一昨日(10日)アルダビル(Ardabil)で人の家に1泊させてもらってから、昨日、イラン北西部の都市タブリーズ(Tabriz)に着きました。タブリーズからアルメニアに入る予定で、イランももうここで最後。イランを出るのがとても名残惜しいほどこの国では人との出会いに恵まれ、一昨日泊めてもらったアルダビルの一家もその一つ。
彼らとはラシュトのレストランで偶然出会って、その勢いで「うちに来なよ!」と誘われました。この家族は、39歳&25歳の夫婦と1歳の娘さん一人の三人家族。バスを乗り継いでアルダビルまで行って、電話をすると、この3人に加えて奥さんの兄(27歳)で英語を話すイマンが合流してぼくらを迎えてくれました。
39歳の旦那はロミーという超気さくなコメディアンみたいな人物なのですが、彼がなんと映画監督&俳優だとのこと。最初に会ったときから「ミー、フィルムディレクター、アクター」と言っていたものの、冗談のうまいおっさんかななんて思っていたのですが、彼が一緒にDVD屋に連れて行ってくれ、「おれの映画をプレゼントしてやる」ってことに。店が閉まっていてその場では買えなかったものの、店に貼ってあるポスターの大物っぽい役者を指差して「これ、おれ」と。微妙に顔が違う気もするので、つんつくや矢沢永作みたいなそっくりさんで売ってるコメディアンかなとか素子と話してましたが、話を聞く限り本物のようで、その後タブリーズに着いてから、そのDVDを購入して確認作業。
(本人と、ポスターの中のロミー。髪型、髭、身のこなしはそれっぽいです。ノートにサインもくれて、それもまたそれっぽかった。)
動いてるところを見ると確かにロミーっぽいのですが、実に微妙で、いまいち確信ももてず。DVD屋の店員にそのDVDの表紙の顔を指差して「彼の名前はロミーか?」と聞くと、「ロミー?いや、違うよ。ロミーなんてやつは知らないね」って感じのことを言われるし......。でも、あそこまで言っていたのだから、多分本人なのだろうと思います。ちなみに、ロミー監督作品の一つの英語名は、イマンの怪しげな英語によると"Surprise Apple"とのことなので日本語であるとすれば「驚くべきリンゴ」か「驚いてるリンゴ」かなにかでしょう。もし日本で目にする機会があればお知らせください!しかもロミー、ほんとに映画界の大物なのか、「キアロスタミは友達だよ」とのこと。彼のジェスチャーによると「テヘランに行けば、泊めてもらえる仲」らしい。どうなんだろう......。
さて、そのロミー家。アルダビルのバス停まで車で迎えに来てもらい、家に着くと、ぼくらが降りる代わりに奥さんと娘さんも乗ってきて、「さあ行くぞ!」って感じなので、これから外でディナーか、と思いきや、なぜかそのまま2時間以上も車で街なかをウロウロ!1時間ぐらいした段階で、「どういう展開だよ、これ?!」と思っていると、どうもロミーは、ぼくらのためにシャンパンを振舞うべく、シャンパン入手に画策していることが分かりました。
(途中、こんな絨毯の美術品屋へも立ち寄る。シャンパンのための時間稼ぎの一環?でも、この絵がすべて絨毯でできているのがすごかったです!イランの特殊工芸なのかな?)
「イランでシャンパンなんて、OKなの?」と聞くと、「何言ってんだよ、OK、OK、ノープロブレム!シャンパン、ビアー、全部OK!」と、ロミーもイマンもそんなノリ。
イランでは、店にアルコールは一切売っていないので、シャンパンの入手はなかなか大変。まずは、小さな子ども洋服屋の主人に謎の電話番号を広告の裏紙にもらう(「それ、シャンパンテレフォン?」と聞くと、ロミーは「がはははー、そうそう、シャンパンテレフォンだ!」と大ウケ)。でもそこにかけるだけではだめなのか、しばらくまた町をウロウロすると、謎の売人みたいな人物が車に乗り込んできて、彼の指示でわけのわからない裏道を走り回り(なんだか同じところを走ってる気もしたけど)、途中で止まり、ロミーと売人が外に出て、ロミーが結構な大金を売人に渡すと、売人は闇の中に走っていく。すると、すーっと売人の側に謎の車が停まる......。で、戻ってきた売人の手には、一本のウィスキーが......(シャンパンではなかった)。実にアングラなやり取りで、まるで港の麻薬密売現場のようでした。「見ろ、上物だろう」と、さすが大物映画俳優、なんでもありって感じでした。
その後、晩飯ケバブ屋さんにいくと、ロミーは駐車時に車を溝に落とし、明らかに大丈夫じゃないのに、イマンが「ノープロブレム、ノープロブレム!」と、相変わらず絶好調。そんなノリのまま小さな宴会開始。さすがに外で酒を飲むのはイランではありえないと思っていたのに、「友達の店だから大丈夫!」だと、ロミーはプラスチックのコップにウィスキーをコーラのようにゴボゴボつぎだして、まずは一気飲み!「ぷはー、うめえー!」ってな具合で、もうイランのイメージ、変わる変わる!さらに、ロミー、イマンと、例のイスラム教の話を始めると、
「イスラム? そんなのもうイランにはないよ!ファック・オフ・イスラム!ですよ」とまで言ってしまうイマンのには驚きでした(笑)。彼らはこれまで会った中でも特にイスラムから遠いようでした。家族の一部はアメリカに住んでいて、イマンもNYに2年住んでたからというのも関係がありそう。イマンはアメリカ大好きっぽくて
「アイラブアメリカ!オンリーアメリカ!」を連呼。「豚肉、ベリーデリシャス!」とも。
(翌朝の朝食。右がイマン。クリームミルクというペースト状になったミルクと蜂蜜を、焼きたてナンに塗ると激ウマ!この辺は、イラン北西部では、クリームミルクやらアイスクリームやらが多くて、乳製品がいけてる雰囲気)
アルコール自体久々だったのに、ロミーとともに、強いウィスキーをストレートでジュースのように飲んでしまい、ぼくらは二人とも家に帰るとすぐにダウン......。とてもイランにいるとは思えない夜でした(笑)。イランは本当に幅が広いことを彼らに教えてもらいました。
翌日、タブリーズに行く際は、バスのチケット代まで絶対に自分たちが払うからと譲らず、何から何まですべて面倒を見てもらってしまいました。ぶっちゃけたとてもいい人たちで、その親切さにはまたまた感動でした。
(アルダビルからタブリーズまでの間はずっとこんな風景。寄ってみたい!と思わせる村が多数。雪景色もまただいぶ続きました。タブリーズは今日、雪でした。)
タブリーズに着くと、アルメニアはもうかなりそばです。ネット屋では店員と値段のことで軽くもめると、ロシア語らしき単語が出てくるので、「ロシア語話すの?」と聞くと、「お、あんたもロシア語はなすのか?」ってことになり、全然話せないけど、ちょっとうれしくなり、「おお、ロシア語で話そうじゃないか」って感じに。旧ソ連圏が再び近づいてきたことを実感しました。
(多分明日からアルメニア。アゼルバイジャンの飛び地や、自称の独立国家があったりとかなり国境は入り組んでいます。イランから国境を越えてすぐの小さな町Meghriから順々に北上予定。アルメニア、まだ何があるかよく分からないけど、イランとはまた大きく変わりそうで楽しみです。アルメニアの首都はイェレバン(Yerevan))
さて、明日ついにイランも終えて、アルメニアへ国境を越えます。直行バスで一気にイェレバンまで、って思っていたけど、ツーリストインフォセンターで中古のロンプラ(ガイドブック)をみつけ、アルメニア部分を読んだら、やっぱり小さな町を転々としていった方が面白いだろう、ということになり、ちょこちょこ進むことに。明日はメグリ(Meghri)に泊まる予定。モンゴルで一緒だった日本人旅行者ともに約5ヶ月ぶりに再会できそうで楽しみです!
