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- Drifting into Eurasia 99/08 Archives -

at 新疆鄯善 on 01/Aug/1999

Posted by snotch at April 30, 2003 5:50 PM

夕方、ピチャンの南方にある沙漠へむかった。防砂林の向こう側には、砂丘が地平線まで続いているのが見える。名前は沙山公園という変わり映えのしないものだが、その内容は、これぞ沙漠といえる見事な沙漠だ。これのどこが公園かね?と聞いてみたい。日本人の沙漠のイメージに一番ぴったりくるのではないだろうか。

ビーチサンダルで砂丘を登り始めた僕は、まずいことに気づいた。砂が熱い。一歩踏み出す毎に、足の裏とサンダルの隙間や、足の指の間に熱く焼けた砂が流れ込んできて、そのうちに足首まで埋もれてしまう。思わず悲鳴を上げそうなほど熱い。既に砂丘のほぼ中間まで登ってしまい、足を砂にとられた状態では麓が果てしなく遠いように感じられ、後に引き返すわけにはいかない。サンダルを手に持ってダッシュで数メートル前進し、サンダルを足の下に敷いて足の裏を冷やすという不思議な動作を繰り返す羽目に陥った。

熱い砂と戦いながら、なんとか砂丘の稜線部に到達した。稜線反対側の日陰部分の砂がひんやり冷たいことを発見し、足を冷やしながら腰を下ろす。強い風にのって、細かい砂が斜面を駆け登るように流れてきて、稜線の部分で空中にパアッと散らばる。日が沈むにつれて、そこらの砂丘の陰がどんどんと伸び、砂の色がどんどんと変化し、淡い赤紫色の世界になっていった。

at 新疆鄯善 on 01/Aug/1999

Posted by snotch at May 3, 2003 1:06 AM


沙山公園

at 新疆吐魯番 on 02/Aug/1999

Posted by snotch at May 7, 2003 3:04 PM

ピチャンのとある商店の店先で、おのおの異なる女性の顔がついたハンガーを見つけた。顔のついたハンガーに、ケミカル柄の染めTシャツがかかっている。売り物らしい。

ピチャンを後にして、吐魯番(吐鲁番 トルファン)へ向かう。バスで数時間の道のり。トルファンといえば、観光、ブドウ、そして暑さが有名だ。孫悟空の物語にでてくる火焔山は、トルファンのすぐ近くだ。宿の前の通りには、ブドウの棚がかかっていて、まさに今、たわわに実っている。

at 新疆吐魯番 on 02/Aug/1999

Posted by snotch at May 9, 2003 5:33 PM

トルファンは、ピチャンよりもさらに熱いと聞いていたのに、今日は曇り空で、時折小雨が降るようなお天気で拍子抜けだ。トルファンは、シルクロード西域北道の要衝として栄えてきた、沙漠のオアシス都市だ。今は、日本人を中心に、海外から多くの観光客が訪れる観光都市として栄えている。
概して有名観光地では、観光客ずれした現地の人が多いものだが、トルファンほど観光地として成熟したところでは、バックパッカーと旅行産業との関係、ルールが比較的うまく出来あがっていて、煩わしい思いをすることはほとんど無いようだ。

どんな観光地であっても、子供はかわいらしいものです。ウイグル人の子供って、日本人の子供に雰囲気がそっくりなのは、新しい発見でした。

at 新疆吐魯番 on 03/Aug/1999

Posted by snotch at May 14, 2003 2:08 PM
 北京留学生2人とともに、三タクを貸切って交河故城へ。今日は、交河故城ではなくて、トルファン葡萄との出会いについて書いてみる。

 交河故城へ行く途中、ブドウ畑の景色の中に、壁面全体が格子状になっている日干し煉瓦の建造物が点在しているのだけれど、この中で干しブドウを作っているとのこと。約1ヶ月間、この小屋の中でブドウを乾燥させると、甘酸っぱい干しブドウとなる。ちょっとした大きな家庭では、一家に一小屋といった具合に、この設備が備えられている。まだ、収穫の時期には少し早いようで、どの小屋も空っぽである。

 自分は、食べ物に関して好き嫌いはほとんどない。ただし、レーズンが大の苦手だ。レーズンには大変失礼だが、食えといわれれば食べられる程度のものだ。小学校のときに、給食にレーズンパンが出るたびに、悲しかった思い出がある。あのつやつやした黒紅(黒紅梅)色 [] の見た目の質感と、グチャッとした食感が大人になってもだめだ。

 トルファンの干しブドウは、「火州緑宝石」(火州=トルファン)と昔から言われているほど評判がよく、見た目も名前にたがわず「緑宝色」で美しい。ためしに市場でつまんでみると、今まで日本で口にしてきたレーズンとは全く違う食べ物だった。トルファンの超強烈太陽光線のエネルギーを凝縮したかのように、ブドウの酸味と甘みが凝縮されている。干してあるのに、とてもフルーティで新鮮なのが良い。干すことによって、ちゃんとおいしくなっている。

