2005年4月16日

川内倫子@カルティエ財団

滞仏3ヶ月強にして迎えた七人目のお客さんを連れてカルティエ財団へ。川内倫子の展覧会がやってます。6月5日まで。これまで折々写真を見る機会はあったんだけれど、はっきりいって侮ってました。猛烈に反省しました。今回Cui Cuiなる作品をみて深く感動しました。展示ではAILAとthe eyes, the earsがまず一室目に展示してあり、ふむふむといった感じで、これまで気になっていた被写体と背景との関係、その被写体との距離感、いわゆる背景のパステルっぽい感じ、そのぼけ味に、ふーんと思っていたんだけれど、まずこちらの印象をさらに深く刻み付けられました。なんというか動物/子供の写真を見て、その対象との距離感(写真初心者が嬉々として興じがちなマクロ接写撮影とは明らかにことなる、プロだから当たり前だが)、その距離感に曰く言い難いものを感じました。無理に説明しようと思うと、人って対象との距離感て色々グラデーションがあると思うんです。他人/知人/友達/恋人にそれぞれ応じて。あれ/それ/これの距離感でもいいけれど。で、川内倫子の距離感てそれぞれの敷居/閾の上から撮ってるような感じがするんです。たとえばフランスでbisouしますよね?ほっぺにちゅって。あのとき女の子の顔が近づいて来て、あるところでその閾を越えて顔が近づいてくる。その、あ、来た、と思う瞬間の距離感にとても似ている気がします。日本だとそれは明らかに恋人の距離感なんで、時々勘違いしてしまいそうになるんですが、恋人でなくとも、そういった(多分人間工学的/心理学的に検証されているような)色々な自分のまわりに巡らしているグラデーション、その「こそあど」的な(これそれあれ、ね)境界線上から対象を見つめているような感覚があるんです。対象は無関心なのかもしれないけれど、こっちに向かってくるような、あるいはこちらがひとつ内側に踏み込んだ/踏み込もうとしているような地点からとらえている。川内倫子の写真て単純に綺麗ですよね。彼女の色がある。でも写真てそういった個人の様式/マニエラを越えて、実際ある人がある距離である構えで撮影した、その世界に対する距離感と構え方をむしろ直接写しだすものだと思うんです。そんな彼女の距離感/構え方がきちんと伝わって来てとてもよかったです。
その意を強くしたのは、二室目、こちらはスライドなのですが近作Cui Cuiの232枚の写真がPierre TAKAHASHIていう人の音楽がループしながらプロジェクトされていくのですが、内容はネタばれ恐れて言いませんが、川内家を13年間に亘って撮り続けたこの組写真です。しかし私小説みたいな私写真ではない。川内倫子は家族を撮っていながらそういったところがない。「家族の物語」的なこととはちがう、川内倫子と川内家の人々との距離感、その固有性なんだと思うんです。写真のなかに定着される写真家の固有性って。人を捉えたショット、その距離感が、ああ、この人に声かけるなら、ここからだよな、っていう距離感なんです。家の門前とかに人がいて、こっちは手前から歩いてきて、ああ、おばあちゃん、て声かけるのこの距離感だよな。作業中の人の背中見て、ねえねえ、って声かけるのここまで近づいて、この距離からだよなっていう感じ。写真て機械ですよね。その機械を通じて一枚のイメージのなかに〈対象世界-撮影者〉の距離と空間的な関係性、撮影者のカメラの構えとが文字通り機械的に反映される。その人の空間的時間的なポジショニングなんだと思うんです。その撮影者と世界を含む空間の固有性。初期ルネサンスの透視図法のような。世界との取り結びかたなんだんと思うんです。そして写真の距離って絶対んなんですよね。絶対越えられない。絶対届かない距離なんですよね。時間的にも空間的にも。失われた時間・もう届かない場所。センチメンタルに聞こえるけれども、でもこれはひどく乾いた事実だと思うんです。改めて写真て残酷な機械だよなあと思いました。カメラっていう機械のからくりも一枚の写真のなかに込めてしまえる川内倫子ってすごいなあ。
とてもいい。ほんとにすばらしいです。スライド上映なので多分途中から見ることになると思いますが、絶対二回は見て下さい。二回目は感動がさらに新たになります。写真集で見るよりも、ひょっとしたらこうやって見せてくれる方が家族の物語/時間の流れも相俟って感動的かもしれません。ちなみにぼくは友人が隣にいるのもはばからず泣いてしまいました。パリにいる人ぜひ行って下さい。 日本にいる人ぜひ写真集を手に取って。

川内倫子HP ■ りんこ日記
Fondation Cartier pour l'art contemporain

Posted by tdj at 2005年4月16日 13:36