2008年4月26日

Sceaux

20080425_8.jpgパリを縦横に貫く郊外線RER、そのなかでも南北に走るB線の旅は、いつも薄暗い。パリ市内に七つ、左岸に五つの駅を数える、B線の旅は鈍い。郊外線というには小刻みに止まりすぎる電車のリズムは弾まずに、どこまで間延びしていく。普段の行動範囲と重なるはずもなく、北のシャルル・ド・ゴール空港と南のオルリー空港を結ぶ列車のなかには、大きなスーツケースを持ち込んだ旅行者が多い。無論、そんな時には、ぼくも世話になるのだからたいした文句は言えない。車内は薄暗く、ホームを照らす蛍光灯も青白い光をちらつかせる。これから行くソー公園は、日本人にとっては桜の一大名所として有名で、日本よりも少し遅く、四月中旬ともなれば、花見の客がシートを広げて、バゲット、ハム、ワインの瓶を並べて、しばし故郷の雰囲気にひたる。桜がみたい、と毎年言っていながら、ぼくがパリで花見をしたことは、ついぞなくて、すでに五月にもなろうかという今時分、ぼくが午後を潰してソーに足を運ぶのは桜のためではなくて、庭園内の、いまはイル・ド・フランス県美術館になっている城館と、20世紀に入って復元されたル・ノートルの庭園を訪れるためだ。列車が地上に出た。右に、モンスリ公園の木々の梢だけがわずかにのぞいている。線路脇すぐには、たいした距離もとらずに白い壁のマンションが立ち並び、車窓の視線を気にしてか、窓は慎ましいほどに小さく、カーテンはどこも締め切られている。ほどなく、大学都市という学生の寄り合い集落に列車がすべりこむ。大学都市の真下を縦に突き抜けるトンネルを抜ければ、そこはもうパリの郊外だ。沿線が急に開け、立ち並ぶのはレンガ造りの戸建て住宅で、高層住宅は、むしろもっと東、A6とナンバリングされたパリからのバイパス道路沿いに、白い壁を切り立てている。低層住宅が中景に浅く広がっていく向かうに、コンクリートの白い板が光を受けて、蜃気楼のように浮かんでいる姿は、高原の聖地かとも思われた。途端に見晴らしがよくなり明るい光が注ぐものの、とくにそんな日常の景色に興味があるわけではない車掌はとりあえず先を急いでいる。Bourg-la-Reine駅で降りて、駅前のモノプリで水だけを買って、線路沿いに道をのぼっていく。線路をまたぐ陸橋からパリの方を振り仰ぐ。線路に架かる橋からの風景がぼくは好きで、ちょうど川に橋が架かるように、線路は水の流れぬ川であり、安全地帯として設けられた土手も河原さながらに、町を裂いて広い空を切り開き、風は裂け目を吹き抜ける。川も線路もともに都市の生活において重要な動線であると同時に足を踏み入れられぬ立ち入り禁止区域でもあることも共通で、時には身を投げる人もいるだろう。パリの陽射しはようやくに春のもので、間に着込んだニットを脱いで、Tシャツにジャケットになった。巨大な工場と見えた、本体よりも高い煙突を戴くレンガ造りの建物は、いまでは高校となっているようで、いったい何を燃やすのだろうか。あるいは一九世紀には工場と労働者住宅のコンプレックスだったのかもしれない。ソー公園の北東の角から入ると、直方体に剪定された並木に囲まれて、花壇が連なっている。あいかわらずチューリップくらいしか名前を知らない。ひとつひとつの花が光に透けて、ふるえている。その効果は風によるものではないだろう、光は波なのだから、淡く色づく花びらのひとつひとつの半透明の繊維に反射し、絡まり、回り込んで、光は自ら揺れ、そして花びらを揺らしているのではないだろうか。城の方へと向かう。ちょうど城の正面門の前に出た。正面入り口へと続く道は、町へと降りていく坂道で、パースペクティブが遠くパリの空へと抜けていく。城の反対側に回れば、ヴェルサイユ式、といって間違いないだろう、庭園がまっすぐに延びていく。この庭園には、ふたつの平行する軸線が用意されていて、もう一本は、城とちょうど斜向かいに、ハノーヴァー館を置いている。20080425_1.jpgこの庭の二本の軸線はちょうど、ふたつのアイストップを差し向いに栓をされているわけだ。城を抱いた緑の芝の軸線にたいして、もうひとつは十字に切られた水路になっている。城を背に、華やかな水壇を散歩して、かなりなレベル下ったところが、ちょうど十字の北の橋で、そこから反時計回りに辿ることにした。水路脇には、釣り糸を垂れる人が並び、その背中をジョギングの人が走っていく。十字架の中心にでたところで、向かい岸の奥に桜の雲がちらりとのぞく。あれが桜だろう。だがそこまで行くには、十字架の一辺を往復していかねばならない。もう疲れた。十字の西の端、芝の斜面に座り込んで靴を脱ぐ。太陽は右四十五度の遙か上から照らしている。手で庇をかざしながら、視界の奥をみやれば、向こうは幹線道路だろう、白や銀の長方形の帯が、時折、一瞬光をここまで届かせながら、すぐまた林の中に消えていく。ジャケットを脱いでTシャツになって寝ころんだ。陽射しが肌を暖めるそばから、風は熱を拭い去っていく。集合は四時だった。そろそろ行かないといけない。