 今まで嫌いだった干しブドウをこんなにもおいしく食べられることと、安くて栄養満点であるということがうれしくて、2パックのトルファン干しブドウを購入し、これからしばらくお世話になることにした。

at 新疆吐魯番 on 03/Aug/1999

Posted by snotch at May 17, 2003 11:55 PM

トルファン中心部から西へ、三タクで20分程度のところに交河故城( jiao he gu cheng )はある。歩くには少し遠いが、行けないこともない。

遺跡は、2つの川に挟まれた細長い台地状の丘の上にあって、天然の要塞といわれている。南北が1600m、東西の最大幅が330mの敷地に、居住区、寺院地区、行政地区、墓地の区域に分かれて建物が残っていて、特に寺院地区と居住地区の建物は、驚くほどよい状態で建っている。居住区では、炊事施設、井戸などが、当時の様子をすぐに想像させるほどにリアルに残っている。こんなにも保存状態がよく、しかも、イメージを膨らませてくれる遺跡に、自由に接することができるなんて、日本ではあまり考えられないことだろう。

at 新疆吐魯番 on 04/Aug/1999

Posted by snotch at May 20, 2003 1:58 AM

ここ数年内にバックパッカーとしてトルファンを訪れた人の中には、ウイグル人のアイちゃん(男性 推定35歳)を知る人は少なくないだろう。彼の流暢な日本語は、日本語使いのウイグル人の中にあって、右に出るものはいない。昨日の夕方の出来事であるが、「一日旅遊」から帰ってきた日本人の女の子が、トルファンの暑さに一日中さらされて少々参ってしまったらしく、乗り合いタクシーを降りるなり立眩んでしまった。「一日旅遊」とは、一日観光ツアーのことである。立眩んでうずくまってしまった女の子に真っ先に声をかけたのは、乗り合いタクシーに同乗していた他の日本人達ではなく、そばでアイちゃんと「一日旅遊」の交渉をしていた僕等でもなく、アイちゃんだった。「ねえ、ちょっと君、ホントに大丈夫ぅー」だって。

ということで、今日は「一日旅遊」だ。おんぼろタクシーに4人が詰め込まれて、トルファン周辺の見所を回るというもので、ツアーの成否は運転手兼ガイドの力量と人柄に頼るところが大きい。結果から言うと、とても好感の持てるいい人だったが、免停中だとは知らなかった。おまけに、トルファンに戻る途中でエンジンが故障して、みんなで車を押しながら帰ったので、とてもおなかがすいて晩御飯がおいしくなったので良かった。とりあえず、旅遊先で出会ったウイグル男児をどうぞ。

at 新疆吐魯番 on 04/Aug/1999

Posted by snotch at May 22, 2003 11:18 AM

トルファンのように、乾燥した沙漠気候であっても葡萄が採れるのは、カレーズのおかげだ。地理の教科書に出てくるけれども、この目で見るのはこれが初めて。地下水脈のある山地からオアシス都市まで、水の通る地下道を掘って土地を潤すなどという巨大なシステムを構築したのは、どんな人物だったのだろうか?いまなお実際にカレーズは使われている。

地下に降りると、ひんやり涼しくて気持ちがよい。とんでもなく暑い日中の屋外でも、ここだけは特別で、子供達の遊び場にもなっている。予想どおりかつありきたりな表現だが、本当に水が澄んでいて冷たい。数m~数十mおきに竪穴があいていて、トンネルの中まで強烈な光が差し込んでいる。

at 新疆吐魯番 on 04/Aug/1999

Posted by snotch at May 24, 2003 11:56 AM

トルファンの東方には、西遊記でおなじみの火焔山(火焰山 huoyanshan)があって、「一日旅遊」に参加すると必ずそばを通る。褶曲してひだ状になった、赤紫がかった茶色の山肌と、昼間の強烈な太陽熱によって生じる陽炎とが、火焔山と呼ばれるようになった由来だ。ところが、今日はあいにくの曇り空なので陽炎がなく、残念ながら火焔山になっていない。ずっと同じ景色が続くので、途中で飽きる。火焔山に沿って東に進むと、「火焔山」と書かれた看板があるスペースが道脇に設けられていて、我先にと看板前の位置どりをする観光客は、今までの観光地と同様だ。

火焔山はいわゆる一つの頂上を頂く山ではなくて、東西100km、南北10kmにわたるミニ山脈状の山地である。火焔山山中の北西に、ベゼクリク千仏洞(柏孜克里克千佛洞 baizikelike qian fo dong)という石窟がある。しかし、ムスリムによる破壊と、主にドイツ人探検家による収奪により、現在は無残な状況だ。ベゼクリク千仏洞の少し手前に、西州天聖園と火焔山大漠土芸館という施設がある。自分はベゼクリク千仏洞の入場料だと思ってこれらの施設への入場券を買ってしまったが、都築響一さんの「珍日本紀行」の中国版を身をもって体験してみたい人以外は、チケットを買わないほうがよい。しかし、石窟の外の、ムルトウク河渓谷の景色だけはすばらしいもので、玄奘たちがここを越えていったと思うと、ロマンがある。

at 新疆吐魯番 on 04/Aug/1999

Posted by snotch at May 27, 2003 3:03 AM

トルファンは盆地になっていて、高温で風が強く、雨がほとんど降らないので極度に乾燥している。バックパッカーにとっては、たまっている衣類や寝袋などをまとめて洗濯するのに、最も都合のよい場所の一つだろう。試しに、Tシャツを洗濯して日陰に干しておくだけで、30分後にはカラカラに乾いている。

トルファン盆地の最も底部にあるのがアイディン湖で、海抜はマイナス154m。世界でも、イスラエルの死海の次に低い土地だ。海岸から2000km以上も離れているこの場所が、海よりもずっと低い高度だということに全く実感がわかないが、ユーラシア大陸の一番くぼんでいる場所には何かが溜まっているかも知れないなどと空想をしはじめてしまったので、足を運ばないわけにはいかない。

