田が縁側のあちらからカメラの方へ進む姿を、正面から捉え、切り返して、障子で隔てられた室内から長門が、彼女の画面の外にある影を視線で追う。障子一枚隔てられたふたつの平行な空間、ふたつのショットを長門の視線で繋いでみせる。障子からガラス戸まで進んだところで、またふたつの空間、ふたりの男女が同じショットに収まる。美しいな、と思った。それだけだろうか。よくわからなかった。吉田の他の作品もみてみないといけないのかなと思うけれど、残りの滞在ももはや少なく、やり残したこと、もう間に合わないだろことも多く、映画をみている場合ではもちろんない。岡田茉莉子は最後に死ぬわけだが、たぶん人は恋では死なない。あのような恋を失っても、わたしは生きている、あのような苦しみを経てもわたしは死ななかった、というデュラス/レネ『ヒロシマ・モナムール』を思い出す。「君がヌヴェールで死んでいればよかったのに」/「そうね。でもわたしはヌヴェールで死ななかった」。何かを失ったという後悔を通じて人はおそらく誰かになるのではないだろうかとも思う。「その時、君はまだ若くて、まだなにものでもなかった」/「その時、君はいまあるような君になりはじめたに違いないんだ」。だとすれば、岡田茉莉子はなにかになれずに死んでいったのだろうか。死にたい死にたいと思って生き延びる情けない男との恋に破れて(それはそもそも恋だったのだろうか)、生きることしかおそらく問うたことのない女が最後に死を選ぶ。そこがよくわからない。だからなんで自分が感動したのかもよくわからない。

Posted by tdj at 2008年4月15日 20:15