(雪に包まれたMasuleh。山の斜面にへばりつくように家が並ぶ。段々状になっているため、各家の屋根がその上に住む人にとって道となっていること)
いまは、Masuleh(マースーレー)という小さな村のそばのRasht(ラシュト)という町にいます。マースーレーに行くためにまずラシュトに一泊して、再びラシュトに戻ってきてもう一泊。
(いまいるRashtは、まさにカスピ海のすぐ隣。でも町からはちょっと距離があるようで、カスピ海はまだ見れてません。今後アルメニアあたりから、さらに地図がこみいるので、下に拡大地図を載せました)
マースーレーは、山の斜面に家が建つ美しい村ということで行ったのですが、これが予想以上にツーリスティな雰囲気で(土産物屋いっぱい)、しかもイスラムの休日である金曜日に行ったせいかイラン人観光客がとても多くて、いかにも観光で栄えている「村」という雰囲気満点でちょっとがっかり。でも、確かに雪山の中の独特な村できれいだったし、ホームスティのような宿もとても居心地がよく、のんびり散歩して人と話したりしてすごし、まるで日本の温泉宿に来たみたいな一日でした(温泉はないけれど)。
ラシュト、マースーレーに来てからも、人との出会いに恵まれています。イランに入ってからずーっとだけど、イラン人には予想以上に親切にされることが多くて本当にびっくりしてしまうほど!一日一日、イラン人の印象がうなぎのぼりに上がっています。
ラシュトからマースーレーまでの1時間ぐらいの道のりでは、乗り合いタクシーの運転手が全くタダでぼくらを現地まで運んでくれました。お金を払うと言っても「いいから、いいから!」といって決して受け取ろうとせず。外国人が珍しくて、ただ親切にしてあげたかった、というようなことを言っていましたが、それ以上全然強引なところもなく、笑顔で写真をとってメールアドレスを交換したぐらいでお別れという、本当に親切な人でした。最初、乗り合いタクシー乗り場で彼に会ったとき、彼だけ他の運転手に比べて随分安い値段で、「OK,OK」っていうので、何か裏があるのでは?って思い、また不敵な笑みを浮かべていてちょっと怪しげに見えたので、大丈夫かな?と思ったりしましたが(しかも途中、他の客が降りてぼくら二人だけになったとき、絶妙なタイミングで"Do you know Saddam Hussein?"とか聞かれたので、え?どういうこと??とビクリ。なんでそんなこと聞くんだろうと、Why, Why? と聞き返しまくってしまいました(笑)。そしたらまた「フフフ」と不敵な笑み)。
(彼がそのタクシードライバー。マースーレーについて、降りるとき。途中、いきなり拉致コースに入ったらどうしようかと、銃を突きつけられたときのシミュレーションとかまで軽くしてしまいましたが(笑)、絵に描いたような善人でした)
本当に何も要求せずに手を振って去っていったのは驚きで、疑って申し訳なかったな、って思った次第。
村を散策しているときには、家の中から日本語で呼びかけられ、「うちでお茶でも飲んでいく?」って言われたのでお言葉に甘えてお邪魔すると、彼は92~93年まで大阪で大工をやっていたという人物。そういえば、自分が高校ぐらいのとき、イラン人といえば上野でテレホンカード、っていう時代があったなあと思い出し、日本での話をいろいろと聞きました。
「私はパチンコが好きだったから、毎日ビール飲んで、パチンコやって……、日本は楽しかったなあ~」と彼。
当時、イラン人は成田で15日の観光ビザを取得でき、そのまま1年とか2年とか滞在して働くことが出来たとか。っていっても、それって不法滞在でしょ?見つかったらまずかったんじゃないの?と聞くと、
「全然問題ないよ、何も文句は言われない。15日のビザで1年いても、全然大丈夫だよ」
って言ってました。そんなわけないのでは……と思いつつ、それ以上突っ込んでも彼も日本語でちゃんとした説明はできそうになかったので分からなかったのですが、そういうのが当時は大目に見られていたのでしょうか。パスポート見せてもらっても、労働ビザとかもらっていた形跡はないし、出国のとき、それで問題になっていないのが不思議。他のイラン人でも、よく20年前は簡単に日本に行けたからよかったってよく言われるのですが、どうしてなのか、ご存知の方がいらしたら教えてもらえるとうれしいです!