夕食をとった後、北京留学生たちとアイディン湖(艾丁湖 aiding hu)へ。真っ暗な中、劣悪なオフロードを行く。運転手も迷ったと素直に認めていたが、右往左往しながら約2時間で目的の場所に到着。所々土色が見え隠れしているが、あたりの地表は塩の結晶で覆われていて、車のヘッドライトに照らされてキラキラと輝いている。涼しい風だけが感じられ、周囲に何の気配もしないのが不気味だ。懐中電灯を消すと、月がまだ昇っていないのと、360度明かりがないのとで、この場所が本当に真っ暗なことに気づいた。これ以上無い程暗く、屋外にいるのに星以外は何も見えない。

at 新疆烏魯木斉 on 05/Aug/1999

Posted by snotch at June 2, 2003 1:06 PM

海から最も遠い近代都市、ウルムチトルファンを発ち、ウルムチ(乌鲁木齐 wu lu mu qi)へ。バスでいくと、途中ボゴダ山脈とボロホロ山脈の合間をぬうようにして北へ進み、徐々に気温が下がっていくのがわかる。世界中で最も内陸に位置する都市として有名なウルムチは、高層ビルが立ち並ぶ近代的イメージを持った大都市であって、新疆ウイグル自治区の中心地として機能している。

市内には特に見所など無いのだけれど、新疆ウイグル自治区内のモノと人が集まっているこの町は、特にバザール周辺など、歩いてみるだけで面白い。住んでいる人種は、ウイグル、カザフ、パキスタン、ロシア、モンゴル、ウズベキスタンなど多様。よって、屋台の食べ物は多種多様でおいしく、夕方になるとどこの屋台街も多くの人で賑わう。新疆の代表的な屋台料理といえば唐辛子をたっぷりかけたシシカバブで、ベレー帽のような帽子とチョビ髭の愛嬌あるウイグルの人々とともに、ビール片手に食べるのは楽しい。

at 新疆烏魯木斉 on 06/Aug/1999

Posted by snotch at June 4, 2003 10:36 AM

天池(tian chi)一日旅遊に参加する。ここが一大観光地ということは、予めわかっているので、その心づもりで行かなければならない。日本でいうと日光ぐらいの観光地度かもしれない。旅行本を見ると、どの本にもボッタクリのカザフ人がいるから要注意と書いてある。
ウルムチ市内からバスで大凡2時間、標高1980mあるのでウルムチよりずっと涼しい。バス停に着くと、もう既に大型バスが何台も停まっていて、裕福そうな漢人一家が複数見られる。ウイグル人はあまりいない。確かにきれいな風景ですが、それ以上のものは見当たないのだなぁ。ボート?これもいまいち・・・。中国のカンコウチでは、がっかりする前に観光客になりきってしまうことが、楽しむ秘訣かもしれないなどと思います。

at 新疆烏魯木斉 on 06/Aug/1999

Posted by snotch at June 7, 2003 5:53 AM

[天池一日旅遊]

中国各地からやってくる一日旅遊団体バスおっちゃんカメラ|||

ぼったくりパオ(^^ぼったくりパオズ(^^カザフ人の馬

at 新疆烏魯木斉 on 07/Aug/1999

Posted by snotch at June 11, 2003 11:58 PM

旧ソ連スタイルの建物がひときわ目立つウルムチ博物館には、他ではちょっと見られない展示がある。古屍陳列室のミイラ群である。極普通のガラスケースに収められたミイラ達を、30cmほどの至近距離で、間近に観察することが出来る。男性、女性、子供と勢揃いで、生前の姿を想見させるほど良い状態のものもある。

楼蘭美女のミイラを見る。エジプトで発見される王族のミイラと違うところは、それがミイラとして葬られたのではないということだ。当時の一般市民は、服やアクセサリを着たまま土葬されたということだが、楼蘭周辺があまりにも乾燥していて、死体にとって安定した気候条件だったために、おそらくミイラ本人達が全く意図しないのに、ミイラとして発見されてしまったのだ。

さまよえる湖楼蘭といえば、「楼蘭の美女」と「ロブ・ノール」が有名だが、どちらもうまいネーミングだと思う。「ロブ・ノール」という、いかにも不思議な感じのする名前の湖は、楼蘭の発見者であるスウェーデンの探検家、スウェン・へディン著作のタイトルにもあるように、「さまよえる湖」として知られている。タクラマカン沙漠のある地域内を、1600年周期で南北に移動するという摩訶不思議な湖だ。そして、「楼蘭の美女」という惹句は、発見者の勝手な妄想とはわかっていても、「ほう、これがそうなんだな」と思わず魅入ってしまう。

at 新疆庫車 on 08/Aug/1999

Posted by snotch at June 13, 2003 3:19 PM

陽霞郷バスの中で目が覚めて、目をこすりつつ窓からあたりを見回すと、どうやら陽霞郷(阳霞乡 yang xia xiang)という場所に停車していることがわかった。その地名のとおり、強い風で上空まで砂埃が舞い上がり、太陽がかすんで朝焼けのようになっている。数百m先はもう全く見えないほどに、視界が遮られている。こういうときには、土砂降りの雨に見舞われたときのような、どうにもならない感がこみ上げてくる。昼過ぎにクチャ(库车 ku che)に到着したが,鼻孔が真っ黒、頭がじゃりじゃり。

at 新疆庫車 on 09/Aug/1999

Posted by snotch at June 18, 2003 1:36 AM

クチャ周辺はかつて、前漢代から10世紀ごろまで繁栄が続いた龟兹国があった場所だ。このオアシス都市国家は、仏教伝来の歴史において重要な存在意義を担ってきた。クチャ郊外にはイスラム化される前の仏教遺跡が点在しているし、また、7世紀に玄奘がここを通った時の記録には、クチャの西門の両脇には高さ30mの仏像がそびえ、この辺り一帯には美しいフレスコ画で彩られた多くの僧院があると記されている。

