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- China Sichuan(中国四川省) Archives -

at 雲南->四川省 on 04/Jul/1999

Posted by snotch at November 23, 2002 3:55 PM

なぁーっ、財布掏られた!!
丽江を発って攀枝花 (panzhihua)へ向かうバスの中だ。バスターミナルでコーラを買ったから、そのときには財布は確かにあった。バスに乗って出発前に財布がないことに気づいたから、正確には、バスに乗るときのごたごたに紛れて掏られた可能性が高い。あああ、自分の迂闊さを後悔するが仕方ない。移動なので昨日両替したばっかりで、100ドル分ほどの中国元と、以前バンコクで作った偽国際学生証が入っていたのになぁ。バス休憩の昼ご飯は、中国元のキャッシュがないのでオーストラリア人のマークが貸してくれた。

今日は日曜日じゃないか?ということは、銀行も休み。ということは、両替できない。攀枝花なんていう田舎で、カードやドルが使えるわけない。明日の朝まで野宿かな?

夕方、攀枝花に着いた。攀枝花は、雲南省と四川(sichuan)省のほぼ境にあって、ここに来るまでまったく知らなかったのだが、鉄鋼の生産で有名な場所。また、昆明(kunming)と成都(chengdu)をつなぐ鉄道路線上に位置する町でもある。駅前に銀行を見つけ、日曜なのに開業していたからラッキーと思って入っていくと、両替業務は取り扱っていないとのこと。「財布なくして、中国のお金が一銭もないのだよ」と、僕の中国語の知識を最大限に使ってアピールしたところ、彼らも人の子、両替してくれた。財布取られたのに、なんだかうれしくなってしまった自分をなぐさめるので精一杯。マークといっしょに硬座に揺られて、成都にむかう。

at 四川省成都 on 05/Jul/1999

Posted by snotch at November 24, 2002 2:12 AM

今回の硬座はホントに硬かった。午前10時過ぎ、四川省の省都、成都(chengdu)北火车站に到着。
宿に着くなり、洗濯を済ませ、気づいたときには夕方だった。今回の宿は、Chengdu college traditional medicine。その名の通り、大学の敷地内にある宿なのだが、とても清潔で広くておまけに安い。さらに、宿の小姐(小姉)は、きっと学生のアルバイトなのだろうが、とっても愛想が良くて生き生きと働いている。お勧め。
食において、成都といえば陳麻婆豆腐が有名であるが、火锅(火鍋 huoguo)のお店が軒を並べているのを良く目にする。火锅という料理は四川省に入って初めて知ったのだが、要は、ビビンパで使うような分厚い石鍋の中に、ご飯と具を入れて、店の前の強力なコンロで、バチバチジュージューいう頃合いまでそれを熱し、熱い熱いと言いながら食べる食べ物。おいしくて安い。旅が進むにつれ、中国の料理文化のすばらしさをますます身に感じるこの頃。

at 四川省成都 on 06/Jul/1999

Posted by snotch at November 25, 2002 11:57 PM

成都の中心部へ歩く。巨大な毛沢東像が右手を斜めに挙げて立っている。是非とも行きたい非解放地域があるので、成都の公安事務所まで旅行証をとりに行った。人が沢山なのと、公安職員のやる気が限りなくゼロに近い様子なので、こちらのやる気が吸い取られる前に、建物を出てきた。恐るべし中国公務員。
仕様がないので、陈麻婆豆腐(陳麻婆豆腐 chen mapo doufu)のお店へ行く。chen お婆さんが始めたことから麻婆豆腐という名前でよれるようになったという話は、あまりにも有名だ。しかし、この料理、お婆さんが作ったとはとても思えない。唐辛子と山椒が山のように入っているので、3分の1程食べたところで、もう口の中が完全に痺れてしまう。どう考えても、やりすぎです。この麻婆豆腐は。

at 四川省馬爾康 on 07/Jul/1999

Posted by snotch at November 26, 2002 5:52 AM

朝5時半起床。旅をしていると、基本的に早寝早起きになる。

西門バススタンドから、马尔康(馬爾康 ma er kang)行きのバスに乗り、成都を出発。道はぼこぼこだが、バスは頑張っている。途中、「リング」の海賊版VCDがバスのテレビに映し出され、スピーカーからは長渕剛の「とんぼ」が流れるという奇妙な体験をした。バスはぐんぐん高度を上げ、標高約4040メートルの峠を越えた。乗り物酔いに弱い人が多いのか、軽い高山病なのか知らないが、気の毒に何人かの漢人が苦しそうにしている。本来ならこの辺りは絶景のはずなのだけれど、乗客が車内に嘔吐している以外は、霧が濃くて何も見えない。