彼は、日本では豚肉も食べたし、もうムスリムもなにもあったもんじゃねーって生活をしていたみたいです。いまは祈ってるのかって聞いたら、「まあ、ときどきね。毎日祈るのは古いシステム。いまはもうみんなそんなことはしないよ」と、前回書いたメガネ屋さんと同じことを言っていました。
彼もまた、「イラン政府は全くひどい。テレビでやってることも嘘ばっかりだよ」と。「アメリカが好きってわけじゃないけど、イランのシステムを変えてくれるんだったらうれしいな」と。アメリカの横暴さはひどいけど、イラン人の気持ちってのもまた複雑なんだなあと感じさせられます。
彼は、アヘンもやるし、酒も飲むし、祈らないしで、ムスリムの風上にもおけない気さくな笑える人物でしたが、決して彼が特殊ではないんだなあ、というのをだんだん感じてきています。
(夜はこんな風に。なんか山火事が起きてるみたいですが)
そのあと、晩飯を食べに小さな水タバコ屋さんにいくと、隣に座った夫婦の旦那が、テヘランの大手日系電機メーカーで働く人物。彼は英語がとてもうまかったので、日本人と一緒に働く上で感じる違いについて、イラン人の気質についてとかいろいろと話が弾みました。面白かったのは、彼が「日本人は白か黒のどちらかしかない、イラン人はその間に様々なグレーがある。そこに違いがあって、一緒に働くと難しいことがある」と言っていたのが印象的で面白かったです。日本人的には、それは一般に自分たちが欧米の人に感じることですよね?だから、そのような指摘をされるのがすごく意外に感じたのです。
イラン人のあまり押し付けがましくない親切心、きちっと仕事をする風であるところも含めて、イラン人って結構日本人に感覚近いのかな?って思ったり。ぼくらがイラン人に対して、とても居心地のよさを感じるのも、そのせいかもしれないと感じています。たった2週間ほど旅行しただけの感想なのでなんともいえませんが、とりあえずぼくはそんな印象を受けてます。
そして彼にもイスラム教の話を聞くと、彼もほとんど同じ答え。若者は全然祈ってなんかいないし、それどころかイランでは若者の薬物中毒が大問題だと。「酒はイランでは手に入れにくいけど、薬物はほしいと思ったらすぐに手に入るし、安いんです。だから、みな薬物に手を出してます。ぼくの妻も、ぼくにタバコを吸わせないように目を光らせてるけど、タバコをやめたら薬物に走るんじゃないかって心配してるんですよ、はははー」と。
確かに、前に泊めてもらったタクシー運転手も、「見つかったら終わりだよ」なんていいながら、食後にはずっとハシシを吸っていたし、上の大工さんもアヘンセットがキッチンの棚から、「はいっ」って感じで出てきました。見つかったら死刑とかとも聞いていたのに、イランでは薬物の普及率は本当に高そうな感触を受けています。
さて、その日系企業の彼と話しを終え、ぼくらが店を出る段階になると、
「支払いは私がします。初めてここに来たあなたたちに、どうかごちそうさせてください」と言われ、びっくり。そしてここでも結局お言葉に甘えることに……。イランにも日本のような社交辞令文化があるようなのですが、ここではみな本気で言ってくれているようでした(と判断しました)。
今日はこれから、ラシュトから5時間ぐらい先にあるアゼルバイジャンとの国境付近の町アルダビル(Ardabil)まで行きます。実はラシュトに来た日に夕食を食べたレストランであった家族に、「うちに泊まりにおいで!」と誘われ、とてもいい感じの人たちだったので、是非にと、お邪魔しに行くというわけです。あまり言葉は通じなそうでしたが、夫婦と娘さんの明るい人たちで楽しみです。
(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンは3つ合わせてコーカサス(カフカス)諸国と呼ばれますが、その拡大図です。今日はRashtからArdabilまでの移動。5時間ほど。明日、その少し西の町に移動し、そこからアルメニアに入ります。ちなみに、左の黒海の上の小さな黒枠内はなんだかわからなかったのですが、とりあえず湖っぽく塗っておきましたが、もしこれ、陸地だったりして間違いだったらご指摘ください!)
(街なかにホメイニ師なども顔も多いけど、実は結構アーバンなライフを楽しんでいるらしいテヘランのイラン人)
テヘランもいろいろやってたらあっという間に今日で6泊目。なんかあまり何もやってないような気がするのに、なんだか毎日忙しかったような。
毎日町の南北を行ったりきたりしてただけで、とても疲れます、テヘランは。地下鉄、バス、乗り合いタクシーなどを乗りつがなければならず、バスは行き先の文字読めないし、分かりづらいし、乗り合いタクシーも同じ行き先のを粘り強く探して、その上ぼられないように気をつけたりと、それだけでエネルギー使います。唯一地下鉄はとても簡単快適に乗れるのですが、これも痒いところには届かない程度にしか敷かれてないし。
いずれにしても、テヘラン4、5日歩き回って感じたのは、イランって思っていた以上に発展したきちっとした国であることです。英語を話せる人は他の国に比べてかなり多い印象だし(少なくとも、今回旅した中国、モンゴル、ロシア、中央アジアと比べたらダントツ多い)、駅や郵便局やネット屋さんなど、働いている人全般、仕事がとても速く、サービスもかなりいいです。例えば、駅でちょっとチケットの売り場とか聞くと、すぐに売り場の人に連絡してくれて「あの人のところにいけば、分かるようになってるから」とか、ネット屋でも、ノートPCをつながせてくれっていったら、電源の蛸足から予備の椅子とかまでをさっさっと用意してくれたり。サービスのレベルが、明らかにこれまで行った国より高い気がします。
というのも、この半年の間に行った国がすべて旧ソ連&中国という(旧)社会主義系の国だったせいかもしれません。やはり社会主義系の国は「サービスの悪さ大賞」の座はほしいままなのかもしれません。
それからもう一つ驚かされているのは、テヘランに来てみて、女性の格好がマシュハドなどにくらべてかなりブロークンであること。頭を隠しているのは同じなのですが、いかにギリギリまで髪を出せるかって感じで、若い子は頭の半分ぐらい出ている子が多く、髪を染めている女性も結構います。あ、これは前回書いたような。
で、イスラムの教えってのもかなり形骸化している気がするので、こういう人たちもみな、朝昼晩とお祈りしてるのかな、、と疑問に思っていたところ、メガネ屋の軽快な27歳男性がズバリ。
「祈り? そんなのしてるわけないじゃないか。90%の人はそんなのやってないし、イスラム教なんてほとんど気にしてないんだよ」と驚きの発言。
「おれ?祈らないよ、もちろん。はははー」
と、とても軽快に爽やかに、イランのイメージを変えてくれました。肌を出してはいけないはずの女性のノースリーブのドレスとかも売ってるので、ああいうのはどこで着るのか?と聞くと、
「イランでも家の中では、パーティもダンスも酒も、なんでもあるんだよ。ドレスだってパーティで着るように売ってるんだ。もちろん、そんな場では頭のスカーフなんてつけるわけないよ。若者はみんな、イスラム教のことより、アメリカみたいな楽しい生活を求めてるんだよ。アメリカ人のことだってすきだし、みなアメリカに行きたがってるんだよ」