キジル千仏洞入り口クズルガハ烽火台塩水渓谷

クチャ周辺の仏教遺跡の中でも最大規模の、キジル千仏洞(克孜爾千佛洞)へ。既に敦煌を見てきたことと、フレスコの損傷や盗難、仏像の破壊などが激しいことがあって、遺跡そのものの派手な見栄えはしない。が、イスラム化の流れのなかで目を刳りぬかれた仏像、フレスコ画の主題部分だけをドイツ探検隊が剥ぎ取って行った跡など、人間の仕業というか、生の歴史がひしひしと伝わってきて、リアルだ。

千涙泉キジル千仏洞の山中を20分ほど奥へ行くと、千涙泉という泉がある。車の運転手にとっては興味がないらしく、勝手に行ってくれば、と言わんばかり。沙漠では特に貴重な水ですが、あるところにはあるもので、巨大な岩盤のいたるところから、涙のように水が滴り落ちている様はなかなか壮観だ。
全くの余談であるが、クチャのタクシー運転手の間では今、ジュリアナのコンピが大ヒット中だ。フシギなものだ。

at 新疆庫車 on 10/Aug/1999

Posted by snotch at June 23, 2003 5:28 PM

エシディン墓クチャの市中は、ポプラ並木の道を馬車が走り、ウイグルの民家が迷路のような路地に沿って並ぶというように、シルクロードの面影を色濃く残している。市中の只中にある、モラナエシディン・マザール(默拉纳额什丁麻扎 molana eshiding maza)は、中東からこの地にはじめてやって来た、イスラムの伝道師「エシディン」のお墓だ。お墓といっても、現在では礼拝堂、ミナレット、前庭をもち、モスクと同様に機能する施設となっている。
総木造のモスクを実際に目にするのはこれが始めてであるが、石造だったのを、ちょっぴり無理して木造にしてしまったような印象を受ける。ポプラ葺きの屋根を柱に乗っけている具合など、木造で頑張って組積造を真似ているように見える。新疆では、古くから存在したシャーマニズムや、後の仏教の時代の影響を受けて、純粋なイスラム教のものとは異なる、独自の文化が形成されてきた。そういう新疆の歴史の一端が、小さなモスクの造りにも表れているようだ。

エシディン墓木造礼拝堂木造礼拝堂

at 新疆庫車 on 11/Aug/1999

Posted by snotch at June 26, 2003 11:21 AM

クチャ大寺新疆のイスラム教のなかでも強い影響力を持つ依禅派は、モラナエシディン・マザールに奉られているホージャ家によって広まった。ここクチャ大寺は依禅派の始祖イスハク・アリが創建したとされる、新疆では大規模な部類のモスク。楽しみにして行ってみたものの、入り口に鍵が掛けられていて、管理人らしき人もいないので、残念ながら中に入れない。

よく似た親子連れムスリムの女性は、概して写真撮影されることを拒まなければならなのだと思っていたが、ここではさして問題無いようだ。そういえば、街を見渡せばお酒が大好きな人は大勢いるし、ウイグルのイスラム教はずいぶんと戒律が緩やかなように思う(宗派によるでしょうけれど)。
歩くだけでワクワクする町は、そうあるものでないけれど、クチャは散歩に最適だ。クチャ旧市街は、イスラムの街のつくりそのもので、民家の壁が道に沿って立ち並び、迷路状の道があらゆる方向へ広がる。歩いていて道の分岐点に来るたびに、次から次へと新たな場面が展開される。少し離れた曲がり角のかげから、興味津々に子供たちがこちらを眺めていたりするのは、自分がよそ者ということを素直に感じさせてくれてなかなか心地よい。

>新疆喀什 on 12/Aug/1999

Posted by snotch at June 28, 2003 4:03 AM

昨日の午後4:30にクチャを出発し、カシュガル(喀什 ka shi)に向かうバスの車中。

が、動かない。クチャからカシュガルまでの道のりは725km、遅く見積もっても20時間もあれば着くはずだ。ところが、数日前の過去に例を見ない大雨の影響で橋が流されてしまい、軍が設置した片側通行の臨時の橋を通るのに、橋の両側で車両が大渋滞していると運転手は言う。地球規模の気候変動の影響かどうかは定かでないけれど、このあたりでは真夏に雨が降ることすらほとんどないというから、極めて不測の事態であったらしい。クチャにいる数日間というもの、中央アジアやパキスタン方面からの旅行者に一切出会わなかったので、何かおかしいなと思っていたら、こんな事情があった。

バスは、周りに何にもない場所で只停まっているだけなので、はっきりいって乗っているのが退屈だが、数世紀前の人々はここを歩いて行き来していたとおもえば、ポンコツバスも偉大だ。

