イェレバンライフも今日で最後、というかアルメニア自体、今日が最後となりました。
アルメニア北部の田舎も周ろうかどうしようかと、いろいろと考えていたのですが、結局、ま、いいか、ということになり、今日の夜行列車で一気にグルジアの首都トビリシまで行ってしまうことにしました。
イェレバンでは特になんにもしてないような気がするのにすでに5日目、という首都っぽい日々でした。でも、例のウシ人脈もあって出会いは豊富でした。
牛山さんは、イェレバンであるイラン人のお宅になんと3週間も(厚かましい!)居候していました。そのイラン人アミールさんは、90年代に日本で働いていた人で、あらゆるシチュエーションで「ダイジョーブ!」を連発する面白い日本語を操るとても親切な人物。彼も、牛山さんを道で見かけて、「ぼくの家、ダイジョーブ、何日でも泊まって、ダイジョーブ!」と誘ってみたものの、まさか3週間もいられることになるとは予想していなかったはず。アミールさんは、食事までいつも作ってくれていたようで、ぼくらも遊びに行くと、すぐに食事を作ってくれました。手伝おうとすると、「ダイジョーブ、ダイジョーブ。座ってて、ダイジョーブ!」と何から何までやってもらってしまい、ぼくらも厚かましくも言われるままに、食って飲んでダベるのみ。
彼もやはりイスラム教徒なので「アミールさん、祈りますか?」と聞くと、「え、うん……、祈らないよ、ダイジョーブ!祈らない、ダイジョーブ!」と予想通りの答。豚肉も酒も「ダイジョーブ、豚肉も酒も、日本でやったよ。ダイジョーブ!」でもパチンコの話になると「パチンコは、ちょっとやったけど、30分で1万円うばわれた。ちょっとだけ、ダイジョーブ、でもたくさんは、ダイジョーブない!」とのこと。
ちなみに、彼も日本にいたときは観光ビザで思わず2年も滞在してしまい、見つかって強制送還されたとのこと。さすがのアミールさんも、1ヶ月ほどのビザで年単位の滞在はダイジョーブじゃないようでした。
(アルメニア式コーヒー。左の小さな鍋で直接煮立てて、エスプレッソのような小さなカップで飲む。イェレバンには本当にカフェが多くて、コーヒーもケーキも店の雰囲気もかなりレベルが高くてうれしかったです(この写真はタテフの家庭のもの))
ぼくらが今日まで泊めてもらっていた会計士ステファンのところでは、一昨日、十数人のヨーロッパ人が集まってパーティに。19日にちょうど大統領選挙があったために、その監視人(キルギスでの挑戦が懐かしい!)としてアルメニアに来ていたノルウェー人、デンマーク人がステファン邸に集結。その他、アルメニア在住のドイツ人、スロバキア人、インド人など、そしてもちろん地元アルメニア人とぼくらも。
(ステファンちでのパーティ。ぼくらはこの部屋の奥にタダで寝泊りさせてもらいました)
アルメニアは、90年代に独立して以来、アゼルバイジャンとも戦争をしたし、経済的にも決して最高の状態ではないために、NGOやボランティアとして働く西洋人が結構いる様子。一応は民主化されているものの選挙もあまり公正に行われているようではないようです。選挙翌日から、街なかでも不正を訴える大規模なデモや集会が開かれていました。
(大統領選挙の無効を(たぶん)訴える集会)
07年末に大統領選挙があったグルジアでもそのあと大荒れになっていたけれど、この辺はどこもソ連崩壊後から現在まで問題は山積なままなようです。
メグリやゴリスで年配の3人の人に「ソ連時代とくらべていまはどうか?」と訊いてみましたが、そのうち2人は「ソ連時代がよかった」という答えでした。
「ソ連のときは、仕事の心配をする必要がなかった。明日も明後日も必ず仕事があって、何も心配せずに、ただ毎日、職場と家を往復すれば、それで生きていけた。病院もタダだったし。でもいまは、子どもの学費も、病院も、すべてお金がいるし、今月いくら稼げるかも分からないし……」と、宿を経営する女性が言っていました。
「ソ連よりそりゃいまの方がいいよ。何してもいいんだから。ソ連が崩壊して生活は全く別なものになったよ」と言ったタテフ村の男性も「でも仕事はやはりソ連のときがよかった。この村にも、コンデンサーを作る工場があって、そこで120人も働くことができた。いまは、バスの運転、学校、病院、郵便局ぐらいしか仕事がなくて、そんなの大した人数にならないしね」と。
ソ連時代は暗黒社会のようなイメージがあるけれど、実際にその時代と現在の両方を経験した人にとっては、そう単純なものではないんだろうなと感じます。