展覧会は、ルイ・カロジス、通称カルモンテルという画家、演出家、造園家の残した「透視画」で、遠近法絵画の意味の透視画ではなく、文字通り、「透明な絵画 peinture transparente」の謂である。日本語でなんというべきか知らないので、透視画とひとまず訳しておこう。42mに及ぶ、一言で言えば絵巻で、特製の木の箱に収められ、背後から明かりで照らす。一八世紀の映画ともいうべき仕掛けで、無論、先立つ時代に同様の機械が存在しなかったわけではもちろんないのだが、現存する中ではもっとも古くまた長い三巻のうちのひとつなのである。保存状態は一番良い。42mの景色は実存のものではなくて、想像上の庭園風景が連なっていくもので、そこここに、カルモンテル自身の設計になるモンソー庭園や、ジャン=ジャック・ルソー終焉の地であるエルムノンヴィルやらの面影を認めることができる。カルモンテルは、オルレアン公の息子シャルトル公(後のオルレアン公)の御用演出家ともいうべき存在で、公爵家の肖像画家として、現在のパリ一六区すぐ外のサン・クルーの城館の祝祭、衣装、演劇等々の総合演出家を務めた。パリ八区、モンソー庭園も、オルレアン公からの依頼のもとに設計され、カルモンテルが鍵を公に渡す場面を描いた油彩画は、フランス庭園史におけるひとつの頂点として記憶されており、世界各地の奇観、奇想が、祝福されて集められたこの一枚の庭は(当時、庭園は絵画として構成された)、そのままフランス風景式庭園のエンブレムとなっているのだ。モニク・モッセによってカルナヴァレ美術館の地下倉庫から、この絵が救い出された時には、身元不明の作品が集められた未整理棚のなかに、無造作にも丸めて収められていたという。

この一幅の絵画と同様の趣向を、しかし時間の軸に乗せて展開する、この「透視画」は、地平線が画面の下、五分の一程のところに引かれ、横に流れていく画面を繋いでいくのは前景の遊歩道で、鑑賞者は散歩者の歩行で、四つの季節にまたがる一年の風景を辿ることになる。最前景にほぼ等間隔に並んだ木立が、画面を分節してリズムを刻む。前景の木立と小道、中景の庭園、村落の風景、遠景の森林あるいは山容に明確に重ねられた遠近法は、時折、きままに画面奥へと逃げていく小道と沿道の並木の効果によって強調され、そんな時、小道に取って代わって水路が前景に流れ込んできて、今度は黄金のゴンドラの旅へと誘われることになる。連続した四つの季節は、色づく木立や太陽の光の淡いによって微妙に移り変わっていき、朝昼晩は光のグラデーションと影と陰の巧みな取りかえによって変化していく。印象的なのは夜のシーンで、夜の街灯。月に照らされた円形神殿。炎に包まれる館。舞踏会に急ぐ人々の人影は、遠景の青白い町の明かりを逆光に黒いシルエットとなり、一夜明けてやがて訪れる朝には、作者の明確な意図なのだろうか、それまで、この一幅の絵巻を散策する先導者だった遊歩者達の人影が絶え、あらゆる活動が待機する、未明の影ない爽やかな景色が支配する。存在はみえなくとも、もう鳥が囀っているのかもしれない。きっと上映のおりには、音楽も演奏されていたに違いない。このイメージの箱が、どのような調度の中に置かれていたのか。夜会の余興に。明かりは落とされていたことだろう。講釈師はいたのだろうか。一八世紀は幸福であることが義務であった時代だ。透視画を背後から照らす光は、電気のそれではなく、ロウソクか油の光であったにちがいない。その明滅し揺れ動くリズムは、競って幸福であろうとした人々の、祝福を望んで思い詰めた魂の揺れではなかっただろうか。

Posted by tdj at 2008年4月26日 13:02