こんにちは。数日前再びチェンマイに戻ってきました。気づいたらタイ・ビルマ国境付近に一ヶ月以上もいたことになり、久々の都会です。ここでは、ぼくが一つ原稿を仕上げないといけないため、毎日カフェに行くという日々が続いています。
ところで、行く行くと二ヶ月ほど前から言っていたビルマには、まだ行くことができていませんが、そうこうしているうちにこないだ政変が起きてしまい、ビルマは今緊張状態になってしまいました。
ビルマは、アウンサンスーチーを代表とする民主化勢力が、軍事政権に対して長年闘いを続けています。1990年にアウンサンスーチー率いる野党NLDが選挙で大勝利をおさめたものの、その結果を無視した軍事政権が今も権力を牛耳り、アウンサンスーチーは昨年5月から3回目の自宅軟禁になっています。
今月起きた政変というのは、キンニュン首相が突然捕まり、更迭されたというものです。彼はアウンサンスーチーや他の少数民族との話し合いにも積極的だったいわゆる「穏健派」だったのですが、それが、話し合いなどする気のない「強硬派」たちによって自宅軟禁にされたのです。早速強硬派のソウウィンが新しい首相となり、今後ビルマの民主化の道はさらに遠のいたと一般には見られています。キンニュン元首相の奥さんが自宅軟禁から逃げようとして殺されたとか、いろいろと噂も飛び交っていて、今後どうなっていくのか気になるところです。
そんな話を耳にしながらビルマ難民の人たちと話していると、一部の権力者によっていかに多くの人生が翻弄され苦難を強いられているのか、ということをつくづく感じさせられます。
というわけで、ビルマから中国へ抜ける国境がどうなっているのかも不明だということもあり、また年末年始、日本に一時帰国しようかという案が出ていることもあり、これからどう移動しようかをちょっと考えているところです。
写真は、メーソット最後の夜。PEC(以前の文章参照)で学ぶカレン難民の若者たちと一緒に西洋レストランに行きました。お礼もかねてぼくらがご馳走したのですが、17人でおなかいっぱい食べて、5000円以下という安さ。初めて食べたというピザ、スパゲティーなどをみんなとても喜んでくれて、ぼくらも幸せな気分に浸れました。
(アイスクリームは彼らにとって特別な食べ物のよう。みな何杯かこころゆくまで食べていました。これは、もとカレン軍の兵士だったビクトリー。)
(ジュリアナ、ジュナ、スターライトの三人と。ジュナに「アップルパイ食べる?」と聞くと、「それなに?」とよく分からない様子だったけど、出てきたら「おいしい!」と感激してくれた)
メーソットには二週間もいて、毎日彼らと会っていただけに、別れてからとても寂しくなりました。PECとカレン難民のことは、近々雑誌に書くので、機会があれば見てください。
ではまた。
チェンマイから
雄生&素子
メーソットに来てはや2週間も経ってしまいました。ほぼ毎日のようにPECに行って生徒と話したりしています。さて、前回書きそびれた残留日本兵の話ですが、今もメーソットに住んでいる二人の残留日本兵の方に会ってきました。
(そのうちの一人中野さん。手に持っているのは戦前日本から持ってきたお守りで、これが、唯一戦争中から今まで残っているもの)
この辺り(タイ・ビルマ国境付近)には残留日本兵の方が数人いらっしゃったそうですが、知る限りその多くがビルマからインドへと攻め込んだ「インパール作戦」の参加者のようです。「インパール作戦」は世界戦史上でも最も過酷かつ無謀な作戦の一つといわれているようですが、確か10万以上の日本兵が参加し、そのかなりの人数がマラリア、赤痢、餓死などの戦闘以外の要因で死んでいったとのことです。敗走した道には、多くの日本兵の死体が転がっていたため「白骨街道」と呼ばれた道がいくつかあります。彼らはビルマからタイへ国境を越えて逃げてきたのですが、多くがビルマ国内またはタイで終戦を知ることになります。そして、「残留日本兵」と呼ばれる人たちは、様々な理由で、そのときからビルマまたはタイに残りました。メーホンソンで聞いた件も含めて3件、それぞれ理由は異なりました。
・「日本に帰っても自殺しなければならないと思った。またカレ二族の人に助けられ、恩を感じたため(メーホンソンの故人の奥さん談)」
・「日本が負けたら、自分は帰らないと戦中から決めていた」
・「帰ろうと思っていたのに、ビルマから日本兵を積んだ船がイギリス軍に爆撃されたということを聞いて、帰るのをやめてしばらくビルマに残ることにしたのがきっかけ」
といったところです。とにかく、結構な人数が残留を決めたらしいです。
