昨日の朝、娘のぎょう虫検査をやりました。あのキューピーちゃんのぺたっと張るやつは、30年前から全く変わってないのがなんかうれしい。30年以上変わらないものって、あとはよっちゃんいかと、ガリガリくん、ぐらいだったり。。ってことはないでしょうけど。j
で、思い出したのが、自分の小学校時代のこと。先生がある日、「ぎょう虫検査の結果が出たから、この紙を順に取ってって」と「異常なし」の紙を前から配っていきました。みんな、よかったとひと安心。しかしそのときに、先生が思わぬひと言。
「あ、近藤は取らないで。別のがあるから」
なんと自分だけぎょう虫がいたわけです。
そしてそれを自分も含めてクラスみなが同時に知るという、発表の仕方には正直傷つきました。
なんとか笑いをとってけむに巻こうとしたものの、さすがに恥ずかしく、いまでも記憶に残っています。「ぎょう虫くん」とかあだ名がつかなかっただけでもまだよしとしなければなりません。
ただ、当時は若干傷ついたものの、いま思えば、最近のなんでもかんでも個人情報うんぬんっていう風潮より、このくらいで全然よかったのかなとも思っています。先生もそうして子どもが傷つく様子を見て、どうやったら子どもが傷つかないように伝えられるかとか、次はどうするべきかって考えるだろうと思うからです。
もちろん、子どもを取り返しのつかないほど傷つけてしまうということもあるかもしれないし、それは避けなければいけないけれど、でも、いまのように、ちょっとでも問題がありそうなことは事前にやめてしまい、とにかくミスがないように、ということばかりが重視されてシステム化されたものにただ従って教師が動いていたら、子どもの微妙な気持ちの機微などわかるようにならないのではないかな、と思うのです。
先生自身が失敗し、試行錯誤することが教育にとっては非常に大事なんじゃないかと思ってます。そうするには、先生自身の力が問われますし、リスクもあります。でもそういうリスクを意識しながらやらないと、自分の思いのこもった熱のある言葉はかけられないのではないかな、と思うのです。
それは現在、教育以外のあらゆることにも言えることだと感じます。自ら考え、失敗のリスクを背負って判断し行動する。そういう、ルールが明確ではない、グレーゾーンのようなものがなければ、人は成長しないし、社会は成熟しないんじゃないかなと。。。
いろんなことがルール、ルールでぎちぎちになる日本の現状を見ながら、そんなことをよく思います。
ぎょう虫に関していえば、自分はその後、中国で回虫も出てきたし、そういうキャラなのだろうと。
あと、サナダムシもどっかで取り入れれば、三冠達成ということに。
ゆうき君のように失礼なことを教員にされながらも許容的に見てあげていること自体が偉いしスゴイことだわ!
ただ時代の風潮があったし受け止められる雰囲気のあるクラスだったかもしれないけれど、やっぱりギョウチュウの検査の結果オープンは教師として配慮が無さすぎたと思います。其の時のゆうき君の様子から「傷つけたかも」と学んでくれるような観察力のある先生だったらいいけれど,,,
個人情報といっても電話番号とかについてなら、過敏になりすぎているような気もします。人によっては連絡網も其の子の前後の分しか教えない場合もあります。私は個人情報の扱いの大切さをしっかり教えて「信じて」クラス全員分配るってやり方しているけれど、中には業者から電話来て○○円で連絡網売ってほしいと言われた生徒もいたので悲しい世の中になった、なんて思います。
先日、若手の教員が各家庭の状況調査の紙を(個人に手渡しが基本なのだけど)一気に生徒がまわしながら返却たので腰が抜けそうになりました。母子、父子家庭のお子さんがいる場合は特に家族構成の欄とか人に見えないように必死な子もいるので、配慮が無さすぎてかなり強く注意してしまいました。「時間が無くて」なんて言い訳されましたが、やっぱり隠したい生徒もいることは配慮してあげなきゃいけないと思います。本人が自己開示できるタイプでネタにしてたり周知の事実で別に何でもないこと!と現実を受け止められているタイプかどうか、も考えないといけないので難しいところですね。。。最近は「気丈」である子どもも、若者も少なくなっている気がします。
>まいこちゃん
どうも!現場からの貴重な意見をありがとう。自分が許容的に見ているってのは、あくまでも20年以上たったいまから考えてのことだけどね^^;。そうか、確かにぎょう虫ってのはなかなかセンシティブな問題だよね(笑)。まあ、当時自分はかなりふざけて回ってるタイプだったので、そういうことも関係して、気軽にああいう風に発表されたのかな・・・。
コメント読んで、そうか、個人情報の扱い方は、結構現場の先生に任されているんだなって感じて新鮮でした。まいこちゃんの、ちゃんと説明した上で生徒を信頼して渡す、っていうのは、いいなあって思いました。ただ一律にあれもこれもだめっていうより、そうやった方が、きっと生徒も、個人情報という問題の本質について理解できるようになりそうな気がするね。電話番号はまあ、いいだろうけれど、ぎょう虫はまずいだろう、っていうような(笑)。
後半の若手の先生も、そうやって失敗をしてまいこちゃんに怒られることによって、きっと情報の扱い方についてよりきちんと考えるようになったんじゃないかな、って想像してます。そういう意味でも、ある程度先生自身にやり方が任されているということの意味があるんじゃないか、と思います。
もちろん、取り返しのつかない失敗をしてしまったら遅いというのはあるけれど、でもそうして先生も生徒もいろいろと学んでいける環境ってのがいいのかな、と感じます。現場を知らない理想論なのかもしれないけれど。。。
ありがとう!
