17日からの静岡県三島市・龍澤寺での坐禅修行から、今日帰ってきました。
興奮冷めやらぬいまのうちに、記録もかねて、感想を書いておきます。
今回は、いま取材中の『退蔵院方丈襖絵プロジェクト』の絵師・村林由貴さんが坐禅修行している現場を自分も実際に体験してみたくなり、行ってみました。
今回行った龍澤寺専門道場というのは、修行僧の修行のための場所。専門道場は全国に35あるとのことで、臨済宗の住職になるためには、ここで最低3年間修行をしなければなりません(もし間違いなどがありましたら、禅僧のみなさま、ご指摘いただければ幸いです)。
龍澤寺では、修行僧(=雲水)が、坐禅のみに集中する「大接心」という坐禅修行週間のような期間に、一般人参加者(男性は「居士:こじ」、女性は「大姉:だいし」といいます)を受け入れていて、雲水さんたちに混ざって同じ修行をさせてもらえるのです。
その場に、村林さんは、去年から年に2回参加していて、その10月の回に今回ぼくも参加させてもらったというわけです。
大接心の期間は7日間。ぼくは、そのうち初日が始まる前日の夜から、4日目までの4泊5日間(ちょうど半分)だけ参加させてもらいました。1週間参加できるぼくらぐらいの社会人はやはり少なく、参加者はほとんどが60代以降のリタイアされた方たちでした。
朝3時半から夜9時まで食事や掃除、老師の講義などをはさみながらひたすら座ります。
この全体を特徴づけるのは何と言っても、厳粛さと緊張感。基本的に話したり笑ったりもしてはいけない状況で、誰もほとんど口を開かず、ただ鐘の音、木を打ち鳴らす音などだけを合図に、極めて時間に厳密にすべてが進んでいきます。
はじめ特に大変なのは、食事。食事どきは少し気が抜けるかと思えばとんでもなく、食事がもっともその厳粛さが絶頂に達するときで、細かな動きが一つひとつが決まっていて、それをお経と唱えながら、かなりスピーディに、厳密にやっていかないといけない。そして、したくをする雲水さんがちょっともたつくと先輩から怒声が飛ぶ。しかも電気は付けずほとんど真っ暗な中で食べ、朝なんて互いにシルエットが見えるだけのような状態なので、ビビります。
この修行を体験して一番感じたのは、「禅=シンプル」というイメージ。これは、退蔵院の副住職で襖絵プロジェクトの立案者である友人の松山大耕くんが新聞の記事に書いていたことだけれど、「禅」は「単を示す」という字の通り、まさに、余計な装飾などを取り払って、仏さんが実際にやったとおりのことだけをやって悟りを目指そうじゃないか、という立場。そのことを修行をしているうちに実感しました。
確かに、人間生活の余計なものを次々にそぎ落としていって、その核として残るのは、こういうものなのかもしれないなと。すべてに無駄がなく、贅肉がない。そして核の部分だけになると、それが本来の力を取り戻す。たとえばご飯も、とてもシンプルながら、作法にも慣れてくるといつのまにすごい美味しくなってくるのです。おかゆにモチを入れただけの朝ごはんが、本当においしかった。
また、朝3時半に響き渡る読経の声と鐘の音の神秘的な雰囲気。夜明け前の暗闇の中で坐禅をはじめ、だんだんと日が昇ってきて、光と温かさが少しずつ満ちてくることの喜び。早朝の坐禅の途中で見る星空の美しさ。虫の音、鳥のさえずりのすがすがしさ。
夕方には、夕日の中に蔭が、だんだんと消えて闇になるのを、座りながら薄眼でずっと見続けていましたが、蔭が消えていく瞬間を見るというのはなんて贅沢なことなんだろう、とも感じました。
なんていうか、贅肉をそぎ落とすと、だんだんと自分がこの自然の中の一部に取り込まれていくというか、浄化されるというか、そういうことを感じたのです。本当は、人間、これだけでいいんじゃないかって。
そしていまなお、家に戻ってきたら、あのきびきびとした感覚が抜けきらず、なんだか非常にのんびりしてしまってる感じがします。って言いつつ、やってる最中はなかなかキツくて、帰る日が来るのを待ち望んでいたのですが。
日頃の生活から考えると、本当に俗世から隔絶された別世界のようで、ぼくはチベットかどこかにいるような気分になりました。このような世界が、鎌倉時代からずっと生き続け、いまも毎日行われているということに驚き感動してしまいました。
さて、とりあえずざっとこんな感じです。
ちなみに、修行僧と一緒の本格的な修行なのでなかなかハードです。そのことについてはあまり触れてませんが、また改めて書きます。