アルメニアはアゼルバイジャンのみならず、トルコとの関係も非常にまずく国境は閉鎖中。というのも、第一次大戦時、民族浄化の名のもとにトルコが150万人ものアルメニア人を虐殺・追放したという歴史があるからとのこと。一部には「史上最も残虐な出来事」とも言われるようですが、ここに来る前は全く知らなかったし、そもそもアルメニアがどこにあるのかも全然分かっていなかったってな具合なわけで……。虐殺博物館はとても見ごたえがありました。
(虐殺博物館のモニュメント)
また、アルメニアは英語を話す人の割合が実に高くてびっくりでした。さあロシア語だ!と思ってやってきたものの、ぼくらのロシア語よりもアルメニア人の英語の方がうまい場合が多く、結局英語になってしまうことが多いです。
あ、そういえば、美人大国と聞いていたアルメニアでしたが、それほどでもなかったような……。自分の印象としてはロシアのハバロフスクの方が、またイランの方が圧倒的に綺麗な人が多かった気がします(イランはそんなとこでも、期待値を大きく上回り、びっくり)。でも明日から行くグルジアは、本当に美人大国らしいです。今日の夜行列車で国境を越えます。
(今夜の夜行列車でグルジアの首都トビリシ(Tbilisi)に向かいます。ほんとはもっとゆっくりと北上したかったものの、時間的な問題などがあり、一気に進むことに。久々の列車です)
(タテフの村で日曜ミサに向かう子どもたち)
アルメニアも一週間。一昨日(18日)、首都イェレバンに着きました。昨日は大統領選挙があり、その影響で今日あたりからちょっと不穏になるかも、、、なんていう地元の人の話も聞きましたが、平穏な都会ライフを送っています。
イェレバンでは、地元アルメニア人の会計士の仕事場にある空き部屋に泊めてもらっています。アルメニアの他の民家同様、部屋がかなり寒いのが難点ですが……などと、タダで泊めてもらっているぶんざいなのに大きなことをいえる立場ではなく、宿を提供してもらっているだけでとてもありがたく過ごしています(ホントに)。
前回書いたように、ゴリスで、半年振りに牛山さんという独特なキャラの旅行者に再会したのですが(中国・モンゴル間の国境で足止めくらったときに一緒だった人)、アルメニア入ってからは、彼のおかげで、ぼくらも次々に民家に泊めてもらう生活が実現できています。
この牛山さんの旅の仕方がなかなかすごいんです。移動はほぼ全てヒッチ、宿泊も民家をノックして「泊めてください」とあわせた両手を頬の横に持っていくジェスチャーで頼むか、ヒッチで乗せてもらった車の人の家にそのまま転がり込むという、目に余る厚かましさ(笑)。とても好感のもてる人物であるせいか、または荷物がビニール袋と小さなリュック一つだけという現地人からも同情を買ってしまう貧乏風なスタイルのせいか、やれ「うちに泊まりなさい」とか、やれ「乗ってけよ」とか言われて、物価の高い国はほとんどそれで渡り歩き、中国からここまで7ヶ月ほどの旅で使ったのはたった2000ドル(ぼくらはその2,3倍使ってます)というので驚きです。
いまぼくらが泊まっているところも牛山さんが前にイェレバンで知り合った人を紹介してもらった、というわけです。
アルメニアやグルジア、そしてこれから先のヨーロッパは、この「ウシテク」を少し取り入れないと金銭的にちょっと厳しそうなので、ぼくらもノックして民家に泊めてもらうという方法を少し実践してみようかと思っていますが、これがなかなか、体力と精神力が要りそうです。
こないだ、牛山さんと3人で、ゴリスの街なかで手当たり次第にこの方法を試したときのこと。声をかけてきた車の人に試しに、「今日、泊まるところがないんだけど、泊めてくれないか。ホテルは高くて、お金がなくて……」などと言ってみると、「金がないのか?金がないやつは道路で寝なさい」と厳しくしかもある意味まっとうなことをピシャリといわれ、世間は甘くないことを早速実感……。そういうこと何度か言われたらぼくらはすぐくじけてしまいそうなので、やはりイランのように向こうから誘われないとなかなか泊めてもらうっていうのはしづらいですが、でも、この方法でガンガン推し進める牛山さんはとても素敵な出会いをいくつもしているので、こういう方法もカードとしてもっていたら旅の幅はさらに広くなるだろうな~と感じました。
さて、話は5日前に戻って、その牛山さんと再会したゴリスから。
(タテフはこんな感じののどかな村。周囲を雪山に囲まれ、こんなところで育ったら、すごい自然派キャラになりそうだなあと、エセ自然派として想像)
