レバノン・サンドイッチをほおばりながら開演をまつ劇場前のポスターにエッフェル塔の姿をみとめて、果てはA Chinese in Parisかと危惧を抱きつつ席に着くも、アンゲロプロスやオリヴェイラやソクーロフといったヨーロッパの辺境からならば(あるいはスイスから?)さもありなんと思われた図々しいタイトル『世界』が、北京郊外に展開されるアミューズメント・パーク〈世界公園〉の謂いであったことが冒頭すぐさま明らかとなるに、すでにこの作品がただならぬ傑作の予感を孕んでいることを確信する。客もまばらなこの広大な敷地に建設された縮尺おおよそ三分の一のエッフェル塔やら凱旋門、サン・ピエトロやピラミッド/スフィンクス、そしてNYのWTCは何かしら「夢の工場」と呼ばれたハリウッドのスタジオへの遠い憧憬のように思われもするのだが、これを背景に繰り広げられるのは、この公園に働く踊り子たちと守衛たちとの恋の鞘当てや家族の物語に過ぎない。ポルトガルから出航してフランス/イタリア/エジプト/アテネを巡りながらアラブ世界に舳先を踏み入れるとともに炎上で幕を閉じるオリヴェイラの『永遠の語らい』において、英語イタリア語ギリシア語フランス語と母国の言葉で融通無碍に各人が語らいながらも淀むことの無かったヨーロッパ世界論と、背景のほんものの歴史的世界遺産が朗らかなまでに呼応し合っていたのとは対照的に(しかし会話に参加することを許されなかったポルトガルの者だけがヨーロッパの東端で火炎に包まれるという地政学的必然。ああ、レオノール・シルヴェイラ!)、この『世界』においては、背景は文字通り背景へと退き縮景されていじましく佇み、地方からの出稼ぎ人夫でさえ自らの訛りではなく「標準語」を喋るというこの北京郊外の『世界』においては、零れる言葉はだからといってふさわしい答えをえぬまま独り言のように文字通り零れて行くまでで、それを掬い上げてくれるものなどいない。彼らに確実に届きそして胸を熱くさせるのは携帯電話で取り交わされるメールの文字だけだ。しかしそれもまた作り物ではないのか。そもそもここで働く若い男女たちの環境において「ほんものの」世界など現実を超えた彼方に過ぎず、この「作り物の世界」からほんもののウランバートル/パリ/あるいは「ほんものの北京」/あるいは「死」へと出発するチケットを手に入れることができたのは、娼婦/海賊品を作るデザイナー/プロデュサーの愛人となった元ダンサー/そして窃盗犯といった、それ自体なにかしら「作り物」めいた手段を選びとった者たちだ。入れ子になったふたつの世界とふたつの生の有り様が奇妙にねじれたこの世界を、変わらぬ作り物の夢の世界と変わっていくほんものの北京=人々の現実の対比として描き出してみせるシネマスコープの画面にこそ、われわれがすでに体験してきたジャ・ジャン・クーの映画世界の本領が発揮される。『青いイナズマ』の荒涼とした中国内陸の風景のなかで出口のみつからぬ者たちが葛藤していた姿を、この北京の郊外に重ね合わせてみれば、この夢の園もまた砂漠の上の蜃気楼に思えてもくる。数多い登場人物の筋書きを最後まで律儀に辿ってみせるそのシナリオは後半やや弛緩した印象を与えもするが、その弛緩もまたほんものの世界の印象であるとするならば130分に及ぶこの時間の持続も受け止めるべき理由をもつのかもしれない。傑作の予感を抱かせながらもどこかしら作り損なったのではないかと思わせるこの映画は、オリンピックを控える開発の途上にあってほんものと作り物との境界がひたすら曖昧にぼかされていく北京のそのものともなりえているのかもしれぬ不吉さを漂わせている。
Posted by tdj at 2005年6月 9日 03:05