(ヒヴァのイスラム建築群の一つ。町中にこういう建築がゴロゴロしているオールドタウンの中にいま滞在中。とてもツーリスティですが……)
前回のサマルカンドから、ブハラ(Bukhara)を経て、18日にいまいるヒヴァ(Khiva)に到着しました。サマルカンド、ブハラ、ヒヴァともに世界遺産(のはず)でかなり観光地観光地したところですが、完全にシーズンオフで、宿も店もモスクなども閉まってるところばかり。サマルカンドはまだマシでしたが、ブハラ、ヒヴァは寒さもぐっと増し、旅行者はほぼ完全にぼくら二人と、カシュガルから頻繁に会っている市川さんとアメリカ人のロイドの4人のみ(短期旅行の日本人などには他数人会いましたが)。しかもブハラ以降、寒さがぐっとレベルアップし(昨日は日中でマイナス20度ぐらいあったみたい!)、もはや現地の人ものんきに移動する季節ではないため、バスなどの交通機関も数が相当少なく、乗り合いタクシーをシェアするにも他に旅行者がいないため、せっかく集まった4人組を崩さないべく、ブハラからヒヴァまでは4人で車をシェアして移動。
(ブハラ。こういう建築が町中を彩る。大部分がチンギスハンが来たときに壊されてしまったものの、一番下の写真の塔だけは彼も壊さなかったとか。チンギスハンもここでこれを見たと思うと、さすがに年季を感じるし、感慨深いものがあります)
(イスラム建築は壁や天井一面に描かれた幾何学模様の装飾がとてもきれい)
とはいえ移動は比較的スムーズで、しこたまある宿も1、2件しか営業してないため、考える必要が省けて、あいてるところに4人で直行。しかもメジャーな観光地だけあって、安宿のレベルもなかなか高くて快適に過ごしてます。
(ヒヴァのオールドタウン「イチャン・カラ」。塔の上から)
ブハラもヒヴァも、シルクロードの時代に栄えた砂漠の中のオアシス。中央アジアのイスラム教の中心的な場所でもあったため、当時のイスラム建築が町にそのままぽんぽんと並び、街並みは中世そのままという感じではあるのですが……、しかし、モスクやメドレサ(イスラム教の学校)の部屋の中とかが一つひとつ土産物屋になっていたり、町を歩いていても「ミルダケ、ミルダケ!」というアジアで最も広く使われてる日本語が連呼され、シルクロード時代の雰囲気を想像するのはなかなか難しいです。こんなに観光客が少なくてもこれなのでシーズン中はほんとにすごそう。
(16世紀のモスクを修復する人たち)
(昔、奴隷市場だった場所の木の扉)
ウズベキの売りのホスピタリティの素晴らしさは、フェラガナ地方の田舎ではとても強く感じたものの、こっちは店とか行く度にとにかく「外国人=試しにボッてみよう」的戦略を感じます。フェラガナでは買い物したら値段を高くいうどころか、おまけしてくれたり、何かつけてくれたり、ということも多かったのですが、こっちだととりあえずふっかけてみる、という感じ。食堂でも、メニューは見せてくれず、激しいどんぶり勘定で適当に1.5倍ぐらいを請求してみる、という店に度々遭遇してゲンナリ。モスクなどを見学するときも、関係なさそうな土産物屋の女の子とかが走ってきて、「ここもチケットが必要、3000ソム!」とかって言ってきたり。で、「いや、昨日来たアメリカ人の友達が1000ソムだったって言ってた」というと、「彼は『ぼくは学生だから安くしてくれ』と懇願したから安くしたんだ」とか全くのでたらめをためらいなく言うし……。親切な人ももちろん多いのだけれど。やはり旅行者の多い観光地だとどうしてもそういう雰囲気が強くなり、地元の人と距離ができてしまい残念です。
(ブハラ。生活の中にどかーんとモスクあり)
(ヒヴァのバザール。昔ながらの城壁の外。昔はここにラクダの隊商が……とがんばって想像)
とはいえブハラもヒヴァも、やはりシルクロードの最もそれっぽいところの一つではあるから、中国から随分来たなあ~、という気持ちはします。それにこの辺のイスラム建築は大きく迫力があるし、装飾がとてもきれいで素晴らしいです。