エキゾチックな響きのするカシュガルについたのは、さらに日付が変わった真っ暗闇の午前4時。これは北京時間だから、太陽との関係からすると午前1時か2時の感覚。ずいぶんと西へ来た。

at 新疆喀什 on 13/Aug/1999

Posted by snotch at June 30, 2003 3:48 PM

エイティガール寺院カシュガルは、徒歩と自転車で十分に周覧可能な規模の街だ。街の中心は少し小高くなっていて、エイティガール寺院というモスクを中心にして、周囲に住宅・商業地が広がっている。エイティガール寺院の正門前は、開けた広場になっていて、新疆各地からやってきた家族連れや、商売人達で賑わっている。さすがに中国の西の果てまでくると、町の中心部で漢人を目にすることはあまりなく、ウイグル人によって街の活気が満たされているのが実感できる。周囲の国との人の行き来も活発なようで、シャルワル・カミースをまとったパキスタン人男性など、よく街で見かける。ハード・ソフト両面で、シルクロードの交易の要衝としての面影を今なお残している。

at 新疆喀什 on 13/Aug/1999

Posted by snotch at July 3, 2003 8:08 PM

エイティガール寺院の周辺は、ウイグルの人々の営みが凝縮しているようで、ここにいると、次から次へと人がやって来ては去ってゆく。遠くからやってきたらしい家族が、一家の大切な記念としてエイティガール寺院をバックに記念写真を撮る光景。そして、ここにくればとにかく人と物で溢れているのを知ってか、多くの物売りと路上生活者。

at 新疆喀什 on 14/Aug/1999

Posted by snotch at July 5, 2003 9:25 AM

カシュガルの表通りには、一階が商店、上階がアパートメントになっている、ファサードに凝った建物が並ぶ。開口部の上部にアーチ型の木彫りの装飾を備えているのが特徴のようだ。表通りといっても、車は少なく、人力リヤカーや馬車が今も現役。男性は皆ウイグル帽をかぶり、女性はスカーフで髪の毛を隠し、それぞれマイペースで通りを行き交う。道の脇には、スイカ、ハミ瓜の量り売り、布、革製品、刺繍帽を製作・販売する露店が、カラフルなパラソルを開いて商いしている。

エイティガール寺院から3分も歩くと、迷路状の路地が張り巡らされた住宅街にたどり着く。民家への入り口は、土壁に開いた小さなドアが路地に面しているだけで、あとの部分は全部土壁になっているから、本当に迷路のようだ。路地の上空をまたいで民家が連結している光景は特に珍しいわけでもなく、東京でも佃島などに行くと見られるが、素材が土色一色で部分部分がくっついているように見えるので、住宅地全体が一つの巨大な粘土細工のように感じられる。

at 新疆喀什 on 14/Aug/1999

Posted by snotch at July 7, 2003 7:43 PM

カシュガル市内の南側半分は漢族の住む地域になっていて、街の南北を分ける人民東路の南側にある人民広場には、ひときわ大きな毛沢東像がある。中国の西の最果てに、こんな巨大な石像。「ここまで、中華人民共和国だからね!」という中国政府の意気込みが、ありありと感じられる。あたりは閑散としているけれど、時折、漢人の軍人や家族連れが訪れては、記念写真を撮ってゆく。このあたりではマイノリティな漢人は、傍らから見る限り、やはり少々遠慮がちに生活している様に見えてしまう。

at 新疆喀什 on 14/Aug/1999

Posted by snotch at July 10, 2003 1:16 AM

ウイグルの人々は、オシャレだ。大人に全く引けをとらず、派手な衣装をまとった子供。しかも、よく似合っている。土埃だらけなのに、お姫様のような柄物のドレスを着て、鬼ごっこなどをしている。しかし、ここはまだ中国。股割れズボン(ズボンを下ろさずに用をたせる。よって、たまに見える。)は、ウイグル男児用ズボンにも採用され、なかなか人気のようだ。

at 新疆喀什 on 14/Aug/1999

Posted by snotch at July 15, 2003 1:57 AM

町の東方の艾孜来提路(Izlati Rd.)は、カシュガルの中心部から郊外の農村へと続く大通りだ。買い物を済ませたウイグル人や、農作業に出かける男衆などが頻繁に行き交う。大通りから一歩それると、ポプラがびっしりと両側に並んだ小道へつづき、道幅が狭くポプラの木がのっぽなので、炎天下であっても常に心地よい木陰を歩いていける。このあたりの人々にとって、ポプラは空気や水のごとく、生きるために重要な資源。木陰を提供してくれるだけではなく、成長が早く、節が少ない良質の建材として、住居やモスクの屋根に使われる。

at 新疆喀什 on 14/Aug/1999

Posted by snotch at July 17, 2003 11:26 PM

艾孜来提路(Izlati Rd.)をさらに東へ数キロ行ったところに、アパク・ホージャ墓(香妃墓 xiang fei mu)を中心とするモスク群がある。アパク・ホージャとその家族が葬られているのは確かであるが、中国名の香妃墓という別名から伺えるように、香妃への追悼の意も込められているモスクである。清朝時代、ホージャ一族の娘であった香妃は、乾隆(Qianlong)帝の妃子として迎えられた。その後の行方については諸説あるが、乾隆帝の皇太后に虐められて自殺に追い込まれた説、あるいは、乾隆帝に寵愛されて晩年まで都で過ごした説の二つが有力説らしい。いずれにしても、ここカシュガルでは、自殺に追い込まれた香妃は報われないなあという文脈で葬られていることになっている。実際の香妃の墓は、現在の河北省にあるとのこと。

at 新疆喀什 on 15/Aug/1999

Posted by snotch at July 24, 2003 11:19 AM

今日は、町中の人々で大賑わいとなる日曜バザールの日。主に日用品を揃えた店が並ぶが、帽子やナイフなど、新疆の生活スタイルに不可欠な物品が特にバラエティに富んでいる。昼前になると、艾孜来提路(Izlati Rd.)は老若男女でごった返し、皆買い物袋をぶら下げて週一回の行事をこなしている。そして、普段、昼間は屋台の少ないカシュガルだが、この日ばかりは昼間から多くの屋台が営業する。バザールには、旅行者に必要なものはほとんどないかもしれないが、これほどのスケールのバザールはそうそうないから、カシュガルのお勧めポイントの一つに挙げられる。