とのこと。
マジで??!って気分でした。イランは大抵の人が反アメリカでっていうようなイメージを持っていたし、少なくともマシュハドやネシャブーでは、かなり強いイスラムの雰囲気を感じ続けていたので、とても意外でした。それから、タクシーの運転手とか、会った人何人かに「毎日祈るのか?酒は飲むのか?」ときいてみると、「祈ってはいるけど、酒は飲むよ、そんなハードムスリムじゃないしね、おれは」っていう答えが平均的だったような。イランのムスリムといえどもかなり幅広いようです。でもまあこれくらいの方が、すんなり理解できるというか、納得っていう感じです。
もちろん、チャドル姿の女性も多いですし、アザーンも聞こえるし、イスラムの雰囲気は十分にあるのですが。
昨夜は久々にリッチなディナーを食べに、要予約のナイスなアジアンレストランへ。別に味はそれほどでもないものの、寿司もあるし、雰囲気も東京・青山の店みたいで、リッチな気分が味わえました。値段もそれなりでしたが……。
というわけで、テヘランでもまたイランの新たな側面をかなり体感できました。そして、ちょうどぼくの仕事の締め切りが複数重なってしまって、昨日、今日は半分ぐらいは原稿書き。テヘラン以降ではネット環境に不安が残るので、テヘランにいる間にやれることをやっておこうと思ってます。
というわけで、明日は上の地図のMasulehという小さな村へ向けて出発予定。なかなかきれいなところのようですが、寒さがぐっと厳しくなりそうなのが微妙に心配です。その後もう一つ、いまも土の中に(?)人が住んでるという村にも寄ってから、次はアルメニアに入国予定。アルメニアの次はグルジア、そして黒海を越えていよいよヨーロッパ!
ゴールが近づいてきました!
(ネシャブーの街なか)
1月31日、首都テヘランに着きました。電車を降りたら、その暖かさにびっくり!
コートも2つとも脱いでフリースのみで町を歩けて、おお~ついに冬は終わり!?と大感激。これまでずっと寒さとの戦いのような日々だったので……。でも多分テヘランが今回の旅で最も緯度の低いところだと思うので、まだまだ油断はできませんが(イラン南部は行く予定ないため)。
(泊めてもらったタクシー運転手一家。彼らに加えて、娘の旦那とかいろいろ現れてさらに大人数に)
さて、聖地マシュハドからは予定通り、2時間ほど列車に乗って、マシュハド駅のお姉さんに教えてもらったネシャブー(Neyshabur)駅で下車。その親切なお姉さんに書いてもらった「この二人の日本人はイランの村の生活を見てみたいので、誰か一泊させてあげてください」というペルシア語の紙を持ってタクシーに乗ると、結局そのタクシーの運転手が「うちに泊まってけよ!」って誘ってくれて、ネシャブーから5キロほどのアブサディ(Abu Saadi)という村の彼のうちにそのままなだれ込み一泊させてもらうことに。土壁の家が並ぶ村って感じで、人の雰囲気も生活もそれっぽくて、なかなかラッキーな展開でした。
(一泊したアブサディ村。北側には山が見え、あの向こうがトルクメニスタン。東に行くとアフガニスタン)
運転手の子どもたち夫婦が充実している大家族で、友人らも、突然日本人が現れたことを聞きつけたのか、いろんな人がやってきて賑やかな一日。わずかに、ほんとーにわずかに英語を話す少年と、ぼくらのボキャブラリー10ぐらいのペルシア語で、地味に、しかしお互い想像力を駆使しつつ、誤解しまくりの強引な「会話」。でもやっぱりこういうのが旅をしてて一番楽しいひとときだなあと改めて実感。女の子の多い家で、素子は女の子たちとご飯を作りを手伝ったりして、ぼくは男衆と、やれ水タバコだ、やれナントカだ、さあメシだ食え食え、あとは座ってろ、ガハハハーみたいな、男中心社会にどっぷり。正直そういうのは落ち着かないのですが(いや、ほんとに!)、開けっぴろげで仲良さそうな家族の中で、ぼくもうかうかするとそういうキャラになりかけそうでした(笑)。
(夕食。イランでは絨毯の上にテーブルクロスみたいなのを敷いて、それをテーブル代わりにして食べる。この日はトマトソースのスパゲティとナン、それにトマト味の漬物。酒は一切ないので飲み物はコーラなどの炭酸飲料が主流)
(すっかり家族と仲良くなり、素子も姉妹の一人のよう。もちろん言葉は全く通じてないのですが)
(翌朝、小学校を訪問。女の子たちの服装がとてもかわいかった)
言葉が通じないし習慣も違うせいでちょっとしたゴタゴタもあったけれど、でもとてもよくしてもらって、やっぱり田舎に来てよかったなと実感。
(アブサディの村人)
しかし翌日、その家を出てからまた思わぬトラブルに巻き込まれて(?)しまいました。テヘラン行きの電車が夜11時半発だったため、とりあえず荷物を駅に置いて、町を散策。入ったちょっと落ち着く飯屋では、金額が予想以上に高くて、これはボッタクリカフェだろうと主人と交渉。薄笑いで明らかに「ボリました」って顔してるのに、うまく話せないので、同じメニューを頼んだ客が出るまで待つからね、ってことにして見学。みると、確かにぼくらが言われた値段と同じ料金を払っていたのだけど、その客が外で待ってたり、そのお金だけレジにしまわなかったりと怪しい状況証拠たっぷりだったんだけど、どうしてもシッポがつかめず。「な?おれ嘘ついてないだろう?」って顔のオーナーが、何気に愛すべき人物に見えてきたりして、しょうがないや、と思って言われた金額を払うと、なんだか満面の笑みを浮かべて札を数えだし、「はははーおれの勝ち」って表情。最後はなんか笑えて来ちゃいました。
(イラン人はお茶(紅茶)を飲むとき、角砂糖を一つ丸ごと口に入れて、それを口の中で溶かしながら飲む。一杯で2,3個食べるとか。ケーキ屋も多く、イラン人はとても甘党の印象)
(水タバコ)
で、トラブルっていうのはもちろんこのことではありません。
そのあと、適当にバスに乗って田舎の村まで行ってみようと思って町をうろついていると、突然パトカーが、「西部警察」ばりのドリフトで「キキキーッ」とぼくらの前に急停車。そしてパパイヤ鈴木の弟かスーパーマリオの従兄弟みたいな警官が出てきて、ぼくが手に持っていた一眼レフを指して「ノーフォト、ノーフィルム、カム・トゥー・ポリス!」というちょっとまずそうな展開に。イランではカメラ持って歩いてはいけないなんて聞いたこともなかったし、そこでは全く写真も撮ってなかったので、わけがわからず「なんで?」となり、この旅一番の大モメ開始。イランには、警官と称してパスポートや金品を奪って逃げるやつがいると聞いていたので、パスポートの提示を求められたとき最初コピーを見せました。そしたら本物を出せといわれ、周りには早くも50人ぐらいの人だかりができていたので、まあ大丈夫だろうとしぶしぶパスポートを出すと、それを「人質」に警察まで来い!という展開になりそうだったので、ぼくもパスポートから手を離さずにいると、なんとパスポートをグニャリと握りつぶされてしまったのです!
