今日は、愛知県立岡崎高校の進路講演会に招いていただいて、全校生徒の前で1時間ほど話をさせていただいてきました。
もともとは去年、岡崎高校の国語の先生が、「旅に出よう」を読んで下さってこの講演会を企画してくださいました。最初に連絡をいただいたのが1年近く前で、随分前から決まっていた話だったので、ついにこの日がやってきた、という感じで臨みました。
全校生徒1000人以上と聞いていて、その人数の多さに大丈夫かな・・・と若干緊張気味でしたが、体育館の壇上に上がるや否や、前方の3年生女子のみなさんのなんだか楽しげな笑顔が見えて、ほっと気持ちがほぐれました。そして先生にご紹介いただき、話し始め、出だしに仕込んだいくつかの小さなギャグのウケ具合を見て、全体の雰囲気をつかもうと思ったら、最初から予想以上にみなさん「はははははーっ!」とウケて下さって、本当にリラックスして、楽しい気持ちで話し始めることができました。
しかも、中間試験の最終試験が終わった直後の講演会ということで、みな、眠さのピークで、とにかく早く解放されたいときなはずなのに、生徒のみなさん、気を遣ってくれて、優しい!と感激ひとしおでした。
その後も、ぼくの高校、大学時代の話、旅の話、ストーカー話、進路選択、ライター、吃音、若旦那、震災など、どの話題にもみなさんちゃんと耳を傾けてくれ、まじめな話題は静かに真剣に聞いてくれて、ここで笑ってくれるかな......と思って、ポッと軽口を叩くと、、、、「わははははー!」
いやあ~、ほんとに岡崎高校、できた生徒さんたちでした~。
とても優秀な進学校なので、みんなクールに斜に構えた感じだったら辛いなあ、と思っていたのですが、すごく素直そうな感じのいい子たちばかりで、とても清々しい気持ちになれた一日でした。
終わったあとは、部活も見学させてもらいました。特にバスケ部は、自分の高校時代を思い出しながら、女子マネさんにイスまで出してもらって「何さまだよおれは」って雰囲気でしばらく見学。岡崎高校はバスケなどのスポーツも強いらしく、ナイスガイがひしめき合いながら、体育館を「キュッ、キュッ!」と言わせてました。フットワークの動きが懐かしいー。
講演会では言おうと思いつつ言わずじまいだったけれど、自分はキャプテンになった最初の試合は、なんと衝撃の前半9分5ファール退場というありえない突っ走りぶりを見せてしまいました。
1分1ファールを励行して、まずは手堅く4ファール。コーチに「近藤、分かってるな!」と激しくにらまれ、その般若面の意味は重々理解していたものの、身体がついていかず。5分粘っただけで、9分で最後の5つ目を激しくもぎ取りにいってしました。完全に馬鹿キャプテンです。ありえません。
キャップがそんなだったので強いわけもなく、ある練習試合では頭にダンクを決められ味方にも笑われるというおいしい場面もしっかり確保しながら、インターハイ予選の一回戦で堂々と敗れて引退していきましたとさ。・・・・・・という自分の甘酸っぱい日々も思い出したり。
ああ、高校時代っていいなあ、って思いました。そしてすっかり自分はおっさんになってしまったなあ、と。でもとても楽しかったです。
岡崎高校のみなさん、今日は本当にありがとうございました!
みなさんのますますのご活躍、楽しみにしてます。
またどこかでお会いしましょう!