再会した数時間後に、ゴリスから30キロほど離れたタテフ(Tatev)という村へ行きました。30キロなのにバスで2時間かかるという厳しい山道の先にあるタテフには、9世紀(か5世紀?)にできた教会がいまも建っていました。崖の端に建つこの教会の中で子どもたちとともに日曜ミサに参加し、10世紀のフレスコ画の跡を見ると、いやあ、いよいよヨーロッパだなあと感じました。
(9世紀(か、5世紀)に建てられたという教会。向こうの山から見ると崖っぷちに建っていることが分かりすごいらしいです。シンプルな石造りは、アルメニアの教会に共通らしいです)
(その中。光の入り方がとても神秘的な雰囲気を演出)
(教会の中の小さな部屋での日曜ミサ。ロシア正教とかに共通する煙に満たされ、これまた神秘的な空間に)
(これはタテフのまた別な教会。1646年の建築物で、アルメニア的には新しい部類に入りそうなものの、いまは使われていない。)
タテフまでぼくらはバスに乗り、B&B民家に泊まったものの、牛山さんはここでもバスには乗らず、ヒッチ&ノック戦法。しかし、途中吹雪になり、何台も車が引き返すような悪天候で「さすがにこれは無理だろう」と思っていたのですが、そのしぶとさには脱帽でした。彼は途中までの車を見つけ、あとは15キロの山道を歩き、最後は暗闇の中、狼を恐れながらなんとか村に到着。しかも、泊めてもらった家は極寒でほとんど眠れず、まともな食事もなく、というハードな展開に。やはり相当タフじゃないとウシテクは実践できないなと実感しました。
(タテフの学校で見た「バレー部」。まさに「バレー部です!」)
一方ぼくらはB&Bで手作りの豪華な食事とウォッカなどで快適な民家ライフを送り、そこに2泊するつもりだったものの、1泊した翌日、昼飯を食べながら宿のおばさんに宿・メシ代の確認をすると、約束以上のかなり法外な額を請求され、全然折り合いがつかなかったため、急遽ぼくらもそこを出て、その日のうちにゴリスまで戻ることに。その日は日曜でバスがなかったため、期せずして、いきなり牛山さんとともにヒッチすることになりました。
すでに夕方で、暗くなったら道も見えないしおしまいだな、とちょっと焦り気味でしたが、ウシテクのおかげもあって運よくすぐ車が見つかり、ぼくと素子は二人で助手席に乗るというギュウギュウ詰め状態で1時間走って無事ゴリス着。で、宿探し。教会で泊めてくれ、といって断られ、結局牛山さんが二日前にヒッチした挙句泊めてもらったリッチなお医者さんの家に、3人で押しかけることに……。
さすがに断られるかなと思っていたものの、「バレー部です!」と入っていくと、3人で行ったのになんとびっくり大歓迎!「おお、バレー部です!バレー部です!」と。
笑い上戸の絵描きの奥さんとアルメニアで一番手術数が多いというベテラン外科医とその息子たちとともに、豪勢な食事でとても楽しい夕食に。「アクタガワはすごい、バショウが好きだ」というかなり日本通の家族と、日本ネタでいい盛り上がりをみせ、あとはゴリス名産のフルーツウォッカをしこたま飲まされて……という夜でした。
(ゴリスのお医者さん宅で。右端が牛山さん。インパクトの高い怪しい風貌と穏やかかつ人当たりのいい魅力的な人柄を武器に、厚かましくてディープで素敵な旅を果てしなく続けられそうな好人物)
翌18日にぼくらはバスで首都イェレバンへ。牛山さん紹介の爽やかな若き会計士に連絡を取り、彼の仕事場の空き部屋に落ち着いた、というわけです。イェレバンは英語を話せる人の率がかなり高く、またNGOやボランティアとして働いている西洋人も結構います。これもまたほとんどウシ人脈ですが、彼らと会ったりしながらこれから数日過ごす予定で、出会いが多くて楽しそうです。
牛山さんに始まり牛山さんに終わるかもしれないアルメニア。おかげで、人との出会いがかなり多く、旅の新たな方法が開拓されそうな予感です。
イェレバンの写真はまた次回。
(国境の町メグリ。古い石造りの教会がヨーロッパに来たっていう感じ。教会は17世紀のもの)
13日にイランから国境を越えてアルメニアに入りました。
川の向こうはすぐアルメニアという国境なのですが、国境を越えるといきなりキリスト教の西洋世界になっているので不思議なものです。アルメニアには独自の文字があり、言葉はアルメニア語なのですが、やはり旧ソ連、ロシア語も広く通じます。国境職員はロシア系なのか(実際そのようです)、お互いにロシア語で話していたし、少しでも意思疎通ができる世界に戻ったのは旅する上でうれしいものです(その一方、イランの印象がとてもよかったので、イランを離れるのがちょっと寂しかった!)。
(イラン側から見たアルメニア。川の向こうはすぐアルメニア!)