メーソットで会った二人はいずれも、ビルマの山岳民族の村に5年ほど隠れ(ビルマ軍・イギリス軍に見つかると連れ戻される、殺されると思っていた)、その後、より住みやすいタイに移ってきたとのことでした。そして二人ともビルマにいた間に結婚し、今にいたります。
二人とも戦後、その存在は日本に知られ、日本から帰るように説得されたりして、一度は日本に帰っています。しかし、すでにタイに家族も子どももいるために、こっちで暮らすことをきめたわけです。
しかし、メーホーンソンでその家族に会った、すでに亡くなった方の場合は少々事情が異なります。彼は、日本にも奥さん、子どもがいた上に、ビルマにも三人の奥さんを作り、その最後の奥さんと暮らしていたようです。彼はその後、カレニの民族自決闘争に兵士などとして加わり戦っていました。そして彼の本名は奥さんも誰も知らず、周りからはただ「ラペ」と呼ばれていました。亡くなる数年前には、日本からその子どもたちと見られる人が会いに来ているのですが、彼は最後の方は日本語も話せなくなっていたようで、本当に彼らがその父親だったのか、確認はできず、DNA検査などをするということにまでなっていたようです。残念なことにその先どうなったのかは、ぼくらが会った現地の家族は知りませんでした。
メーソットで会った残留日本兵の一人、坂井さんはブラジルで生まれ育ったものの、戦争前に一年だけ日本に戻ってきていて、そのときに軍に徴集されたとのこと。そしてタイに50年以上……。人生不思議なもんだと感じます。
(坂井さん。戦前ブラジルに残っていれば、おそらく戦争に行くことはなく、つまりタイに行くこともなかったはず)
明日ついにここを発って、再びチェンマイへと向かいます。その後もう一つ行きたい場所(正確には戻りたい場所ですが……)があって、それで今度こそタイは終わりになるはずです。すでに二回目のビザ更新も済ませてしまいました。
ではまた。今回は写真が少ないですが。
雄生&素子
メーホーソンを出て、さらに南のメーソートという、ここもまた国境の町に来て5日目となりました。
(メーホーンソンからメーソートへは、トラックを改良したような乗り物、ソンテウで6時間。いきなり変な写真からすみません)
この町は、カレン族というビルマの少数民族の独立闘争と深い関わりのあるところです。ビルマでは、アウンサン・スーチーに代表される民主化運動とともに、長年続く少数民族たちの「民族解放」を目指す闘いがあります。
その中でももっとも活発な独立闘争を続けていることで知られるのがカレン族です。カレン族は戦後、武装闘争を開始してからすでに50年以上がたち、今もカレン民族同盟(KNU)などの組織が武装してジャングルに住みながら、彼らを潰しにやってくるビルマ国軍と戦っています。
しかしこのカレン族の戦いはもはやひどく複雑なものになってしまっています。KNUの指導層も腐敗は目立ち、内部抗争もあり、そして彼らの要求が達成されることはほとんどありえないともいわれ、カレン人のKNU離れも進んでいます。
そして戦いに巻き込まれたカレン人たちが多く、タイビルマ国境付近の難民キャンプでの生活を余儀なくされています。
そしてメーソートは、そんなカレン問題に関わる人々のタイ側の窓口となっています。難民キャンプもそばにあり、カレン難民をたすけるためにNGOなどもいくつもあるようです。
(右側がビルマ、こちら側がタイ。地元の人たちは川を泳いで行ったりきたりしている人も多いとか。中央の黒い点は泳いで渡っている地元の人)
その中に、難民キャンプのカレン人たちが自ら立ち上がれるために高度な教育を与える、ということを目的で開いている小さな「学校」、PEC:Peace Education Centerがあり、そこを訪れるのが、メーソートにきたぼくらの主な目的でした。運営しているのは、日本人とカレン人の夫婦、東さんとスウィートさんです。彼らは難民キャンプから10人程度の勉強熱のある人を選抜し、彼らを自宅に住まわせながら、一年間程一緒に暮らしながら教育しています。
(居間、ダイニング、教室を兼ねる部屋で熱心に教える東さん)
(平日はNGOで働くスウィートさんも週末に生徒達を集めて授業を開くことも。2,3週間後には隣接するクリニックで生徒達が英語を教え始めるそうです。そのためのトレーニング風景)
まずどうしても必要となる英語を半年ほど集中的に教え、それから徐々にカレン族として自らが立たされている立場や世界の状況を自ら考えられるように、民主主義とは何か、今カレンがそのために闘っている「民族自決やナショナリズム」といったものは、どういうものなのかということを教えています。