at 新疆喀什 on 15/Aug/1999

Posted by snotch at July 30, 2003 8:49 AM

日曜バザールをぬけて、カシュガルの街を自転車で散策する。カシュガルには美しい廟が点在しており、きれいにメンテナンスされている。普段は人気が少なく、訪れる観光客もほとんどいないようだ。サイード・アリ・アスランハン墓の裏手には広大な墓地があって、その光景は圧巻だ。ここでのお墓は、土を固めたキノコ型の帽子のような形態をしており、それぞれのお墓で、その形が少しずつ変化している。

at 新疆喀什 on 15/Aug/1999

Posted by snotch at August 2, 2003 11:02 AM

at 新疆カ拉庫里湖 on 16/Aug/1999

Posted by snotch at August 6, 2003 6:17 PM

カシュガルを出発し、いよいよパキスタン方面へ。天気は快晴で、この上ないコンディションのもと、ここからの道のりは絶景が続く。真っ青な空と果てしなく続く草原、山頂に万年雪をいただく山々、氷河の横断など盛りだくさんだ。バスは、苦しそうにエンジンを唸らせながら、タリム盆地の縁に沿ってゆっくりと高度を上げてゆく。さまざまな国の旅行者がそれぞれに思いをはせながら、バスは不思議な一体感に包まれている。

at 新疆カ拉庫里湖 on 16/Aug/1999

Posted by snotch at August 11, 2003 2:36 AM

カシュガルからバスで半日も走ると、標高3800mのカラクリ湖(カ拉庫里湖)に到達する。背景にはコングール山とムスターグ・アタ山がそびえ、どちらも7000m超級で迫力ある姿をしている。夏の間だけ、湖の周囲にはキルギス族がやってきてゲルを設けていて、そこへ宿泊することができる。

真夏だけど夜は寒い。キルギス人は全く平気なようだが、粗悪なダウンジャケットを着て湿った寝床に寝るのは、ヘナチョコ日本人の自分にとってはあまり平気ではなかった。風が強くてゲルがバコバコいうのもよく眠れない。とはいっても、ここを素通りするのはもったいない。空いっぱいに星空の広がる真夜中に、湖の周囲を歩いてみるのがお勧めだ。

at 新疆塔什库尔干 on 17/Aug/1999

Posted by snotch at August 20, 2003 2:20 PM

石頭城カラクリ湖を朝に発つと、昼前にはタシュクルガン(塔什库尔干 ta shi ku er gan)に到着する。この漢字名の塔什库尔干は当て字であって、タシュクルガンとは石の城を意味する。名前の由来どおり、町の東側に石頭城と呼ばれる唐時代の城壁跡があって、ここへ登ると、町の全体と、町の東側に広がる湿地草原を一望することができる。

現在のタシュクルガンは、中国政府によって周辺国への拠点として設けられた町で、中心を東西に伸びる大通りに沿ってホテルやレストランが並び、周囲に民家が点在するだけという小さな町。通りはひっそりとさびしく、目立ったものは何もないけれど、中国最果ての地ということだけがエキゾチック感をかきたてる。

at 新疆塔什库尔干 on 18/Aug/1999

Posted by snotch at August 24, 2003 5:18 AM



at 新疆塔什库尔干 on 18/Aug/1999

Posted by snotch at September 25, 2003 2:14 PM

タシュクルガンには塔吉克(タジク)族が多く住み、町外れには彼らの家が並んでいる。タジク族は、パミール高原東部に住むイラン系の民族で、イスラム教を信仰する。タジク族の間では、鷹が英雄の象徴として崇められており、祝祭時には、老若男女が音楽に合わせて鷹の舞を模した鷹舞を踊る。鷹舞のメロディーを奏でるのには、鷹の骨で作られた鷹笛という楽器が使われる。宿で一緒だった旅人がタジク人から鷹笛を購入したというので、試しに吹いてみたが、なかなかうまくいかない。鳥の骨なので持った感じが軽い。空洞になった骨に、簡単な装飾が施され、3つばかりの穴があいている。

鷹笛、かろうじて音は出るようになったのだが、メロディーを操ることが出来ない。こういうときは、現地の人間に教わるのがいいと思い立ち、外にでる。貫禄のある少年たちが暇そうに歩いていたので、彼らに笛を見せると、みな俺に任せろと言わんばかりに得意気に教えてくれる。

at 新疆塔什库尔干 on 18/Aug/1999

Posted by snotch at September 27, 2003 1:38 AM

タシュクルガンには広い湿原があって、そこが生活のフィールドにもなっている。湿原をうろうろしても、男性としかすれちがわないのはなぜだろう。タジク族はイラン系民族で、比較的穏健派といわれるシーア派に近いイスラム教徒のはずだから、女性が表を出歩いていても不思議ではないのに。
今となっては、東京ではなかなか起こりえないことだけれど、この町ではまだまだ通りすがりのコミュニケーションが生きている。日本の田舎と違うのは、他民族に対する寛容さだろうか。