(国境のイラン側)
イランのタブリーズから国境までは、バスはほとんどなく、乗り合いタクシーを乗り継いでいくことになりましたが、とても順調。国境の川沿いを30分ぐらい走るのですが、川の向こうはアルメニアだったりアゼルバイジャンだったり。国境がとても複雑に入り組んでいることがわかりました。
(国境の橋から。右がイラン、左がアルメニア。とてもきれいな国境でした)
国境越えもスムーズ。川を越えるだけの国境のため、二国間のノーマンズランドは橋しかなく、久々に歩いて渡れる国境でした。
写真を撮っているのがバレてしまい、アルメニア側で一枚削除させられましたが(10枚ほど撮っていて見つかった1枚以外は、再生ボタンを逆に回してイランの写真を見せることで辛うじてセーフ)、その対応もとても紳士的。「写真はだめだよ、ぼく。これは消しなさい」って諭される子どものようでした。
アルメニア側に入り、10分ほどまたタクシーに乗ったら、Meghri(メグリ)に到着。ホテルもレストランもほとんどないらしいので、ホームスティさせてくれるらしい家族を訪問。いきなりだったのですが、夫婦と娘さんが温かく迎えてくれました。奥さんはドイツ語の先生、旦那さんは栄養士(もしくは植物学者?)か何かで、奥さんは英語を話すし、旦那さん、娘さんもロシア語は流暢。
(メグリのホームスティ先の家族。みな親切でした)
メグリは人口5000人のとても小さな町ですが、石造りの家が山にへばりつき(ちょっとイランのマースーレーみたい)、古い教会やお城があったりといい雰囲気。
(教会の神父さん(でいいのかな?)アルメニアはキリスト教でもArmenian Apostolic Churchという派が最大。アルメニアは世界で最も早く公式にキリスト教を採用した国として知られます(AD 301年))
(教会の絵はどことなくアジア風。教会で地獄が描かれている絵などあまり見たことない気がしますが、どうでしょうか)
到着した日、旦那さんのゲボルグに町を案内してもらい、携帯電話のシムカードを買って(これでアルメニアでも上海で買った携帯が使えるようになります)、ネット屋も見つけました。宿もないこんな僻地でもまたネット屋が2軒……。本当にインターネットの広がりというのは驚くべきものがあります。
(アルメニアの文字。うーーん、なんとも言えません。。。が、最近、漢字こそ世界で最も不思議かつ特殊な文字のような気がしてきました。「数千文字あって、実際いくつあるか分からない!」っていうと、みな、なんでそんな文字をあなたたちは使いたがるんだ、といい、確かにそうだなあと納得してしまいます。それに比べると、アラビア文字もキリル文字も全然平易なような)
家では、おいしいアルメニア式コーヒーやらここの名産のザクロ、イチジク、カキなどを出してくれ、夕食は、すべて庭で作っている野菜で満たされた超オーガニックディナー。そして、手作りワインとウォッカ。イランの単調なケバブライフから、川を越えたらこういう食生活をしている人がいるというのはやはり国境の不思議さを感じます。
(何から何まで手作りなのには驚き!チーズ、赤ピーマン、キャベツ、トマト、豆、胡桃、パン(写真上)、カキ、ナシ、カボチャ(右)(写真下)、その他、桃のコンポート、ワイン、ウォッカもすべて自家製でした。久々に超豪華な気分)
とはいえ、アルメニアの田舎はいまもとても貧しいらしく、奥さんは、とてもこれだけの食べ物を買えないから作っているとも言っていました。首都イェレバンで大学に通う息子さんと娘さんの学費を払うために、奥さんは日中、学校でドイツ語を教えたあと、家で家庭教師をし、旦那さんもすでに退職したのか、いまは運転手をして少しお金を稼ぎながらやりくりしているとのこと。二人合わせて月収は300ドル程度で「旅行もしたいけど、私たちにそんなお金はないし、いいなあ」と奥さん。
こういうときに、自分たちの旅のことを聞かれ、「日本を離れて5年経って、いまは中国から半年かけて旅してます」なんてノンキなことを言うのはとってもはばかられるような気がしてしまいます。ただ自分たちが日本に生まれたというだけで、実際どうしてもお金持ちという立場になってしまうことに、いつもながら複雑な思いを抱かされるし、こんな生活をしているのがちょっと恥ずかしいような、なんだか申し訳ないような気持ちにさせられます……。
などと殊勝なことを書いてみましたが、さて、今回のタイトル。
友人からすでに聞いていたのですが、「バレー部です!」と元気よく言うと、アルメニア語の「こんにちは!」の意味になるのです!