そして生徒たちはとても真剣に勉強し、確実に成果は上がっているようです。もともと通訳がいないと東さんと話ができなかった子たちも、半年後、一年後には、なかなか流暢な英語を話すようになっていますし、去年PECを卒業した子の中には、その後さらに勉強を深めようと、カナダのトロント大学へ行くことが決まっている子もいます。
私たちは、メーソートでは、日々PECで授業を見学したり、ディスカッションに参加したりして過ごしています。
(週1回のディスカッションのクラスに私たちも参加しました)
東さんとスウィートさんは、生徒からは一切お金を取らず、なんとこの教育をほぼすべてを自分たちの貯金で行なっています。
また、メーソートの町からバイクで1時間ほどのところにある難民キャンプにもつれて行ってもらいましたが、難民キャンプといっても一つの巨大な村という感じで、中には店もあり、ひとびとは基本的な生活物資に困ってはいないようです。ただ、キャンプの外には容易には出られない、ただそこで生活しているだけで、教育を受けたとしてもそれを生かす機会が殆どないなど、彼らの自立への道はまだまだ厳しそうです。
(国道沿いに3キロほどの一帯にタイで2番目に大きいメーラキャンプがあります)
(道路沿いの空き地でサッカーする難民の子どもたち。後ろはキャンプ)
(キャンプの中。家と家が密集していますが、ごく普通の村という感じ)
(キャンプの中で遊ぶ子ども達)
さて、メーホーンソンでは残留日本兵の妻と孫娘から大変興味深い話を聞くことができましたが、メーソートには残留日本兵の方がまだ元気に暮らしていらっしゃるということを聞き、先の東さんの紹介で明日会いに行くことになりました。
そのことはまた後日書きます。
(メーホーンソンで出会った日本兵の妻のギャンさんと孫娘のポーパ)
(メーホーンソンからバイクで南に1時間半のクンユアムでも残留日本兵の奥さんに会うことができました。8年ほどの結婚生活の後、日本兵はタイ当局に逮捕されその後の行方はわからないとのことです)
まだまだ話題は尽きることなく、あと1週間以内にはまたビザを更新して、もうしばらくタイにいることになりそうです。
それでは、また!
雄生・素子
今まで全てのページからコメントを書き込めるようになっていましたが、ジャンク書き込みがあまりにも増えてきたため、最新の7ページくらいのみからの書き込みしかできないように設定しました。
今後とも書き込み是非是非お願いします!!!
メーホーンソンに来てから、特に毎日を充実して過ごせている気がします。
タイ北部はホントにいろんな顔があって、全然飽きません。
タイが好き、という人は多いと思いますが、東ティモールから北上してみて、タイが人気がある理由がなんとなくわかってきた気がします。
まず、ホントに旅行がしやすいんです。それはある意味でツーリスティックになってしまっているということでもありますが、その度合いはマレーシアほどではなく(マレーシアは観光地化されすぎという印象)、また一方で、インドネシアほどエネルギーがいらなく(でもインドネシアは、だからこそとても魅力的なのはもちろんですが)、しばらく旅をするには程よいように感じるのです。
北部に来てから、物価はインドネシアぐらいなのに、食べ物はなかなか多様でとてもおいしいし(インドネシアは種類がほとんどない)、安宿もとても快適なところがどこでも見つかるし(今は大体二人でバス・トイレ付きで一泊350円~500円くらい)。
しかもその上、この辺はちょっと自分で足を伸ばすと、いろんな文化や人が見られるのです。
おとといは、いわゆる「首長族」(カレン族)の村にいってきました。メーホーンソンの付近では、おそらく最もよく知られる観光スポットとなっていますが、そのこと自体、賛否両論あるようです。そのことについては後述しますが、とりあえずぼくらはバイクを借りて、町から一時間ぐらいかけて村まで行ってきました。
(村への道は結構ひどく、舗装されていない石と泥の坂道や、川の上も経なければなりませんでした。まだ雨季だからかもしれませんが…)
村は、予想以上のツーリスティックな雰囲気でした。村人が普通に生活しているところを観光客が写真を撮る、という風景を想像していたのですが、なんと、ほとんどの家がみやげ物屋なのです。そして店の店員がみな写真どおりの姿で座っています。
(村の通り。ほとんどの家がみやげ屋さん)
(親子で土産を売っている)
あるガイドブックに、ここは「human zoo(人間動物園)」だと、批判的に書かれていましたが、まさにその通りで、あまりいい気分のするものではありませんでした。あまりジロジロ見るのも悪い気がするし、でも、彼らを見に来ているのは明らかなのだし……。
(と書きつつも、誘われるままに衣装を着けてみました)
(一方、雄生は首輪に頭が入らず断念…)
