みなさま
パースももう6日目となり、明日には、ここをでて目的地であるバンバリーへと移動しようと思っています。バンバリーは野生のイルカで知られる町で、ここ西オーストラリア州で2、3番目の大きさの町だということです。しかし、ネット環境などはまだ不明なため、もしかしたらしばらくメールなどの返信が滞る可能性がありますので、ご了承下さい。
ではまた書きます。
雄生・素子
みなさんこんにちは。22日に無事パースに到着しました。
19日の夜メルボルンを出発して、翌朝にはアデレードに到着、アデレードで10時間程待ち時間があり、その後カルグーリという町で3時間停まった後、パースに到着しました。アデレードからカルグーリまでの数十時間は木と赤土しかない砂漠が延々と続いていました。途中、ブッシュからカンガルーが姿を見せるのを探しているうちに1時間が経過するという感じで、時間の感覚が狂ってしまうような感じを受けました。ただ、車内にはラウンジがあったり、カルグーリでは外に出て街を見ることができたので、あまりにも退屈するということはありませんでした。
パースに到着してからは、新聞やインターネットでアパートを探したり、携帯を探したり、相変わらずの毎日です。
こちらには日本人が多く、スーパーへ行くと、ここは日本かと間違うくらいそこらじゅうで日本語が飛び交っています。パースの日本人の密度は、シドニーよりも多いような気がします。
今週末にはバンバリーに向かう予定です。日本を出てから1ヶ月以上が過ぎて、ようやく目的地に到着できます。
日本は梅雨明けはまだなようですが、もうすぐやって来る夏を謳歌してください!
素子
3日間に渡る4000キロの旅を超えて、やっと西海岸に到着したものの、パースもまた、これまでとあまり変化の無いオーストラリアらしい街でした。当然といえば当然なのですが、もうちょっと変化があればな、と思ってしまいます。とはいえ、パースはやはり、評判どおりのこじんまりとしたきれいな街です。小さい分、いろんなものへのアプローチがよくて、便利です。
パースまでの電車は、ひたすら砂漠の中を走るというものでしたが、途中何箇所か停まった中の一つに、人口2人の町というのがありました。また、その他にも電車の窓から、だだっ広い中にぽつりと建っている学校が見えたりしました。そして砂漠といっても、写真で見るような全く砂だけのきれいな砂漠ではありません。どこにでも草や木が生えていますし、カンガルーもこっちを伺っています。
至る所に生き物はいたし、色は赤茶色だけではありませんでしたが、しかし2日も3日も360度地平線が続くという経験は実にオーストラリアらしいのではと思えました。
やっと来週には目的地に到着予定です。これからは腰をすえた生活の基盤作りをはじめないといけません。
ちなみに今日発売の週刊金曜日にやっとルポが掲載されたようです。よかったら見てみてください。
それではまた!
雄生
みなさんこんにちは。明日にはメルボルンを発ちます。こちらでは、街をぶらぶらしたり、友人に会ったりしているうちに、あっという間に時が過ぎてしまいました。
(メルボルンを通るヤラ河沿いに毎夜上がる炎のエキジビション)
先日、一人でトラム(路面電車)に乗りました。6年前に来たときは、ほとんどの人がトラムの料金を支払っていなかったので、今回も大丈夫かと思い、チケットを買わずに椅子に座っていました。実際、次々乗り込んでくる人達も、チケットを買っているようすはなかったんです。そうしたら、モーガン・フリーマンのような係員が突然トラムに乗ってきて、チケットの見回りを始めたんです。やばい、と思ったのも時すでに遅しで、
"パスポート見せろ""メルボルンで何してるんだ""いつオーストラリアに来たんだ"と質問攻めにあってしまいました・・・。"今回初めてトラムに乗って、どうすればいいかわからなかったんです、、、。"と言ったら、かなり怪しんではいたものの、しぶしぶ許してもらえました。後で友人に聞いたところ、通常だと$100の罰金をとられてもおかしくないそうです。ちゃんと払っておけばよかった、と今は反省しています。
こちらのトラムには係員が常にいるわけではないので、現地の人たちも、係員の目を盗んでただ乗りを横行しているようです。トラム側はトラム側で、私服の係員を配置したりと、かなり気をもんでいるとのことですが。
とにかく、そんなこんなで、明日からは三日間列車の中で過ごします。3日間の赤土の旅はかなりきつそうなので、トランプでも買って持っていこうと思います。では!