今回、東北に行って、「取材する」ということについて、いろいろと考えた。
ぼくは、「取材する」ということに慣れることができない自分を、この仕事を始めた以来ずっと感じ続けている。もう7,8年。だから、「取材」って言う言葉も自分にはなんか肌に合わなくて、人にはよく、「話を聞かせてもらう」という言い方をしてきた。初めは単純に自信がなかったということもあるけれど、いまなお、その気持ちは変わってない。
なんでそんな風に思うのだろうと考えると、突き詰めれば自分は、「取材」という行為に対してどこか懐疑的だからなんだろうな、と思う。「取材」と称してちょっと人の話を聞くことでいったいその人の何が分かるのだろう、という思いがある。話を聞かせてもらう相手にとって、いきなり外からやってきて話を聞いて、わかったようなことを書く自分はなんなんだろう、という思いがある。
さらにその上、メディア、つまり書く側、伝える側というのは、妙な影響力を持つことがあるために、「取材」においても、取材する側が、される側に対して妙な力を持ってしまうということがある。その関係を、じつに居心地悪く感じ続けている。
今回東北で被災者を前にして、とてもつよくそう思っている自分を意識した。
いったいどんな顔して話しかければいいのだろう。遠くから突然やってきて、話を聞かせてくれと迫る自分ってなんなんだろう。何もかもを失い、この地ですべてを立て直さないといけないこのおじさんをを前に、遠く関西から数日だけ突然やってきて話を聞いてまた帰っていく自分ってなんぼのもんなんだ、と。
そんな気持ちが強く芽生え、物怖じしてしまうことが多々あった。そしてときにぼくは、そのまま何もできず、誰とも話せずに、ただおどおどしていた。
しかし――。優れたノンフィクションの書き手は、この辺の問題をすでに自分の中であれこれ考えた上で、クリアしているはずだと思う。話を聞かせてもらうということは、それだけ重いことであり、誠意を持ってお願いしなければならないこと。でも、そういうことを意識してきちんとお願いした上で話をきかせてもらい、それを丁寧に受け止めてアウトプットすれば、話してくれた人にとっても、少なからぬ意味を持つものになる可能性があるはずだ、と。
だから、難しいのは当然のことであり、そう認識した上で、しっかりと気持ちを伝えて話を聞かせてもらう。そして「取材」という行為が持つ限界を知った上で、そしてその制約の中で、むしろその制約をリアリティと緊張感を生み出すための大切な要素として書いていくことが出来る人が、本当の意味でのプロのノンフィクションの書き手なんだろうなと思う。
だが、自分にはそれがまだ十分に出来ていないことを、東北に行ってみて強く感じてしまった。これから経験を積むことで解消されていくのか。それともこれはもって生まれた性格の問題なのだろうか。
自分には、書き手としての大切な何かが欠けているなと思う。それが本当に今後、致命的な欠点になるのか、それとも、より自分に適した方法を見出すための道しるべになるのか。それは分からない。
ただ自分は、取材者という立場よりも、直接コミットする立場でいる方が向いている、と思うときが少なくない。でも同時に書き手でもありたい。自分の心の欲するところによく耳を傾けることで、今後の自分らしいやり方が見えてくるかもしれない、という気がしている。
中途半端で未完成だけれど、とりあえず、現場で考えたことをアップしておく。
5月5日 15:39。
東京から京都へ、新幹線のぞみ183号が間もなく発車する。そんな中で、見てきたことを思い浮かべながら書いている。
(仙台の南、岩沼市のあたり)
4日前、仙台に向かうときとは随分違う気持ちで新幹線に乗っている。
今回東北に行ってみて、自分の気持ちの持ちようが随分変わった。これまでは、震災の現場を想像して、ただただとてつもない強大な力に対して恐れ慄く気持ちだったのが、短期間とはいえ自分なりに目の前でみたことによって、震災が、漠然とした恐怖から、より鮮明な、具体的な実体に変わった。
行きの新幹線でも、思いついたことを書きつつ北に向かったけれど、東北に近づいていくにつれて、すべてを震災と関連させて考えた。福島駅のそばで人が誰もいなければ、やはり原発の影響だろうとか、マスクをしている人をみると、やはり、というように。どこを見ても、震災とだぶらせて考えた。実際ある程度そうではあるだろうとはいえ。