ここでぼくはほとんどマジギレしそうになってしまいました(イラン来てからこういうこととても増えた気がします……)。で、二つ折りになりながらもなんとかパスポートを奪い返し、「日本大使館に電話させろ!」と電話しようと思うも、「とにかく署まで来い!」の繰り返しでらちがあかず。ちなみにこの頃には群集の中から英語を話せる高校生が出てきて、彼が通訳をしてくれてました。
その後、公衆電話から電話はさせてもらえたものの、なぜか通じず(なんでだろう??)。署まで来いといわれ続けたものの「絶対にいやだ」と言い張り、そしたらハイランクな様子の私服警官が現れ、「彼が外国人担当だ」というのに、一言も英語が話せないのもなんか怪しく感じ、パスポートも渡したら返してもらえなそうだったし、握りつぶされたのがほんとにありえなかったで、パスポートを渡すのを拒否していたりしたら、そのまま押し問答2時間ぐらい……。最終的にはぼくもパスポートを見せ、その一方、英語のうまい新たなおっさんが登場し、ぼくらをなだめるように"welcome to iran! where have you been in iran? no problem, no problem, hahaha--" と超友好的手もみ状態で急接近……。
(ネシャブーのバザール)
そんなわけでした。それで完全に疲労困憊して、バスに乗って田舎にいくというのももうやめ、店でお茶飲んで、メシ食って、さっさと駅に戻って、11時半発の列車を待ちました。駅に戻る途中で、昨日泊めてくれたタクシーの運転手とばったり再会し、全く言葉が分からずとも笑いあえたら少し気持ちが回復し、さらに駅で、パソコン開いて、マクドナルドのハンバーガーを朝昼晩30日連続で食べ続けたらどうなるか、という実験的ドキュメンタリー"Super Size Me"(予想以上に怖い結果にびっくり!)を見ていたら、先ほど警察との間を通訳してくれた高校生の少年がやってきて「二人に会いに来たんだよ」と。そしてプレゼントに、イスラム教徒がお祈りのときに使うという数珠のようなものをくれました。「昨日会えて、うちに泊まってくれたらよかったのに。お母さんも二人をうちに招待しなさいって言ってたよ」その予想外のやさしい気遣いはとてもうれしいものでした。
その後駅では警察もいろいろと親切にしてくれ、少年とは2時間ぐらいお互いの生活について話しあってから別れ、ぼくらは11時半発の列車に乗車。なかなか密度の濃い、2日間が過ごせました。
列車は快適な寝台で、翌朝起きると、そばのベッドだったジョージ・クルニーとショーン・コネリーの間のような、超渋く誠実そうな大学の先生と話しているうちに、彼が「今日まだホテルが決まってないんだったらうちに泊まりにこないかい?」と誘ってくれたので、喜んでそうさせてもらうことに。
テヘランに着いてから、その暖かさに「やっと冬が終わった!」と感激し(と言っても、多分気温は一桁ですが)、彼、マクスッドとともにテヘラン郊外の彼の家へ。奥さんと9歳の息子と生後15日の娘、そして甥のエリート大学生フセインに温かく迎え入れられ、とても楽しい一日を過ごせました。帝王切開で子どもを産んだばかりなのにてきぱきと家事をこなしている奥さんを素子が心配すると、フセインに「ぼくの家族の女性は、病気でもよく働くから心配しなくても大丈夫なんだ」と言われ、「ああ、そうですか」とは頷けない気持ちながらもイランの女性のあり方を見たり、イランではトイレ(和式)は男も小便を必ず座ってすると聞いて驚くと、「立ったら周りに飛び散らないのか?」と突っ込まれ、「いや、うん、……ぼくもここでは座ってするよ」と苦笑い。息子レザーは、素子から習った日本語の単語をたくさん書き取り、「チューリップ」の歌も覚え、おもちゃのピアノで「咲いたー、咲いたー♪」と間違いなく弾けるようにもなってしまいました。
(マクスッド一家の家での昼食。肉、イモ、野菜など混ぜてペースト状にしたイラン料理を振舞ってくれました。名前は忘れましたが。あとヨーグルトにほうれん草を入れて食べるのですが、これが意外にいい組み合わせでとてもおいしかった!)