素子
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メルボルンもすでに五日目、明日が最後の一日となってしまいました。予想外の滞在でしたが、楽しめました。
この街では、オーストラリアがまさに移民たちによって成り立っている国なんだなあ、ということを実感しています。一見すると、髪も目も黒いアジア人が移民の代表のように見られがちですが、白人も、もともとはイギリスを始めヨーロッパ各国から新たな生活を求めてオーストラリアに渡ってきたわけなんですよね。ただ移住してきた時期が違うだけで。
それは当然のことですが、この街で、たとえばイタリア人、ユダヤ人、ギリシア人、中国人の文化を継承した人たちがそれぞれ根を張り、自分たちのコミュニティーを形成しているのを見て、なんだかそんなことを改めて認識させられました。祖先がイギリスからやって来た、いわゆるイメージ通りのオージーだけではなく、どこから来た人も全て等しくオーストラリア人なわけですよね。
かなり最近まで、特にイギリスに対して「さあ、人の少ないオーストラリアへ移民しましょう」というような呼びかけをしていたらしいことを聞くと、それはある意味、オーストラリア独特の成り立ちなのかな、という気がします。「移民」ということにぼくはなじみがないため、なんだか新鮮な感じがしているだけかもしれませんが......。あ、そう考えると、アメリカも似たようなもんなんですかね...。この辺に詳しい方がいらしたら、是非何か書き込んでいただければ幸いです。
さて、いよいよ目的地の西海岸へ移動します。メルボルンからパースまでは約4000キロ、東京-シドニー間の半分ぐらいあるようです。疲れそうですが、楽しみです。
ではまた!
雄生
今日早朝メルボルンについて、早速明日にはパースへ向かおうと列車のチケットを予約しに行ったら、なんと、メルボルンからパース行きの電車は週に一度、土曜だけでした!で、仕方なく、ここに5泊ほどすることになりました。つめが甘かったというかなんというか。
メルボルンはオーストラリアのほぼ最南端の大都市。ここでは早速ノートパソコンもつなぐことができました。さすがに都会という感じです。
あと、週刊金曜日、何度もお伝えしてますが、またまた遅れてしまって、7月25日号になったとのことです。とはいえ、いつまた変更になるのか分からないので、ご了承下さい。いや、実際に載るまで全く安心できないものです......。
取り急ぎ、こんなところで。
ではまた!
雄生・素子
みなさん
こんにちは。今日やっとキャンベラを発つことになりました。こちらでは、昔の友達や留学中お世話になった池田先生にお会いすることができ、充実した滞在になりました。
さて、私たちが宿泊していた"City Walk Hotel" というところは、街の中心に位置し、どこに行くにも便利なところでした。部屋には二段ベッドと洗面台、洋服ダンスだけしかない質素な部屋でしたが、キッチンなどの共同スペースがわりと広く、居心地は悪くありませんでした。
今夜キャンベラを発ち、明日の早朝にメルボルンに到着する予定です。パースまで一気にいければよかったのですが、車中三泊はさすがにきつそうだということで、メルボルンで一息いれることにしました。
では、また。
素子
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こんにちは。日本を発って今日で三週間です。特に、ここ一週間ぐらいは非常に日の経つのが早かった気がします。キャンベラに8泊もしていたとはおもえません。
ところで、今日はちょっとぼくらの生活状況についてお伝えします。元来の予定では、オーストラリアでは、一日一人2000円程度を目標にしていました。しかし、それはこっちに着いてすぐ、不可能だとわかり、こないだ概算してみたところ、3500円ぐらい(1豪ドル=80円で計算)になっています。内訳は宿が1500円~2000円、食費が1000円、交通費300円、その他200円ぐらいといったところでしょうか。キャンベラの宿では、かなり自炊をし、食費はおそらく1000円よりは安かったのですが、シドニーでの出費が効いています。
宿は、長期滞在でない限り、今のところ1500円ぐらいが限界です。昔はもっと安かったような気がしたのですけどね。オリンピックなどもあったせいか、数年前から妙に物価があがっているみたいです。
今のペースでいくと、日本で豪ドルに換金した一人50万円は半年もたなそうです。まあ、もう少ししたら収入が得られることを期待していますが。
メルボルンはおそらく通過するという程度で、数日後にはパースへ向かいます。パースまでの3日ほどの旅を経ればやっと定住先が見えてきそうです。
ではまた!