(土曜日、ヒヴァではたくさんの結婚式があって、合同結婚式みたいな雰囲気。すごいのは、マイナス15~20度ぐらいの中、新婦は半袖のウェディングドレスとかで1~2時間ゆっくりと外を歩かないといけないこと。近くで見ると、震えまくりで、顔はさすがに蒼白になってました……。かわいそうに)
何か面白いことはなかったかなあ……と、さっきから考えているのですが、特に思い浮かばず。ウズベキスタンは、トルクメニスタンビザが面倒だった以外はかなり平穏に終わっていったなあ~という感想です。
でも、総じて、ウズベキでの人との出会いはよかったなあと思います。前に書いたリシタン以外でも、タシュケントで仲良くなった若い男性アリマルドンにもとても親切にしてもらい、よく電話をくれていろいろと気遣ってくれたり(中国出てからも、各国で携帯電話のカードを買って、携帯を使ってます。日本やアメリカ以外では主流のシムカード方式の携帯はこれが便利)。彼には英語のコーランももらい、イランで活躍しそうな予感も(って、使うもんじゃないですが)
(ヒヴァの宿の客はぼくら4人だけで、19日、その家族の1歳の子と84歳のおばあちゃんの誕生会が。おばあさんは生誕1000ヶ月を祝われていた。おばあちゃんは孫30人、ひ孫15人。親戚だけで70人ぐらい集まってて、やっぱり大家族はいいなあとしみじみ実感。(素子の)京都のおばあちゃんの誕生日と同じだったこともあって、このおばあちゃんにお祝いを言いにいってキスをもらった素子)
(ブハラの町で家に招かれたところのおじいさん。もとジャーナリストとのこと)
今日でウズベキも終わりで、明日22日からはトルクメニスタン。「中央アジアの北朝鮮」という決してうれしくはないだろうあだ名を獲得している国なため、未知で楽しみではありますが、トランジットビザで5日間しかいられないため、これまたほんのわずかにご挨拶、といったところで終わりそうです。そして26日にはイランにいる予定。イランでは、イスラムの本場を見るのがとても楽しみですが、もう気づいたら2月で、北京から半年が経とうとしているし、あれこれ見てたら切りがないので、徐々にスピードを上げながら移動していくつもりです。
(ヒヴァ(Khiva)からトルクメニスタンへの国境はバスで1時間ほど。国境を越えたら砂漠のトルクメニスタンの始まりだけど、この時期、途中で降りると新たに車を探すのが大変っぽく、また日数も5日しかないため、おそらく一気に首都アシュガバット(Ashgabat)まで行くことになりそうです。ぼくは本当は砂漠の中に火の吹き出てるクレーターがあって、そこに行きたいのですが……(素子は「興味なし!」とのこと)。)
(雪に包まれた中のイスラム建築はとてもきれい!)
タシュケントでなんとかトルクメニスタンビザを11日に取得でき、12日、サマルカンドに移動しました。
しかしトルクメニスタンのビザ、本当に骨が折れました……。聞いていた以上のトルクメン大使館の理不尽さ、領事のウザさにかなり頭にきました。
受取日に向こうが指定した10日午後5時に大使館に行くと、「今日は領事が働いていないから明日また来てくれ」とガードマン。ビザ発行は完全に領事一人の判断にゆだねられているようで、彼がいないと何も進まず。マイナス10度とか15度の中、結構な距離を大使館まで行かないといけないのですが、彼の気まぐれに振り回され、タシュケント滞在を一日延ばして、翌日また行くことに。ちなみに領事、ぼくらが申請に行ったときも、大勢が寒い中待ってるのに、窓口の向こうのあったかそうな室内で友人らしき相手と電話で談笑しながらタラタラ仕事。
で、翌日金曜日の午後5時に行くと、またガードマンが「月曜日だ。今日も領事はいないから」と。。。
これにはさすがに二人とも頭にきて「何言ってんだ!」とボルテージを上げて言うと、同じくビザ待ちで大使館前にいた英語を話せる現地人が通訳をしてくれました。この怒りを伝えてもらうと、「もしかしたらこのあと領事が来るかもしれないからちょっと待ってみてもいいかもしれない。おれにもわからない」とガードマン。で、待つこと15分ぐらいで、領事現れた!