彼らの多くは、ビルマから逃げてきた政治難民なのだそうです。ビルマは前にも書いたかと思いますが、戦後、独立に向けて動いてきたものの、今は軍事政権の圧政の下にあり、100以上とも言われる少数民族の中で、いくつもの民族が分離独立に向けてビルマ政府軍と戦いを続けています。中でもカレン族は、すでに50年以上も戦い続けていて今もビルマから国境を越えてタイへと逃げてくる難民が絶えないといいます。「首長族」の人びともその背景の中で、タイ-ビルマの国境付近に住んでいるらしく、そして彼らは、観光客を呼び寄せることで生計を立てているようなのです。この村への「入場料」が250バーツ(700円ほど)、その他、みやげ物の収入もあります(この収入はその一部が、カレンの軍隊へ回っているという話も聞きます)。
ところで、「首長族」を見に行くことに賛否両論があるのは、ある一部の人々が見世物となるためにビルマから強制的に連れて来られたという事件があったりしたためのようです。
そのような背景を考えると複雑な気持ちになりますが、彼らの生活には、観光客からの収入が欠かせないということ、また、「首長族」の人の多くは自分からタイに来ていて、こうして観光スポットとして生活をするのが一番いいと考えているらしいという情報を信じて、ぼくらは行くことにしました。
とにかく、そんな背景があります……。
ところで、村の奥には学校があり、そこでは子どもたちが、英語、ビルマ語を習っているらしい風景が見られました。半屋外の簡素な教室で子ども達は熱心に学んでいました。
(黒板に書かれているのはビルマ語)
(ビルマ語の文字と英語の勉強)
(彼女たちは算数の問題集に取り組んでいました)
(村には、耳長な人たちが住む一帯も。彼らはカレン族ではなく、カヨウ(Kayor, Kayow)族というらしいのですが、彼らがカレンの人と一緒に住んでいるのは、観光で生計を立てるためでしょうか)
そして昨日は、今度はまた町からバイクで一時間ぐらいのところにあるメーオウ(Mae Aw)という村に行ってきました。これまた中国で共産党との戦いに敗れて逃げてきた国民党の人たちなどがいる中国人の村です(前回のメーサロン参照のこと)。
(途中の山道の風景。ウシたちがのんびりくつろぐ)
ここは本当にきれいなところでした!アジアに来てからもっとも風景のきれいな場所の一つかもしれません。急な山道をずっと登った上にあるのですが、途中の山の斜面には、お茶の葉がずっと並んでいて、またウシやバッファローがその周辺をのんびりと歩いています。村の入り口を過ぎると急に漢字と中国語の世界となり、きれいな湖(貯水池)の周りではポニーが歩き、その向こうには古い木造の家が、ポツリポツリと並んでいます。
(メーオウの全景。標高は分かりませんが、かなり高地なはず)
(廃校になっていそうだった小学校。その壁には中国語が)
おそらく、今目指している中国南部の山地はこんな雰囲気なのだろうなという気がする一方、日本の田舎を思わせるようでもあり、なんとも懐かしい気分になりました。
そのきれいな町並みに感激しながら、村の学校を訪ねると、三人の子どもたちが村を案内してくれるということになりました。三人のうち二人は中国系、一人はタイ人。そして彼らに「国民党の人は?」と聞くと、この町で唯一らしい、もと国民党軍人のおじいさんのうちに連れて行ってくれました。この劉さんというおじいさんと、筆談による会話を試みましたが、やはりそう簡単にはいくはずもなく……。聞いてみたいことは山ほどあったのに、とても残念でした。
(学校にいた子どもの一人。彼は中国系)
(国民党の軍人だった劉さん。デジカメの写真をその場で見せると、初めて楽しそうに笑ってくれた)
これから中国にいって、しばらく定住する場所もこんなだったらいいのにな、と二人で話していました。
ところで、第二次大戦後ビルマに残留し、現地の人と結婚した日本兵がメーホーンソンにいたという話を聞き、たいへん興味を持ち、ここ数日調べていました。その日本兵本人は六年ほど前に亡くなっているのですが、その家族がまだこの辺りに住んでいるということを聞き探していたところ、一昨日、彼の息子とその孫である女の子とに会うことができました。写真だけはあったものの、息子も彼の実名や日本での過去は知りません。彼がタイで戦後どんな半生を送ったのか、わずかでも知りたく、明日はその孫娘の案内で、その日本兵の奥さんの住む村まで(バイクで二時間ほどだとか)行ってきます。実はこのことが今もっとも、ぼくのメーホーンソン滞在の中心的話題となっています。
(メーホーンソンのある寺にあった日本兵の慰霊碑)
(と、その寺の仏像。明るくかわいい)
それではまた!
雄生・素子