马尔康は、成都から北西に道なり300km強の所にあって、四川省アバ州の州都の町で、元来ここに住んでいる人々は、完全にチベット文化圏に属する人々である。夕方、19時前に何とか到着した。马尔康到着の少し手前で、一瞬、石造りのチベット民家が並んでいるが見えた。チベット・・・いい響きだ。

at 四川省馬爾康 on 08/Jul/1999

Posted by snotch at November 27, 2002 5:13 PM

町の北側には、马尔康(マルカン)の町が一望できる高台があって、マルカン・ゴンパがひっそりと建っている。もとは、ボン教の寺であったが、現在はチベット最大の宗派であるゲルク派の寺。途中でヤギに襲われそうになりながら、マルカン・ゴンパまで山道を登る。ゴンパを肉眼で目にしたのは、今回が初めてだ。時折、町に住むチベット人がお祈りに見えるほかには、行き交う人も人の気配もなく、とても静かな寺だ。マニ車もはじめて実物を目にした。まわしながら回ってみた。まだ、よくわからない。

at 四川省馬爾康 on 09/Jul/1999

Posted by snotch at November 28, 2002 2:50 PM

朝食に油条(youtiao)を食べる。豆漿(doujiang)という甘い豆乳に浸しながら食べる人が多い。でも、僕はいまいち好きになれない。たまに(今日も)おいしそうだなと思って食べてみるが、やっぱり食べた後に後悔する。朝から揚げ物を口にするということに、まず、抵抗がある。
モモ(蒸し餃子)を弁当にもって、此処から西に10kmほどのところにあるというチュポ(直波)村へ歩く。村の名前が、まず格好良い。

この辺りのチベット人の民家には、立派な建物が多い。しっかりと石を積み上げた立派な風格、窓の縁を鮮やかに色付けし、家の周りには花を植える。チベット文化圏においてここほど植生豊かな環境は、まれだろうと思われる。もともと、家を石で作ることからもわかるけれど、自然環境が厳しいために、家を建てられるだけの木が採れないという状況のもとで暮らす文化をもつ人々だ。だから、こんなにも深い緑の中に、石積みのチベット民家を見るなどとは思いもしなかった。
3時間ほど歩いたところで、ちらほらと塔状のものが見え始めた。直波碉群と呼ばれるこの塔は、かつて城砦の見張り台として用いられたとか。こんな場所で、見張るものなどあったのであろうか?それから、まったく人の気配がしないのが不気味だ。日中は働きに出かけているのかな?

at 四川省紅原 on 10/Jul/1999

Posted by snotch at November 29, 2002 6:18 AM

朝6:15一発のバスで红原(紅原 hongyuan)に向かう。1日一本しかバスがないなんて、どんな所に行くのかなと、楽しみだ。马尔康を出発してすぐ、崖崩れが道をふさいで通れない。20分ほどかけてみんなで土砂を取り除いて、やっと通れるようになったのだけれど、今にも落ちてきそうな巨大な岩が崖崩れの部分のバスよりもちょっと高いところに引っかかっていて、どうか崩れないでくださいと本気で祈った。バスは、どんどんと高度をあげながらゆっくりと走る。2,3時間もすると、遠くの山がだんだんとなだらかになり、視界には草原が広がるようになる。もう、红原にほど近いかなというあたりまでやってきて、極端に道が悪くなる。どろどろでぼこぼこ。結局30km移動するのに、バスで6時間かかった。時速5kmじゃん。