ビザ待ちの人たち(ぼくら以外はみな多分ウズベキ人)がにわかに盛り上がりみなで近づくと、領事は大使館の中に逃げ込んでしまい、ガードマンがよってきて、なんと「彼は来たけど、今日はもう働かないらしい。だからやはり月曜だ」と。
それを聞いて、マジでふざけんじゃねーって激しく抗議して、なんとか仏頂面領事を門まで引き出すことには成功。
しかし依然として「月曜にこい、今日は他の仕事があるから」と拒否する領事に、「(トルクメニスタンのあとに入る)イランのビザの有効期限があって、今日どうしてもらわないといけない!あんたが昨日来いっていったんだろう!」というと、さすがに彼も仕方ないなって顔になりましたが、最後はこんなセリフ。
「分かった、じゃ、この寒さの中、外で待てるんだったら待ってろ。1時間以内にはやってやるから。でも風邪引くぞ、帰って月曜にきた方がいいぞ」
行く前からトルクメニスタンの印象は最悪になり、5日間のトランジットだけど、3日ぐらいでさっと通過するだけでいいや、って気にさえなってきてしまいました。この場所になかったら絶対ここまでして行きたくないかも。なんかとーせんぼされてる気分です。
それから1時間ぐらい極寒の中で体の随所を動かしながら待って、なんとかビザゲット。本当に骨の折れる、しかも、ただふざけた領事の気まぐれに付き合うという不毛感いっぱいの作業でした。
これでやっと、中央アジアのビザ地獄最終関門クリア!イランまでの道が開けました。しかしいまのところまだこのルートを通過した人には出会ってないので、全然情報もなく、これからどんな世界が待っているのか不明です。聞くところによると、ぼくらが通過予定のトルクメニスタンのある街はいま、マイナス30度とのこと!うーーん、まだまだ超ハードな冬は終わらなそうです。
さて、ビザ作業を全て終えた翌日、タシュケントを出発。大きなバスに5時間ほど乗って、シルクロードのたぶん主役中の主役とも言えるサマルカンド到着。宿には、ビシュケクでしばらくにいて仲良くなったアメリカ人あり。彼も、トルクメニスタン大使館に一週間以上かけて4,5回通い、その結果分かったことは彼に必要なビザは取れない、ということのみ。で、あきらめてビザ作業から解放されてやっとサマルカンドに。
(預言者マホメットの従兄弟の墓とされる場所。ここはサマルカンドでも聖地的な場所で、ここを3回訪れると、メッカに行ったのと同じことになるとか。右の人は巡礼者)
ちなみにいま、さすがにシーズンがあまりに悪いせいか、旅行者にはほとんど会わず(ウズベキの主要な観光地でも大部分の宿が閉まってるとのこと)。で、会う場合はほぼ確実にすでにどっかで会っている知った顔。多分いま、中央アジアのこのルートを東から西へ横断している人は、10人ぐらいしかいないじゃないか、と昨日そのアメリカ人と話してました(中でも日本人が一番多そう)。もう大体お互いメンツを全部知ってるっていうような雰囲気で、その分、旅行者同士結構仲良くなってます。東京で、友達にばったりなんてことはあまりないけど、サマルカンドやビシュケクでばったりってことは度々。それだけ旅先だとみな行く場所やすることが限られてくるっていうことでしょう。
(サマルカンドから一時間ほど行った先のマーケットで。ウズベキ人のフレンドリーな印象は増すばかり)
(そのマーケットで素子に必死に営業するおばちゃんたち。顔の雰囲気がアジア的な人が少なくなってきた)
サマルカンドも極寒。でも昨日、今日は晴れて、ここの目玉スポット「レギスタン」(15~17世紀に造られたイスラム教の学校群)などは綺麗に見られました。この辺からだんだん、イスラム色が強くなり、アジアからアラブの世界へと向かっていくことが感じられます。人の顔もだんだんアジア色がやってきて、その変化を感じられるのが面白いです。
サマルカンドは聞いていたとおり綺麗な町です。その一方、観光地という雰囲気が強く、見学料も高いし、土産物屋もいっぱいで、少し興ざめ。自分がこの辺の歴史をかなり表面的にしか知らないということもあるけど、やっぱり自分的には、それほどメジャーなスポットがなくとも、現地の人が生々しく活動しているのを感じられる場所の方が面白いなあと感じます。
(レギスタンの一つの中。イスラム建築に描かれる模様は細かくてとてもきれい)
(こっちのお墓は一人ひとりの顔が描かれていて、ほんとにこの人がここに眠ってるんだなあというのがリアルに感じられる)
観光地を楽しむには、背景の物語や歴史などの知識や興味など、こちらの力量が試されます。見るだけで「すごい!」と感じられるものというのは実はそれほど多くないし、観光地を十分に楽しむにはこちらの努力が必要ですね。スポーツを見るときに、その試合の意味合いや対戦者同士の因縁などを知ることが、試合を楽しむ上で非常に重要なのと同じように。
(明日Bukharaへ行ったあと、数日後にヒバ(Khiva)へ移動し、その付近から国境を越えてトルクメニスタンへ。トルクメはビザが5日しかないので、さっと通過するというだけになりそう)
明日15日、列車でブハラ(Bukhara)に移動します(3時間ほど。近いです)。トルクメニスタンのビザが22日から26日、イランは27日までに入らないとビザが切れるので、この辺はちょっと急ぎ足で進んでいきます。旅するためにビザを取るというより、ビザを取るために旅をするというような感じになってしまってます。
("NORIKO学級"のみんな。左から2番目の赤と黒の服の子が先生のホジャホンさん)
昨日、再びタシュケントに戻ってきました。
昨日まで6日間いたフェラガナ地方は、タシュケントとの間を険しい山によって隔てられています。ここ何日か強い雪が降ったためにその道が閉鎖され、帰れるかどうかわからないという状態になりましたが、なんとか昨日また道が開かれて無事に予定通り帰ってこられました。
(フェラガナからタシュケントへの帰り道。この山間を抜けていく。雪は40センチぐらい積もっていた感じ)
フェラガナ地方での最後の2日間は、この一週間で最も充実した楽しい時間になりました。フェラガナのリシタン(Rishton)という小さな町に"NORIKO学級"という小さな日本語学校があることを知り、訪ねてみたのですが、ここでの日々が本当によかったです。
"NORIKO学級"とは、技術者としてウズベキスタンに赴任していた大崎さんご夫妻が99年に開いた学校(奥さんのお名前が"NORIKO学級"の由来)。日本人のボランティアや教え子たちが教師となり、数多くの現地の子たちがここで日本語を学んできたとのこと。
大崎さんはすでに亡くなられ、いまは日本人の先生もいませんでした。でも、教え子たちの日本語がとても上手で、彼らのうちの何人かが先生となり、毎日授業をやっています。
まず月曜に、宿のそばから乗り合いバスに45分ほど乗って「NORIKO学級」を訪ねました。ぼくらが行ったときに教えていたのはホジャホンさんという17歳の女の子。そこに十数人の生徒が集まってみんなで楽しく日本語を勉強中。生徒の中心は10歳前後の小さい子たちで、ぼくらが授業に参加させてもらうと、みなで日本語の歌や踊りを披露。トトロのテーマソングの「さんぽ」とか、ポンキッキでやってる「とんがれーとんがれー」とかいう踊りとかだったりで、これが本当にかわいくてかわいくて……^^。子どもっていいなあ~と再確認。
("NORIKO学級"の教室で。これはウズベキスタンの伝統的な踊りをやってくれているとき。ナーナナナナナーナー!)