(夕食。イラン風ピザ。お好み焼きと似た味で、これもおいしかった)
ちなみに、ジョージ・クルニー似のお父さんマクスッドは、50歳ぐらいに見えるのに39歳だと聞いてびっくり。イラン・イラク戦争で3年ほど戦って苦労したせいで、白髪になってしまったとか。イランでは25年働くと定年で年金をもらえるらしく、15歳から働きだしたマクスッドは来年40歳でもう定年!!あとは死ぬまで年金がもらえるらしいです。すごいですよね。マクスッド家族の写真も載せたかったものの、マクスッドに「ぼくと妻の写真は、ブログには載せないでくれ」といわれたので、残念ながら。何か宗教的な問題のような感じでした。
で、翌日2月1日にテヘラン市内の安宿に。
テヘランは、人口1000万ほどの大都会。さすがに都会だけあって、女性の服装もマシュハドや田舎に比べてかなり自由度が高いです。頭に布をかぶらないといけないのは同じなのですが、多くの若い女性が頭を半分ほど出していて、髪を染めている子もいたり、布もグッチやヴィトンのスカーフだったり。髪を隠すきまりも半ば形骸化していそうな雰囲気を感じ、彼女たちも本当に早朝日の出前に起きてアッラーに祈りを捧げているのだろうか、という疑問が沸いてきます。
テヘランで、ちょっとしたビザの問題が発覚して、その解決のためもあってもう数日滞在することになりそうです。
(テヘラン・マシュハド間が1000キロほど。東京-広島ぐらい?Neyshaburはマシュハドから2時間ほど。テヘランの次は、おそらくまた少し小さめな村・Masulehへ向かいます)
(マシュハドが誇るエマーム・レザー廟。金の玉ねぎの下にマシュハドのグラウンドゼロともいえるエマーム・レザーの墓がある)
マシュハド滞在もあっという間に5日目。これまで自分が見てきた国々とは全く異なるイランという異質な世界に圧倒され、その空気に馴染もうとしているだけで毎日が過ぎていくような気がします。素子の、全身真っ黒で顔だけ出すチャドラ姿もすっかり見慣れましたが、その姿のまま、ネットカフェで普通にパカパカとキーボードを叩く姿をふと見ると、非常に不自然な感じがして笑えたりはします。
(通りでバスを待つ女性たち。バスも男と女で乗車口が違って、中には仕切りがある)
(マシュハドに着いた翌日にチャドルを選ぶ。女性が衣服を見るとすれば、このチャドルか頭に巻く布ぐらいのイメージ……)
イランに着いてからタクシーの運転手たちとはいろいろとありましたが、その他の面ではイラン人はとても好印象。みな穏やかな笑顔ですぐに助けの手を差し伸べてくれることが多く、イスラム教徒は、テロなどのイメージとは裏腹に本当は穏やかな人々だ、というのがとても納得いきます。
(男性は基本的にラフなアジアンルックですが、このようなターバン姿の人もちらほら)
さて、このマシュハドは、イランの中でも名高い聖地。
にわか勉強なのに知った顔で書くは恐縮ですが、イスラム教は大きくスンニ派とシーア派に分かれ(マホメットの死後、後継者を誰とするかで分かれた)、世界の圧倒的多数はスンニ派。でもイラン、イラクではシーア派が多数派で、確かイランはシーア派のイスラム教が国教となっている唯一の国。ちなみにイラクもシーア派が多数を占めるものの、フセイン元大統領がスンニ派だったため、スンニ派の力が強かった。しかしフセイン政権が転覆した後その力関係が変わり、スンニ派、シーア派の間の対立が激化していまにいたるとのことです。
(とにかく最初はどこを歩いても、女性の姿に圧倒されましたが、数日経つと実に自然に見えてきました)
さて、マシュハドはそのシーア派にとっての重要な聖地。前回書いた通り、エマーム・レザーという超ビッグネイム(なんて呼び方で誤魔化させていただきます)が殺された地として、エマームレザー廟があり、その廟に巡礼に来ることがシーア派の信徒にとっては非常に重要なことなのです。
(正面の入り口からみたエマーム・レザー廟。この中の広大な敷地がエマーム・レザーに捧げられている)
廟はイスラム教徒以外でも見学可能で、ぼくらがマシュハドに来たのももちろんこのエマーム・レザー廟を見るためです。ここにくればイスラム教の圧倒的な迫力に驚愕するという前評判どおり、この旅で久々(多分カイラス以来)の大興奮を味わいました。
エマーム・レザー廟は、広大な敷地を占めていて、その入り口でボディチェックを受けてから(女性は全身を隠すチャドル着用が義務)中へ。門をくぐると広大な広場が広がっていて、その周り・前方をモスクやメドレサ(イスラム教の学校)などの建築物が取り囲んでいます。それぞれ建築物は、見事な繊細さと色彩を誇る幾何学模様で装飾されていて、イスラム芸術の美しさを改めて実感。その外、中を問わず、広い敷地に赤と黒を基調とした絨毯が引かれ、その上に人がメッカの方向を向いて座り、コーランを広げ、それぞれ祈りをあげているのです。中央アジアで見た、すでに遺跡となり観光地となり、本来の役割を終え生命を失ってしまった建築物に比べ、やはり迫力が違います。
(中の大きな講堂で祈る女性たち)
(中央の墓のそばに近づくにつれ、中の装飾もこのようにきらびやかに。そして至るところで人々が祈っている。このあたりから男女の入れる場所が分かれる)
そして、このエマーム・レザー廟の真骨頂は、その中央部分にあります。中央の場所は、昔エマーム・レザーが埋葬された場所とされ、そこを取り囲む大きな建物の中に入ると、まずその輝きぶりに圧倒されてしまいます。大きなシャンデリアがあるそれぞれの部屋の壁と天井がミラーのようになっていて、そのミラーに規則的で細かな凹凸があるために、光があらゆる方向に反射し、まるで晴れた日の広大な海面のようにキラキラと光っているのです。まさにイスラム教の輝かしさを称えるかのようなその圧倒的な光の交錯の中で、もちろん、信徒たちが座り、立ち、そして祈りをあげていました。そして、その奥のまさにエマームレザーが埋葬された場所の部屋の中で、その熱気が最高潮に達するのです。
緑の光とこれまたギンギラの天井を誇るまぶしいほどの部屋の中心には、巨大な銀色の壮麗な箱(墓?)が置いてあり、それに向かって我も我もという様子で人がたかり、なんとかその銀色の物体に触れ、しがみつこうとしているのです。そして、その箱に触れた手で自分の顔を撫で、また自分の持ち物もその箱(やはり「箱」じゃしっくりこないけど)にこすり付ける。感極まって涙をこぼしている人もいます。将棋倒しになったら100人単位の死者が出そうなその人だかりの中で、誰かが何かを叫ぶと、それに呼応するようにみながまた同時に「おおー!なんとかなんとか~」と雄たけびを上げる。そして、次々と押し出されるようにその部屋を出て行きながらもみなが、その箱を見つめ、手を胸に当てています。みな、どれだけの思いを抱いてこの場所に来ているのかということは、イスラム教徒以外には分かりそうにないように思えました。
一度にその付近にいる人はおそらく1万人は下らないのではないかと思われるほどでした……。