だから、仙台駅に着いたとき、普通に明るくて賑やかで、人でごった返している様子に驚いた。普通の日常がそこにはあった。もっと大変な光景がいきなり飛び込んでくるんじゃないかって思っていたけれど、そうではなかった。少なくとも自分はそのように感じた。
それから、仙台で車を借りて、北東に向かい、松島、東松島、石巻へ。そのあたりで初めて津波の衝撃的な被害を眼にした。そして、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田、南に戻って山元町...。
南三陸町・志津川では、飛び込みで1日ボランティアをさせてもらい、夜は被災者の方々と一緒に酒を呑み、体育館に泊まった。みなさん温かく迎え入れてくださって、いろいろと話を聞かせていただいた。胸のつまる話が多いけれど、でもその明るさに逆に元気をもらった。
津波の被害は、どこでも線を引いたかのように突然始まった。内陸から車で走ると、たとえば南三陸町に入ってもしばらくはずっとのどかで全く何事もなかったような美しい緑の風景が続いた。山の中に切り開かれた道。そのそばにポツリポツリと見える家。特産の牛を宣伝する看板。家も一見、全く地震や津波の被害は見えない。カーナビが、もうあと数キロで海、というところまでそんな風景が続く。
しかし、あるところで、カーブを曲がった瞬間に、突然、凄まじい津波の被害が始まった。全く無傷のように見える風景が、あるところを境に、壊滅的で何も残っていない風景に変わる。そこではっと息を呑まされ、圧倒される。そして海が見えるような平地へと道が延びるあたりからは、もはや現実とは信じられないような風景になった。
海岸にそった国道を志津川から気仙沼に走っていたときも同じ。
道が海岸近くなると破壊されつくした光景となり、少し内陸に入ると、全く被害が見えない美しい光景になる。道は、内陸、海、内陸、海と行ったりきたりするため、その真逆な光景が、交互に現れる。それがなんとも驚きだった。
どこも、自分が見た限りでは、地震自体による倒壊などの被害は思っていた以上に少なかった。志津川の人たちと話しても、ほとんどの人がそう言った。すべては津波だった、と。
(岩手県・陸前高田市)
だから、冷静に考えてみれば、津波の被害が突然始まるのは、何も不思議なことではない。水がこないところは津波の被害は一見全く表れないのだから。でも、実際に見るまでは、そんなこと考えもしなかったし、もし、そのことを聞いたとしても、そうか、ぐらいで、特に意識することはなかったかもしれない。
でも実際の様子を見ることで、震災の被害がよりクリアに見えるようになった。決して、東北全体が凄まじいことになっているというわけではない。テレビで見る風景がいまの東北のすべてではない。その辺がはっきりと意識できたことによって、震災に対しての、とにかく漠然とした不安のような気持ちが、より対象が明確なクリアなものに変わった。
でも、それはもちろん、被害が思ったより小さかったということではないし、津波の線を境に震災の影響がない、ということでは全くない。
(宮城県・女川町)
実際に被災者の方々と話してみると、恐怖や悲しみが、彼らの中に深く重く沈みこんでいるのを感じる瞬間があり、その絶望の深さや途方にくれた気持ちの大きさ、直面する問題の大きさが、あまりにも甚大で、呆然としてしまうこともあった。それもまた現実に見て初めて実感として感じられたこと。
その一方で、人々の中にある明るさ、「すべてがなくなったけど、まあ、仕方ないさ。自然が相手だからな。とりあえず生き延びることができてよかったっておもわねえと」っていう前向きなエネルギーの強さ、現実を受け入れる力強さもいろんな場面で感じた。
被災者に対して、ただただ悲惨で絶望に満ちた状態で、自分たちがなんとかしなければ、というイメージだったものが、やはり実際に会って話して、一緒に酒を飲むことで、決してそうばかりではないことが分かった。生活や状況は大変だけれど、すごい力強さや明るさで自ら乗り越えていっている。決して無力な存在ではなく、個々人が知恵と生命力を奮い起こし、大勢が力をあわせて、力強く動き出している。