さらに火曜日は、厚かましくも"NORIKO学級"で学んだ生徒さんのうちに泊めてもらうことに。4人兄弟の一番上の男の子は現在、筑波大学に留学中。次男ディヨルさん、三男ドストンさんともに日本語がとても上手で、三男はタシュケントでこれまた筑波大学の先生とかとともに働いてるという、まさに"NORIKO学級"の重鎮たち。そして、4番目の女の子オイデノイも、「とんがれー」の踊りメンバーの一人で、めちゃくちゃかわいらしい子でした。
晩御飯をご馳走になり、そのあとは近くの友達のうちをハシゴ。次から次に日本語の上手な人たちが現れてびっくり。"NORIKO学級"の半径100mぐらいだけ、突然日本語通がゴロゴロいるという不思議な事態が展開していました。
(近くの友達の家。日本語キャラ複数あり。ウズベキ人の奥さんとタジク人のだんなさん。この辺はタジク人が多く、ウズベキ語、タジク語(タジキスタンの言葉)をみな話し、さらにロシア語も大体の人が話せる)
(先生のホジャホンさんのうちで。右から2番目のホジャホンさんと、「とんがれー」少女たち)
というわけで、子どもたちと楽しい二日間を過ごせました。ウズベキスタンに行ったら、是非多くの人に尋ねてほしい学校です。ぼくらはただ楽しませてもらって終わってしまいましたが、すべてがボランティアということもあって経済的にもなかなか厳しかったりと先行きは決して明るいばかりではないようです。でも、これだけ日本語の上手な子を育て、それぞれに新たな生き方を提供してきたこの"NORIKO学級"を、是非とも応援して行きたいなあと心から思わせる学校でした。
(彼らはどこでもずっーと「とんがれーとんがれー」って踊ってくれてました)
さて、今日は、トルクメニスタンビザの受け取り。友人が受取指定日に行って受け取れなかったりという話も聞いたので安心できませんが、とにかく受け取れることを願って、これから大使館に向かいます。で、無事取れれば、多分明日サマルカンドに向かって出発。21日前後にはウズベキからトルクメンに入り、26日にはイラン入り、という予定です(トルクメニスタンはトランジットビザで5日間しかいられない)。いよいよ中央アジアも終盤です。
(フェラガナ。雪の中でリシタンまでの乗り合いバスを待っているとき。雪と寒さで激しく体力を消耗するので、移動はなかなか大変……)
(リシタンでちょっとした都合でお世話になった別の家族。彼らは質素な感じで暮らしていて、"NORIKO学級"とは関係なく、もちろん日本語など話さない。片言のロシア語でのやり取りだったけれど(彼らはロシア語流暢)みなとても親切で、特におじいさんは、このあとさむーーい雪の中、暗くなる中、ぼくらをずっとずっと見送って立っててくれた……)
(リシタンは陶芸で有名な町。土の質がとってもいいんだとか。で、"NORIKO学級"の一画も陶芸の工房になっていました。上に書いた日本語のうまいディヨルさんも陶芸家で、そのお父さんや親戚の多くが陶芸家。写真はディヨルさんの先生)
(その陶芸家たちが作った、タシュケントに新しくできる日本料理屋に出荷する食器類とかわいい大きな人形)
(ウズベキの伝統的な織物、アトラス。マルギランのバザールで)
タシュケントから5時間ほど東に行ったフェルガナ地方にいます(この5時間の道のりは大雪が降って道も凍りまくっていたものの平穏にクリア。途中高速道路みたいなところも凍ってて、車がみな滑って前にすすまず、人が押して進む車多発という味のある光景が広がっていましたが)。
ここはウズベキスタンの中でもウズベキ色が最も濃いところということで、来てみました。バザールなどに行くと、頭に何もかぶっていない女性はまさに素子ひとりで、確かに強いイスラムの雰囲気を感じます。都会のタシュケントとはかなり違います。
それでもやはり白人ロシア人も多く、ぼくらが泊まっているほとんどホームスティという感じのゲストハウスも、白人の家です。それから、スターリンの時代に強制労働で連れてこられた韓国人も多数いるはずなのですが、それほど出会わず。