その様子にぼくらは完全に圧倒され、そのとき、わずかながらイスラム教の芯の部分に触れられたような気がしました。まさに聖地が持っている甚大なエネルギーが惜しみなくあふれ出しているような光景でした。
(もともと写真は敷地内すべてダメかと思ってたけど、実はその中央の墓の部屋以外はほぼ問題ない様子であることが判明し、3回目に行った今日の夜、いろいろと撮ってみました。でも、一眼レフはさすがに持っていけず、コンパクトカメラで微妙に遠慮しながら)
……と、ここまでその圧倒的な様子を書こうと試みましたが、3日続けて見学にいくと、さすがにその驚愕の風景にもだんだん慣れてきて、今日は多少「あれ、こんなもんだっけ?」って気分になってしまいました。寒さもそうですが、人間よくも悪くも、ナンにでも慣れてしまうものだなあと実感。今日ももちろん、熱気むんむんの中央の部屋に入りましたが、熱い巡礼者の中には、隠れて必死に写真を撮ろうとがんばる人たちの姿も。この中は写真撮影禁止ですが、二人の少年は隠れて写真を撮り、係員にはたきで叩かれつつも、それをひょいとかわし、「そんなんではくじけねーぞ!」とばかり、さらに撮影を続けたりと、なかなかのお茶目ぶりを発揮していました。度々通っているうちにそういう風景が徐々に目に付きだすようになり、熱狂的な一方、案外フランクで軽いノリの部分もあるのだなあ、となんかちょっとほっとしたり。
いずれにしてもマシュハド滞在でイスラム教がぐっと身近になったことは間違いありません。
さて、明日(29日)はテヘランと思っていましたが、その途中で田舎の村にいけるかもという情報を得て、電車を途中下車することに。マシュハドから2時間ほどの小さな町に明朝出発します。そこからがんばってなんとか小さな村まで行き、どこか泊めてもらえる家を探す予定ですが、全く言葉も分からない状態でそんなことがうまくいくのかどうか……。場所は前回の地図のマシュハドからテヘランまでの道のりを6分の1ぐらい進んだあたりです。名前はよく分からないのですが……。いずれにしてもあと3、4日後にはテヘランにいる予定です。
ちなみにいま日本との時差はすでに5時間半。さすがにだいぶ西に来たなあと感じます。
24日についに中央アジアを終えてイランに入りました!
(全身を包む黒い布「チャドル」を選ぶ素子。店の女性客たちがみなで着るのを手伝ってくれたり、自分のをちょっと広げて見せてくれたり、結構フランクなのが意外でした)
トルクメニスタンからイランへ国境を越えると、女性がみな真っ黒の衣装に身を包んだ世界。「なんとかスタン」の各国からぐっと雰囲気が変わり、いよいよ中東!と盛り上がってます。いまいるマシュハドは、エマーム・レザーというムスリム界の超ビッグネイムが死んだ(殺された)「殉教の地」で、シーア派(イランはシーア派が大半)の一大聖地になっています。そのため、各地から巡礼者が集まっていて、ここの雰囲気はマジで"ホンモノ"。って、これまでそんなにディープなムスリムの世界を見ていないのであまり大きなことは言えませんが、とにかくマシュハドに着くとすぐに、その色濃いムスリムの雰囲気に圧倒され、「おおー、これだよ、これ!」と興奮してしまいました。8年前インドに行ったとき、10年程前に初めて東南アジアに行ったときに覚えた、おお~別世界に来た!っていう感覚を久々に味わうことができました。女性は頭に布を巻くことが法律で決められていて、またマシュハドを見る限り、ほとんどの女性は黒い布で全身を覆っているため、素子も早速頭にかぶる黒の布と全身を覆う布「チャドル」と購入(町を歩くだけならチャドルまでは着なくてもいいのだけど、下の「エマーム・レザー廟」に入るためには必要そうだったので)
(マシュハド。宿のそばのバザール。入り口にホメイニ師)
(レストランであった家族。おじさんは日本で出稼ぎ労働していたとのこと。素子がその黒い布はどこでいくらぐらいで買えるのかと聞いてみると、種類とかを教えてくれたり)
同じくムスリムの国ではあったけれど、ロシアの影響を強く受けてきた中央アジアとは全く異なる、イスラムの圧倒的な迫力みたいなものをマシュハドで体感してます。そして今日、マシュハドの誇るホットな巡礼スポット「エマーム・レザー廟」の中に入ったのですが、その中の雰囲気は、身震いするほど濃いイスラム世界でした。聖地が抱える熱気が惜しみなくあふれ出るような熱い空気に、久々に鳥肌の立つような興奮を覚えました。その詳細はまた次回。
(いまいるのがマシュハド(Mashhad)。やっとこみいった中央アジアを終えて、地図の都市名も書きやすくなりました(笑)。今回イランは北部しか行く予定はなく、次はテヘラン方面に向かいます。テヘランとの間の田舎の村にちょっと滞在したりしながら西に移動したいと思っているものの、全然情報がなくて、このままではいきなりテヘランということになりかねません。この間で何かお薦めの村とかを知っている人がいたら教えてください!)
話は大きく戻って、前回書いたウズベキのヒヴァからここまでの移動について。ヒヴァからはバスで2時間ほどでトルクメニスタンとの国境へ着き、難なくトルクメ入国。雰囲気は特に変わらず、ただ目立つのは大統領の顔アップ写真がぺたぺたといろんなところに張ってあること。「中央アジアの北朝鮮」という栄えある称号を得ただけあって、さすがに金正日に負けず奮闘していました。
(ウズベキ・トルクメ国境のウズベキ側。奥の三本の大きな柱の向こうが緩衝地帯、そしてトルクメニスタン)
(国境からトルクメニスタンに入って最初の町ダショガスでびっくりしたのはこの衛星アンテナの数!どこの建物もなぜかこんな。地上波がなく、衛星放送のみだったり?)
国の南端にある首都アシュガバット(Ashgabat)まで一気に車で移動。カラコム砂漠をひたすら南進して8時間ほど。途中砂漠にポツリとあるユルト(テント)の店で食事を取ったとき、外に出てみて、夜なのに関わらず寒さがそれほどでもなく、ついに寒さのピークを過ぎた!とうれしくなりました。マイナス20度の世界はこの砂漠を境に終了したようでした。
(雪が積もったこんな砂漠の中を7,8時間走ってアシュガバットへ。雪が降るのなら砂漠にならないのでは……と思ったりするけれど、どうなんだろう)
夜中12時ごろにアシュガバットの町に着き、ホテル探しに苦戦し、最後にはそのために乗り合いタクシーのドライバーとやはり口論になり、またこの展開かとウンザリ。しかも着いたホテルは値段の割りにクオリティがオワッてて(便座なし、シャワーは見るからに入りたくない代物)、あちゃーという感じ。しかしアシュガバットにはなんと「夜11時以降外出禁止令」があり、その時間、外にはごつい服装と銃を持った警察が至るところに立っている以外は人影はほぼゼロ。それはかなり恐ろしい独裁国家をイメージさせる絵で、ぞっとし、それ以上ふらふらと宿探しをするわけにも行かずでした(外にでて警察に見つかれば、逮捕とかにもなりうるらしい)。
(アシュガバットはこんな風なリッチな雰囲気の町。天然資源がとても豊富でガスや水はタダとのこと。これは早朝の写真ですが、夜11時以降はこんな風景の中に警官のみがウヨウヨ!)