実際に「バレー部です!」とこの家族に言ったら、「あら、知ってるのね、アルメニア語!バレー部です!バレー部です!」と言い返され、ほんとだ!と爆笑しました。
そんな感じで、温かい家族の中で楽しくメグリでの日々を過ごしました。部屋がとても寒いのがきつかったですが……。
ここに2泊して、昨日(15日)の早朝7時のバスで100キロほど北のゴリス(Golis)へ。
途中、久々に2000mオーバーの雪山を越え、一面の雪景色。気温もぐっと下がり、ちょっと中央アジアを思い出す寒さに……。
(途中バスから見えた雲海!山の谷間が雲で満たされ、そこに朝日が昇りはじめ、とても幻想的でした)
ゴリスの町はとてもきれい。雪山に囲まれ、並木道と石造りの古い家。西洋らしい重厚な歴史を感じます。しかしここに来て、アルメニアの物価の高さを実感!食べ物はまだ安いのですが、宿が高い!町の人に聞いて、一番安い宿を探しても一人16ドルとか、そういうレベル……(実際もっと安いのが一つあったのですが、そこはさすがにひどいみたいで選択肢に入れず)。宿10ドル程度(これでもバックパッカーには結構きついのですが(笑))って聞いていたのにこの4年ほどでアルメニア通貨ドラムの価値がドル換算で2倍ほどになり、ドルで考えると物価が相当高騰していて、厳しいです。
アルメニアは、隣のアゼルバイジャンとは犬猿の仲で、アルメニアのビザがパスポートにあると、アゼルバイジャンには入れなくなります。両国の間には自称の独立共和国があり、アルメニアはそれを支持、アゼルバイジャンとその国は一触即発状態(…までではないかもですが)。アルメニアはキリスト教国で、アゼルバイジャンはイスラム教国。アルメニアはロシアと強く結びつき、アゼルバイジャンは、カスピ海の豊富な石油を餌にアメリカから大きな援助をもらっているとのこと。そして、アルメニアの北にあるグルジアとも、またいろいろとあるらしいです。コーカサス地方(この三国のこと)は小さいけれど、民族が多く、歴史も複雑でなかなか大変そうです。
(ゴリスの街並み)
さて、昨日は普通の宿(B&B)に泊まったものの、宿の奥さんが、娘さんの誕生パーティに呼んでくれ、ぼくらも娘さんの家にお邪魔して一緒に豪華な夕食。その娘さんというのが34歳で、すでに5人の子どもがいて一番上は16歳!宿の奥さんはまだ51歳なので、なんと彼女は35歳でおばあさんになっていたということになります!それはさすがにびっくりですが、やはりいつもながら大家族は楽しそうでいいなあ~と羨ましくなります。
(下列の左の女性が51歳の奥さん。で、子どもを挟んで右側の女性が34歳の娘さん。で、彼女の上にいるベージュのセーターを着た女性と一人挟んでその左隣にいる女性が、その娘さん(16歳と14歳)!最初は完全に姉妹かと思い、びっくり!)
イランに続き、アルメニアもまたとても人が親切。最近、結局どこの国の人も大抵の人はとても親切なのかもなあと感じ始めています。
今日、モンゴルでしばらく一緒だった日本人の牛山さんと半年ぶりに再会。これから一緒に、5世紀ごろの教会が絶壁に残る山奥の小さな村タテフ(Tatev)に行ってきます。さすがにすごい年季の入った代物のようで楽しみです。1、2泊して、またゴリスに戻って、そのあと首都イェレバンに向かいます。
(アルメニアは本当に小さくて、町から町の移動もほとんど数時間でおしまい。いま、牛山さんが、隣の自称独立国(この地図じゃ表記不可)に数日行こうとぼくらを説得中。ぼくらはまだ全然気持ち的に盛り上がってないのですが、どうなることか……)