フェラガナ地方は、遠い昔からシルクやコットンの生産で知られ、「シルクロード」という言葉が出来る所以となったのは、まさにここのシルクを東西からやってきた人がいろいろなものに交換して、東西の交渉が成立していったからのようです。というわけで、ウズベキスタンのフェラガナ地方(さらにいえば、その中心だったマルギラン(Margilon))こそがシルクロードの中心地点といえるのかもしれません。
フェラガナは、近郊の町まですべて乗り合いバスで1時間以内と近いので、毎日異なる場所に日帰りで行ってます。
今日行ったのがそのマルギランの巨大な日曜バザール。「中央アジアで一番!」という評判もあるようなので、日曜まで待っていってみたのですが……、ま、思っていた程でもなかったです。Bazaar is Bazaar...って感じかな。。
(バザールには布を扱う店がいっぱい。シルクか?と聞いたけど、どれもシルクではなかった……。こんな土地ならバザールにシルクがいっぱい、と思っていたのに……)
そのあとでシルク工場にも足を運びました。日曜だったので工場では誰も作業はしていませんでしたが、1500年ほど前から、この場所で作られたシルクが東西に渡り、東西の交渉へとつながっていったのかと思うとなかなか感慨深いものがあります。
(ここがそのシルク工場。特に悠久の歴史を思わせる雰囲気はなし)
そして一昨日行ったのがアンディジョンという街。
ここは実は国際問題的にとてもホットな場所。というのは2年前にこの街で、警察と市民の衝突によって500人とも1000人とも言われる死人が出た大事件があったのです(アンディジョン事件)。イスラム過激派とされた人々が特に理由なく投獄され、それに抗議した市民に警察が発砲してその惨劇が起こったようです。アンディジョンで出会った英語のうまい若者によれば、市民が牢獄を襲って(?)、警察から銃を奪い、投獄された人たちを解放、それで警察と打ち合いになったとか。
(500人規模の死人が出た惨劇が2年前に起きたアンディジョンのバブールスクエア。いまはそんな様子は全く想像させないマイルドな公園)
詳細は不明なままですが、欧米諸国がこの事件で一斉にウズベキ政府を強く非難し、そのため、ウズベキスタン側も、国内にいた欧米のNGOや政府の人間をみな国外へ追放。そして欧米も援助をストップし、欧米とウズベキの間は大きな溝ができ、いまもそのまま、ということだそうです。
ウズベキは基本的には独裁国家で、昔のソ連をイメージさせる雰囲気を感じた、というのは前回書きましたが、でもそんなウズベキスタンの方が、民主化したキルギスタンよりもロシア離れをしようとしているというのは、皮肉なものです。
ウズベキでは文字は一般にロシアのキリル文字ではなく、ラテン文字(英語のアルファベット)を使ってますし(でもロシア語はそれなりに通じるし、キリル文字も多数見かける)、また、ソ連時代に抑圧された人たちに関しての博物館があったりと、ロシア離れを意識していることが感じさせられます。
それなのに、タシュケントのあの息苦しい雰囲気、決してソ連的な雰囲気から脱しようというわけではなく、まるでロシアによる支配から新たな独裁者へと支配者が変わっただけといった印象をうけます。ちょっと見ただけの簡単な印象でしかありませんが……。
でも、フェラガナに来て、ウズベキスタンの人々のとてもフレンドリーな世界に接することができてうれしいです。どこでもみなとても好意的で、笑顔が絶えません。やっぱり田舎はいいなあ~と改めて実感。別に都会の人が冷たいというわけではありませんが(笑)。自分も東京出身です。
(アンディジョンのバザールでプロフ(ピラフ)を食べながらおじいちゃんたちと軽く(ほんとにかるーく)語らう)
(泊まっている街のなかなか居心地のいいカフェ・ブラボーで。アコーディオンのナマ演奏っていうのが、ちょっとおっとり田舎風でそれっぽい)
明日にはタシュケントに向かって移動します。途中に1,2泊してからタシュケントに戻り、申請中のトルクメニスタンビザをゲットする予定です(どうも一筋縄ではいかないという噂が飛び交っているのでちょっと心配ですが……)!