Posted by: ゆうき at May 20, 2012 8:58 PM久しぶりに訪問したら、興味深い話題が。
私の小学校の頃にも、同じようなことがあったね。仲の良い友達が、ギョウチュウ検査に引っかかったことを、半ばクラス中に周知させるかのごとく、担任教師が公表したんだよね。
そのときは、はっきりと違和感を憶えたね。公表する必然性はどこにもないだろう、と。
近藤君よりも一回りくらい古い世代だから、当時の学校の教師なんて「何でもアリ」状態だったんだよ。モンスターペアレントなんて絶対にいなかったからね。色々とありえないことを教師が平然と行っていた時代だったんだよね。
教師というよりも、学校のシステムそのものも今では考えられないような世界だったかもね。
たとえば、集団予防接種も、一本の注射で2人の児童に打っていた。今じゃ絶対に考えられないことだろう。子供心に、二人目に打たれたくないと切に願っていた。
当時、健康手帳みたいなのがあって、小1からずっと身長体重とか細かい健康に関するデータが明記してある手帳を個々の生徒が持っていた。クラスに裕福でない男子生徒がいてね、みんなからいつもからかわれていたんだけど、ある日彼の手帳をみんなで強引に見たら、小1の頃にある伝染病にかかってたと記されていたんだよね。
ガキながら、みんなその病名を見て「エーッ」と驚いたんだけど、いつもどんなにからかわれてもニコニコしてた彼も、その時ばかりはシュンと落ち込んだ顔をしてね。子供ながら、これは安直に触れてはいけないことなんだと悟ってね、それに関しては誰もからかうことはしなかったよ。
その彼もね、両親が全国的に報道されるようなことを犯してしまってね、その1年後ぐらいに急にいなくなってしまったよ。
いずれにせよ、ギョウチュウをクラス中に公表する必然性はどこにもない、と、固く信じる。ギョウチュウ公表によって教師が何かを学んだとしたなら、それ以前にもっと多くを学んだ上で、教師になってほしかった、と、思う。
Posted by: かけぴょん at May 27, 2012 11:53 PM>かけぴょんさん
お返事遅くなりました。
掛川さんの小学校時代、強烈ですね……。予防接種1本で2人って、さすがにそれはすごいです。って、でも当時の感覚だと、そんなことなかったのかな。。こないだ中学の担任と飲んだ時、「近藤のころは、体育教官室の冷蔵庫にビールが入ってて、部活のあとに女子生徒についでもらって飲んだものだよ。そんな時代だったなあ」って先生が言ってたけど、いまならヤフーニュースですよね。でも、当時は別に違和感なかったんだろうから、注射でもそういうものなのかな、、と思ったり。
あと、小学校4年のときの担任は、休み時間にお気に入りの女の子を自分のところに呼んで、膝の上に乗せて休み時間中ずっと抱き合ってたんですよね。。。毎日。今思うと、絵的にありえねーーー!って状態でした。でもぼくら的には、ああ、○○さんは先生に気に入られてるんだなあぐらいしか思ってなく、文句が出たなんてことは全くなく。まさにやりたい放題でしたね。
まあ、どちらがいいかはわからないけれど(笑)、物事の正否なんていうのは、時代によって簡単に変わるものなんだなあ、ということだけは感じます。
ぎょうちゅうを公表する必然性は確かに皆無だけれど(笑)、あえて前向きに解釈すると、先生は、ぼくのキャラとかいろんなことも考慮して、大丈夫だろうと思って、言ってみたのかなと。。それでも、言う必要はないんですけど(笑)。きっと落ち込みそうな子だったら先生ももっと気を付けただろうなという気も。ていっても、ぼくは傷ついたわけですけど。
ただ、転校した子も、きっとその伝染病の一件は、いまなお覚えているでしょうね。
Posted by: ゆうき at June 1, 2012 11:44 PM