湿原の周辺で出会った人々を撮影させてもらった。子供からおじいちゃんまで、みなどこかに粋を感じる。特に、帽子のかぶり方、シャツの着こなし、重ね着の具合などが格好よい。

at パキスタン グルミット on 19/Aug/1999

Posted by snotch at October 2, 2003 10:17 AM

中国とパキスタンの国境へ。タシュクルガンのすぐそばにあるイミグレーションで出国の手続きをおこなう。バスの乗客全員の手続きを完了するのに、約2時間ほど待たされ、出発したのは11時。途中何度も検問を受けながら、国境のあるクンジュラブ峠(Khunjerab Top 4730m)へ向かって昇ってゆく。ちょうど峠のところでいったんバスは停車し、道の脇に停車して休憩。道路は右側通行から左側通行になる。
国境を通過してすぐにまた休憩。何でかなと思ったらイスラムのお祈りの時間らしい。何人かのパキスタン人がバスを降り、西の方角を向いていっせいにお祈りを始める。彼らはもちろんメッカに向かって祈っているのだけれど、後方から眺めている僕らからは、遠くにそびえる山に向かってお祈りをしているかのように見える。

at パキスタン グルミット on 19/Aug/1999

Posted by snotch at October 8, 2003 10:27 AM

スストにて入国手続きを済ませ、トラックの荷台に乗っかって、宿のあるグルミットという村へ向かう。グルミットまでは約2時間。村からは、鋸の歯のような複数の岩峰をもつカールン・コー(Karun Koh 7350m)がよく見える。

登山とは無縁な自分であるし、7000m超の山に登る人の気が知れないけれど、クライミングのWebページはおもしろい。

>> planet mountain

ロッククライミングやトレッキングに関する豊富な情報があるのはもちろんで、個人やグループの登るという行為の記録がポートフォリオ形式でまとめられているところもしっかりしている。メニューにある「360° Panoramas」には、いわゆるQTのパノラマがおいてあるのだが、これだけ数をそろえてくれると見ごたえもある。

at パキスタン グルミット on 20/Aug/1999

Posted by snotch at October 14, 2003 5:56 AM

グルキン氷河をまたぐコースをトレッキング。グルミットの宿から北に向かってグルキンの村へ。アンズの収穫が一段落ついた頃で、あちこちで収穫したアンズを石の上に並べ、天日に干してあるのを見かける。

この地域はフンザと区別してGojar地区と呼ばれ、ワーヒー人と呼ばれる人々が暮らしている。ワーヒー人は欧州の人種のように目が青く、茶色や金髪の髪の毛をもつ人が多い。悪巧みをしているんじゃないかと思わず疑ってしまうほど親切(?)で、通りがかりの人間に林檎やアンズを手に持ちきれないほどくれる。

at パキスタン グルミット on 20/Aug/1999

Posted by snotch at October 18, 2003 11:43 PM

グルキン村の外れまで歩くと、急な上り坂のあるモレーンを登る。ごつごつした岩があちこち転がっていて登りづらいが、30分程度で頂上まで登ることができる。初めて氷河を目の当たりにする。モレーンの上に立って、黒い色をしたグルキン氷河に見とれる。時折、大地の奥のほうからミシミシミシとか、バリバリといった低い音がかすかに響くように聞こえてきて、目の前の巨大な氷の塊が流れているという事実を体で感じることができる。
氷河の上を渡るのは危険らしい。所々に、奥が深くて底の見えない氷の裂け目があって、滑り落ちたら最後、永遠に御日様は拝めないだろう。幸い、グルキン村の村人が隣村に向かうのに合流することができたので、彼らの後をついて幅500mほどのこの氷河を横断する。
今日の一日トレッキングの最終地点は、グルキン村の隣村フサニにあるボリド湖という湖。湖畔にカフェがあって、旅のトレッキング仲間とカラコルムを眺めながらのお茶は最高である。

at パキスタン グルミット on 20/Aug/1999

Posted by snotch at October 24, 2003 5:18 AM

お世話になっている宿は、Gulmit Tourist Inn。これだけ快適なドミトリーも珍しい。このあたりは決して樹木が豊富なわけではないが、立派な木造の建物の大部屋をドミトリー部屋としてあてがっている。
宿泊者は、中国側から越境してきた旅行者と、パキスタン側から上ってきた旅行者とが半々程度。夏休みを利用してやってきた日本人旅行者が多く、イスラム圏ということもあってか欧米の旅行者は少ない。久々に日本語が飛び交う夕食をとる

at Hunza, Pakistan on 21/Aug/1999

Posted by snotch at October 30, 2003 3:22 AM
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ジープでフンザまで下る。ここは、「風の谷のナウシカ」の舞台のモデルになったと言われている場所。なるほど、生きた化石のように味のある老人が道ですれ違い、青い目と茶色い髪の毛をもつ愛嬌のある子供達が駆け回る村だ。日本人受けがよいらしく、散歩をしていると日本人旅行者と頻繁にすれ違う。
広く深いインダス渓谷の、川と岩山のほんの隙間にフンザの村はある。村の川側から山側へ視線を辿ってゆくと、突然緑が途切れる水平線にぶつかる。そこには、上流から延々引いてある水路が水平に走っていて、その水平線から下でないと植物が育たない。谷底の川から切り立った断崖と水路とで挟まれた部分だけが、人々が生活を営むことのできる領域だ。

at パキスタン フンザ on 22/Aug/1999

Posted by snotch at November 6, 2003 11:34 PM

ここは、僕らが生まれるほんの少し前、1974年10月までミール(藩王)制つまり、パキスタン国内の自治王国だった場所。現在はミールは引退しているが、地元の有力者として今でも存在感を保っている。
そのミールが700年前からすんでいたのが、バルチット城だ。標高2500mのフンザ村で、最も目立つ場所に堂々と建っており、現在は博物館として一般に公開されている。
城の周囲には、かつて王様に仕えていた人々が今でも生活しているので、当時の状況を尋ねることも可能だ。ある老婆の話を伝え聞くところによると、王国の時代が必ずしも幸せな時代ではなかったとのこと。
王国の歴史からすればほんの短い時間に時代は変わり、今では日本という国の小僧が王様の眺めを写真に収める。