(今日の昼飯。といっても、大体いつもこんな感じです。これにもう一本肉を追加して、二人で2.5ドルぐらい。ナンがどこでもとてもおいしくて気にいってます)
(タシュケントに多数あるモスクの一つ。元日の午前中)
ス・ノビーム・ゴダム!(無理やりローマ字で書くと"c nobim godom")
というのがロシア語の新年の挨拶で、31日の夜は人とすれ違うたびに、そうやってお互いに声をかけあっていました。やはり年越しは、誰もが友達感覚になれて楽しいですね。98年にシドニーで年を越して、道行く人と次々に手を叩きあったのを思い出しました(あれから10年!)。
とはいえ、ウズベキスタンの首都タシュケントの夜は、少なくともぼくらが見た限りとてもひっそりとしていました。夕方、繁華街を出て韓国料理屋へ行き、一応ちょっとは日本食に近いものを食べて大晦日気分を盛り上げてはみたものの、それから1時間近く、宿まで歩いてみてもほとんどひっそり。ひとり、サンタクロースの姿で交差点でぼーっとたたずんでいる人がいたものの、それはそれでわけがわからず、大晦日らしくもなかったし。どこかで盛り上がっているはずですが、その場所も分からず、特に何をするでもなく帰宿。。年が明けた直後は、それなりの花火が、それなりの回数上がってましたが。やはり新年レベルの世界的ビッグイベントは、勝手知った街の方がいいなあ、と実感。
(大晦日の夜8時ごろ、比較的賑やかなはずの一画だけど、人影はまばら)
ちなみにタシュケントでのぼくらの宿は、駅附属の新しい宿泊所で部屋はなかなかきれいで快適なのですが(トイレ共同の簡素な5人部屋。でも客が少ないからぼくら2人だけで使える)、寒くてお湯がないとかでシャワーが使えず……。で、大晦日はトイレの洗面台で頭と足だけ洗うという怪しく侘しいスタイルでの一年の垢落としとなりましたが(笑)、とりあえず元気に新年を迎えられました。
ところで、キルギスタンの首都ビシュケクからウズベキスタンの首都タシュケントまでの移動について。
ビシュケクから経由地のシムケント(カザフスタン)へ行く列車は29日の午後14時20分発。シベリア鉄道と同様の列車で懐かしい。寝台ベッドの場所もよくなかなか快適。2時間ぐらいでまずはカザフスタンとの国境へ。車内で職員にバスポートを渡すとともに、なぜかぼくとその他数人だけが「一緒にこい」と呼ばれ、国境職員とともに列車の外へ。列車の中がとても暑かったため薄着のままで出てしまうと、当たり前ながら外はマイナス15度の世界!しばらくそのまま歩いたものの、さすがにこの寒さはやばい!と、手に持ってきたものをあわてて着ました。
(一緒に連行され、待っていた人たち。彼らはモルドヴ人。あとから彼らがジプシーの集団であることが分かる。左が後述するジプシーのボス。このとき多分マイナス15度ぐらいで、ぼくは急いで建物に入ったものの、彼らはタバコを吸うためシャツ一枚で外に……)
その後建物の中で30分ぐらい待たされ、順番が回ってきて部屋に呼ばれると、「ヤポニツだな?カミカゼ、サムライ、だろ!」と定番の勘違いジャパニーズフレーズを連発され、ハイハイって流していると、ぼくらのパスポートを開いたまま、出国のハンコを押さずに、ちょっと笑ってこっちを見ている。「金くれないのか?」ってジェスチャーだと理解し(ぼくの前にハンコをもらったおじさんが賄賂取られるぞって言ってたので……)、「ロシア語分からない」って何も分からない顔をしていると、あきらめてハンコを押してくれました。全くここの警察や公務員はどうなってるんだって、思っちゃいます(ビシュケクの町でも、宿が同じだった日本人旅行者が訳も分からないまま警察に留められ、言いがかりをつけられて、結構な額の金を巻き上げられていました)。
でもキルギス、全体的な印象はなかなかよかったです(ビシュケク以外はほとんど何も見てないですが…)。で、ハンコをもらって電車に戻り、出発してから、しばらくノーマンズランドを走ると今度はカザフスタン国境。ここでは電車を出ることなく、入国審査終了。
このあたりから、列車に大人数で乗っていたジプシーの人たちと交流開始。ウォッカを飲みまくり、派手に口論したりと、とにかくやたらとうるさかった彼ら。ロシアですでにウオッカの酔っ払いにはこりごりしていたので、ここではなるべく話かけられないよう、目立たず地味な車内生活を送っていたつもりでしたが、そう甘くはなく、やはり「お、ヤポニツか?」って展開に。でも、実は彼らはそれほど酔っ払ってなく、なかなか楽しい交流がスタート。シベリア鉄道では一言も分からなかったロシア語が、いまでは少しジェスチャーを交えればそれなりに会話ができるようになりました。ビシュケクの4週間、無駄じゃなかった、と思える瞬間。
(ジプシー一家の面々。中心の男性と特に話す。彼は声が三宅祐司そっくりだった!)