しかし、アシュガバットの町は全く想像していなかったほどきれいに整備された街。これもまた独裁国家ならでは雰囲気ですが、やりたい放題だったニヤゾフ前大統領(数年前に急逝)の金の像とともに、大きくピカピカの建物が深夜ひと気のない街中に乱立という風景で、びっくりさせられました(ま、だから安ホテルも快適かなと思っていたのですが、そこまではニヤゾフの手も回らなかったようす)。
(こんな感じで統治者の写真や像がいっぱい。でもこれはニヤゾフではなく現職の大統領。育ちの良さそうなぼんぼんくんって雰囲気。名前が長くて覚えられなかった)
(本屋もこの有様。トルクメニスタンの超ベストセラーである(というかほとんどこれ以外売ってない)この「RUHNAMA」はニヤゾフ前大統領の渾身の一作で「おれがお上だ!わいがルールや!」的なオレオレ宣伝本(多分、間違いなく)。なんと運転免許の試験でもこの本の知識がないといけないというからすごい。日本語版もあった!(下写真))
翌日、民家を宿にしている家族の家へ移動し、やっとトルクメニスタン人の暖かな家庭世界をかいまみることができました。ここは、大家族の住む家の一画に外国人を泊めていて、朝でも昼でも晩でも、夕方でもなんでも、メシやらお茶やら「さあ、お食べお食べ」って感じで出してくれて一人5ドル、というとてもお手ごろないい宿。家族もみないい人たちだし、シャワーのお湯も十分出るし、とても居心地はよかったです。しかも定番の屋外コンクリート打ちっぱなしトイレも、寒くないから全然快適(きれいではないけど)。
(泊まっていた民宿。次から次へといろんな人が現れる賑やかな大家族と一緒に生活。ガス・水がタダのため、ガスは朝から晩までつけっぱなし。それで部屋を暖めている)
(こんな食事がひっきりなしに出てきます。味は……)
トルクメニスタンではほとんど、その家族と戯れ、食事を一緒に食べたというだけで終わり。アシュガバットに2泊したあとの24日、行きたかった田舎の村に一泊で行くため、朝7時すぎにその家を出て一泊分の荷物だけ持って出発したものの、あるはずのバスがバス停に見当たらないまま、行くすべを失い、しかも朝の強烈な寒さにやられ、気持ちも萎え、地元カフェに逃げ込み朝飯を食べながら暖まっていたら、コーヒーを追加したにも関わらず、カフェのおかみに「食い終わったら出ていきなよ!ダラダラしてんじゃないよ!」みたいなことを言われ、隣の席のオジさんには、「あのオバハンは頭おかしいんだから、ほっとけ、ほっとけ」って笑いかけられたりしているうちに、もう今日一気にイランに行ってしまおうか!と心が決まり、その日トルクメニスタンを発つことに決めました。
そして同じ宿に泊まっていて、一日違いぐらいで同じルートを来ていた数少ない旅仲間の市川さんと3人でイランへ出発。アシュガバットから国境までは20キロほど。キンキラのアシュガバットの町から、南側に見える雪山の中へと車を走らせるともう目の前はイラン!
(ここが国境のトルクメニスタン側。ここから緩衝地帯をさらに数十キロ行った先がイラン)
トルクメ側で出国審査を済ませてイラン側に入ると、いきなりアザーン(イスラム教国の町中でよく響いている祈りの声)が聞こえ、突然それっぽくなってきました。国境職員の体からも南アジア特有のスパイスっぽい独特なにおいが漂い、インドを思い出したり。またどかーんと飾られてるリーダーの顔も、トルクメのぼんぼん大統領から、イケメンでハードコアなホメイニ師へ。ロシア語も突然全く無意味な言語となり、ここから文字も数字も全く読めないアラビア語の世界がスタートしました。
(まさにトルクメニスタン側からイラン側へ入る瞬間にトルクメ側を隠し撮り。ぼんぼん大統領の顔ともこれで見納め。イラン側ではちょっと怖くて隠し撮りなどする気になれず)
税関の荷物チェックもない適当でフレンドリーな入国手続きを終え、その場で乗り合いタクシーの値段交渉をしてマシュハドへ。大きな雪山を越えるともうそこは完全にイラン。女性がみな真っ黒尽くめの姿で井戸端会議を開き、土の家の周りで遊ぶ小さな子どもたちが、通りすぎるぼくらの車を眺めています。まさにこれぞアジア、という風景。
(イラン側を車で移動中。イランに入ってからもしばらく雪山風景が続いた)
国境からマシュハドまでは途中のメシ休憩を入れて4時間ほど。「メシ休憩」と言っても、ドライバーが突然「ここからはおれのブラザーの車で行ってくれ。おれはここで戻るから、おれにここで3分の2の金を払ってくれ」と、いやな予感のする提案をされ、またモメ、仕方なく車を変えることになり、ついでだからとメシも食べたという展開。その「ブラザー」に連れられマシュハドに着くと、さらに大きくひともめ。町の外辺りで停められ、ここからは別料金だと言われ、周りにいた英語を話せる取り巻き数人も交えて10人近くで大モメ。最近乗り合いタクシーに乗るたびにこんなことになってる気がして疲れますが(季節のせいもあって、路線バスが少なく交渉してタクシーをシェアということが多い)、こういうのもまた東南アジアなどを思い出させられてなんだか懐かしくもあったり。結局そこで車をさらに乗り換えて、人のいいおじいさんの車でマシュハドの町へ。宿探しにまた結構苦戦したものの、最終的には安くて悪くないところに落ち着いて一息。
……というわけでした。
次回はマシュハドのメインイベント、大興奮の「エマーム・レザー廟」についてアップします!