(宮城県南三陸町・志津川の佐藤公一さん。避難所の物資やボランティアのまとめ役。家、車などすべての財産が津波に流された。どうやって迫り来る津波から逃げたかを、現場にいって克明に教えてくださった)
いま新聞などで現地の話を読むと、「あ、佐藤さんはいまどうしてるかな」「そうか、学校はじまったらトモヤはどんな顔して登校するのかな」って、具体的な人の顔を思い浮かべられるようになった。呆然としていたあのおじいさんも、もう次の避難場所に移ったのかな。救援物資は凄まじく余っていたけど、舞台の裏に片付けた山のようなカップラーメンは、少しは減ったかな、とか。
そうやって具体的な風景を思い浮かべられることによって、漠然とした恐怖感のようなものがなくなるとともに、震災についてある程度具体的な輪郭を持って考えることができるようになった。そして、あの人に何か役立てることをできたらな、って思えるようになった。自分のできることは少ないけれど、佐藤さんに喜んでもらえたらうれしいな、あのおじさんが、またガンガン家で酒を飲めるようになったらいいのにな、みたいに思えるようになった。自分の本を、あの子が読んでくれていたうれしいな、と思えるようになった。
個人が思い浮かべられるようになって、何かしよう、という気持ちはより強くなった。
それが今回、現場を見に行くことによって得ることができたおそらく一番大切なこと。
いま、仙台にいます。1日からの東北での日々も明日で終わりです。
仙台、東松島、石巻、女川、南三陸町、気仙沼、陸前高田、山元町などを4日間かけて、車で回っていました。
(南三陸町・志津川。志津川小学校の避難所で一日ボランティアをして体育館に一緒に泊めてもらいました)
毎日、ただただ、言葉にならない風景の前で圧倒されていただけでした。
でも、実際に自分でその光景の前に立ってみたことで、漠然と慄いていただけだった日々から、少し前進できたような気がします。短い滞在だったけれど、現地の空気感や距離感、広がり、ニオイ、音、人びととのやりとりなどが、自分の身体の中にずっしりと沈み込み、それらのすべてが、自分の気持ちを包み込んでいたもやもやした何かを、多少取り払ってくれました。
ここ1ヵ月半ほどでだいぶ津波の生々しい跡も姿を変えてきたようですが、それでも、いまなお、凄まじい量の人びとの生活の跡が、広大な敷地に投げ出されたままになっていました。
この体育館履きをはいていたのはどんな中学生なのだろう。
お尻拭き。赤ちゃんは何ヶ月だったんだろう。
土の上に投げ出されたこのエロビデオを見ていたのは、高校生だろうか。
鉄筋コンクリートにひっかかったカラフルなスカーフは、どんな女性が巻いていたんだろう。
ゴーンさんの経営術の本は、サラリーマンが読んでいたのだろうか、それとも学生だろうか。
この車はいつ買ったんだろう。
横転した電車は、どのくらい混んでいたんだろう。
倒れた冷蔵庫の中には、まだ手のつけていない漬物の袋がそのままに。
(気仙沼の港。大きな船がいたるところに。物凄い光景がそのまま)
全く無秩序に引き裂かれたものが散らばる津波の跡には、たくさんの人がそこで暮らしていた生々しい様子を思い浮かばせるものでいまも溢れていました。
よく考えると、個人的な生活の一端を示すものがこんなに無数に散らばってる光景って普段はほとんどありません。すごいたくさんの人がここにいたんだなって、だから、逆に思わせてくれました。
しかし、それなのに、全く音がない。聞こえてくるのは、響き渡る鳥の鳴き声のみ。その声が、自然の厳しさと無慈悲さを強調しているようでした。
(石巻の魚市場付近。凄まじい数のカモメ。大きな鳥も。タンカーのような船の周りで天に響くような鳴き声をいっせいにあげながら旋回する。油と塩のニオイ。津波のニオイ。家畜のニオイにもどこか似ていた)
見てきたものをなんとか次につなげないと、といまはただそう思っています。
明日、京都に戻って、6日(金)、KBS京都ラジオ(午前11時ごろ~)で、見てきたことについて話させてもらう機会をいただきました。自分がこの震災について何を語れる立場でもないけれど、行ってみて、少しだけ自分なりの震災風景を持つことができたのは確かです。