聞くと、彼らはモルドヴ出身のジプシーの大家族。「あれがぼくらのボスでね」とかなり太った白髪のおじーさんを指し、おじーさんは「フォ、フォ、フォ」と貫禄の笑い。どうも彼はかなり大物なんだ、ということをみなが言っていて、ジプシー界ではそれなりに名の通ったドンだったのかもしれませんが、もちろんよく分からず。
ジプシーは、ヨーロッパ版の遊牧民?という風に理解していますが、ルーマニアに多いとうイメージがあります。その中の一人によると、ルーマニアには400万人のジプシーがいて、それが近隣の国々に散らばっていったんだ、とのこと。で、彼らも同様、もともとはルーマニアからだけど国籍はモルドヴなんだ、ということみたいでした。これからカザフスタンのタラズという街のそばに行って、そこを拠点に何か物を売ったりして、生活をはじめるらしいです。おじいちゃん、おばあちゃんも、小さな子どももみな一緒に。新鮮なライフスタイルに感じました。といいつつ、よく考えると、ぼくらもこの4年半は全くジプシー生活なわけですが……。
(この子は13歳で、確か10年ほどはジプシー生活だとか。気の強そうなしっかりとした印象)
一方、彼らと楽しげに話しているぼくらを見て、カザフの国境職員がぼくを呼び、「彼らを誰だか知ってるのか?荷物気をつけろよ」と注意してきたのを聞いて、ジプシーたちがこの地域でどのように思われているのかの一端が分かったような気がしました。
その後、ジプシー業界のドンじーさんと激しく口論して半泣きにされたように見えたもう一人の巨大なおじーさんが隣に来て、ぼくらに熱心にロシア語指導。こまかな動詞の使い方の違いを教えてもらい「ありがとう!」と礼を言うと、おい、もっと質問はないのか?、これも書きとめておけ、と指導に熱が入ってきました。「"ドル"は"ドーラルゥ"だ……、いや違う"ドーラルゥ"!」「"ユーロ"は"イエヴロ"だ……、"イエブロ"じゃない、"イエ「ヴ」ロ"だ!」と熱血教師に。とても勉強になり、最後に「あなたはいい先生だ!」というと、照れ笑いを見せるなかなかいいおじーさんでした。
そんな彼らも夜12時前にはみなで下車。列車が静かになり、ぼくらはそこからぐっすり……といきたいところでしたが、夜中2時50分ごろに起こされて「あと20分でシムケントなので用意を!」と職員が親切にも起こしにきました。6時半ごろ着く予定と思っていたので、マジかよ、って気持ちでしたが、シブシブ起きて、3時20分ごろにはこれまた真っ暗&極寒のカザフスタン・シムケントへと降り立ちました。
ここまでくれば、タシュケントまでは車で2時間ほどと聞いていたので、じゃあ、駅で夜明けを待ってから車を探すかと思っていたところ、一人の男が「タシュケント、タシュケント!」と言いながらよってきました。タクシーの人で、タシュケントの中心部まで連れていくとのこと。一人25ドルから始まってすぐに15ドルまで下がり、15ドルは妥当な値段だと本で読んでいたので、それじゃあ、ということで彼とともに車へ。その後「やっぱり二人で35ドルにしてくれ」と少し値上げされたのですが、こんな時間だし、眠いし、どこかで待つよりは全然ましだ、とそれでOKしました。一緒に乗るキルギス人カップルに「いくらって言われた?」と聞くと、二人で3000テンゲとのこと。ぼくらより安いことは分かったのですが、ドルとテンゲのレートがよく分からなかったので、ま、いいかと納得。でも念のために、ぼくらがテンゲで払ったらいくら?と先の男に聞くと「35ドルか3500テンゲだ」と非常に隙のあるどんぶり勘定な値を言われました。
別の男がドライバーとなり、荷物を積んで、ぼくら2カップル、4人は軽快にタシュケントへとスタート。車内でレートをちゃんと思い出して考えると35ドルは4000テンゲぐらいなので、じゃあ3500テンゲで払った方が得だなと考えていたのですが、実はその2時間後、予想外のトラブルが発生……。交渉していたのとは「別」の男がドライバーになったというのがミソで、最悪の展開が待っていました。。。
道中は順調で、2時間ほどで何ごともなくカザフ・ウズベキの国境に到着。国境の両替屋の前で車を停め、「必要ならここで両替をしろ」とドライバー。上に書いた理由で、ぼくらはこのタクシー代をカザフの通貨テンゲで払おうと思っていたので、米ドルと、キルギスで余った「ソム」をタクシー代の3500テンゲとなるように両替。そして、ドライバーに「はい、これで3500テンゲ」と差し出すと……なんと彼は「そんなんじゃ足りない、5000テンゲ払え」と言ってきたのです。
おいおい、それは話が違う、とキルギス人カップル二人に通訳してもらいながらの大口論の開始。キルギス人の二人も「35ドルか3500テンゲ」とぼくらが言われていたことをはっきりと聞いていたので、かなり強く主張してくれたのですが、そう言ったのが別の男だったことをいいことに「そんなのはおれはしらねー、5000テンゲ払わないとだめだ」と全く譲らず。その上、「おれの車はカザフナンバーで、国境は越えられないから、ここで終わりだ」と、それも全く話が違う!国境の手前までだったら、乗り合いバスで5ドルぐらいで来れたのに!