at パキスタン フンザ on 22/Aug/1999

Posted by snotch at November 12, 2003 12:05 PM

Baltit Fort

reception room
reception room
kitchen
kitchen
kitchen to roof terrace
kitchen to roof terrace
vista from the roof terrace
vista from the roof terrace
space for nap
space for nap
sunroom on the top floor
sunroom on the top floor
bedroom on the top floor
bedroom on the top floor
banquet hall
banquet hall
external
external

at パキスタン フンザ on 22/Aug/1999

Posted by snotch at November 14, 2003 3:42 AM

夕方、カリマバード(フンザ)の周辺を歩いてみる。メイン通りには帽子や織物を並べる土産物店が軒を連ねるが、自分は何か欲しい訳でもないので、店先の品を眺めながら素通りして、村の外れへ。フンザ背後のウルタル峰が、圧倒的な存在感。

帰り際に再びメイン通りに差し掛かったとき、フンザ織物センターという薄暗いお店がなんとなく気になってしまった。店に足を踏み入れて帽子を物色していると、ふと何かの気配がした。自分が入ってきた入り口のほうを振り向くと、ドアの脇に凛々しい男性が気配を殺して座っているので驚いた。フンザ帽に鳥の羽を挿し、顔には所々に凍傷のような傷跡があって、堂々としている。
この店にある織物や帽子は、彼の親父さんの手によるもの。彼の親父さんは、首相からメダルをもらうほどの織物織りの名人である。商品の値段は全てFixで、一切値引きはしないとのことだが、軒を連ねる土産物屋と比較すると、大分安い値段がつけられている。彼曰く、Original price 。帽子や織物を見る目が自分にあるとは思えないが、この目で見る限り、本当にOriginal Price のようだ。旅行者が集う場所にこのような店があるのは、海外では極まれ。よくわからない商売をしているこの人物に興味を覚え、彼について話を聞いた。
かつて彼は登山家だった。長谷川恒男という有名な日本人登山家がいて、91年にフンザの背後に聳えるウルタルⅡ峰に挑む際、サポート役として共にアタックしたときのこと。長谷川さんは、雪崩に巻き込まれて帰らぬ人となった。そのとき彼はベースキャンプにいたので命を落とすことはなかったが、それ以来、ぱったりと登山をやめてしまった。その後、長谷川さんの「土地の人の為になることをしてほしい」という旨の遺書が発端となり、登山仲間やパキスタン政府の協力のもと、「ハセガワ メモリアルスクール」という学校がフンザに建てられた。このような経緯があって、フンザには日本と深いつながりを持った人々が多く住んでいる。廉価でつつましく彼が商売をするのは、ことの経緯と関係があるのだろうと思う。
最後にお茶のお礼を言って、握手をして別れるときのこと。凍傷で硬く小さくなってしまった彼の右手に、またドキッとした。

at パキスタン フンザ on 23/Aug/1999

Posted by snotch at November 17, 2003 10:27 AM

朝から腹痛。このあたりの水は、上流の氷河が溶けた水。長い年月をかけて硬い岩盤を削りながらゆっくりと流れる氷河には、無数の微細な岩屑が大量に含まれているようで、その氷河が溶けた水は、慣れないお腹にはよろしくないようだ。一方で、氷河の溶けた水には、ミネラルがたっぷりと含まれていて、それがフンザの人々の長寿に貢献しているという説もある。

フンザ村では、パキスタンの公用語であるウルドゥ語ではなくて、ブリシャスキー語という言語が用いられている。後で、ギルギットで働くパキスタン人通訳に訊いたところ、平野部のパキスタン人はブリシャスキー語を全く理解できないというから、方言以上に違いの大きい言語である。人物も、いわゆるアジア人の顔とは特徴が異なる。濃い眉、深い二重瞼、青い目、濃茶色の髪の毛といった特徴をもち、「風の谷のナウシカ」の舞台のモデルだといわれてもうなづける。

at パキスタン ギルギット on 24/Aug/1999

Posted by snotch at November 20, 2003 3:43 AM

早朝5時起床。ジープの荷台に乗って、ギルギット(Gilgit)まで下る。フンザ川の崖岸上に沿う細い道を猛スピードで突っ走るので、おっかなびっくりである。途中、崖崩れで土砂が道をふさいでしまい、今日中に目的地に着けないかと思ったが、2台のブルドーザーがやってきて、ものの 2,30分で土砂を押しやってしまった。このあたりは、土砂崩れが日常茶飯事なので、応急処置の体制が整っているらしい。有難いが、ますます不安を掻き立てられてる。ツーリストは斜め上方を仰ぎながら祈るだけである。

at パキスタン ギルギット on 25/Aug/1999

Posted by snotch at November 22, 2003 1:15 AM

下界まではまだ遠いけれど、ギルギットまで下って来ると、ようやくイスラムの国(今までの国とは異なる世界)パキスタンを実感する。人々の顔の彫りがいっそう深くなり、立派なあごひげを蓄えた好漢をみかける。規模は小さいながらも、バザールのある通り沿いに細長く街が伸びていて、中心部付近には立派なミナレットをもつモスクや映画館まである。

欲望を掻き立てるものがなかなか見当たらない。街といえば、物欲、食欲、知識欲などを駆り立てる要素にあふれている状況をイメージしてしまうのだが、通りを歩いた限りではそういったものが見つからない。
そしてまた、外を出歩く男衆は、総じて凛々しい顔つきであるように見える。特に警官などは、四六時中腹を立てているのではないかと思うほど、眼光鋭いのも中にはいる。