遊牧民の家族@紅原そら@紅原チョルテン@紅原

红原は標高3410m。でも辺り一面が湿原で、山にいるという感じがしないから、標高が高い所にいるんだなという実感は全くない。真夏だけれど、日陰にいると寒いくらい。周囲の湿原は、黄河の支流カルチュ( 白河 bai he )によって生じたもの。周恩来率いる中国共産党が、1934年に始まる紅軍の長征において、このあたりの底なし沼地に大いに苦労させられたことから、红原と呼ばれるようになったらしい。はるか遠くから、こんな所にまで歩いてきたなんて信じられん。ほんの70年前の出来事。

at 四川省紅原 on 10/Jul/1999

Posted by snotch at November 29, 2002 11:32 PM

at 四川省紅原 on 10/Jul/1999

Posted by snotch at November 29, 2002 11:56 PM

ルンタ(rlung rta)とは、「風の馬」
チベットの寺、家々、峠には、ルンタを刷った5色のタルチョ(dar lcog)が風にはためく

at 四川省若爾蓋 on 11/Jul/1999

Posted by snotch at December 4, 2002 6:59 AM

早朝の湿原@紅原早朝、湿原に潜入。今までに見たことの無い、スカーンと雲一つない青空を見てしまった。そして、一面花の絨毯。デパートの展示会場で高値をつけるペルシャ絨毯も、これにはかなわないだろう。花に朝露が降りて、きらきらと光っている。むこうの山の袂にパオが一棟あって、朝食の準備なのだろうか、煙が立ち昇っている。夏の間、こうして草原地帯に家畜と共にやってきて、花の絨毯に囲まれて暮らすのだ。

flower@紅原湿原&パオ@紅原バッファロー@紅原

午後のバスでゾルゲ [若尔盖(若爾蓋 ruoergai)]へ。そそる地名だ。ここ最近、移動を重ねるたびに、バスがおんぼろになってゆく。道が悪いのと、バスがおんぼろなのとで、車内には常に砂埃が充満していて、のどがぴりぴりする。時々、「オマエ何でこんなところを一人で歩いているんだよ」と尋ねたくなるようなところで、チベタンがバスに乗ってくる。ゾルゲの少し手前で道が崩れていて、乗客達はみなバスを降りて歩いて先回り。その後ろを、バスが左右に大きく傾きながらやってくる。
ゾルゲは極めて人工的で、埃っぽい月面基地のようだ。近年になって,交通の要所として中国政府が作った町なのだそうだ。

at 四川省郎木寺 on 12/Jul/1999

Posted by snotch at December 5, 2002 5:51 PM

早朝起床。6時すぎのバスで郎木寺(langmusi)へ。乗客はみなチベタン。地平線まで花畑の大草原を、おんぼろバスでぶっ飛ばすのがこんなにも気持ち良いなんて。

しばらくして、ちょっとした峠に差しかかったのだけれど、峠の手前で皆が小さな声で歌を唄いだした。お経のような、呪文のような。ちょうど峠を越えるとき、皆が一斉に窓を開き、小さな紙切れの束を空へ向かって手放す。ぱぁーっと色とりどりの紙片がバスの周りをひらひらと包んで、このままみんなでどこか知らない所へ行ってしまいそうな、不思議な一体感。自分が自分でないような、浮遊感。

四川省からの道@郎木寺僧坊群と大チョルテン@郎木寺郎木寺は、四川省と甘粛省の丁度境目にあって、村の真ん中を省境が走っている。村には、セーティ・ゴンパとキルティ・ゴンパの2つのゲルク派の大僧院があって、省境を挟んで向かい合うかたちになっている。どちらの僧院も、文化大革命によって壊滅的な被害を受けたが、80年代以降復興が進められている。この2つのゴンパは、案の定というか、とっても仲が悪いそうだ。

セーティゴンパ遠景@郎木寺ドミトリーの部屋に入ると、エルビーと名乗る、インドゴア出身という怪しい系中年白人がいて、既にガンジャでキマっている模様。そのあと、延々とこれはいらんか、あれはいらんかと、バックの中からおもちゃやら置物やらを引っぱり出してきて、セールストークを受けることになる。まことに迷惑な話だけれど、こういう人は結構好きだ。

at 四川省郎木寺 on 12/Jul/1999

Posted by snotch at December 6, 2002 2:53 PM

 