で、いろいろ言って多分1時間ぐらいもめてもダメで、こっちも「じゃ、もう払わないで降りるぞ」とか言ったり、ぼくも眉間に皺を寄せ、日本語で「てめー、ふざけてんじゃねーぞ」とすごんでみたりしましたが、効果薄(やはりすごむなら迫力出すために日本語で、とやってみましたが、カザフスタンでカザフ人に日本語ですごみ、横からキルギス人に「何語使ってんだよ、あんた、通じないよ、そりゃ」って顔で見られると、なんだか自分が間抜けに思えてきて、ちょっと恥ずかしくなり、途中で気合が抜けてしまい、やめちゃいました(笑))。結局「ここはおれの街だ。外には仲間がいるから呼ぶぞ」とか脅迫された形になり、最後には仕方なく払うはめに。4500テンゲまでは下がったのですが……。
投げつけるように金を払い、にっくきドライバーと別れ、キルギスカップルと4人で国境越えとなりました。カザフスタンは、足を踏み入れた瞬間に恐喝ボッタクリタクシーに出会い、その後直ちに出国という最悪の滞在となってしまいました。もっとちゃんと見られれば違った印象になったのでしょうが、さすがにこれだけだといい印象を持ちようがなく……。
(ボッタクリドライバーと別れ、国境が開くのを待っているときの怒りの暗闇ショット。このように真っ暗で、マイナス20度ぐらいの中で国境が開くまで30分待たされ、しかもそこからさらに1時間極寒の中で審査を受けてウズベキ側へ)
カザフからウズベキへの国境越えは、両国の審査で計1時間ほどかかりましたが、そのほぼ全行程が極寒の外!という地獄の越境。多分気温はマイナス20度ぐらい。それなり暖房の効いた部屋の中にいる審査官がちんたら審査をするのを、その外で大勢が足先を半ば凍りつかせながら待つという、超横綱級・役人天国が両方の国で展開していました。ウズベキの入国審査の書類など、手が麻痺してまともに字が書けませんでした……。
なんとかその極寒地獄の1時間を乗り越え、車を見つけてタシュケントの街へ。それからまたいろいろあったものの、30日の朝9時ごろには、とりあえず目当ての宿に落ち着くことができました。寒さと眠気で疲労は半端ありませんでしたが……。
タシュケントは、ビシュケクよりもぐっと大きそうだし、地下鉄も通っている立派な都市ですが、なぜか全然ひと気がなく、警察もウヨウヨいて、ソ連時代を強く思い起こさせます(ロシアではそういう印象はほとんど受けなかったのに)。特に地下鉄の中は薄暗く、不気味な静けさ&気難しそうな警察もいっぱいで、なんとなく落ち着かない。ちょっと変わった行動を取ったらすぐにしょっぴかれそうな恐れが……。スターリン時代のソ連ってこんなだったのかな、と思わせる雰囲気があり、今のところあまり好きになれません。もうちょっといたら、また違った印象をもてるかもしれませんが。
それに比べてキルギスタンのビシュケクは、形だけでも民主化した国であるためか、なんか自由な匂いがした、というか、安心して好きな行動ができるところでした。警察がひどいのは間違いなさそうなものの、特に彼らの存在が目に付いて仕方ないという風でもなかったし。
でもその一方で、タシュケントは無線ランの発達が激しく、あらゆるカフェに無線ランが飛んでいるという都会っぷりも見逃せません。ビシュケクなんて無線ランはほとんどなかったし、あってもやたらと高くてとても使えなかったので。タシュケントはもちろんどこでもタダ。ぼくらにとってはかなりうれしいです(……と、これを書いてるときは思ったけど、実際はどこもあまりに接続が不安定でほとんどつながらず。つながる場所求めて、移動しまくり……)。
(元日の朝の小さなバザールであったウズベキ人カップル)
明日3日にトルクメニスタン大使館が開きビザの申請ができるので、申請したその足でタシュケントを離れ、ウズベキの田舎へと移動予定。都市はやはりどこでも同じなので、ウズベキこそ、地方を存分に見てきたいと思ってます。
(トルクメンビザ申請中にまず向うのはウズベキ東部のフェラガナ(Fergana)地方。このあたりはもっともウズベキらしさが感じられる地方だとか。そのあと、トルクメニスタンに入る前に行っておきたいのは、マスト・ゴーだと言われるサマルカンド(Samarkand)、ブハラ(Bukhara)とヒバ(Khiva)(それぞれ地図の1,2,3)。中央アジアでは、各国ビザの日程にあわせて移動計画を立てるのがなかなか大変)
長くなってしまいました。
みなさん、よいお正月を!