みなさん、お元気で!
雄生
みなさん
しばらくカウラという小さな町にいたので、ネットに接続することができませんでした。数日前にキャンベラに到着して、ようやくこれを書いています。
カウラでは、妻&ライターアシスタントと偽って彼の取材に同行し、メモをとったりしていました。結構使えるアシスタントだったのでは?と自負。何についての取材かは、したの説明を参照してください。カウラで取材に同行したおかげで、たくさんの町の人たちと交流でき、そのほとんど皆親切な人ばかりで、カウラをすっかり気に入ってしまいました。
さて、キャンベラについた翌日、さっそく留学していた大学に行ってみました。今はちょうど試験休みのため、学生がほとんどいなくて、ひっそりしていました。6年前を思い出し、心踊る思いでキャンパスを歩き回りましたが、やはり当時の友達がいてこその留学生活だったのだなとも思い知られました。
ところで、HPに書き込んでいただいた加藤さんのご要望にお応えして、コアラの写真を載せたかったのですが、とりあえずカウラで撮ったカンガルーの写真を載せておきますね。野生のコアラに出会える日はくるのでしょうか?!
あと、オペラハウスの写真は雄生作です。私もとったのですが、ピントが甘く、却下されてしまいました。。。
日本はもうすぐ梅雨明けですね!こちらはさっむいですよぉーー。
素子
首都のキャンベラについて、久々にメールを見ることができました。HPへもメッセージをどうもありがとうございました。しかし、この町でもなかなかPCをネットにつなげることができません。メールがなかなか送れなくてすみません。
数日前まで、カウラという人口9000人ほどの小さな町に滞在していました。数百メートルのメインストリートを一本はずれると、もう静かな住宅街となってしまうというほどなのですが、ある事件によってオーストラリアではよく知られています。第二次世界大戦中に、その町には捕虜の収容所があったのですが、1944年8月5日にそこで歴史に残る大脱走事件があったのです。
深夜2時、1100人の捕虜がラッパの合図とともに、バット、ナイフ、のこぎり、グローブ、毛布などの自家製の武器を持ち、いっせいに収容所を飛び出しました。みなが声をあげながら、あるものは銃を奪いに、あるものはフェンスを破りに、四方八方へとちらばり、逃げ出したんです。しかし、それは実は逃げるため、というよりも死ぬためだったようです。実際、幾人もが自ら首をつり、また銃で撃たれにいった。結果、230人ほどが数時間のうちに死亡するという大惨事となりました。彼らが収容所を出るときに叫んでいた言葉は「ばんざい!」だったといいます。そのすべてが日本人だったのです。
戦争史上に残る大脱走だったことに加え、日本人にとって捕虜になるということがどういうことだったのかを示す事件として、今もオーストラリアやイギリスではとても有名だそうですが、日本ではほとんど知られていません。そのことを調べにこの町に滞在していました。
当時この事件と関わった人を探して回り、町にいた関係者にはほとんどあうことができたものの、核心に触れる人物はもはや町には残っていないことがわかりました。
ま、そんなことをやっていたわけです。田舎だったためか、人がみなよく助けてくれて、とても気持ちのいい日々をすごすことができました。キャンベラではカウラでの取材をまとめて、なんとか一つの形にしようと思っています。
日本は大分暑くなっていることと思いますが、みなさん、お元気で!
雄生