at 四川省郎木寺 on 13/Jul/1999

Posted by snotch at December 8, 2002 1:13 PM

郎木寺の家屋はいたって質素なつくりで、屋根は木板を石で押さえてあるだけ。村の真ん中に、宿と食堂が数件あるだけの静かで小さな村だ。
集落のある周囲の高台を歩いていると、2人のチベタンの若者がいて、西瓜をごちそうになる。彼らは10日後に遙々インドにむけて旅立つそうだ。つまり亡命するということでしょうな。それで、今日から英語の勉強を始めたのだそうだ。ずいぶんと、計画性の無い亡命だなと思ったが、この人達の亡命はそんなものなのかもしれない。きっと僕たちには想像のつかない旅をこの人達はするのだろうな。こうして毎年インドのダラムサラに向けて亡命するチベット人は多い。
英語を教えてくれと彼らに言われて、とっさに「面倒臭っ」と思ったが、彼らの熱心さは本物のようなので、拙い僕の英語を、彼らにすりこんでしまった。

at 四川省郎木寺 on 13/Jul/1999

Posted by snotch at December 10, 2002 2:27 PM

この村の坊主は、村人に対して威張っているふうがある。坊さんとはそのようなものだろうか?

セーティ・ゴンパの、とある坊さんが、僧坊に案内してくれるというのでついていった。彼の僧坊は、見た目新しく、おそらく築1,2 年といったところ。ちょっとした庭までついていて、一人で住むのには申し分の無い住環境だ。きっと、セーティ・ゴンパのなかでも、位の高い僧なのだろう。いろんなものを見せてくれたが、ダライラマの写真よりも、「彼がコーラ持参で仲間の僧と一緒に草原にピクニックへ行ったときの写真」のほうが面白かった。
そろそろ布施をして帰ろうと思いたって、20元ほど懐から取り出して手渡そうとしたが、怪訝な顔をしていらないと言う。そして、僕の親父の職業をしきりに問いただしてくるのだ。彼は10万元を要求してきた。ざっと150万円ほどでしょうか。何に必要なのかと尋ねると、本堂の改築費用が全く足りない状況なのだそうだ。きっと彼は、本堂改築プロジェクトの予算調達係などになってしまったばかりに、日々予算の調達に頭を悩めているのだなあと思い、気の毒に思ったが、無論10万元なんていう大金持っていないので、丁重にお断りした。



at 四川省郎木寺 on 13/Jul/1999

Posted by snotch at December 13, 2002 10:17 AM



at 四川省郎木寺 on 14/Jul/1999

Posted by snotch at January 2, 2003 1:02 AM

旅をしていて、しばらく日本語に接しないでいると、手紙なんてほとんど書いたこと無いくせに、無性に手紙を書いてみたくなったりする。ということで、両親宛を含めて、ポストカードを6枚書いた。村唯一の郵便局に行ったら、1元切手と5元切手の在庫しかなく、投函のためには最低でも葉書1枚あたり5枚の切手が必要で、葉書に切手を5枚も貼ったら宛名がほぼ隠れてしまう。いろいろと貼る位置を試行錯誤してみたけれど、天地がひっくり返っても物理的に不可能だということが判明したので、後日投函することにした。

近くの山へ行こうと宿をでたのは良いけれど、仁青道黒茶館の前で、例のインドに亡命計画中の彼に呼び止められてしまって、茶館の中でお茶とタバコをいただきながら、彼の英語のレッスンを夕方17:00まで続けることになる。彼がとってもうれしそうに英語を話す様をみて、無事にインドにたどり着きますようにと願う。



気を取り直して、山に登る。高山植物が生い茂り、色とりどりの花が咲いている。今が、一年の中で、短い夏の一番華やかな時期なのかも知れない。道に沿ってどんどんと登ってゆくと、最初は急だった坂が次第に緩やかになる。頂上は、ちょっとした広場のように開けていて、郎木寺がずっと下に見える。旗のついた、身の丈ほどの棒が一本だけ刺さっていて、強い風にたなびいている。日が暮れそうなのと、曇りの天気のせいなのか、一人ぼっちでなんだか薄気味悪いので、すぐに降りてきた。

余談だけれど、この辺りでは、死者を鳥葬にする風習がいまだに残っているのだそうだ。

at 四川省郎木寺 on 14/Jul/1999

Posted by snotch at January 2, 2003 1:03 AM